見出し画像

蚕殺し

ソナチネの章

その知らせは桑畑の広がる里を凍らせた。

―くるぞ。

 人々は声を低くし口々に囁き合い、すさまじい泥流の勢いでその「知らせ」は瞬く間に里じゅうを駆け抜けた。
 しかし禍々しい知らせとは対照的に、さんさんと陽の光を浴びて無邪気に光合成する桑の葉はこの季節、いちばん美しかった。

「彼女」は桑の匂いが好きだった。
 身の丈を軽く越す、しかしそれほど高くはない種の桑の木々の海の中で佇んでいると、何だかほっとして懐かしい気持ちになる。
すうり、と鼻を通るその匂いは安堵をもたらすだけではなく若干の興奮作用をも含んでいるようだ。
 彼女はリラックスしている自分を感じながらも桑の中でいてもたってもいられない衝動にかられることがあった。
 その衝動が何であるのか。何に向かっているのかは彼女自身にもわからない。けれど皮膚一枚下がむずがゆく、不快ではないものの尽き動かされる得体の知れない衝動に耐えるのも彼女には快い刺激なのだった。
凶報は既に彼女の耳にも届いていた。

―くるぞ。
 リプレイされる日焼けした農夫たちの囁き合い。
 里の人間は清々しい笑顔を交わしつつも、その笑顔の下では皆一様にこれから戦地に赴く兵士の険しい表情へと変わっていっている。
 人間はどんな生活に溶けていっても、男であれ女であれ守るべきものを守るための闘争本能は失わないものなのだな、と彼女は再認識して目を閉じた。里の男たちは慎重に目に見えない刃を研ぎ、女たちは静かに夫と子供たちを見守る視線を強くしている。

―くるぞ。
―「蚕殺し」が、か?
―ばか! その名前を出すな!
―すまない。
―「それ」の名前をだすなよ。
―そうだ。「奴」は自分の名前に引き寄せられるらしいぞ。

 「それ」は正しくは「名前」ではなかったが「奴」はその呼び名を口にするのも憚られる程恐れられている存在なのだった。

―やってくる。
彼女は心のなかで呟いた。
―やってくる。彼が。「かいこごろし」として私のところに。
 山から吹き降りて来る風が桑の葉先をなぜ、濃い緑の海がざわざわと波打つ。彼女のうす緑色をした揚柳地のさらさらとしたサマードレスの裾が揺れ、桑の葉がざわめきを増していく。
 彼女はゆったりと目を開いた。その瞳には押さえきれない感情となんとか折り合いをつけようとする色がたたえられていた。


 葉魚絵(はなえ)は大きなざるいっぱいの桑の葉をかいがいしく運んでいた。
「おじさん、これで全部です。あとは何をしましょうか?」
 葉魚絵のグレイのTシャツは汗でぺったりと背中にはりついて色が濃く変わっている。
「はなちゃん、今日はもうこの辺でいいよ」
 麦わら帽の農夫は初老にさしかかるであろう年齢あろうか。作業の手を休めずによく通るハリのある声で答えた。日焼けした肌もまだ皺が少なく、玉のような汗が腕に顔中に浮き出ている。
「でも……」
まだ陽は高い。申し訳なさそうに葉魚絵が返した。
農夫はにっこりと目を線にして優しく言った。
「せっかくのお休みじゃないか。そんなに働かなくてもいいよ」
「でもお手伝いに来る日ですし……」
 とまどう葉魚絵にもうひとつの声がかかった。
「はなちゃん、本当に助かるよ」
 ざるを抱えた葉魚絵が振り替えると、ピンクのTシャツと洗い晒しの生成りのゴムウエストのコットンパンツにエプロン姿の農夫の妻が歩いてくるところだった。
 体型と同じくふっくらとやさしいこの中年女性は、葉魚絵を初めてここ、白里(しらさと)の人間と同様に扱ってくれた人物である。
「おばさん、この葉っぱで終りです。あとは小屋のほうでお手伝いします」
「そうねえ。じゃ、ちょっとだけ。その前に休憩しましょ」
「はい。じゃあこれ、小屋にもっていきます」
「お願いね。置いたらうちに来なさいね」
「わかりました」
 首のうしろでひとまとめにしたセミロングの黒髪を揺らして蚕小屋へと足早に歩いて行く葉魚絵を見送りながら、黙って二人のやりとりを聞いていた農夫が口をひらいた。
「あの子、ちゃんと休んでいるのかい?」
「お父さんが気になるのは『ちゃんと休んでいるか』じゃないでしょう? 」
「まあ……それも気になるんだが」
 モゴモゴと歯切れの悪い口調で答えると農夫はうつむいた。
「でもなあ、お母さんは心配じゃないのかい? その……、」
「あの子はね、タカオのお嫁さんになりに来たんじゃないんですよ。そりゃあ私だってはなちゃんに娘になってほしいですよ。でもこういうことは本人次第でしょ?」
「だがなあ……」
「お父さん、タカオとのデートの時間を作ってあげようと思ったんでしょ? でもねえ、その時間があったらあの子は機織りに行っちゃいますよ」
 農夫は、はあっと息を吐いた。
「今は『仲良しの二人』っていうだけでいいんですよ。あとは本人たちに任せましょう」
「でもお母さん、里の学校もどうなるかわからないし……」
「お母さん」の顔付きがキッと厳しいものになった。
「どうもなりはしませんよ」
「お母さん……」
 厳格ではないが一家の主としての威厳を失うことなどない「お父さん」がたじろいだ。
「染色学校もこの里も何も変わりはしませんよ。変わるはずがないんです。どうにかなっちゃいけないんです。そうでしょう? お父さん」
 静かに、しかしきっぱりと言い切る妻に農夫は顔にとまどいを残したまま深く頷いた。
「なにがあっても私はここに残ります。たぶんあの子もそうだと思いますよ」
「あ、ああ……」
 でも一体どうしたらいいというのだ? そんな農夫の頭の中に、ふと、ある光景が広がった。今よりもすこしばかり年老いた自分。頬のたるみと笑顔が多くなった妻。そしてすっかり家長としての力強さを身に付けた息子と彼に寄り添って微笑む葉魚絵。彼らは今農夫のいる場所にいて、みんなで作業に精を出している。
 そのまわりには小さな子供たちが元気に走りまわり……。幸せな白昼夢は彼の心を少しばかり明るくさせた。
「お母さん。俺は今晩の寄り合いに出るから。ちょっと早めに飯にしてくれるかい?」
「わかりました。ああ、はなちゃんが待ってるといけないわね。あなたも休んだら? 一緒にお茶にしましょう」


 ザワザワザワザワザワザワザワザワ………
 蚕小屋の高い高い天井に、蚕が桑を食む音が響き渡る。はじめて蚕小屋に入ったとき、葉魚絵はその音のおそろしさに身がすくんだのを覚えている。
 蚕小屋は小屋というより蚕たちの巨大な城だった。小屋の内部は入り口側の三分の一ほどが吹き抜けになっていて、何階にも分けられたフロアーに木の梯子がかけられているのが見える。四階の各階には何枚もの蚕棚があり蚕たちがただひたすらに桑の葉を喰らっている。吹き抜けの天井の下には大きな釜があり、古くは個々の農家で繭を茹でながら糸をほぐしていたという。葉魚絵も実習でこれと同じ釜を使い糸を引っ張り出したこともあった。
 この里の染色学校に来てもうすぐ三年目になる葉魚絵は、ひとりで糸をほぐし機を織るところまでマスターしていた。しかしここ、白里で養蚕を営む福田家の作業所ではまだ蚕の世話や雑用だけしか手伝っていない。
 葉魚絵は福田の妻の指示だけを守りその内容がグレードアップしていくのが楽しかった。
 染色学校に来て一年を越す生徒たちのなかには葉魚絵のように休日を利用して養蚕農家に手伝いに来る者も数人いた。
 里に染色学校ができて五年。後継者の心配から生まれた学校だったが昔ながらの手法で手織る絹織物への関心は意外にも高く、付近の街だけでなく遠くからも生徒が集まった。学校は二年で一応の課程を終えるが希望者はそのまま勉強を続けることができる。
 規模は大きくはないが各地から集まった生徒たちはその殆どが熱心だった。また規定がそうなっているわけではないのだが、生徒たちのほとんどが若い女性であり彼女たちが里の未婚の男たちの花嫁になってくれるのではないかという期待も大きかった。
 葉魚絵は指示されていた場所にざるを置くと、うーんと伸びをした。決して涼しい訳ではないが、桑の匂いと高い天井と小屋の暗さが疲れを癒してくれる。
 葉魚絵は必須課程を終了したあとも里に残ることに決めていた。絹の魅力からはまだ当分、いや一生逃れられそうにない。
―もし一生……?
 彼女はひとり頬を赤らめた。福田タカオの精悍な顔立ちが頭に浮かぶ。タカオは今日は何時に戻るのだろう?
「葉魚絵さん!」
 蚕の咀嚼音を割って飛び込んで来た、ちょっとカン高い声に彼女はぎくりとして背を向けていた入り口を振り返った。逆光に浮かび上がる小柄な肢体はふわふわとした巫女装束に包まれていて、腕から垂れた袖が陽に透けている。薄物の上衣を羽織ってはいないので普段の仕事着なのだろう。しかしこの姿でここまで来るのは珍しい。いつもは白里神社の中でしかその装束は身に付けないのに。巫女装束でこのあたりに来るなら神事のある時だから正式な格好のはずだ。
 まじまじと彼女のほうを見ていた自分に気付き、あわてて葉魚絵は返事を返した
「あっ、繭良(まゆら)さん! どうしたんですか。今日はそんな格好で」
「宮司(ぐうじ)から……ちょっと急ぎのお使いがあったから。祭りに使う奉納桑の事で」
 入り口から中へと繭良が近付いて来た。小屋の中はうす暗いが逆光で見えなかった表情がだんだんと明瞭になってくる。と同時にわずかな汗の匂いと体育の後の女子更衣室の甘酸っぱい匂いが伝わってきてなぜか葉魚絵はどきまぎとした。
 先ほどまでタカオのことでいっぱいだった頭をなんとか切り替えようと彼女は繭良に語りかけるために口を開いたその時、繭良が言った。
「蚕棚を見てもいい?」
 少しはずんだ口調と甘えを含んだ潤みがちの目。自分より年下に見えるが近寄り繭良が急に年相応に見えて、急速に葉魚絵の緊張は緩んだ。
「いいですよ。梯子、足元に気をつけて」
 二人は梯子を昇り二階へと上がった。ふと、繭良はこのザワザワともガリガリとも聞こえる音を何とも思わないのだろうかと葉魚絵は訝しんだ。そして蚕。ぶよぶよとした芋虫を、彼女は気持ち悪いとは思わないのだろうか? しかし繭良は懸命に桑の葉に喰らいつく白い虫を愛しげにみつめている。
「私ね、蚕は大丈夫なんだ。青虫とかの蝶々の幼虫とか、かぶと虫の幼虫は苦手なんだけど。あ、虫はだいたい苦手か」
 心を読まれたのかと一瞬背筋がぞくりと葉魚絵だったが、繭良は蚕を見つめたまま続ける。
「蚕は人を刺さないしね。色も白くて綺麗。吸盤みたいな足もかわいいし。かわいいね。蚕は」
 でも私はそのいきものを……。葉魚絵はその言葉にちくりと痛みを感じた。二人はともに蚕に目を落としていた。
「生まれたばかりの頃はちっちゃな毛虫なのにどうしてこんなに変わるんだろう」
「繭良さん、蚕飼ったことあるんですか?」
感嘆から思わず出た言葉だが、言ってからしまったと葉魚絵は思った。が、繭良は全く気にしていないようだった。
「一応ね。育てたことあるから」
葉魚絵より長くから居るとは繭良はもとから白里にいる人間ではないのだ。彼女がどこから、なぜ白里にきたのか誰も知らない。彼女のことを余所者扱いする里人はいないが同じく余所者の自分が彼女を外部から来た人間扱いするのは憚られるような気が、葉魚絵にはした。
 つい、と繭良が顔を上げた。
「あ、お茶の時間だっけ? 福田さんたち待ってるね。私もおよばれしちゃった。私、ちょっとさぼろうかな? 行こうか」
二人は蚕小屋を後にし、母屋へと向かった。
 その夜。狭いがこざっぱりとした寮の自室で、葉魚絵は布団の中で腹這いになって地図を広げていた。それは彼女が染色学校に入学したときにもらった「白里案内マップ」というイラスト入りの手書きの地図で、白里神社もそこに載っているはずだった。白里神社は染色学校の先輩に連れられて二、三回、そして祭りの時しか行ったことがない。
 繭良にまた会いたい。
今までそれほど面識もなかった彼女に葉魚絵は急激に興味を抱いていた。そしてあの繭良の少女めいた横顔を思い出した。 
―あさって、授業が終わったら行ってみようか
 外では遠雷がとどろいていた。


