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素直ではない自分。認めたくないと思う自分。

行動がすべてである。いくら言葉にしても、そのことをやるのはからだだ。自分を知ること。からだは何を感じているのか。感じ取ること。自分の感じ。そのことを認めた先にしか、何も始まらない。

そのことを認めていない自分。一度認めることで、前に進むことが出来る。それを判断保留にしているから、すべてが前に進まない。中途半端な状況になってしまう。そういう状況に陥ってしまう。

すべてを一人で抱えている。一人でやっているような状況になっている。チームというものにあこがれて、一体感というものへの憧れを頂いていた。スポーツにおけるチームとしての一体感。

テニスという団体戦と言っても個人技であるものではあったけど、中学時代の部活を通しての仲間というものは、とてもうれしかった。同じユニフォームを持つということが憧れであった。

しかしながら、本質的にはチームとしての一体感というものは、かなり限定的なものだったのかもしれないと今では思う。どこかスタンドプレーになっていて、自分のことだけになっている。

周りのことは気になっていて、周りがどうなっているのかということも自分のわかる範囲においてはわかるのに、そこに伴う行動がついていけていない。そんな状況はあったかなと思う。学年での断絶。

高校時代の部活においては、練習のメニューを考えて、みんなでやるときに、特定の人の意見ではなく、部活という全体にとってどうかということをまず第一に考えていた。自分というものの、自分がどうしたいかは二の次だ。

その当時の自分にとっては自分がどうしたいかということはあまりなかったように思う。最優先されるべきは、全体として、全体の場がどうかどいうことだ。

自分のとっている行動がこれでいいのか、どこか自信を持つことができていない。自信のなさがにじみ出てしまっている。これまでの自分のありようが、そういうつけが積もり積もってしまっているように思う。

誰かにどしてもらいたいと思っているわけではない。だけど、どこかで期待をしている自分もいたように思う。すべての事象は、起こるべくして起こるのだということ。

目の前の場に集中すること。信じられないということを、人に言わせるということ。もう完全に終了である。それなのに、のうのうとふるまっている神経が知れない。

そんな悠長な、のんきなことをいっている場合ではない。必死になって、くらいつくということを、どこかで素直ではない自分が邪魔している。そんなエゴはどうだっていい。

傷つきたくないという自分の感じが、全体としてどうかということを差しいて、気分が優先されてしまうという構造。そこから抜け出していくこと。1つ1つやっていくしかない。

それと同時に、今この瞬間に、自分が思ったことをしっかりと言葉に出すこと。今の自分の感じを信じて、とにかくやってみること。そのことの繰り返しでしか、挽回はできない。

いきなりガラッと変わることはできない。だけど、毎日の中で、コツコツと取り組むことはできる。姿勢として示していくことはできる。何か見返りや期待を持ってはいけない。

ただ必要だと思うことを、感じるままに、自分自身が取り組みということを実践すること。とにかくやっていくことしかない。ぐちゃぐちゃと自分の中で考える前に、言葉にして吐き出すこと。

とりにかくそのことをやっていくことだ。内側にあるものを吐き出して、何もでなくなるまでの、とにかく吐き出すということ。そのことをとにかくやっていくことだと今は思っている。

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