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イランの国教はなぜシーア派(中でも十二イマーム派)なのか?

イラン・イスラム共和国の国教は、イスラーム教のなかでも、十二イマーム派というシーア派の一派です。これは世界史では覚える事項として登場するわけですが、そもそもいったいなぜ、イランでは、十二イマーム派が信仰されているのでしょうか? 個人的に調べたことを整理しました。せっかくなので、これを公開します。

そもそもシーア派とは?

シーア派は、イスラーム教のうち、創始者で預言者であるムハンマドのいとこアリーの子孫のみを指導者として認める人たちのことです。

ムハンマドには息子がいませんでした。そのためムハンマドの死後は、ムハンマドの親族が指導者になりました。しかし、誰が指導者になるか?をめぐって対立が生じ、そこでスンナ派とシーア派といった現在のイスラーム教の宗派の違いが生まれます。

【注意!!】ここからとてもややこしいので、下の家系図(図1)を参照しながら読んでください。

ムハンマドは生まれに前に父親を亡くし、母も幼いころに亡くしています。そのため、叔父アブー・ターリブに引き取られて育ちました。叔父の息子、つまりムハンマドからみると、いとこのアリーと一緒に育ちました。

アリーはムハンマドの娘ファーティマと結婚し、間にハサンとフサインという2人の息子に恵まれました。

ムハンマドの死後、誰がイスラーム共同体の指導者を継ぐか?で論争がありました。そこで図2で示したように、ムハンマドの親族が継ぐことになりました。

しかし、本来の指導者はムハンマドと共に育ったアリーであるべきだと考える人々がいました。彼らがシーア派です。「シーア・アリー(アリーに従え)」というスローガンに由来します。

図1「シーア派/イマームの系図」

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(小学館 日本大百科全書「シーア派/イマームの系図」https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024013735.jpより)

図2「クライシュ族の系図」

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(世界の歴史まっぷ「クライシュ族の系図」https://sekainorekisi.com/download/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E6%97%8F%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3/より)

ところで、ここまで「イスラーム共同体の指導者をムハンマドの親族が継いだ」と書いてきました。しかし、これはやや誤解があります。

というのも、当時のアラビア半島の都市の居住者は、部族単位で、同じ都市に住む人々は、共通の祖先をもつとされます。つまり、全員親族なのです。これは古代中国の邑も同様で、同じ都市に住むのは、血縁の共通する親族のみでした。

ですからメッカの居住者は皆、ムハンマドと遠くとも親族です。実際にイスラーム共同体の指導者を継いだ人々は、ムハンマドとかなり遠い親族で、親族だからというよりも、時の有力者(信仰心が篤いとされた、商人として有力、武人として有力など)だから指導者となったのでした。指導者は、教団内の合議および選挙でえらばれ、「代理人」という意味の「カリフ」とよばれます。

第3代カリフに選ばれたウスマーンは、メッカの豪商ウマイヤ家の者で、そもそもムハンマドらハーシム家とは対立関係にありました。そのため、ウマイヤ家の人々は最初、イスラーム共同体には加わっていませんでした。

ところが、ウスマーンはカリフに選ばれました。そして各地の総督など重要な官職にウマイヤ家の者を任じ、地位を独占しようとしました。

これに対して、人々は不満を抱くようになります。要は、ウマイヤ家によるイスラーム共同体の乗っ取りではないか?という論争が起きたのです。

イスラーム共同体の拡大を受けて、ウスマーンが途中で急にイスラーム共同体に仲間入りしたとき、ムハンマドはそれを喜び、娘ルカイヤをウスマーンに嫁がせるほどでした。ちなみに、ウスマーンがイスラームに入信した理由は、ルカイヤに恋をしていて、結婚したかったからという話があります。

そんなわけで、ウマイヤ家による官職独占に反発する人々が「家柄で官職を独占するなら、ムハンマドと一緒に育ったアリーとその一族の方が後継の指導者にふさわしいのではないか」と言い出します。そして、アリーが擁立されました。

【注釈】ここでは、話がややこしくなるので詳細は飛ばしますが、この後ウスマーンは、初代カリフであるアブー・バクルの息子に殺されます。

そして、アリーが第4代カリフに就任しますが、それに対してウマイヤ家の有力者ムアーウィアが反発します(ややこしいので図2で適宜、確認してください)。ムアーウィアは勝手に自分がカリフだと名乗り、アリーとその支持者を攻撃しました。

そのさなか、これまたややこしいので、詳細は飛ばしますが、アリーもムアーウィアも認めないハワーリジュ派という一派がアリーを殺害します。そして、その後、ムアーウィアも狙われますが、ムアーウィアはハワーリジュ派を撃退。こうして、ムアーウィアが単独のカリフになったのです。

この後、カリフはウマイヤ家が世襲することになり、ここから先を「ウマイヤ朝」と言います。

ここまで読んでいただいて、いかがでしょうか。ムアーウィアとその後に続くウマイヤ家のカリフは、正統なカリフ(イスラーム共同体の指導者)だと皆さんは考えますか?

