自分が何者か問いかけたくなった時
こんにちは。はまだです!
久しぶりにnoteを書きます。
最近は、修士論文と公認心理師試験勉強で、頭も机もとっちらかっておりました。
試験は17日に無事終わりました。良かった良かった。
修士論文に戻ります。
今日は、自分が何者か問いかけたくなった時の話。
自分は何者なのか?
自分は何者なんだろうと、考えることはありませんか?
私は今、修士論文で精神疾患を持つ人が自分を何者と捉えているか(もしくは捉えていないか)をテーマに掘り下げている最中なのです。
教授と話したメモを見ながら、「他人のことより、まず自分は何者なのか?」と考える日々。
ソーシャルワーカー、学生、女性、労働者、フリーランス…。
私のアイデンティティはどこにあるのだろう?と考えます。
「何者かになる」って、かっこいい響き。
私は、「誰かの」「何者か」になりたいんだと思ったりします。
ミーハーな考えだけど、共感してくれる方、いるんじゃないかな。
私は、何者であるかを、ちゃんと自覚したい。明言したい。理解していたい。そして自分の存在を感じたい。
そんな気持ち。
自分が何者かは、誰かから見た自分でしかない。
そこで、冒頭の教授からもらった言葉につながります。
「人間は、自分が何者かであるかを、独り言では言えない」
私たちが認識している「自分」とは、誰かから見た形でしかないということ。
子供から見た母親、誰かの先生、社会的に見て弱者、あの人に比べてお金持ち…。
それは、必ず誰かがあってこその自分です。
宇宙に一人ぼっちだったら、自分が何者であるかなんて考えることすらないということ。
じゃあ私たちは、本当は何者なのか?
今のところ私が考えている結論は、
私たちが何者であるかは、私たちの頭の中で起きている幻想であるということです。
他人(という幻想)や社会(という幻想)から見える自分という幻想。
そして、私たちは自分が何者かを感じる時に感情が動く。一喜一憂する。
例えば、私は自分を「ソーシャルワーカーだ」と思う時、なんだか満足したような気持ちになるわけですが
それは私の頭の中で、不公平な社会があったり、困っている人たちがいたりして、それを私は自分にとっての「社会とはこうあるべきだ」に近づけるように頑張ってソーシャルワークをすることで満足しているのだと思うのです。
社会も、困っている人も、あるべき姿も、私の頭の中の幻想でしかない。私には本当の社会なんて見えていないし、そもそも本当の社会なんてものは存在するのか?と思うのです。
でもその幻想が、私の生きる意味になっていたりするのです。
感情が動く時、思い出してほしい
私はこの、「自分が何者かは、誰かから見た自分(という幻想)でしかない」ということを、知っているだけで楽になることがたくさんあるだろうと予想します。
さっきの私の例のように、「ソーシャルワーカーだぜ。満足。むふふ」と感じる瞬間は、大いに幸せを感じちゃおうというのが濱田流。別に幸せな時に水を差す必要はないと思っています。
ただ、もし「自分が何者でもない」と悲しくなったり、「自分は世界一不幸な人間だ」と感じるような時があれば
その時に、「それは、自分たちが考える社会とか他人から見た自分でしかないんだよな〜」と思い出してみてほしいのです。
そしたら、どんな風に感じるでしょう。
それを思い出すことで、自分の感情がほっと緩んだら。それが一番大切だと思っています。私にとってこの考え方はしっくりくるものなので、意識せずにそうやって今まで考えてきたのではないかと感じます。
意識して感じてみたら、どうなるか。それも実験してみたい。
人生は、実験だ〜
最後に
今回のこの考え方は、社会構成主義からヒントを得たものです。
すべての物事は、人間が対話を通して頭の中で作り上げたもの。私たち人間が、「存在する」と考えるからそれは存在するという考え方です。
ケネス・J・ガーゲンという学者が書物を出しているので、気になる方はチェックしてみてください。
「他人や社会が幻想だと考えるなんて、そんなの難しいよ」という意見だってあるはず。I really agree with youです。
それも今後、もっと深堀りできたらいいなと思います。
以上、修士論文メモから考えたことでした♡
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