 五十畳程の板敷きの広間。古いラジカセのテープからは朗々と謡いが流れる。呪文を詠唱するかのような歌声、笛の音、鉦(かね)の音。扇の先から揺れる長く垂れた五色の紐の先で時折、ちりりと小さく鈴が鳴る。しかし余計な時にこの鈴を鳴らしてはいけない。
 踏み出した足の下できゅっ、きゅっと板の床が鳴く。早くこんな時間を終えて生の音に合わせて踊りたい、と繭良は思う。
 宮司である榊の肩がぴくりと動いたのを感じた。彼女は今、彼に背を向けてはいるがそれがわかる。いけない。集中しなくては。
 床の上に正座したまま宮司の榊は繭良の一挙一動一投足を見据えている。もうどのくらいの時間が経っただろうか。張り詰めた緊張は頂点に達し、もう限界だ。しかしまだこの刻は続く。これは闘いだと繭良は思う。勝ち目のない闘いと知りつつ彼女は左足から踏み出して舞う。珍しい「左舞」。扇が重く感じる。目の前が霞む。榊のそげた頬が僅かに嘲笑いに歪んだような気がしてあわてて正気にかえる。だいたい繭良の楽なようになど有り得ないのだ。榊の凍りつく視線が足元を、扇の先を、彼女の睫の揺れを捕らえて射抜く。
 繭良の耳の裏を冷たい汗が伝う。鎖骨にも、膝の裏にも、汗はすべり落ちていく。まだ外では雷をともなった激しい雨が降っている。 しかし繭良にはその音はもう聞こえない。テープの音さえも音として認識していない。
 躰のなかに細かな泡立ちが生まれていく。それが何であるのか、彼女にはどうしてもわからない。泡はしだいに渦を巻き渦はどんどん加速する。そしてそれはらせんとなって躯の芯を駆けのぼってきた。張りつめた身体と巻き込まれる感覚は頂点を極めた。
―もう、駄目!
 一瞬の動きで榊が傍らの笛をとり、構えた。
 ピイーッ!!!

 はっ、と繭良は「天」を仰いだ。のけぞった白い喉がびくびくと脈打つ。しかし容赦なく笛の音は、彼女の「躰」を容赦なく裂き謡い奏でられる。

 はあ、はあ、は、あ……

 耳の奥で自身の荒い呼吸がぐわんぐわんと響いても、彼女は踊ることを止めない。いや、やめられない。ゆっくりではあるが力強く、静かに彼女は踊る。笛の音は次第に強く、速くそして激しく高く低く叫びうねっていく。
 鋭い鉤爪を足袋の中からばりばりと出して板に突き立てるように、繭良は床を踏みしめ腕に孤を描かせ袖で空を切る。
 じゃらり、じゃらり、しゃん、しゃん、と鈴が震えて啼く。
 そして。繭良は自分の装束が起こしたものではない風のうねりを感じとっていった。歪みうねる空気が沸き起こる雲となり彼女の躰を包み抱きすくめる。
 ちらりと視界に笛を吹き鳴らす榊が飛び込んできた。酷薄な、冷徹な、ひどく楽しげな表情のなかでぎらぎらする双眸がその様子を観ている。
 繭良は空気の歪みに全身を絡めとられ思うさま愛撫されながら、舞う。
 そしてギリギリと「歪み」に縛り上げられ一拍静止した瞬間、繭良は躰の中心を刺し貫かれる痛みに襲われ、思わず微かに開いた唇から声にならない悲鳴を上げた。
 笛の音が止んだ。テープの音は既に止まり風もうねりも止んでいた。
 聴覚の隅で、榊の衣擦れの音がする。
「祭りまであとひと月程だ」
体格に合わない太く低い声を残して、榊はその場を退出していった。
 戸の閉じられる音を聞き届けてから、ばさりと装束の音をたて繭良は床に倒れ込んだ。
 


『村の少女は白い馬と恋に落ちた。少女の父親は馬を憎み、馬を裏の大きな桑の木に引き摺りあげて吊し、鉈や鎌で馬の生き皮をはいで殺してしまった。少女は嘆き悲しみ白い馬の皮にとりすがって泣いた。すると白い馬の毛皮は銀色に光りふわりと娘を包み込むと天へと昇っていった。娘の両親は何日も何日も泣き明かし馬と娘に許しを請うた。
 ある晩、少女の両親の夢枕に死んだ娘が現れてこう言った。
「わたしとあのひとの忘れ形見を残していきます。来年三月の十六日に土間臼の中をみてください」
 少女の両親はその日を待ち続けた。夜明けを待って彼らが土間の臼を覗くとそこには何匹もの、馬の蹄の模様を頭に戴いた白い虫がいた。父親は馬を殺した桑の木の葉を虫に食べさせて大切に虫を育て、やがて虫は少女の髪と同じふんわりとした美しい白い糸を吐き、繭玉をつくった。繭からつむいだ糸は娘の母親に機で織られ、銀色の美しい布になった。貧しかった夫婦はその布を売って豊かな暮らしができるようになった。娘の父親は裏山の桑の木を切ってきて、ひと組の神様の像をつくり祀った。ひとつは娘の頭、そしてもうひとつは馬の頭の。
 それは「オシラサマ」と呼ばれた。』

