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多様性って純粋に何?

1 多様性を考えるようになったきっかけ


あなたは家の中と外で行動が変化しますか?


私は昔から家で勉強をしようとしても注意散漫になって関係ないことを考えたりスマホをいじったりしていました。しかし、外に出ると本が読みたくなったり社会問題に目を向けて調べたりと人が変わったように行動も変化します。

そんな二面性のある私は外出自粛によって自宅学習を余儀なくされ、Zoomでのミーティングやイベント参加を通じて、行動の変化が生じました。

その変化とは注意散漫な状態が残りつつも家の中でまじめに勉強し、本を読み、ニュースを仕入れたりするようになったことです。この変化をメタ認知した時、私の中の公私が混合し、2色が1色に染まり切らずに新たな色を模索しているマーブル模様のような感覚が降ってきました。

そして外圧によって変化するこの感覚は、グローバル社会によって多様な人間の価値観やありように触れ、なんとかその異質性を受け入れようと自分色を残しつつ新たな色を混ぜて変化する感覚と似ているなあと思いました。

私はこの感覚を覚えたとき多様性とは1色ずつ塗り分けた状態なのか、それとも各色を残しつつ一部だけ混ざった状態なのか、はたまたいろんな色を混ぜて1色になった状態なのかという疑問が浮かびました。なので今回は記事にして私自身も考えながら多様性についての理解を深めていこうと思います。

それでは多様性とは何なのか一緒に考えながら進めていきましょう!

2 多様性とは1色ずつ塗り分けた状態?

まず1色ずつ塗り分けた状態とはどういうことか。
一言でいうと俺は俺、私は私状態です。
例えば、私が「地球温暖化を止めるために公共交通機関を使おう!」とAさんに呼びかけたところ、Aさんは「俺は時間優先したいから車使うわ」といったとします。この時互いに不干渉の姿勢をとり私は電車で、Aさんは車で目的地まで行くのが1色ずつ塗り分けるという意味です。

視野を広げて考えると、ポピュリズムの潮流も1色ずつ塗り分けた状態の多様性といえるかもしれません。イギリスのEU離脱やアメリカのパリ協定離脱は「俺は俺のやり方でいく」の姿勢そのものといえます。

私はこのような多様性も有りだなと思います。人のイデオロギーは簡単に変えられないですし、事実も人それぞれなので多様性を認める、あるいは信じるならこれでOKだといえそうです。

ただし問題もあります。それは各人各国の幸福を追求すると、いわゆるコモンズの悲劇が起きてしまうという問題です。コモンズの悲劇とは簡単に言うと共有地で自分の利益を優先し続けると回りまわって自分も含めた共有地利用者全員の不利益につながるという意味です。

例を出すと、地球という人類(もちろん他の生き物や無機物のものでもある)の共有地で自国の発展のために好き勝手資源を使い、温室効果ガスを増やすと異常気象や生態系の変化によって世界中で経済的ダメージを受け、好き勝手した国も同じようにダメージを受けるというイメージです。

この状態は多様性といえるでしょうか?

多様性はあくまでより良い社会の実現のための手段であり目的ではありません。つまり、より良い社会がコモンズの悲劇状態ではない以上、多様性とは1色ずつ塗り分ける状態ではなさそうに思います。

それでは次にいきましょう!

3 多様性とは各色を残しつつ一部だけ混ざった状態?

2と同様まず、多様性とは各色を残しつつ一部だけ混ざった状態の意味を確認したいと思います。

例から見てみると

例えば、難聴者の転校生が来たとします。この場合、普段は音声コミュニケーションをしつつも、難聴者も含めたコミュニケーションの場では全員が手話を覚える必要はなく、口元をはっきり動かしたり書き言葉で伝えたりすることが各色を残しつつ一部だけ混ざった状態だといえます。

一見この多様性観には問題がなさそうに思えますが難点が1つあります。

それは残す色の割合と混ぜる色の割合はコミュニティや人によって全く異なるという点です。
上の例を異なるパターンで示すと、難聴者とのコミュニケーションでノートを見せてあげたり質問に対して答えることはあるが、難聴者に自分から話しかけたり遊びに誘ったりはせず、難聴者を○○さんというより「難聴者の人」として見るパターンがあります。

無視しているわけではなく最低限のコミュニケーションをとってはいるが、これが多様性のある学校現場かと問はれると疑問符をつけるでしょう。

ただし、難点はありますが多様性観として間違っているとは言えないので一度保留することにします。

次はどうでしょうか。

4 多様性とはいろんな色を混ぜて1色になった状態?

いろんな色を混ぜて1色になった状態とはまさにカオスな状態のことです。

私はこの多様性観は直観で違うなと思いました(笑)

ジェンダー問題を例にあげると、同性に恋愛感情を抱くことはおかしくないと理解するとき自分も同姓に恋愛感情を抱く必要があります。同時に同性愛者も異性のことを好きになる必要があります。1色になるとは自分も相手も変容し中和することなのでこのようになります。

これは現実的に不可能なので考察はここまでにします。

5 結局多様性とは何なのか

以上3つに分けて多様性について考えてきましたが、多様性とは各色を残しつつ一部だけ混ざった状態だという考えが一番よさそうです。

残す色の割合と混ぜる色の割合はコミュニティや人によって全く異なるという難点は多様性がどうあるべきかの問題ではなく、人がどうあるべきかの問題なので、「多様性とは○○だ」を考える本稿とは少しずれた領域のようです。

最後に、このままでは超ふわっとした結論で終わってしまうので私の考える多様性観について、個と社会についてどうあるべきか言及している哲学者カントの言葉を参考にしながら説明し考察を終えたいと思います。

倫理学は個人として善く生きるために、政治学は社会として善く生きるために。

この一文は当たり前のようですが日常に落とし込むと理解している人は少なそうに思います。

特に多様性を重視する価値観にあやかった利己主義者は上記の言葉の前半部分を拡大し自分の行動理由にしているように思います。

エスカレーターで歩く人はどこまで考えて歩いているのでしょうか。
海や山にゴミを捨てる人はどこまで考えて捨てているのでしょうか。
外出自粛を絶対視する人はどこまで考えて発言しているでしょうか。

結論としましては
多様性とは自分の美学やイデオロギーを大事にしつつも自分の属する社会のことも同じだけ大事にする価値観を基軸に置いた目指すべき社会像だ
というのが私の出した多様性観の答えです。

多様性であるから良いのではなく、多様性であればこう良くなるという発想で物事を考えると、普段私たちが異質に感じる存在も少しは形が見えるのではないでしょうか。



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