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書くことが、めちゃくちゃ好きかというとそうではなかったのかもしれない

 と、最近思う。

 書くことは呼吸することだと信じていたし、「続けられるかどうか」という一点においては正直、勝算しかないと思いながらnoteをはじめた覚えがある。

 自分は渡り鳥だったのだなと思う。
 何かしら書くことは止めないけれど、その時その時によって書きたい場所が変わる。書きたい相手が変わる。文体やカラーが変わる。
 場所が変わるからカラーが変わるのか、カラーが変わるから同じ場所で書けなくなるのか、それは鶏か卵かって感じで、どちらともいえるし、どちらでもないともいえる気がする。

 文章だけではない。私が発する言葉には文章のほかに歌がある。
 歌中枢(というものがあると仮定して)と作文中枢(というものry)がきっと近いところにあって、どちらかが優位の時どちらかが大人しくなるのだろう。それは、100%の自分を発露して為される「表現」において他のものが入る隙ができないということなのだと思う。そして、私は100%の出力以外で発露する方法を知らない。

 そして、一度拠点を変えるとなかなか元の場所には戻らない。それこそ渡り鳥のように、次の年まで戻らないなんてこともザラなのだ(と、noteをはじめてほとほと思い知った)。

 そんな私でも、戻ってきて書こうと思うことがある。
 それは主に外的要因によるものだ。外的要因とは、何かを受け取って、それをリフレクトするように何かを発したくなったときだ。

 誰かに、ある人に、あなたに、「そうだよ」もしくは「そうじゃない」と伝えたいとき。

 ずっと前、私はnoteをはじめて「これは絶対にぴったりに違いない」と思った友人にすぐさまnoteをすすめた。
 私が大好きな友人。私が心から尊敬する、そして心の底から痺れる文章を書く人。
 エッセイも小説も、およそこの人ほど鳥肌のたつ文章を書く人を知らないし、書き続けて、そしてもっと読まれてほしいと思う人。

 私の目論見通り、その人は私がちょっとnoteを離れている間にあっという間に繋がりを広げて、私の比じゃない数のスキをもらい、シェアされ、賞も貰って。でも、賞はnote運営さんのチョイスだから。それより、たくさんの人に愛されていることのほうがずっとずっと嬉しい。

 あなたのことだよ。

 私はあなたに書き続けてほしい。頼まれなくても書くだろうけど、あなたの言葉がどれだけの人に望まれていると思うのか。そのことを味わって、怖がらないで、書き続けてほしい。
 文章はあなたそのものだ。だからあなたを愛するのと同じように、あなたの文章を愛している。愛してやまない者がここにおり、愛してやまない人にあなたは囲まれている。

 あなたは力を持っている。言葉という力、言葉に命を吹き込む力、言葉で人の心に染み入る力。言葉を司る存在があるなら、間違いなくあなたはそれに愛されている。
 私が言うまでもなく、あなたは言葉を必要とし、そして言葉にも必要とされている。
 苦しみも喜びも、言葉を通して分かち、人々に届け、そして救いになれる人。
 そしてこうして、「書かない」ときの私に言葉を紡がせたように、人を衝き動かす。人の心の門をやさしく叩き、そっと開かせるものを持っている人なのだ。

 私が今日伝えたかったのはこれだけ。
 あなたのことだよ。

サポートしていただければ今後の創作・表現活動に大切に使わせていただきます。めちゃくちゃ喜びます。萌える毛玉になって跳ねます。