―白里神社由来も似たようなものかもしれない。養蚕を生業とする土地には馬頭の神様や馬頭観音の像がよくあるそうだし
 図書館の絵本を閉じ、葉魚絵はそう思った。
―馬頭観音、といえば仏教、お寺だと思うんだけど……。あそこは神社。でもどうだっていいのか、そんなことは。人々の心の拠り所として在るのなら、いいか。待って、でも……。
絵本の話では何の教義も説いてはいない。民間信仰として書かれているだけだ。
昔、この国に仏教の「教え」が伝わり神道のヤオロズの「神」との争いが起こった。しかしその前にヤオロズの「神々」は土着の「神」を駆逐し追いやっていった。すべての「教えのカタチ」は人間のつくりだしたものであるはずなのに、いや、人間のつくりだしたものだからこそ「神々」の名のもとに人間は世界各地で領土や人の確保のために侵略の戦いを繰り返している。でも、そんな中でどうして「馬頭神」は複数の宗教のなかで生きのび愛でられているのだろう? 「馬」は生活に関わっていたから? その信仰のカタチも「ひとのつくりしもの」だろうに、と葉魚絵は思考をストップさせて、ふっとため息をついた。
―やめよう。私はもう大学生じゃないし。研究するのはそういうことじゃない。「絹」なんだから
「葉魚絵」
どこか甘さのある、やさしい調子の男の声。タカオだ。いつのまにか絵本コーナーの子供用のテーブルをはさんでタカオが葉魚絵の顔を覗き込んでいる。
「どうした?こんなところで」
「調べもの」
「絵本のところで?」
 閉館近い、夕刻の小さな図書館。絵本コーナーはかわいらしい卵色のカーペットがひかれたお座敷で、靴を脱いであがるようになっている。そこには角が丸いクリーム色のお座敷テーブルが2卓置かれている。そこにはもう葉魚絵とタカオしかいなかった。もともと子供の影も滅多に見えない場所ではあるが。
「ほら、これ。蚕の神様の民話なの」
「また絹か。熱心だね」
「タカオは?」
「コピーを取りに来たんだ」
「わざわざ? 栄商店のほうが近いんじゃない?」
 そういうとタカオはにっと白い歯をみせて笑い、そこの道で綾女(あやめ)ちゃんに会って葉魚絵がここに来てるって聞いたんだと言った。
 綾女は染色学校の一年生で、ひな人形によく似た愛らしい顔だちとは正反対に髪を紅く染め無口で無愛想な十代の少女だが、なぜか葉魚絵にはなついている。あの子もけっこう親切なんだな、と感心しつつ綾女は一体どんな顔でどんな口調でタカオに葉魚絵の居所を教えたのだろうと考え可笑しくなった。
「もう出るだろ?」
「うん」
「ちょっとコピーとってくるから待ってろ」
 タカオはコピー機の方へと早足で行ってしまった。どんな顔をしてもどんな動作をしても、タカオはかっこいいと葉魚絵はうっとりしてしまう。裾のあたりがちょっと綻びていているジーパンでも、白いTシャツでも、どんな格好でも似合ってしまう。短く刈り込んだ髪が茶褐色なのは生まれつきらしい。瞳の色も父親ゆずりなのかビー玉のようにきらきらとして透明感のある茶色だ。しかし色素が薄いタイプというわけでもなく肌の色は浅黒く、ひきしまった筋肉は夏には更に焼けて赤銅色になる。葉魚絵はあわてて色気のないひとまとめにしていた髪を結わくゴムをとり、手ぐしで髪を梳いてタカオが戻ってくるのを待った。ほどなくしてタカオは帰ってきた。彼を迎えようと葉魚絵は座敷を降りデッキシューズに足を通そうとかかんだ。その葉魚絵の視線をひらりと白いものが遮った。里の青年団の会議で使う資料らしい。
―『……対策についての自警手段とその……』?
葉魚絵が落ちた紙を拾おうとした瞬間、ものすごい勢いでタカオの手が目の前を掠め紙をつかみ取った。あまりの乱暴な所作に唖然とする葉魚絵に気付き、タカオがあわてて弁明する。
「ごめん。あわてて……」
「タカオでもあわてるのね」
「当たり前だ。小学校の頃とか今よりそそっかしくてさ。通信簿にも『落ち着きがありません』って書かれちゃってたしさ……ははは」
 ふふふっ、と葉魚絵が笑う。タカオも奥二重の切れ長の目を三日月にして微笑む。こういうのきっとアルカイックスマイルっていうのだろう、やっぱりタカオはカッコいい、と葉魚絵は思った。
 図書館わきの二台くらいしか収容できない小さな駐車場にタカオの乗って来た軽トラックが停めてあった。
「ちょっとドライブしよう。俺、今日は青年団の会議があるけどまだ時間あるし」
 最近忙しいタカオからの珍しい申し出だったが、葉魚絵には予定があった。
「ごめんなさい。今日は約束があって」
 本当は約束などしていなかったが、早く繭良に会いたかった。
「どこまで行く?乗せてってやるよ」
軽トラに乗りながらタカオが手をさしのべる。その手につかまって助手席に収まりながら葉魚絵は答えた。
「白里神社」
「神社だあ? あんななんにもない所。あ、あるか」
「え?」
「お前、あれ見に行くんだろ? 蚕の神様とか言ってたよな。あるよ。確かあそこにご神体みたいなのが」
「あるの?」
「なんだ調べものしてたんじゃないのか?」
 タカオがちょっと不機嫌な声でエンジンをかける。
「ご神体のことは初耳なんだけど、その、繭良さんと約束してて……」
「マユラって、あの巫女さんの?」
「うん。おとつい、タカオの家に来てて。仲良くなったの」
 葉魚絵は生まれてこのかた、一日のうちにこんなに何回も嘘をついたことがなかった。
 車は、舗装されていない砂っぽい色の平らな道の上を走り始めた。
「マユラさんね。……よかったな」
タカオがしみじみとした口調で呟くように言った。
「え?」
「あの人にとってだよ。葉魚絵みたいな友達ができてきっとすごい喜んでるんじゃないかな」
「どうして?」
「今まで友達っていたのかなあ? 神社は里のはずれだし。あそこは祭りのとき以外はほとんど神主とふたりきりだろ? 住み込みだし」
 しばらくゆっくり顔を合わせる機会もなかったせいだろうか。タカオはいつもより饒舌だ。葉魚絵は、タカオがいくらあまり会う機会がないとしても年若い繭良に敬語を使うのでおや、と思った。みんなそうだ。気さくで人なつっこい福田のおばさんでさえ、繭良に敬意を表する態度で接している。神社に奉職しているからだろうか? 里の人々を守り彼らの心の拠り所となる白里神社。そんな信仰心が深く根を下ろしているのかもしれない。
「葉魚絵は知らないと思うけど。あそこの神主さん、こわいんだ。別にすぐ怒鳴るとかじゃあないんだけど、何ていうか笑ったことないんじゃないかって感じでさ……」
「繭良さん、そんな人の所に住込みで?」
 葉魚絵が繭良に関して知っていることといえば、白里神社の巫女でこの里の生まれ育ちではなくて何年か前にふらりと里にやってきて居ついたということ、それだけだった。二年以上もここに居て、だいぶ里に馴染んだつもりだったが自分にはまだ知らないことがいっぱいある。葉魚絵はすこしばかり余所者である自分を悲しんだ。
「里のオバチャンたちはさ、神主さんかっこいいわあなんて言ってるけど、ほんとはみんな怖いんじゃないかな。五年前までは今ほど暗い人じゃなかったみたいだけど」
「五年前?」
「奥さん、いたんだよ。」
「いた?」
「死んじゃったんだ。病気で」
「かわいそう……」
「あの人もかわいそうなんだよなあ。繭良さんが来たのが三、四年前くらいかな? 奥さん亡くして一年くらい後だったと思うよ」
「ふうん」
 ほどなくして神社の入り口が見えてきた。小道の突き当たりにこんもりとしたちいさな森があり、その中に神社があるという。
「着いたぞ。この奥だ」
「ありがとう。タカオ」
「葉魚絵、明日は?」
「え?」
「明日、会えるかな」
「うーん、そうね。授業が終わったら」
「わかった。仕事、はやく切り上げるからさ、寮まで迎えにいくよ」
「うん。それじゃ」
「マユラさんによろしく」 「うん。じゃあねっ」
ぴょんと軽トラから葉魚絵がすべり降り、つややかな髪をなびかせて駆けて行く。デッキシューズとジーンズの間からのぞく素足の足首はバネがきいていて、子鹿の動きを思わせた。
 ひとりタカオはぼそりと呟いた。
「あのなあ葉魚絵、言うことあるだろ? 『仕事切り上げるなんて珍しいね』『ばーか。お前の誕生日だろ』、じゃないのか? 明日はお前の二十三回目の誕生日だろ? 忘れてんのか? 」
 タカオは夕暮れの森に消えて行く葉魚絵の後ろ姿を、運転席からいつまでも、いつまでも見送っていた。 

 森の小道を駆け抜けると、いきなりぱっと広場が現れた。息を切らせた葉魚絵の呼吸音に誘われたのかざわざわと木々が風に揺れる。神社は眼前にあった。葉魚絵は繭良がいるはずの授与所を探したが、お札やおみくじを売っている窓は閉じられ、ガラス窓には「本日は終了しました」というきれいな毛筆の字が書かれた半紙が貼られていた。
―もう遅かったのかな。
 がっくりと肩を落とした彼女の耳に、ややカン高い声が風にのって微かに伝わってきた。
 
 長者の姫ともいわるるものが
  馬畜生に魅入られては
  人間界へ生ぜし奇特もあらねど
  駒を引き起こさせくびてうとはね落とし
  皮を剥いでは戌亥の方に晒させたまひ候へければ
  不思議やその皮しきりに動いて大地へ揺り落ち
  玉世の姫の寝間へ飛び
  くるくると姫を巻きしめたまへば
  風しきりにおこりて昇り舞いぬ

 聴いたことのない不思議な調べ。

  こだまこの国へ招いたよ
  するりするり 招いたよ

  こだま 界むすべ
  界むすべ 彼のくに
  風おこりて こだまきたる

 歌に混ざり、しゃん、しゃん、と鈴の音がする。葉魚絵は音の方へと走り出し本殿の裏へ回った。
 歌と鈴の音は止んだが、繭良はそこにいた。祭りで踊る舞いの練習をしていたようだ。普段の巫女姿の繭良は夕陽の下で頬をうっすらと上気させ、呼吸を整えている。一瞬ためらったが、葉魚絵は思い切って声をかけた。
「繭良さん!」
 繭良がこちらを向く。葉魚絵はどきりとした。
 ほんのりと桃色に染まった頬、潤んだ焦げ茶色のまるい瞳、たっぷりと紅をさしたかに見える紅い唇。和紙と麻紐で結わえた髪の束はすこしほつれて、顔には汗で何本か髪がはりついている。神聖な境内に不相応な妖しい色香を漂わせる巫女がそこいいた。
葉魚絵は小走りに繭良に駆け寄った。
「はなえさん?」
荒い息をつきながら細い声で葉魚絵の名を呼ぶ繭良の瞳は焦点が合っておらず、視線は漂っていた。
「いきなりごめんなさい! お稽古中? お邪魔……だったかな?」
「ううん。もう終りにしようと思ってたから大丈夫。今日は……どうしたの?」
 素直に遊びに来たとも言えず、葉魚絵は生糸の文化史の勉強のためにご神体を見せてほしいと申し入れた。繭良は快く受諾し「ご神体」のあるらしい建物へといざなった。そこは京都の三十三間堂にそっくりな建物で、それほど大きくはないが焦げ茶色をした木造の小屋だった。
「ほんとうはね、厳密にはこの神社のご神体は鏡なの。でもきっとこっちのほうが面白いよ」
 そう言って建物の中央の戸をガタリとスライドさせると繭良は「入って」と促した。葉魚絵は息を呑んだ。
 壁にしつらえられた棚に「それ」はびっしりと、ところ狭しと並んでいた。三、四十センチほどの「それは」ふたつ一組らしい。中身は木の棒なのだろうか? 様々な布でくるまれ頭部はこけしのように丸い形をした人形だ。赤、緑、金……。色とりどりの布が、暗い小屋のなかでひしめきあっている。なかには幾重もの布を巻いたもの、鈴を下げたものもある。
「これが『オシラ』だよ。ふたつで一組み。四月になるとオセンダクといって服を着せかえたり動かしたりお人形みたいに遊んであげるの。実質的なここのご神体になるのかな?」
葉魚絵は立ち尽くしていた。
―着せ替えしたり遊んだりかあ。オシラはお人形というより小さな子供っていうか。人間みたい。生きてるみたい。いきてる、みたいな……。
ぐらり、と葉魚絵の頭が傾い(かしい)だ。ややあって彼女の喉には酸っぱいものが込み上げてきた。やっとの思いで声を出す。
「出てもいい?」
 葉魚絵の異変に気付き繭良は葉魚絵の腕をやさしく取り、背中へ手を回して小屋の外へ連れ出した。
「ありがとう」
「顔、青いよ」
 繭良が心配そうに、かがみ気味の葉魚絵の顔を覗き込む。葉魚絵より背の低い繭良は首だけ曲げれば様子がわかるようだった。
「ちょっと、めまいが。今日、暑かったし」
「涼しいところへ行こう。冷たいものでも飲んで休んでいけば?」
 口元を手で覆いながら、葉魚絵は素直に頷いた。

