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世界は早い者勝ちで成り立っている

貧富の格差がなぜ発生するのか。ジャレド・ダイアモンド氏の『銃・病原菌・鉄』は人類史においてどのように富の偏在が起こってきたのか、その原因を詳しく説明しているが、僕がこれを読んで思ったのは、結局は早い者勝ちでしかないという原則だ。

世の中を見渡すと、経済格差は硬直化し、更に拡大を続けるように見える。ただ、99%の富を1%の人間が独占する、というような話はインターネットによって現出した最近の話で、歴史においても少々特殊な話だと思うのでまたの機会に述べてみたい。今日は、もっと一般的な世界で起こっている貧富の格差について考えたい。

東南アジアで感じた隣り合わせの極端な貧富の格差

日本ではそんなに感じることはないかもしれないが、スラムと高級タワーマンションが隣り合わせに存在するような国は厳然として存在する。東南アジアでそういった光景を見てきた僕は、なぜこんなにも経済水準が二極化してしまうのかということについて考えざるを得なかった。

まず、高級タワーマンションに暮らす人間と、日雇いの労働者では何が違うのだろうか。資本家と労働者の話になると少し毛色が変わってくるので、あくまでここでは給料をもらう労働者同士の話を考える。

タワマン暮らしのAさんは、外資系の企業に勤めて高給をもらい、お手伝いさんをつけて暮らす。シンガポールへの留学、就職経験があり、その経験を買われて母国で貴重な人材としてヘッドハンティングされたわけだ。忙しいながらも充実した生活を送っている。

タワマン建設の現場工事に従事しているBさんは、会社が提供してくれている寮に寝泊まりしている。6畳のスペースに5人から10人が寝るような雑魚寝状態だ。地方から出稼ぎに出てきたが、思うように現場仕事もないという状況に貯金をためることがなかなかできず、諦めて実家に帰ろうと考えている。しかし実家に帰ったところで仕事があるわけでもなく、都市の半ばスラムのようなところでの生活を余儀なくされている。

この二人を分けるものとして、大きな違いはなんだろうか。たくさんの要素が重なっているとは思うが、生まれ育った環境が逆だったらAさんとBさんの立場は逆転していたかもしれない。環境が全てだとは思わないが、Aさんに与えられた機会が、Bさんに与えられなかったことは確かだと言っていい。

一般的には「貧困の連鎖」と呼ばれるBさんのこの状況。つまり親が子供に十分な教育を受けされることができず、その子供も満足に職を得ることができなくって、もしその子供が家庭を持ったとしても同じような境遇を子供に強いることになってしまう。

Bさんが身を粉にして稼ぎ、その子供が大学に行くことは不可能ではないが、難易度はAさんと比べれば圧倒的に高いだろう。これを自己責任とするのはかなり厳しいものがある。

格差が治安に与える影響

少し話は逸れるが、上記AさんBさんを見た東南アジアに限らず、世界中の国で同様のことが起こっており、極端なグローバリゼーションは富の偏在を更に加速させているため、新興国の中では急速に格差が広がり、犯罪が増える傾向にある。隣の家が100倍の収入を持っていることに気づけば、真面目に働くよりも奪ったほうがコストパフォーマンスが良いと考え至るのは無理もない。

スターバックスで5ドルのコーヒーを飲む人間がいるそばで、50円の昼食を食べている人間がいるのももはや日常風景と化しているのかもしれないが、僕にはそれは、映画の世界と現実世界が隣り合わせに存在するような奇妙な光景に感じる。

実際、ドラッグの取引が都会で行われる頻度は高くなっているようだ。高い値段でも購入できる人間がたくさんいるのであれば、アンダーグラウンドな物品が出回るのも無理はない。流通の拡大に伴い地元の若者もそれらに手を出し、実際に刺殺事件などが起きている。

格差の原因は教育環境で、その環境は親によって与えられう。では親を決めるのは?

話を戻そう。教育環境によってその後の人生での経済水準が決まるとするならば、教育を与える家庭環境はその親にさかのぼって決まるのだから、突き詰めて考えれば先祖にさかのぼっての資産がモノを言うことになる。

では先程の例のAさんの先祖は、どこでその資産を築いたのだろうか。代々真面目に働いてきただけなのかもしれないが、その真面目に働くという行為も、最低限資産の基礎がなければ発揮されづらい。

農耕が始まった頃まで遡って最初に資産を獲得した機会があったはずだ。それは、どこかの土地の開梱のタイミングだったのかもしれない。なんらかのタイミングで、人が手を付けていないものに手を付けたからこそ、資産を獲得することができた、と考えるのが正しいように思える。

「ここは俺の土地だ」と宣言すること。それができた人間の子孫が即ち、現代でも資産を持っているAさんのような人間であり、その際に小作人として雇われていた人たちの子孫が、単純労働に身を費やして働くBさんのような人間である。

この考え方は、あくまで貧困の連鎖が硬直的であれば、という話だが、わりと真実であるような気はしているし、こういった話を裏付けるデータもたくさんある。ハーバード大学や東京大学に入る人間の親はやはり経済的に恵まれている確率が高いのだ。

早いもの勝ちなのだから、と諦めるのか

ここまでの話は、現在の境遇は自分の先祖が作ったもので、一つの運命なのだから受け入れろ、ということを言っているように感じたかもしれない。

そう、事実として生まれ育った環境は受け入れざるを得ない。しかしながら、早いもの勝ちの原則は過去のものではなく、現代においても有効だと僕は考えている。

農耕が起こった頃、金融が普及した頃、鉄が普及した頃、産業革命が始まった頃、銃が作られた頃、原子爆弾が作られた頃、インターネットによる情報革命が始まった頃、、、その時代の変わり目において、その技術なり世界の変化なりを機敏に捉え、それまでの権力者や資産家に取って代わったものは大勢いる。

そんなだいそれた話でなくとも、今もし自分が窮状に陥っているのを改善したい、もっと社会のピラミッドの上層に這い上がりたい、と考えているのであれば、それを成し遂げるのには少し人より先んずることが肝要なのだと考えられはしないだろうか。

そういった情報を先んじて獲得するのも資産家階級であるが、現代情報化社会において、昔よりも情報がオープンになったことは確かで、フェアな競争環境も整いつつある。この時代においてこそ、上記のような貧困の連鎖を断ち切る可能性は高まってるように感じる。

そんな新たな流れ、下剋上が戦国を産み、新たな格差を生み出すのかもしれないが、それはそれ。僕は少なくとも現状に甘んずるのではなく、運命に抗って生きたいと考えている。

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運命に抗う人間讃歌の物語が僕に多大なる影響を与えているなと最近富に感じる次第。恐怖を克服して生きたい。


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