大量生産、その喜び
大量生産といえば、大量消費と、資本主義社会の、高度経済成長以降の社会のあり方をさす言葉が連想されると思う。
だけど、僕の大量生産は、かなり個別的な事象に使われる。自分の中では、言葉としてしっくりきているのだけど、ちょっと使い方としては違うのかなと思ったりもする。
僕は和な菓子が好きだ。おはぎだったり、餅系では白玉、最近はわらび餅。かぼちゃ汁粉、ちょっと変化球でババロアやゼリー。
これからはすべて自分で作ることができる菓子である。どこかのお店で食べたり、買おうとするものなら、一人分の適量しか食べることはない。
もちろん大人買いで大量に買うことはできないわけではないのだけど、ちょっとそれは違う。市販のものは、たくさん食べようということはあまりない。
自分で作るということが、自分で作ることができるということに喜びを感じている。自分で作れるものを、あえて大量に買う必要はない。
だけど、味見として、売っている場所によっておはぎでも、製造元の、その違いを楽しみたい。
お団子や草団子など自分で作ったことがなかったり、現状では再現できない、作ったことのないものは、目にするお店に吸い込まれて迷うことなく買ってしまう。
街を歩いていると、ある時にふと、この辺りに和菓子屋さんがありそうだという、センサーが反応する。
そうしてあたりを見回しながら、歩いていると、結構な確率で和菓子屋さんを見つけることができる。
まったくセンサーが働かない時には、一切目にしない。なんかこの辺にありそうという感じが自分にはある。
特に初めて降り立った地では、街並みなどから、和菓子屋さんを感じ取って、嗅ぎ分けている第六感がある。
きっと自分のどこか、何かが働いているのだと思う。和菓子屋さんを見つけたら、もうロックオンして、お店に吸い込まれていく。
お店に出ているラインナップを一望して、その中で、定番のものと、見かけないものと、2〜3種類を買う。
そうしてお店を出て、多くの場合は、写真に納めてから、歩きながら食べる。ゆっくりと味わうというよりも、少しでも早く食べたいのだ。
そのことが何よりも、一番に優先される。そんな感じで、和菓子といっても、自分で作るものとそうではないものとでは付き合い方が違う。
自分で作れる菓子は、大量生産する。そして、食べたい分だけ、食べてしまう。食べたいだけ食べれるということが幸せだ。
一度その満足感を味ってしまうと、ある程度の量を食べないと満たされない。タイムセールで安くなっている場合には、スーパーのおはぎを買って食べたりもする。
だけど、味が全然違う。特に、あんこは自分で作るものと、市販のものとでは、市販のものは低価格のものしか買わないので、なおさら味の違いがある。
手作りの、その味を知ってしまうと、紛い物であるかどうかの見分けがつくようになる。そうなると、美味しいものを食べたいと思う。
たくさん食べるより、質の良いものを美味しく食べること。そのうえで、おいしいものを、満たされるまで思うがままに食べれること。
大量生産。自分にとっては、一度にたくさんつくって好きなだけ、自分の好きなものを食べる。そのための大量生産。
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