 繭良の住まいは神社の裏手にある宮司の屋敷内の離れだった。
 小さな繭良に寄りかかるように部屋へ入った葉魚絵のために繭良は布団を敷き、葉魚絵をそこに寝かせると部屋の冷蔵庫から出した冷たい麦茶をすすめてくれた。
 繭良に助け起こされて上体を起こし、麦茶を一口飲むと葉魚絵は力なく礼を述べた。
 いきなり訪ねてきてこれじゃ迷惑してるだろうな、という葉魚絵の心配とは裏腹に、彼女の世話をする繭良はなんだか楽しそうだ。その上、もう大丈夫だから一息ついたらすぐに帰るという葉魚絵を繭良は引き止めた。
「ついでに夕飯、食べて行けば? あ、食欲なかったらおかゆにするけど」
「そんな、悪いし」
「気にしないでいいよ。今日はまかないの市原さんが来てるから一緒に御飯しようよ」
 一昨日、蚕小屋でみた、あの甘える目。思わずにっこりと微笑んだ葉魚絵の表情を承知と受け取った繭良は「すぐに戻るね」とぱたぱたと廊下を走っていった。
 繭良でも走るんだな、と再び微笑した葉魚絵は、八畳ほどのその部屋の隅に布張りの箱が置いてあるのを見つけた。
 繭良の部屋は家具というものがほとんどない。ワンピースなど丈のある服を吊す小ぶりなハンガーバーと折りたたみのちゃぶ台。カラーボックスがひとつ。そして行李のような籐細工の多きめの箱がひとつ。開け放たれた押し入れには布団しか入っていない。そんな部屋で、赤い繻子(しゅす)の布張りの箱は浮いていた。繭良はなかなか帰ってこなかった。葉魚絵の好奇心が頭をもたげる。
―何が入っているんだろう?
 悪い事だと思いつつも、中を見たい。今までこんな気持ちになったことはなかった。箱を開ければ繭良というパズルのピースのひとつが手に入るような、そんな気がした。
 かなり迷ったが、葉魚絵はそろそろと布団から這い出し箱に近付いた。箱は良く見ると中央部分に向かってふくらんでいた。箱の取手は布ではなく臙脂色に染めた革製でサイドへ引っ込めて折りたためるようになっている。金色の金属製の止め金は上に向いていた。その出っ張りを横にずらせば開くタイプだ。葉魚絵はごくりと唾をのみこみ、ゆっくりと手を伸ばした。
 パチッ!
 葉魚絵の指先に針で突かれたような痛みが走り、彼女は手を引っ込めた。
―静電気? でも触ってないのに。
 スッスッと早足の繭良の足袋の音がする。そのあとにもうひとつ、ゆっくりとした足音。葉魚絵はあわてて布団の上に座り直した。
「あ、良かった。もうだいぶ顔色が戻ってきたね」
 明るい声で部屋に入ってきた繭良の手には盆が載っている。その後ろから、同じく盆を持って繭良と同じくらいの身長の小柄な初老の女性が入ってきた。
「まあまあまあ、今日は暑かったですからねえ。大丈夫ですか? 」
 まかないの女性は人なつこい笑みを丸い顔に浮かべて配膳をはじめた。盆をいちど畳の上に置き、傍らの折りたたみちゃぶ台を広げる。ふたつの盆の上からはおいしそうな湯気がたっている。銀だらの照り焼きにほうれんそうのごまあえ、小鉢、小さめのアルマイトの鍋とお櫃。鍋には味噌汁が入っているようだ。そして葉魚絵のためだろうか、白い陶器の器にはみつばを散らしたたまご粥が盛られていた。
 葉魚絵が恐縮して礼をいうと、まかないの市原はいいんですよと、にっこりと笑顔を返してきた。すっかり準備が整ったころ、繭良が素頓狂な声を上げた。
「あっ! 自分のお茶碗忘れた! 葉魚絵さん、先に食べててね!」
 ふたたび走って行く繭良の背中に向かって、走るとまた榊宮司に怒られますよー。と市原がのんびりとした声で戒めた。
「どうぞ、お先に召し上がって下さいね」
 盆を持って退出しようとする市原に、葉魚絵は尋ねた。
「あの、ここにはよく繭良さんのお友達がくるんですか?」
妙な質問だと思ったが、意外にも市原は浮かしかけた腰を下ろし、更に嬉しそうな顔で葉魚絵に向き直った。
「いいえ。あなたが初めてなんですよ。染色学校の飯島葉魚絵さんでしょ? 私は嬉しいんですよ。あなたが来て下さって。あなたはこの里でも評判の娘さんだし、福田さんところも自分の娘みたいに自慢してますよ」
 染色学校の生徒が注目されやすいのはわかっていたが、面と向かって褒められると気恥ずかしい。葉魚絵は顔が赤くなるのを感じた。が、市原はおしゃべり好きらしく、尚も続ける。
「繭良さんはずっとひとりぼっちでした。あんなにはしゃいでいる繭良さんを見るのは初めてですよ。榊宮司は口数は少ない人ですけど気難しい方で、繭良さんもご苦労なさってると思います。私もつききりでいてあげられるわけではありませんし……。奥様が生きていらっしゃったらまだ違ったかもしれませんが」
「奥様が?」
葉魚絵は慎重に言葉を発した。
「ええ。奥様が亡くなられてちょうど一年あとに繭良さんがいらしたんです。奥様がいらっしゃったら、繭良さんもあれほど厳しいお稽古を受けなくても。それに繭良さんも奥様同様、神楽舞いがおできになることなど隠しておけば良かったのかもしれません。もしかしたら舞うつもりではなかったのかも……。ほんのはずみで、榊宮司は繭良さんの舞をご覧になってしまったんです。それからです。宮司が繭良さんに稽古をつけるようになったのは」
 さっきのは神楽舞なんだ、と葉魚絵は繭良の歌声を思い出した。
「たいへん厳しいお稽古のようで、私がたまたま遅くまでこちらにいた時なんか稽古場からよく繭良さんの泣いている声が聞こえて来ました。でもお稽古が終わってからのようで、榊宮司はそんなこと知らないんじゃないかしら」
「それ、ずっと四年も?」
「大きなお祭りは九月ですから、四月のオシラ遊びの儀式から少ししてから九月にかけてのことなんですけどね。なんだか痛々しくてたまらなくて、一度宮司に抗議したんです。そしたら宮司は……」
 ぶるっと市原が身震いした。
「そしたら……?」
「笑ったんです」
「え?」
「笑ったんです。何も言わず、にやっと……」
 離れのガラリ戸の開く音に続き、繭良の足袋の音が聞こえてきた。、今度は慎重な、サラサラと歩く音だった。


 福田タカオは葉魚絵の二十三歳の誕生日に、彼女に結婚を申し込むつもりでいた。
 先程。タカオは寮の門まで葉魚絵を送り届け、軽くキスをして別れた。葉魚絵の首には彼が街で買って来た小さな球型の鳥籠の形をした金のバスケットの中にもっと小さなまるい水晶の珠(たま)が入っているペンダントがかけられ、葉魚絵が喜んで飛び跳ねるとバスケットの中で水晶の珠がころころと転がった。夜の闇の中、寮の薄明るい門柱の黄色い光に金色のバスケットと水晶の珠が輝いていた。 パールオレンジの口紅を引き、アイボリー色のワンピース姿の葉魚絵は可愛らしかった。その胸元で水晶珠を揺らして葉魚絵は嬉しそうに笑っていた。腕輪や指輪では作業の邪魔になると思ってペンダントにしたタカオだったが、本当は指輪を贈りたかった。けれど……。

『いやです! 自分は、そんなこと……絶対イヤです!』

 タカオはそのまま家には戻らず、里のはずれの丘へと車を走らせた。丘というよりは小さな山の斜面のそこは、盆地になっている里のほぼ全域を見渡すことができる。丘は里に向かってはわりとひらけていたが、背後はうっそうとした木々に覆われていた。
 タカオは丘のふもと付近の道に軽トラをとめると、大股で斜面を少し昇って短い草の生えた地面にどさりと大の字になった。群青の空には星々がまたたいている。虫の声が、さやさやと斜面を渡る風と一緒に歌っている。
 その日、タカオは葉魚絵にプロポーズすることはできなかった。昨晩の会議のせいだ。半泣きでまるで小さな子供のようにだだを捏ねるタカオを、誰も叱りつけはしなかった。皆、沈痛な面持ちで下を向いていた。若い仲間たちばかりではない。世話役までもが哀れむ視線で叫ぶタカオを見つめていた。しかしタカオもいつまでも抗議するわけにはいかず黙り込んだ。結局その問題は宙ぶらりんなまま、先送りとなった。

染色学校の生徒たちを親元にかえす……。
里を震撼させている問題から生徒たちを守るために。この里で何が起こるのか、誰も予測はつかない。彼らは里の人間ではない。巻き込んではいけない。
 「蚕殺し」に関する情報は里の人々によって巧妙に生徒たちから遠ざけられていた。すべてが終わって、またふたたび葉魚絵に会える保証はない。しかしタカオは葉魚絵が愛してやまないこの里が壊滅する様子など見せたくない。
壊滅? 嘘だろう? タカオは忌ま忌ましげに傍らの草をちぎっては投げ、ちぎっては放り投げていた。
―もうすぐ祭りだっていうのに
 タカオの乱暴に反撃したのか、千切られていたばかりの草がタカオの指を切った。
「………っつうー……」
 火傷に似た痛みに思わず状態を起こしたタカオの耳に、聴き慣れない音が流れ聞こえて来た。それははじめ虫と風の音のあいだに溶け漂っていたが、しだいにゆっくりと、鋭利な刃物ですこしづつ半紙を切り裂く要領で静かな自然界の音色を割いていき、やがて独立したメロディーへと形を成していった。
 タカオはいつのまにか木々を渡る風の音だけでなく虫の声までが絶えているのに気が付いた。

 キコオオオオン キィィィ キコオオオン……。

 ひどくゆっくりだが、張りつめた音は確かに旋律を奏でている。祭りの楽の練習だろうか? いや、祭りではこんな曲はやらない。それにこれは……聴いたこともない弦の音。そして……近い!
タカオはその体勢のままあたりをぐるりと見回したが誰もいない。
 音が変化する。
ギイイイインン、ギィイイインン……