さて、ここで振り返ると、殺されたアリーには息子が2人いました。しかもその母は、ムハンマドの娘ファーティマです。シーア派の人々(ウマイヤ家ではなく、アリーが正統なイスラーム共同体の指導者だと考える人たち)は、アリーの息子2人の方がよっぽどムハンマドと近く、指導者にふさわしいのではないか?と考えます。

彼らは、ウマイヤ家のカリフの支配から離反して、独自にアリーの息子ハサンを擁立し、彼をイスラーム共同体の真の指導者だと主張します。そして、彼のことをアラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を指す「イマーム」と呼びました。

この先、イマームの地位は、アリーの血筋で世襲されていきます。というわけで、シーア派は、イマームの方を正統なイスラーム共同体の指導者とみる人々ということになります。

一方、ウマイヤ家の支配を含むカリフの方を正統なイスラーム共同体の指導者とみる人々は、スンナ派と呼ばれるようになります。「スンナ」は「慣行」という意味です。

非常にややこしいですが、以上がシーア派とは何か?の説明です。


十二イマーム派(シーア派の一派)とは?

イランの国教は、シーア派の中でも「十二イマーム派」という一派です。

上述の事情で、シーア派の人々は、イマームを慕い、生きていきます。しかし、そのイマームをめぐっても、誰がイマームを継ぐか?で論争が起きます。この辺りはややこしいので省略します。図3に概ね書かれていますので、それを参照してください。

図3「シーア派の系統」

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(Wikipedia「ファイル:シーア派の系統.png」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%B4%BE%E3%81%AE%E7%B3%BB%E7%B5%B1.pngより)

そのうち、⑦~⑫の系を正統とみる人々が十二イマーム派です。しかし、この場合の第12代イマームであるムハンマド・ムンタザルは、人々の前に一度も姿を現さず、選ばれし代理人とのみ交流し、間接的に統治する時代が続きました。このため、第12代イマームを「お隠れイマーム」と呼びます。

ところが、その選ばれし代理人のうち、第4代の代理人が後継者を指名せず他界してしまい、ついにイマームと人々が交流する術がなくなってしまいました。

そしてこれ以降、人々は次のように考えるようになります。

お隠れイマームは、この世界の終末の直前に、救世主として再び地上に降臨し、信じる者を救済してくれる、と。

こうして、イマームなきイマーム信仰、十二イマーム派の信仰が始まるのです。

ここで、第12代イマーム(お隠れイマーム)について補足します。ここまでを読むと、若干うさん臭さがぬぐえず、なぜ人々はこんな無茶な話を信じたのだろうか?と思う方も少なくないのではないでしょうか。そこについて説明を加えます。

874年、第11代イマームであるハッサン・アスカリーが亡くなったとき、彼には公表された息子がいませんでした。そのため、誰が次代イマームにふさわしいか?をめぐり論争が生じます。この後の展開は、桜井啓子(2006)『シーア派 台頭するイスラーム少数派』を引用します。

 彼に後継者となるべき息子がいたのか、いなかったのか知らされていなかった信徒は、第11代イマームの叔父にあたる人物に、葬儀を主催するよう依頼した。ところが葬儀の礼拝がはじまると、突如一人の少年が現れ、葬儀の礼拝は、叔父ではなく息子である自分が行うのが相応しいと言い放ち、礼拝を行った。人びとはこの少年を第12代イマームだと信じたが、礼拝の終了と同時に姿を消し二度と現れることはなかった。
 第12代イマームの行方をめぐってさまざまな憶測が流れたが、結局第12代イマームは、信徒と直接に触れあうことができない「お隠れ」(ガイバ)状態に入ったという解釈が受け入れられた。こうした解釈が受容されたのは、第10代イマームも第11代イマームもアッバース朝の監視を避けるために信徒の前に姿を現すことはなく、代理の者を介して信徒と交流していたからである。第11代イマームが、迫害を恐れた息子の存在を明かさなかったとしても信徒にとって不思議ではなかったであろう。

