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ゾウリムシ

昭和の未解決事件、という文字列や画像を見た時に視界をこえて絡まってくるあの感じをどこで体験したのやら、
私の幼少期の片田舎のさらに田舎にはその香りがおそらく平成一桁いっぱいくらいまでは残っていて、だから私のふるさとは昭和なのだと思う。

なんだか自分でもよくわからないのだけど、6歳か7歳くらいで自分はもしかしたら死ぬはずだったんじゃないだろうか、と、唐突に思いついた。

この帰結はわりとしっくりくる。

でなければ、この強烈な「時代の空気」への引き戻し感と、未だ拭えぬ「ここにいるはずの人間ではない」感の説明がつかない、と思ってしまう。

病みなのか欠けなのか、あるいはその両方か、とにかくどちらにしてもそれはいずれ「修復される」ことがありうるのか、そもそも懐疑的だから、希望というものがどちらを向けば存在するものなのかも実はよくわかっていない。
私が未来でも過去でもなく「いま」だけを掴もうとするのは、それしか確かなものがないと感じるからだ。

私の命が続いていこうが、継がれていこうが、そこに意味があるとするのは意味を持たせることができた者にとってだけで、本能というプログラムにたばねてしまえばきっと説明も容易でむだがない。なにより、子を持てば実感としてその納得感を得る努力すら必要ないものなのだろう。全員がそれを得るとは限らないにせよ確度は上がる。

しかし現状、残念ながら、今の私には子孫となる者もいない。
まったくの「いま」しかそこには存在しない。

私にとってこの「人」という形を保っていることはとてもじゃないが容易いことではなく、少し油断するとその境界は曖昧で、信ずるに値しないものになる。
べき論もモラル軸も宗教的価値観もあまり意味をなさなくなり、耳から左の首、肘手首指先と耐え難い痛みが襲うのをロキソニンで散らすたび、こうしてヒトとしての境界を失うのだと直感する。私はいつも頭が痛い。起き上がらずにいれば腰も背中も痛むしまるで老人で、老人然としているうちにほんとうにいつのまにか老いてそしてグズグズに崩れてしまうのではないかと思っている。そう、いつか見たゾウリムシの最期のように。

境界を保つ力を失って、生命の境界を失って存在を失う細胞。

あの6歳か7歳の、なにがしかの断層よりあとはきっと、いつ取り上げられてもおかしくない、オマケの人生。少なからずそう感じている自分がいて、そこから逃れられない。

あのゾウリムシは、さいごに何を思ったのだろう。

#日記 #エッセイ #ゾウリムシ #死生観




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