音のかなり高い琵琶、弦のテンスの張りつめたアコースティックギター、琴……。どれにも似ているようで似ていない音色の弦をはじく音。胸のあたりがザワザワと落ち着かなくなる不協和音。なぜかその音をずっと聴いていたいという欲求が、タカオのなかで徐々に高まっていった。
 やがて弦の音はより旋律らしくなっていった。
 わずかに高く、また低くゆらりとしなやかなその旋律。誘われるままタカオはすっと立上がり唇を開いた。

  そもそもこだまのらんしゃうを尋ねるに
  長者もあまたありけるその中にせんめう長者と申すは白銀の馬のぬし
  せんめい長者の一人娘に玉世の姫と申して恋うるは……

 朗々と、高らかにタカオは詠唱する。いや、唄う。弦の音は強くなり、タカオの声もさらに力を増していく

  このくにのこだまをこのむらに招いた
  招いたよ 招いたよ するりとまねいだ……

 歌い切り、タカオはしばらく無言のままその場に立ち尽くしたエンディングのフレーズが奏でられ弦の音も止んだ。
しばしの間を置いて虫の声が戻った頃、パチパチと拍手の音が背後で聞こえた。
「『こだま』の祭文(さいもん)を知ってるんだ? さすが桑奉納の血筋。祭文にもなってるその伝承は、もともと弓の弦を鳴らしながら節(ふし)をつけて伝えられてきたんだ。イイ声とセッションできて嬉しいなあ。いや、良かったよ。あんたの声」
 本当に感心しているのかわからない、おどけた男の声。タカオがゆっくりと振り返ると、鬱蒼と茂る木々を背に人影があった。丘の頂上に立つ姿は大きく見えたが、細身のその躰は葉魚絵と同じ位の身長だろうか。が、骨格から声の主らしき男とわかった。月明りで逆光になった全身の輪郭がだんだんはっきりと見えてくる。年の頃はタカオと同じ位か。雲に見えかくれする月の明りと星明かりの下ではその顔立ちはよくわからない。
 黒いTシャツにブラックジーンズ。ベルトの大きな銀色のバックルには何かが彫られている。やや長めで艶やかな黒髪は一本一本がかなり細いのか、僅かな風にも揺れてなびく。そいだような頬とその躰。肩にかけられた色とりどりの紐で編んだストラップには、タカオが見たこともない楽器が吊されていた。
 それはバンジョーと三味線をあわせた感じ民族的な弦楽器で、弦を調節する楽器の頭部にあたる部分がやたらと大きく、キューッと鎌首をもたげた蛇か……馬の頭らしき形をしている。よく目をこらして見ると蛇ではなく大きく馬の頭部が彫刻されていた。
「里の人間じゃないな」
 里の人間ではない染色学校の男子生徒は二人しかいない。眼前の男はそのどちらでもなかった。
「どうして俺を知っている? お前、誰だ?」 タカオはやたらと乾く唇を舌で湿らせた。
「俺か? うーん、誰っていわれてもねえ?」
飄々として妙に馴々しい口調に、タカオは八つ当たりに近い殴りかかりたい衝動を必死に押さえた。
「俺は……。あんたたちを助けに来たんだよ」
 雲が切れ、青白い月明りが男の顔を照らし出した。彫りの深い顔のなかでぎょろりとした丸く大きな目が、楽しげにきらきらと光っていた。
「助けに来た? だと?」
警戒心むき出しのタカオに男は答えた。
「そ。呼ばれてさあ。今度の『お座敷』は厄介そうだってのに俺ひとりなんだぜぇ? 酷いなあ。あれ?」
男は大きな目の長い睫をばちばちとまばたかせ、さらに目を見開いた。「気配」は男の様子を通じてか、タカオにも感じられた。
さらなる音。風に乗る、様々な切れ切れの音の群れ。彼らの眼下にいくつもの小さな灯りが列をなして進んで行くのが見えた。
「行くか」
ニヤリと笑う男に険しい表情でタカオは頷いた。


 犬が不意に何かを感じとってひゅっと頭を上げ動作で綾女は天井の隅の辺りへざっと視線を移動させた。しかしそれに目を止める者は誰もいない。綾女のルームメイトは先週、実家へ帰ってしまった。もしかしたら同室が綾女でなかったらもっと長く、彼女はその部屋に居たかもしれない。
 染色学校に入学した者全員が、課程を終了するまでそこにいるとは限らない。考えていたよりもずっと骨の折れる厳しい作業、のどかだが退屈な里の暮らしに愛想を尽かしさっさと都会へ帰ってしまう生徒も少なくはない。
 入学当初から綾女もそんな生徒の一人になるだろうと噂されていた。無口で無愛想。紅く染められた毛先のはねた短い髪。近寄りがたく、どう見ても真面目そうには見えない。が、意外にも彼女は勉強を続けていた。しかし彼女の熱心さに気付いているのは染色学校で一番厳しいといわれる講師の富樫(とがし)と生徒で先輩である葉魚絵だけだったが。
 綾女はやや目尻が吊り上がってはいるが形の良い目を閉じて、耳を澄ませた。
―まだ、聞こえる気がする……。
 それは超高音のキイインという金属的な音を含んだ「何か」の音だった。やがてそれは低くなり途絶えたが、また違った音の配列が絶え間なく聴こえてきていた。
―何だろう?
 痩せた胸のあたりがザワザワとする。綾女はこの新たな音とは違う音程といえど「同種の音」に、かつて一度だけ遭遇したことがあった。
―まさか?
 それは彼女にとって、忌むべき「音」だった。宿敵ともいえる「音」。しかし綾女はその「音」を奏でた道具を携えてこの里にやってきた。
 カタカタカタ……
 びくりと綾女は文机に立て掛けた四十センチほどのアルミ製で細身の銀色の筒を見遣った。それは微かに揺れて机の角に自身を打ちつけていた。筒は震えながらもなぜか畳の上には倒れない。
 どくりどくりと心臓が鳴る。それはしだいに加速していく。
 どくり、どくり、どう、どう、どっ、どっ、どくん、どくん、どくん、どくん……!
 重低音のビートはもはや綾女を支配していた。
―いけない。パニックになっちゃいけない。
 しかし躰のなかで脈打つビートは不快ではなく、綾女をある衝動へと駆り立てる。
 たたん、ったん、たん、たたん、ったんたん……。
 頭のなかで刻まれるタイトなリズムが彼女を突き動かす。
―ダメだ。「あれ」を出しちゃだめだ。
 それでも綾女は荷物を運んできた大きなバッグがしまってある押し入れへと視線をやってしまう。バッグの中には油紙と麻布に包まれ麻紐でぐるぐる巻きにされた「あれ」が入っている。取り出すことも忌まわしい、もう綾女しか所持することのできない、禍々しいあの「音」を吐き出す道具。それは本来は音など出せないものであるはずだった。
 文机を打つ金属の筒はだいぶ大人しくなって、徐々にもとの状態へと戻って行き、やがてぴくりとも動かなくなった。綾女が押し入れを開けないだろうと悟ったのだろうか。筒は黙り込んだ。
―「管(くだ)」が反応していた……。あれは……?
 鮮紅色に染めた短い髪に細い指を差し込み、綾女はそのまま畳の上にコテンと横になった。そのまま目玉だけ動かして筒と押し入れを交互に見た。

―綾女ちゃん、綾女ちゃん。
 幼い頃から母はずっと綾女の名を繰り返し呼んでいた記憶がある。母は呼吸するように、まばたきをするように綾女の名を呼んだ。
―綾女ちゃん、綾女ちゃん。
 それは彼女が中学生になっても高校に進学しても続いた。仕事で忙しい父をはじめ周りの大人たちは、綾女が中学生になったばかりの頃、やっと母の異常に気が付いた。
 綾女の名を呼ぶ言葉の繰り返し、そして鳴らない「綾(あや)の鼓」を打っていた彼女の習慣は、その時まで続いていたのだ。綾女の母はそれまで殆ど毎晩綾女と添い寝を続けた。綾女は黙ってそれを受け入れていたが特に望みもしなかったので、中学に入り父が母を夜は綾女の寝室に彼女を入れないようにしても綾女は全く寂しさを感じなかった。
 母は父の寝室にいる間、ずっと綾女ちゃん、綾女ちゃんと呟いて鳴らない飾り物の鼓を打っていた。それをなんとか父がなだめ、母を眠りにつかせていたのだ。今まで学校行事などで綾女が家を空けていた時のように。そうしているうちに母は少しづつ綾女の成長を認め、子離れしつつあるようにみえた。
 しかし綾女が高校に進み半年程経った時、事件は起こった。父が遠方への出張で家を空けた晩、母は父の書斎の引き出しから綾女の寝室の鍵を盗み出し綾女の寝室に侵入した。
 すでに眠りについていた綾女は、最初ベッドの足元近くに立っているのが母だとは思わなかった。いつもより濃く化粧を施し、長い髪を下ろした母は美しかった。しかしその双眸はらんらんと輝き常軌を逸していた。母は最近、父が知り合いの精神科医に手を回して分けてもらった薬の服用のせいか、一日の殆どを父の寝室で眠って過ごしていた。同じ家に住みながら、母に会うのは久し振りだった。
「綾女ちゃん、聴いて。鼓が鳴るの。あなたの鼓よ。もうあなたに渡せるのよ。あなたが生まれてからこの鼓はあなたのもの。鼓が鳴るのよ。あああ、あなたもようやっと私と同じ。鼓が鳴るようになったのね。
 眠い目をこすりながら、綾女は「ママ?」と呼び掛けた。
「嬉しいわ。嬉しいわ。綾女ちゃん。あなたの鼓、鳴るようになったわ。綾女ちゃん、綾女ちゃん、あなた『おとな』になったのね」
 綾女のか細く小さな躰がベッドの上でびくん! と大きく震えた。そしてそれをきっかけに綾女の躰はガタガタと震え出した。
「綾女ちゃん、聴いて! 聴いて! ふふふふ。鳴るの! ほら!」
 母が少女趣味なサーモンピンクのネグリジェの袖のフリルの影から、後ろ手に隠していた鼓……絹糸を張り巡らせた「綾」の鼓を取り出して肩に掲げた。本来は飾りでしかない「それ」を。
そして母の手が鼓へとゆっくり運ばれた。

 ぽおんん。ぽ、ぽおんんん、ぽおん、ぽん、ぽおおんん………。

 軽く可愛らしく、けれどこの世とは思えない音。けれど音はそれだけではなかった。

 ッキイインンン!!!!

