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蜘蛛は逃す派 

アメリカに来てから発見したこと、まとめていこうかな、ということで!
割と衝撃が大きくて、更に結構初期に気づいたこと、宗教のこと。


蜘蛛と仏教

アメリカ人の友人が部屋にいた蜘蛛を退治した時、自分は圧倒的仏教徒なのだと自覚した。
自分は蜘蛛は外に逃す派。蚊とか蝿は平気で退治できるが、蜘蛛は厳しい。

小さい頃から、親が蜘蛛は退治しない姿を見て育ち、自分も無意識にそうするようになった。「蜘蛛は縁起が良い」「お釈迦さまの使い」という宗教的な意味を知った今とて、本気で信じているわけではないし、「科学的根拠に欠ける思い込みだ」と言われれば確かにそうだと納得する。

それでも、やはり友人がなんの躊躇もなく退治した時に、なんとなく罪悪感を感じてしまった。

そして同時に、これが自分が仏教徒である証拠だ、とも思った。

アメリカで生活する中で、キリスト教の存在の大きさを感じる。神の存在は当たり前のもので会話にもよく出てくるし、留学に来てナーバスになっている学生に対し「聖書を読むべきだ」と説いている人さえ見かける。
そうした人々と比較し、自分は宗教とは無関係の無宗教人間だと思っていたが、蜘蛛の一件以降、自分の行動や思考は仏教の教えに近く、それらは親のしつけや義務教育で知らず知らずのうちに培われていたのだと考えるようになった。

宗教を自分で選択したわけではないし、その教えを真剣に学んでいるわけでもないが、理論や科学を超えて、蜘蛛一匹でなんとなく嫌な気分になってしまう程には仏教が自分の精神的土台に深く関係している。
それと同じように、キリスト教やイスラム教を信仰する人々はそれが無意識であろうが意識的であろうが当然のものとして過ごしているのであり、そこに自分と違うことがあったからといってなんら不思議なことでもない。
ただ、「そういうもの」だとしか言えない。

宗教が引き金となる争いが現実にも歴史にも多いことは残念なことだが
「そういうもの」同士は互いにパラレルワールドだと考えると決着点や妥協点など中々ないだろうし
兎にも角にも自分自身はそういった方向で人と争うことのないようにしていかないといけない。

蜘蛛の一件以前は、真剣な顔で神について話す友人に恐怖を感じたこともあったが、今は大して反応することもなく、そういうものなのだろうと思うようになった。

新年におみくじを楽しみにお参りに行くように教会へ行き、無意識にお辞儀をするように神について話す。宗教とは、そういう、生活の中に溶けているものなのだと気づいた。



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