「メンタルケア」のプロが抱かえがちな辛さ(続編)

皆さん、こんにちは!

メンタルヘルスナビゲーターのK・HAMANOです(^^♪

本日のお話は、先日に引き続いて「メンタルケア」のプロが抱えがちな辛さの続編をお送りします。

前回は、「メンタルケア」のプロが抱かえがちな辛さや悩みについて書かせていただきました。

それでも「メンタルケア」に関わる仕事に就きたいと思われる方は、たくさんおられます。特別に給料が良いわけでもないし、楽な労働でもないし、自分の感情自身が疲弊してしまう可能性、傷付いてしまう可能性も高い。その意味ではリスキーな仕事であるはずなのに、多くの人がこういう職業に自分は進んで就きたいと思われるわけです。

それは何かがあるからです。

生きるというのはセルフケアだということであるとも考えます。生きるということは生き物としての自分で自分を世話することです。

何かが食べたいときは食べ物を探す。そして自分で買ってくる。そして自分で調理して食べるなど、つまり生きるということはセルフケア、自分をケアするということなのだと考えます。

ケアが必要になるのは、人がセルフケアを自分で百パーセントできなくなったとき、例えば、明日が不自由になれば、誰かに介護してもらう、あるいは食べ物を買いに行ってもらうなど、色々な形で他人の支援が必要になってくるわけです。

あるいは老人や子供、人間はほとんど二十四時間要介護で生まれてきて、二十四時間要介護で死んでいくわけですから、赤ちゃんの時にはセルフケアはゼロです。すべて、食べることから寝ることから移動することから体を洗うことから、全部他人にしてもらわなければならないし、年がいってもそういう状態に近くなります。だからそういう意味では、我々は皆、二十四時間要介護を経験してきてここまでやってきたわけです。

生きるということはセルフケアだと考えると、今セルフケアが百パーセントというのは誰にもないと思いますが、殆どの部分で自分で出来る人を相対的に「強い人」、セルフケアを極めて不十分にしかできない人を相対的に「弱い人」と、仮に括弧つきで呼んでおきます。

ケアはと言えばこれまで、括弧つきの「強い人」が括弧つきの「弱い人」をケアするということだったですけれども、これから高齢化社会がますます進行する中で「弱い人」が「弱い人」をケアするという、ある場面ではこちらの「弱い人」があちらの「弱い人」をケアし、別の場面ではあちらの「弱い人」がこちらの「弱い人」をケアするというようなことも必要になってきます。

ケアの一つの場面だけ取り上げると、セルフケアを比較的必要としない人が、セルフケアを強く必要としているひとをケアするというのがケアの関係です。

しかしそういう関係も実際のケアの場面では必ずひっくり返るのではないか、ケアする人がケアされる人にケアされ返すという反転が起こるのではないだろうかと思うのです。

普通は、力をもらうのはケアされる側だと考えられています。そしてケアというものはまずそういう形で始まるのですが、そういう関係を持続していくと、ケアする者がケアされる者から力をもらうという出来事が起こる。それを「弱さの力」と呼んでみようと思います。

ただ、その時一つ気を付けていただきたいのは、わたしはこれから、ケアの中でケアする側が力をもらう、あるいは「弱い人」からまるで贈り物のように何か力をもらうという、非常に苦しい現場の中にある幸福について申し上げてみたいとおもうのですけれども、しかしこのことばかり強調するのは実は問題があります。

ケアは「感情労働」として労働でもあるわけですが、ケアする者がケアの中でケアされる者に逆に力をもらう、あるいは癒されるという時には、この仕事にはこんなに良いことがあるのだから給料が安くても我慢しなさいとか、労働環境が悪くても辛抱しなさいとか、あるいは労働としてのケアの条件の改善要求をあまりきつくしないようにという議論にすり替えされる可能性があります。しかしこれはあくまで別個の問題なのです。

ケアの中には「特典」といっていいような、単に仕事で儲かった、成績が良かったから嬉しいというものを超えた、人間として生きる上でのある大きな意味に触れることが出来るということが含まれているということと、それがあくまで「ケア労働」として、この社会の中で他の職業と同じ一つの職業として行われる事とは別の問題ですから、ケアという仕事の反面を言ってるのであって、それで全部のケアの仕事についての議論をカバーする気は毛頭ありません。

人は皆、それぞれに寂しさを内に抱えていて、そして自分がここにいるということをもっと実感したい、あるいは「私はここにいるのだ。もっと生きていたいのだ」、あるいは「生きていることに意味がるのだ」と思いたいものですが、私たちの社会では、しっかりした形で自分の存在の意味みたいなものを自分で与えることは、多分多くに人はできていないと思うのです。これまでの社会でも皆、多分できなぁっただろうけれども、制度的な人間関係が意味を与えてくれていたのです。

例えば近代以前の社会だったら、ここに産まれたらここの子として家業を継がなければならない。これは他の人が出来ないわけです。だから自分とは何かと聞くまでもなく、自分がここにいることの意味があったわけです。あるいは子供の時から許嫁を決められて、どういう家庭を持つかもあらかじめ決まっていた。職業もそんなに簡単に変えられなかった。階級も変われなかった。ところが今、私たちは権利としては、理念としては、何にでもなり得る。といことは、自分が存在することの意味を自分で与えなければならないということです。

でも、そんなことができるだけの心の準備は、やはりまだ私たちにはない。それは当然なので、自分がいることの意味は、実はどういう他者の他者として自分があるかということと、深く結びついているからです。

最後に結論ですけれども、例えケアの各場面に於いて傷付いても、くたくたになっていても、それでも相手の傍らから去らない事。自分が望んでその人と関係を持ったわけでもないのに、その他人との関係にまみれてぐらぐら揺れて、ときには愛想をつかしても、それでも関係を切らずにその人の場所から去らなかった、あるいはその関係を切らなかった。そういうふうにして「弱さの力」を享受でき、ケアする側される側の垣根を越えて、互いに「感謝」「尊敬」「癒し」「安寧」「承認」「受容」という関係が成り立つのだと思います。

inter-esse.一緒にあること。

あるいは傍らにあることがケアされる側のみならずケアする側でどういう意味を持つのか、そのことを考えさせていただきました。

最後までご高覧ありがとうございました。

メンタルヘルスナビゲーター

         K・HAMANO

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