 綾女は耳を塞いだ。強烈な、超音波に近い高音が耳を、脳を刺す。
「ママ! やめて! ママ!」
 綾女は泣き、叫び続けた。その日の放課後、上級生の男子に無理やり処女を奪われた時には一滴の涙も流さずひとことの言葉も発しなかったのに……。
 男に抵抗したためについた全身の擦り傷や打撲の跡が、パジャマの下でずきずきと痛む。無言のまま抵抗するたび、殴られて切れてしまった唇の端がピリピリとする。限界だった。
 鼓の音と超高音から逃れるために、綾女は泣き叫びながらベッドを飛び降り、居間へと向かった。母は追ってこない。くすくすと笑いながら鼓を打ち続ける。
 転がるように階段を駆け降り居間に飛び込み、綾女は電話の受話器を取り母の実家の番号をプッシュした。何十コールかののち、意外にもしっかりとした祖母の声が受話器の向こうから聞こえて来た。
「ママが! ママが!」
「落ち着きなさい。おばあちゃんもわかった。すぐに宗一郎に車を出させるから。あと十分待ちなさい。」
 祖母の声は落ち着いていた。
 鼓と超高音は、まだかすかに綾女の寝室から聞こえてくる。軽い鼓の音色と超高音はわずかではあっても耳を刺し頭痛を呼ぶ。
 十分という時間は果てしなく長かった。綾女は居間のソファーの陰に隠れ耳を塞ぎ、縮こまって震えていた。

きっかり十分後、隣町に住む伯父の宗一郎と祖母の音女(おとめ)が綾女の家へ到着した。
 ドアを開けて入って来た時は深夜に起こされ甚だ迷惑そうな仏頂面をしていた宗一郎だったが、目を赤く泣き腫らし口元が切れて紫色になっている綾女を見て、飛び上らんばかりに驚き「どうしたんだ!」と泣きながら胸元に飛び込んできた綾女を優しく抱きしめた。
 祖母が宗一郎の広い背中からのそりと姿を現した。小さな綾女よりもっと小柄な音女はいつもその体躯より大きく見える。
「綾女、かわいそうに」
「おばあちゃん、鼓、『綾の鼓』が鳴ったの。ママが鼓を打ったの。鳴ったの。鼓が」
宗一郎の腹のあたりに小さな顔を埋めたまま、綾女はくぐもった声で訴えた。
「馬鹿な。そんな!」
 宗一郎の声を遮り音女が片手を伸ばして綾女の柔らかい真っ黒な長い髪を撫ぜ、ゆっくりと言葉をかけた。
「わかっている。かわいそうなことをした。綾女、おばあちゃんが悪かった。美音子(みねこ)に鼓だけ渡したのはおばあちゃんだ。悪かったよ」
 鼓も超高音も音女たちの到着から止んでいた。音女は綾女を居間のソファーに横たわらせタオルケットをかけてやると宗一郎に救急車を呼ぶように命じ、通報を終えた宗一郎は美音子のいる綾女の寝室へと階段を昇っていった。
「綾女、これをあなたに渡すよ。これはもうあなたのものだ」
 祖母はそういうとカシミヤのカーディガンの袖でくるんで抱えていた、銀色の四十センチほどの筒を綾女に手渡した。筒は古いものだが、よく磨かれていた。筒には肩に背負うためか、赤と黒の組み紐で編まれたストラップがついている。綾女はよく見えない目でぼうっとそれを見つめ、これは? と問うた。
「それは『くだ』だ」
「『くだ』?」
「高橋の家は『くだ』とともに暮らし、『くだ』を守り『くだ』に守られてきた。これを守るんだよ、綾女。これからは『くだ』があなたを守ってくれるよ」
 救急車の音が近付いてきた。
「これをあなたのお母さんに渡さなかったのは、あの子にはこれを正しく使うことができないと思ったからだよ。けれど、鼓だけはあの子がどうしても手放さなかった。でも鼓だけを渡してはいけなかったんだ」
「おばあちゃん……」
「美音子はあの男を愛していた。いや、お前のお父さんをほんとうに好きだった。美音子は恋に狂った。あの子のすべてを包みこんでくれる男性にめぐり会えたのに、あの子も彼を愛したと思ったのに。それでも美音子は諦めないかもしれないと私は思っていた。案の定、あの子はあの男を呼び戻すつもりだったらしいよ。『くだ』を使ってね。だから私は渡さなかったんだ。無理な事だからだよ」
 綾女は自分が父の本当の娘でないことはとうの昔に知っていた。父は優しかった。綾女にとっての父親は母の現在の夫をおいて他に居なかった。そして綾女は「血の繋がった父親」が、彼女の生後すぐに自殺していたことも知っていた。

 暴れる美音子は救急車には乗ろうとしなかった。救急車はこういった場合、無理に患者を乗せることはできない。
「まず警察を呼んで下さい」と、救急隊員は素っ気なく言った。救急車はさっさと帰ってしまい、しばらくののち、宗一郎が呼んだパトカーがやってきた。宗一郎は警察官と一緒に美音子をパトカーへ押し込み病院へと向かっていった。病院はどこもベッドの満床を理由に受入れを拒否した。やっと見つけた小さな救急診療所の医者に美音子に鎮静剤を打ってもらい、無理を言って一晩彼女を預かってもらうことになった。美音子は翌朝、大きな精神病院へ移送されることに決まった。

 出張から戻った綾女の父は事件に驚き、なぜ連絡をくれなかったのかと言いかけて言葉を呑みこんだ。自分の居た場所までの距離、彼らに余裕のなかったことに気付いたのだから。
 綾女の傷は母の美音子による虐待の所為だと勘違いされ、綾女は必死に抗議したが、では何による負傷かと聞かれるとぐっと黙るよりほかはなかった。
 綾女の父だけが、綾女の主張を信じたが、だからといってどうなるということはなかった。父は冷たい訳ではなかった。父の苦悩を考えれば容易に理解できた。事実、「父」は血のつながらない娘を可愛くないわけでは、断じてなかった。
 翌日から綾女は高熱を出し、激しい嘔吐と頭痛に悩まされた。
 祖母は泊まり込みで世話をしてくれたが、綾女の容体は一向に良くはならなかった。

 熱にうなされながら綾女は自分を力ずくで自分の思い通りにした上級生を憎んだ。自分に向けられた容赦ない欲望がおそろしかった。本当の事を皆に言ったら、と考えると涙がこぼれた。本当の事など言えない。沈黙を守るのは正しい事ではないということもわかっていた。しかし自分がこれ以上傷つくことより周囲の悲しみが今以上深くなるほうが、彼女にはつらく思われた。
 綾女は吐いては泣き続けた。周囲はそんな彼女を心配したが、それは気狂いの母を持ってしまった少女に対しての情であり、凌辱に対してではなかった。
 綾女の未熟な躰は優しさのカケラもない暴虐のために傷つき、裂傷による痛みは弱った躰ではなかなか回復させることはできなかった。痛くてもいつかは治る傷ならばまだいい。しかし心が負った傷が完全に癒えるという保障はどこにもないのだ。かぼそい声で綾女は何度も「たすけて」と呟き続けた。
―たすけてたすけてたすけて……。
 最悪の日々のある時、熱でぐちゃぐちゃに歪んだ綾女の視界の向こうに部屋の隅に置かれた銀色の筒が目にはいった。
 それは微かに震えていた。獲物を見つけて攻撃態勢をとる、頭を低くして尻尾をパタパタと振る猫の如く。何かを期待する躍動が、それからは感じられる。
 はっきりとした人間の言葉や声が聞こえたのではない。けれども綾女には微かな意思が、こそこそと密かに囁くメッセージが自分に送られてきている、そんな気がした。気のせいだ気のせいだと思おうとすればするほど、綾女の視線はどうしても筒に目が行ってしまう。メッセージは伝える。綾女に。

―『て」がいるのか「て」がいるのか
―おれたちがはしろうか
―おれたちが「て」になろうか
―おれたちがはしるおまえさまのために

 「て」とは何か?「はしって」どうしようというのだろう?綾女は恐れていた。祖母は母が『くだ』を間違って使おうとしていたと言っていたが、それは無理な事だったとはいえ本来の使い方をしようとしなかったという意味ではないだろうか? 綾女はそれとなく感じていた『くだ』の使い方が、だんだんと正しいものであると確信されるにつれ、必死で自分の身の上に起こったことや沸き上がる憎悪の念から逃れようとした。しかし逃れることなどできない。新しい主にむけて『くだ』は語り続ける。

―おれたちがはしるはしっておまえさまのてになる
―めいじてくれおれたちにめいじてくれ

―退屈だろうけど、それだけは駄目だって。もう黙って。
 必死に綾女は心の中で訴えかけた。彼らを使いたくはなかった。彼らが「走れば」、彼女は正式な継承者であることを認めた事になる。

―おれたちがはしるおれたちがはしるおまえさまはなにもしないでいい

 母が家から連れ出されて一週間。『くだ』の語りかけが三日目に入ったときだった。
 苦しさに何度も寝返りを打つ綾女の枕元で、彼女の携帯電話が鳴った。祖母もつききりでいられるわけではない。彼女を心配する父は日に二回、会社から電話を入れていた。ただし眠っている彼女を起こしてしまってはという配慮から携帯はバイブレーターコールに設定されていて、かならず応答しなければならないということもなかった。また、携帯は緊急連絡用でもある。
 綾女はいつもと同じく電話には出ず、すこし調子が楽になったところで吹き込まれた留守番電話を聞こうとして「あれ」と思った。着信番号を通知するディスプレイにはクラスメイトの番号が表示されている。彼女は留守番電話をスタートさせた。
『綾女。一週間も休んでいるけど大丈夫?』
クラスでただ一人、綾女をファーストネームで呼ぶ玉(たま)枝(え)の声だ。今にも泣きそうな声をしている。自称綾女の親友である彼女を時折うとましく感じることもあった綾女だったが、今は少しばかり救われた気持ちになって玉枝に感謝した。が、それも束の間だった。
『ごめんね。玉枝、知ってたの。佐久に相談されて、佐久、どうしてもあなたと付き合いたいって言ってたから。玉枝は佐久と一緒に……』
 ピーっと音がして留守番電話の制限時間が切れた。
 綾女はよろよろとベッドから上体を起こした。玉枝は入学当初から、何かと綾女にまとわりついて相談といっては自分の交際相手との愚痴ばかりをぶつけていた。綾女を連れて一緒に美術部に入部した彼女はその美貌から頼まれてモデル役を引き受けることもあり、また気さくな話し方から、高嶺の花という存在ではないが男子学生の人気を集めていた。美術部の三年の佐久と玉枝は最近妙に仲が良く、綾女は玉枝が佐久と付き合いはじめたのだと思い、これで玉枝の愚痴と佐久のしつこいアプローチから逃れられると胸をなで下ろした。確かに佐久のストーカー的とも言える攻撃は止んだものの、玉枝の愚痴は相変わらずだった。綾女の見る限り玉枝はあれだけ男子に人気があるのになぜ、彼女が恋人に執着し、またすぐに自分をうらやむのか綾女にはわからなかった。しかし自分の他に女友達がいるように見えない玉枝の息抜き場としての存在に彼女は甘んじていた。

