ズペンガー。その音楽と生涯。
ズペンガーと言ったら、まあドイツ語の名前に聞こえるかなと思って、そうしたんだが。
ズペンガーとは、音楽家ではなく、バイオリンの名前である。
弾いている人間は日本人で、延原亮二と言った。
延原亮二のことは誰も知らないし、関心もない。誰だって彼のことをズペンガー爺さんと呼んだ。
その名器、「ズペンガー」だが、そのころにして1億2千万の値が付く楽器だった。注目されるのはそこである。
ズペンガーには妻がいた。フェリア・アーレンというソプラノ歌手である。
しかし、彼女にとっても、有能ではあったが本人の歌を聴きたい人物がほんの一握りという悩みを抱えていた。
誰もが、フェリアのレコードを買って、その歌声を愛していた。
ズペンガーのバイオリンと、フェリアのレコード。
二人にとって、大した音楽家だとは思われていたが、実際のところ本人たちは「いらない二人」としか思われていないようにしか感じられなかった。
フェリアは五十歳を前にして没している。そのあとズペンガーは日本に帰ってきて、バイオリンを手放した。
ニンジン畑を、その太りに太ったブラームスのようなひげ面で散歩する日々、真冬の雪の舞う中で、畑を歩く老人の姿に誰も振り返るものはなかった。
もはやバイオリンを持たないズペンガーはズペンガーではない。
なんかこう、前にも書いてるのかな。
1988年にカラヤンが最後の来日をしたとか、どこかに書いてあった。その1988年に漆原朝子はプロデビューしている。
その1988年に、自分は精神科通院医療を始めている。人生も色々と言うものである。
漆原先輩が中学二年生のときに、部活の定期演奏会で、「メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲」を弾いて、某どこぞの第一中学校管弦楽部だったが、雑誌「音楽の友」あたりが、頼みもしないのに「一中オケが定演を開く」と宣伝して、顧問がずいぶん自慢をしていた。
自分は中学一年生だったが、音符も読めないセカンド・トロンボーン。四月のある日、第一音楽室で練習していると、おもむろに指揮台の横に中二の女子の先輩がやってきて、バイオリンを構えて、するとひゃらりひゃらりとバイオリンを奏でだす。
ぎょっとして、なんでそんなに上手に弾けるんねん? 驚いちゃって、それから人生、平たんに生きて行くことが難しくなった。
漆原先輩は、一時期ストラディバリウスを弾いていたこともあったと聞いたことはあったが、今はガルネリを弾いているそうで。
ガルネリ・デル・ジェス、ではなくて、アンドレ・ア・ガルネリ。
楽器は、そんなにこだわることもないと思う。レベルが高くなれば、確かに無視できる要素ではないが、少なくとも、金持ちの芸能人が、金に飽かせてストラディバリウス。というものでは全くない。
カラヤンは確かに天才だが、音楽家と言うよりも、どちらかと言えば政治家だ。
その音楽に感動するかと言えば、もう少し物足りないものは感じる。
ここで、もう少しこういったものが欲しいとか、本来こうあるべきものだ、とか言ったものを、まるで無視しているようなところは感じる。
音楽とは理解する必要はないのですと彼は言う。
理解しなくても、感覚するものはある。どうしても、物足りない。
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