痛みの多い人生を送って来ました
久しぶりに、湯船に浸かっていたら、ふと思いついたことがある。
わたしは手応えの感じられないものに、あるいは興味を失ったものに対して「続ける」ことが苦手だ。それは昨日も書いた。
だが、その「続ける」の得手不得手は他者の時間軸を基準にした評価にすぎない。
やめてしまったもののうち、あるものは(一般的にはどうであれ)「もう十分にやり尽くした」と判断したものかも知れないし、またあるものについては「やめたのではなく、休んでいるだけ」なのかも知れない。
それを一律、型に嵌めて「わたしは飽きっぽいのだ」と定義し、それに沿って動く必要もないだろう。
で、思ったのはこうだ。
見出されるまで作り続ける、書き続ける。それもまたよし。そうではなく、自分の目的を見つめてそれに従うもよし。
私が何か、これからやっておかなければ悔やむであろうことを考えると、案外すぐに答えに行き着いた。
それが売り物になろうがなるまいが、共感を得ようが得まいが、有り体に言うならバズろうがそうでなかろうが、言葉にしておきたいこと、歌にしておきたいことが山ほどある。
たとえば10年、20年かけて、それが尽きるまで形にし続ける。それでいいのではないか。
これは、「継続は力なり」よりも自分にフィットするように思えた。
なんだ、言いたいこと伝えたいこと問いかけたいことなら、日々尽きないじゃないか。
久しぶりに湯船に浸かった、と書いた。
どういうわけか、痛みに苛まれる事態が続いている。今回は拷問のような歯痛で昼夜苦しんだ。高熱も出て、発熱外来で検査もした。幸い、コロナは陰性だった。
しかも、同じ症状が場所を変えて今年2回目。歯はね、ほんとに痛い。
たかが歯痛、されど歯痛。一説によれば、痛覚としては2番目とも聞いた。実際、何度か気絶してしまったほど。
こういう時、血行がよくなると痛みを促進する可能性が高い。ちゃんと入浴できなかったのはそれが理由であった。
今回だけでなく、痛みにのたうち回るということを沢山経験してきた。救急車に乗った回数はゆうに2ケタを超えるし、痛みと戦いながら1ヶ月の入院・絶食を強いられたこともあった。まだ二十歳そこそこの頃だ。
こういうことがあるたび、太宰の台詞を借りてタイトルのようなことを言いたくなる。
痛みは思考を奪う。だからこそ、じゃあ私はミニマムに何が出来る、と考える。
結局、私がやっておかないときっと後悔すること、少ないならばこれだけはやりたいこと、を残したら、こういう考えになった。
それが、この話。
淡々と、粛々と、自分が為すべきと思うことをやって、10年で終わればそれで、終わらなければ20年やって、でもやっているうちに一生更新されて死ぬまでやれるなら、それで。
そう考えてみたら、やれない理由に縛られるよりずっとシンプルで、心が軽くなった。
何者かに「成らねば」自分にも他人にも顔向けできないと、どこかで枷のように自分を縛ってきた。
そのモチベーションは自分には遠すぎて、それで手を離したものもきっと沢山ある。
必要なことを成し遂げるぶんだけは、与えられていると思いたい。
私はこれまでも、本当に自分が欲することしかやってこなかった。
それでいいのだ。
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