『玉枝は知ってたの……』

 玉枝は佐久と共謀していたのだ。綾女が放課後、校舎のいちばん端にある美術室にひとりで行ったのは、その日は塾だからという玉枝に頼まれて彼女の忘れ物を取りに行ったからだ。
 佐久ももうあなたのことなんか忘れていて、もう大丈夫だと太鼓判を押してくれたのは玉枝だった。付属の大学に進む予定の佐久が、急に受験する気になった。だから最近は部活にあまり出ないんだ。そんな状況だから綾女のことなんかもう話さないよ、と言ってくれたのも……。確かに綾女は不用心だったかもしれない。しかし、綾女は玉枝の情報を信じた。だから綾女は佐久がひとりで暗い美術室の奥に居ても、きちんと閉めた扉を開けようとしなかった。美術室の入り口のすぐ横にあった玉枝の忘れ物を取ろうとした瞬間、油断していた。綾女がつい、佐久に背中を向けてしまったその時……。

ベッドの上で綾女は掠れる声で絶叫した。長く長く泣き叫んだ。

―ふたりだ
―ふたり

びゅん! と波動が弾んだ。

―はしるぞ
―はしるぞ
―はしるぞ
―いくぞ!!!

 銀色の筒が一回、垂直に跳ねた。着地した筒の上方にある蓋がぱん! と跳ね上がった。綾女は見た。幾十、幾百もの小さなふわふわした白い毛皮の長細いものが筒から飛び出しひゅんひゅん飛んでいくのを。
もう、遅い。
「ああ、ああ、あ……」
 綾女は意識を失った。

 翌日、綾女の熱は嘘のように下がりその三日後、綾女は登校した。
 教室の前に来ると、綾女の姿を見つけたクラスメイトの女生徒たちは一瞬ぎくりとした表情を浮かべ、ややあってから「おはよう」と、ぎこちない声であいさつの言葉を発した。彼女たちのそんなリアクションには構わずに「おはよう」と返して入った教室の玉枝の席には、花瓶に活けられた白い花が飾られていた。
あちこちで小さく群れた生徒たちの囁きからすべてを知るのにさほど時間はかからなかった。くりかえしくりかえし、内容はあちこちで語られていたからだ。
 玉枝は四日前の晩から失踪し、三日前に河原で無残な遺体となって発見された。制服はズタズタに切り裂かれ顔は獣の爪と見まごう細身の鋭利な刃物で縦横無尽に切り付けられた跡が残っていて、性器は刀剣状の凶器で何度も深々と突かれた傷があった。
 綾女を自分の女にしたと得意げに吹聴していた佐久は四日前の深夜、ガードレールに顔が「食いこんだ」格好で死んでいた。傍らにはめちゃくちゃになった彼のオートバイが転がっていたが、その外傷は列車に轢かれてから車にはねられた上におそろしい力で顔をガードレールのふちに叩きつけられた位凄まじいもので、揚げ句にほとんどの髪の毛をむしりとられていた。そして、あちこちが千切れてほころびた躰にはりついた皮膚には、死んだ玉枝の顔にあったのと同じ鋭利な刃の傷がいくつも刻まれていた。何よりも不可解なのは彼が「走行中」に被っていたとおぼしきフルフェイスのヘルメットが彼が顔をめりこませていたガードレールの下で、何者かにすぽんと脱がされ無傷で発見されたことだった。
 惨事に遭うまでの二人の足取りだが、玉枝は四日前の夜に佐久の家から帰途につくところで途切れている。佐久は同じく四日前の深夜に自宅前からバイクに乗るところを目撃されていた。玉枝は学校から帰宅ののち友達の家に行くと母親に告げて家を出ている。佐久の父親は単身赴任中で、その日母親は父の赴任先へ行って留守だった。佐久に兄弟はいない。二人はそれぞれ通行人に目撃されたのを最後に同日、やや時間差をおいて殺害されていた。
 すぐさま隣町の大学に通っている玉枝の恋人が参考人として警察の取り調べを受けたが彼の無実はほどなくして証明された。
 玉枝の死は変質者による通り魔事件、そしてかなり不可解な状況にも関わらず佐久は轢き逃げ事件として捜査されたが、結局犯人は突き止められなかった。

高校の生徒たちは誰も玉枝と佐久の死を悼まなかったが、死体の第一発見者はどちらも綾女の高校の生徒であり彼らの変死体の惨状についてはさまざまな憶測がなされたが、どれも悪意ある妄想に満ちたものだった。
 誰も綾女に近づこうとはせず、遠巻きに彼女をちらちらと眺めるにとどまった。皆、彼女を慰めたいというより彼女のコメントを聞きたがっていたのだが、綾女を取り囲む何かおそろしいほどの迫力を感じさせる「空気」がそれを阻み、ただのひとりも彼女に近寄らせなかった。
 「親友」を殺され「恋人」を殺され、しかも「親友」に「恋人」を寝取られた……。なのに「大人しい」高橋綾女は能面のように表情を変えず、やせてこけた頬をぴくりともさせずに授業を受けている。生徒たちは同情や好奇心よりも次第に彼女に「畏れ」の念を抱いていった。
―もう、ここにはいられない。綾女がいるとみんなが息を詰める。苦しそうだもの。ここにはいちゃいけないんだ。

―わたしは「『くだ』使い」になってしまった……。


 畳に寝そべったまま綾女は閉じていたまぶたを開いた。
 母親との面会は彼女には許されなかった。綾女の手元に残された『綾の鼓』。皮革のかわりに張られた幾重もの絹の糸。それが白里産のものだと知った綾女はこの土地にやってきた。
 はあっ、と息を吐き、綾女はまた新たな「気配」が動くのを感じた。『くだ』はおとなしくしているが、それは「気配」を感じないのではなく、興味がないといった沈黙に思えた。どうして今夜はこう、次から次へと……。
―毒を食らわば皿まで、なのかな。こんな晩って。
 「この世ならぬ音」と「新たな気配」は寮の近くから伝わってきた。綾女は部屋の窓を開けた。


 稽古の疲れで布団の上にぐったりと俯していた繭良の頭が反射的にぴくりと動いた。続いてのろのろと髪をほつれさせつつ頭を上げる。
 舞の「稽古」で渦巻く「気」に苛まれた繭良の躰には、紅梅の花びらを散らしたような痣がいくつも浮かび上がっている。装束を脱ぎ、キャミソールワンピース姿になっているため露な肌には痛々しいその跡がはっきりと見てとれた。
―弦の音?
 耳を澄まし目を閉じ、彼女はわずかに顎を上げた。
―ああ、これは……馬頭月琴の音! それから……?
 聴き慣れない波動が混ざっている。懐かしい特徴のある「音」という形に近い波動に添って染みこむ、例えるなら水に落とした墨汁が広がっていく波に繭良の寄せられていた眉はほぐれていく。
 波はゆるやかに高くなり低くなり、目を閉じたままの繭良の顔は甘える猫のそれへと変わっていった。
―気持ちいい……。
 躰の痛みが癒えてゆく。やがて引いていった波が去った後も、彼女はまだその余韻の中にいた。
 我に返った繭良は部屋の片隅に置かれた繻子張りの「箱」をとり布団の上でそれを開けた。
 箱の中には臙脂のビロードのクッションの中に小さな黒い箱と三つに分かれた管の楽器が納められていた。
 躰に似合わず大きめの手の細長い指を伸ばして、繭良は箱から漆状のもので黒く塗られた楽器のパーツを取り上げ、組み立てる。組み立てられた管楽器は70センチほどで、黒塗りの全身には銀色の縁で囲まれた丸い穴が縦にいくつも穿たれている。下部の手が届かず指では押さえられない穴には上部の穴と連動する銀色の金属のパーツが付いていた。黒の塗料の上には、銀色を帯びた白と金で唐草模様のアラベスク調の花と蔦の柄が描かれていた。
 楽器を組み立てると繭良はビロードクッションの中から小さな黒い革製の箱を出しぱかりと開けると、葦のダブルリードを一本出し、リード部分と柄を繋ぐ所にぐるぐると巻かれた赤い糸の上を軽くつまんで先を傍らの小さなテーブルに置いてあった湯呑みに差した。湯呑みには呑みさしの煎茶が入っている。そして葦が少しやわらかくなるのを待って、リードを楽器の頭に差し込んだ。
 その管楽器はオーケストラで使われるオーボエに似ていたがそれよりもやや太く、リードの形も先がやや幅広い形状をしていた。 繭良は楽器を携えたまますっと立ち上がると、部屋の大きな掃き出し窓を開けた。夏の夜の生暖かい風にカーテンがそよと揺れる。
 一呼吸置くと、繭良はリードの先を口に含み、やわらかさを確かめるように舌でリードを湿らせると、管の中に息を吹き込んだ。
世界で最も難しいと言われるオーボエは命を縮めるといわれるグラスハープと並び、オーボエは奏者の人生に多大な影響を与えるとも噂されてきた。関わる者がほとんど例外なく自己をつきつけられてしまうという伝説の真偽のほどは定かでないが、その音の美しさ、奇妙さに苦しめられ、しかし魅了され離れられなくなる奏者は少なくない。
 まるで神経質なワニが泣いているような音だと揶揄する者がかつていたがそれも頷ける。語弊を覚悟で語ればオーボエの音は美しいが、それは奇形的な美しさだ。かなり大袈裟な表現ではあるが、いにしえから奇形は「神」とされる風習があった。およそ人智からかけはなれた美しさや力をもつモノに、人は「神」を感じる。オーボエ奏者の中には演奏時に「神がかり」的に人相まで変わってしまう者も多い。
 そんなオーボエの音は? と首を傾げるのであれば、チャイコフスキーのバレエ曲『白鳥の湖』を思い出してほしい。冒頭で流れる有名なソロのメロディーがオーボエの音である。トルコにもオーボエと似た楽器があるが、こちらはさらにオリエンタルな響きがある。
 繭良が奏でる管の楽器は、オーボエの音に雅楽で使われる「篳篥(ひちりき)」を混ぜた音色をしていた。
繭良の管の音はゆるやかにそよそよと山から吹く風の間を縫い、蛇のようにくねくねと踊る。不協和音により奏でられる、奇妙な曲。東洋的であるが西洋的な機械のキレのある調べは発芽する植物を思わせた。


