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ミニトマト:自分の基準を相手に当てはめてはいけない

 ミニトマトのことが嫌いだという友人は多い。あのグニャっとした感覚が苦手なのだと彼女らは口を揃える。ミニトマトが嫌いな人というのは、大抵の人はそんな表現をする。よくわからないなあ、なんて思っていたが、今になって思う。彼女らはただ食感に敏感なだけなのかもしれない、と。

 なぜならば、私にはその感覚がわからないからだ。ミニトマトを口にいれても、プチッとして果実のように口の中で弾けるような感覚しかない。そのグニャ、というところについて何かを感じたことがないのだ。

 味ではなく食感が苦手だというところがポイントなのである。私の食感が未発達なのか、それとも価値観の違いなのか。

 食感で苦手なものなんて私にはない。でも、よく考えてみると触感で苦手なものはあったりする。黒板の面のあの感じも少し苦手だ。そういうことか。私は急に納得した。言うなれば、価値観の違いなのかもしれない。

 嫌な人はそれに敏感になる。けれども特に嫌でもない人は、その感触さえ思い出せないほど気にかけていないのだ。

 ひとつ、思い出した出来事がある。それまでの私は、自分がされて嫌なことを人にしなければ良いと思っていた。それを座右の銘にしていたくらいだ。自分が気持ちに敏感な方だから、しばらくの人生をそうやって過ごしてきて、その方針に対して特に大きな問題を感じたことはなかった。

 しかし、大学生のある出来事をきっかけに、その方針を見直さなければならないと痛感したのである。大学生の頃、同じグループ内に人一倍他人の言動に敏感な子がいた。その子はかなり明るくて、誰にでも臆せず話しかける子で、まさかそんな風には見えなかった。

 けれども、そのグループで授業の活動をすることとなり、常に行動を共にするようになって初めてその子の敏感さに気付いたのである。

 私はその子のことを友達として普通に好きだと思っていたのに、ある日突然呼び出されて、私のことを嫌っているのではないかと問い詰められたのである。もちろん、その子の陰口なんて一言も言っていない。衝撃的だった。とりあえず弁解をして、本当にそんな風には思っていないし好きな友達だと思っている、と答えるしかなかった。

 後々聞いてみると、他の子らにも同じような質問をしていたらしい。

 自分と過ごす時間が他の子と過ごす時間にくらべて短いのではないか。私の愚痴をもっと長く聞いて欲しい。私が戻る時にいないのはたまたまなのか(たまたまでした)。

 そんな内容だった。言われた内容はすべて、私がこれまでやらないように意識してきたことの範疇を超えていた。

 自分の感覚とこの子の感覚はかけ離れているのだ、とその時思った。自分がやられて嫌なことを最大限にやらないようにしても、この子はきっと嫌だと感じるのだろう、と。 

 百パーセントの人に合わせて行動することなんてできない。でも、自分基準に相手を当てはめないことの大切さを改めて認識した。どれだけ気をつけているつもりでも、嫌な感情を抱いている人はいるものだと。それを知っておくだけでも、少しは相手の嫌がっていることが何なのか分かるヒントになるかもしれない。