この当時、イスラーム世界は、スンナ派カリフによるアッバース朝が支配しており、時のアッバース朝第7代カリフであるマアムーンは、特に執拗にシーア派教団を攻撃していました。このため、元々イマームは隠れ潜んで指導しており、シーア派の人々にとって、第11代イマームが生前に息子の存在を明かさなかったこと、第12代イマームが人々の前に現れないことは、それほど異常事態ではなかったのです。

第12代イマームがお隠れになってから、十二イマーム派の統治は、ウラマーとよばれる法学者集団が代理で行なうようになりました。ウラマーは、イスラームの法を解釈し、あるべき統治を指導します。ちなみに、現在のイランの最高指導者ハメネイ師も、ウラマーです。

イスラームにおける法の基盤は、ムハンマドが受けた預言をまとめた『クルアーン(コーラン)』、ムハンマドがその内容について補足した言行録『ハディース』です。これらが解釈され体系化された、現実の生活のルールのことを「シャリーア」と呼んでいます。このシャリーアを体系化する作業を担ったのがイスラーム法学者の集団ウラマーでした。

第12代イマームのお隠れ以降、十二イマーム派では、ウラマーが礼拝や徴税といった行政を行うようになります。十二イマーム派では、ウラマーは『クルアーン』や『ハディース』だけでなく、歴代イマームの言行も調査します。それも取り入れて、人々を指導するのです。イマームが不在である以上、これまでのイマームの考えをよく調べて、それによって生きるべきだと考えられたのです。


なぜシーア派(中でも十二イマーム派)がイランの国教になったのか?

さて、ここまででイランの国教である十二イマーム派がどのような一派なのか?が整理できたと思います。では、最後になぜイランの国教が十二イマーム派になったか?をまとめます。

これには、第3代イマームであるフサイン(アリーの息子で、ムハンマドは母方の祖父にあたる)の結婚相手で、第4代イマームであるアリー・ザイヌルアービディーン(ムハンマドのひ孫)の母が関係します。

昔、イラン高原の地には、ササン朝ペルシアという巨大な帝国がありました。ムハンマドが生きていた時代もまさにササン朝ペルシアの統治の時代でした。ペルシア帝国は、ペルシア、つまりイラン人の帝国です。

642年にササン朝ペルシア帝国は、イスラーム共同体との戦い(ニハーヴァンドの戦い)に敗れ衰退し、651年に滅亡しました。651年に滅亡したとされる理由は、その年にササン朝ペルシア帝国第38代王ヤズデギルド3世が暗殺されたからです。

この後、ヤズデギルド3世の息子ペーローズ3世ら皇族たちは、同時代の東ユーラシアで覇権を握っていた唐帝国に亡命しました。そこで、ササン朝復興を目指しますが、結局実現しませんでした。これにて、ペルシア帝国の支配は途絶えることとなりました。

しかし、実は第3代イマームの妻、かつ第4代イマームの母は、ペルシア帝国最後の王ヤズデギルド3世の娘シャフルバヌーだというのです。これは伝承ですが、シーア派ではそのように信じられてきました。つまり、シーア派の信仰では、代々のイマームは、この時点以降、ペルシア帝国の血筋も受け継いでいるということです。これにより、シーア派の信仰はイラン人の民族的な信仰にも結び付いていくのです。

時は流れ、1979年、ルーホッラー・ホメイニー師イラン・イスラーム革命を起こし、これ以後、イランは十二イマーム派を国教とし、その最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しました。

十二イマーム派は、ペルシア帝国の血筋ももつ隠れイマームの降臨を信じ、それまでの間、法学者集団ウラマーから選ばれた最高指導者が代理で支配を行うという一派です。

近代に入り、英国や米国、ソビエト連邦といった列強に蹂躙されてきたイランでは、イラン人によるイラン支配、つまりペルシア帝国の再興を願う声が高まっていました。イラン人は十二イマーム派を民族宗教として信仰してきました。そのアイデンティティと「イラン人によるイラン支配」という願いが結びつき、現在のイラン・イスラーム共和国では、十二イマーム派が国教となったのです。

ややこしい話ですが、現在のイランは、このように十二イマーム派を信仰する点でイスラーム国家です。一方、イラン人によるイラン支配を願う点で、ペルシア帝国の歴史を尊重します。

そのため、1971年にはササン朝ペルシアよりももっと前のアケメネス朝ペルシア帝国の建国から2500周年であるとして、盛大な建国祭が催されました。そこでは、アケメネス朝ペルシア以来のペルシア帝国の統治がパレードで再現され、礼賛されました。

以下の動画は、そのパレードの様子です。

イラン人のアイデンティティには、ペルシア帝国の栄光と、イスラーム教のなかでも十二イマーム派の信仰が刻み込まれているのです。




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