話は、いつまでも平行線。でもどんなに分かり合えなくても、愛し合っていれば素晴らしい。
つい最近まで、人と話す時、相手と話が合うかどうか、ということを、ことさら重視していた僕がいた。
自分を理解してほしい、同じ感覚を持ってほしい、と思うがあまり、その人のことを説得しようとするし、相手のことを理解しようと思うがあまり、その人の言っていることを要約しようとしたりしている僕がいた。
僕は、愛というものの前提に、分かり合える、ということがあると思っていたのだ。
でも、実際、愛はそこにあった。どんなに話が平行線でも、話をすることをやめようとは思わないし、違うところを聞く、ということはそれはそれでとても面白い。というか、人間が複数人集まることの妙味は、違うことこそにある、という根本的なところを、見失っていたのだ。
ある意味で、人類補完計画を目指していた碇シンジくんのような立ち位置にいたのだな、と思った。
親の愛も、友情という名の愛も、パートナーとの愛も、それはそこにあるのであって、作り出すようなものでは、ないのかな、と思えるようになった。
人はとかく、理解したがる。興味から始まって、それがある程度近づいてくると、理解したくなる。これはなんだか、本能じみたものな気がするけど、結構邪魔なんじゃないかと最近思っている僕もいる。
人に対する欲が薄れると、そのままの世界を、愛せるようになってくる。少し悟りの境地のような話だけど、でもそこは出発点で、これからも世界が、もっと楽しいものになるように生きればいいのかな、などと考えている。
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