見出し画像

『ドリアン・グレイの肖像』

オスカー・ワイルド作。

ラストが衝撃的で、今読み終えたところなのでまだドキドキが治まりません。

「美しさ」というものに秘められた魔力。

憧れ、崇拝、はかなさ、実生活上の効力、熱情、、、。

私を含め21世紀を生きる人々にとっては、ちょっと気恥ずかしさや世間体などもあり、あまり堂々と「浸り耽ってます」というような言明はしにくいところですが、少なくとも文学の世界では重大テーマの一つであり続けているでしょう。

「美しく生きる」、「美しい人生」、、、。

「その人の最高の美しさを芸術作品(肖像画)にして時を止める」。

そうすることによって何が起こり得るか?

絵の方が齢をとってモデルは若さを保つ。

あり得ないことが起こる(起こったような気がする)。

絵の変化が外見の経年変化だけではなく、内面(魂)の移ろいまでが反映されている(ように見える)としたら。

主人公(肖像画のモデル)のドリアン・グレイもさすがに最初はビビったようですが、どうやらそこでへこたれるような人物ではなかった模様。

描いたバジル、その友人ヘンリー卿の影響も勿論キーではあったでしょうけれど、私はちらっと言及されていた祖父との苦い記憶が気になりました。

若い頃の美の最盛期を「はかなさ」からくる危うさ、脆弱さとばかり言ってもいられないんじゃないか?と。年長者たちの責任として。分かったような顔をして「当然」といった風情で彼/彼女たちを導くようなマネは軽々にすべきではないのではないか?より年をとっているというだけで年少の人たちを導くことができると考えるのはあまりにも傲慢、不遜なのではないか?そんなことを考えます。

幼少期、若年期は誰もが通る道。

未熟が故に味わう苦渋、辛酸、屈辱も人それぞれとはいえ、それらの克服方法が常に「復讐」ではないはず。それよりも、人はできることなら「よく生きたい」と思うもの。私はそう信じています。

最高の美なるものがあるとして、それをスポイルしてしまうことはあるかもしれないけれど、一人一人が持っている「よく生きたい」という気持ちは台無しにしてはいけない。そうしないためには何ができるか?やはり、将来・未来のことを確度高く予想できることよりも、その元となる過去やそれに関わる記憶、それが思いの外信用に足らないものだという認識。つまりは今ここに生きている自分を中心とした、過去から未来へのつながりというものを丁寧に、かつ、日常の使用に堪え得るような簡便さで捉えられることが理想ではないか?と思うのですが。。。簡単ではないですね。。。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?