 「気配」につられて綾女は外に出た。山に囲まれているにも関わらず、くぼんだ土地に位置する白里の夏の夜はむっとする暑さが続いていた。絡みつくもったりとした空気を掻き分け道に出ると、今度は今まで曖昧に耳がキャッチしていた「音」がハッキリと「新たな音」とともに聴こえてきた。
―今度は何?
 音が歌う曲はしっかりとしたメロディーがあった。しかしその音は綾女がかつて耳にしたことがない種類だった。
―民族楽器かな? ちょっと雅楽器みたい。
この音はさっき『くだ』を喜ばせた音に似ている。そして「綾」の鼓の音にも……。しかし頭を刺してくる音ではない。この音には「攻撃」の意思がないのだ。と、綾女は何故かそう思った。
―この音は「武器」じゃない。攻撃とか、なにか事を起こさせるための合図のためでもない。でもただの「音」じゃない。これは……この音は「人間のことば」じゃない。
 すでに真夜中という時刻の道には誰も通っていなかった。電柱にくくりつけられた弱々しい明りでは心許無く、綾女はカーキ色のアーミーパンツの上から懐中電灯替わりの携帯マグライトがポケットにちゃんと収まっているかどうかを確かめた。たったひとりで暗い夜道を歩くのは少しばかりためらわれたが、彼女の肩には赤と黒の組み紐で織られたストラップで銀色の筒が掛けられている。
 また腰には愛用の小さめのボンゴが吊られていた。小さい頃、母の美音子が打つ『綾の鼓』を羨ましく思った綾女が唯一、父にねだって楽器店で買ってもらったものだ。パーカッションを習ったことはないが、綾女はボンゴを叩くのが好きだった。何故そのボンゴを持って外に出たのかは綾女にもわからない。幼い子供が夜中にひとりでトイレに行くのが怖くてクマのぬいぐるみを抱えて部屋を出るのと同じようなものなのかもしれない。
 両脇に桑畑の広がる舗装されていない道を歩いていくと「気配」はどんどん強くなっていた。それにともなって、なにか大勢の話し声が聞こえる。しかし前方にそれらしき集団はいない。月明りのみの道の向こうに、いくつもの小さい提灯の灯りらしきものがみえる。しかしそれはかなり下の、幼児の背丈よりも低い位置でささげられた灯りだった。それは行列であり少し傾斜した道を登っていく。近づくにつれ、わしゃわしゃとした話し声がはっきりとしてきた。が、何を言っているのかわからない。声高ではないというのではない。明らかにそれは人間の言葉ではなかった。行列の最後尾に綾女は追いついた。
 綾女は目を見張った。その行列の異形さに。
 行列は綾女にはまったく関心がないように、楽しげに行進を続けていた。
 綾女のくるぶしより少し大きなものから、大きくても膝あたりまで。大きさにしてそれぐらいの「モノたち」が、手に小さな提灯や、提灯を吊った長いのぼりを持ってわしゃわしゃとさざめきながら歩いている。ハムスターそっくりのモノが二足歩行にきらきらとした織りの着物を着て小さな手にもっと小さな鉦や鈴を持って打ち鳴らしながら歩き、うすぼんやりと黄色い明りを放つ木づくりの車輪だけが一個、ごろごろころころと転がる。綾女の膝下くらいの細長い白いモノは一本足でまん丸い赤い目を光らせぴょんぴょんと跳んで提灯を揺らす。紫の炎に包まれた婚礼装束の狐か猫かわからない小さいサイズの獣はしずしずと歩き、前後には茶褐色のイタチに似たモノが「花嫁」の付添いか、草花で飾った提灯を掲げている。そのほかこの世にまず存在しないであろう「いきもの」達が「ちゃんちきちゃんちき」という表現が似合う古い祭りか宴会のリズムを鳴らしては楽しげに長く行列をなして行進していく。彼らの進む先は、風に紛れて流れ来る木管の音のする方だった。
 管の音は同じフレーズが繰り返されたかと思うとするりと別の節に変わる、とりとめがないようできちんと形になっているような曲。不協和音の音色を聴くうち、綾女はなにか引っ掛かるものを感じた。先刻からうすうすとは思っていたことだが、頭のなかで疑問は大きく膨らんでゆく。
 それは奏者に関してだった。他人に殆どと言っていいほど関心を示さない綾女にしては珍しいことだ。管の音は艶やかで冴えてはいたが、完全にクリアーな感じがしない。綾女は仏教徒でもなければ他に何の宗教を信仰している訳でもなかったが、彼女のなかでは奏者に対して、こうぶつけてみたい疑問があった。
「もしかして、迷ってる?」と。
 奏者の迷いがとれたならもっと澄んだ音が出せるだろうに、と彼女は感じた。これがもし、本当に何の迷いもない音になったら……。
 思わず綾女は身震いした。聴いてみたい欲求はあるはずなのに「その音」を聴いてしまったら、自分がどうなるかわからないような気がしたのだ。本当に美しい音に人は時として涙する。それは感情があふれて理性のタガが外れてしまうからだ。しかし理性のタガが外れる、感情のセーブがきかないという状態は綾女にとって恐怖でしかない。綾女は走り出した。行列の先を目指して。


 「あー、他人様のうちに入ってちゃうねえ? どうする?」
 丘の下に乗り捨てた軽トラックを取りに戻ることを考えるとうんざりしたが、ここまでついてきてしまった自分が悪い。タカオはつくづく後悔していたが、ここまで来て引き返すのも癪である。
「うん。やっぱり神社は一応避けるんだな。ここ、神主の家だろ?」
 返事を待たない男はかなりマイペースな性格らしい。弦を弾く男とタカオは灯りの行列を追って、神社のあるこんもりとした森をぐるりと迂回して裏手にある榊宮司の屋敷前に来ていた。宮司の屋敷は背の高い生け垣に囲まれ、そのなかにあるさらに高い木々に覆われていた。門らしき門はなく、屋敷内も玉砂利の敷き詰められた広い敷地内のどこかに家屋があるはずだ。行列は玉砂利の上を踏んでずかずかと中へ入っていく。行列は信じられない事だが異形の輩が鉦や鈴を打ち鳴らしながら行進していた。
「何だ、これ!」
「しっ!」
 驚きの声を上げたタカオに、口元に指を立て静かにしろと男が合図する。タカオはおし黙ったが、行列は意に介さない風に、わしゃわしゃと騒がしく行進を続けていた。
「おい、何だよ、これは」
 ひそひそと男を問い詰めるタカオに、男はにまりと笑ってこそりと返した。
「ついてくだろ? どこ行くんだろうね?」
 行列は長かった。そしてのろのろと見えてかなりなスピードで行進している。
―俺は狐に化かされてんのか?
 タカオは戸惑いながらも男と一緒に行列を追った。
「百鬼夜行、か。俺も見るの初めてなんだよね。よく出るの? ここ?」
「出ねーよ!」
「ばか、静かにしろって。連中に気づかれたらどうすんだよ?」
「気づかれちゃやばいのか?」
「かもね」
「『かもね』ってお前、俺たちを助けに来たんだろ? なんかあってもこんな奴等相手に勝てないっていうのか?」
「いやー、このタイプは初めてだから」
「情けねえ。頼りないな。お前」
「そう言うなよー。あんたたちの敵にはスペシャリストなんだからさ、だいじょーぶ」
「信用できないな。それにしてもこんなに近くにいて……安全か?」
「まあまあ、こいつら多分、俺たちのことなんかどうでもいいんだよ」
「いいかげんなこと言うなよ」
「でも念には念をいれよう。やつら俺たちのことなんか見ちゃいないだろうけど、邪魔するのだけはやめとこうぜ」
 男の目がぎらりと光りタカオは口をつぐんだ。
「おじゃましまーす」と、脳天気な口調で、男が玉砂利をざくざくと踏んで敷地内へと足を踏み入れていった。
「お前なあ、緊張感とかねえの?」
「あのさあ、もう『お前』っていうのやめにしない? もう他人じゃないんだし」
「気色悪いこというな!」
「何で? 一緒にセッションしたじゃん。ヤリニゲするわけ?」
「お前……下品だな」
 長身のタカオを見上げる男はくっと首を傾けてタカオのほうへと顔を突き出し、いたずらっぽく言った。
「あ、だからやめよーぜ。『お前』っての」
「どうすんだよ?」
「俺は靭彦(ゆきひこ)。ゆ・き・ひ・こ。あんたは何て呼ばれたい?」
「タカオでいい」
 ムスっとした口調で、タカオは答えた。
「行くぞ、靭彦」
「うん。行っちゃおう。あ、」
 ざり、と玉砂利を一足踏んで靭彦が立ち止まった。
「どうした?」
「やっぱりあいつの音だ」
「音?」
「ここからならタカにも聴こえるだろ?」
 タカオは耳を澄ませた。ゆるい風の間に間に、篳篥をもっと太くした奇妙な管の音色が流れてくる。
「ああ、あいつの音だよ。うーん、甘いなあ。甘いよ、うん」
 歩き出しながら一人うん、うんと頷く靭彦にタカオは問うた。
「あれは……何の音だ」
「鰐(わに)笛(ぶえ)だよ」
「わにぶえ?」
聞き返すタカオの声には耳も貸さず、靭彦は急に早足にざくざくと歩いていった。
「おい、待てよ」
二人は玉砂利を踏みしめ、百鬼夜行の先頭を追った。モノノケたちは神社の横を避けて大きく回り込むと、宮司の屋敷の裏手へと入っていった。家の裏をまわりきったあたりで玉砂利が切れ地面は土になり、そして芝生へと変わった。裏庭に出たようだ。管の音はもうはっきりと聴こえる。行列が駆け足に庭へとなだれ込む。
冴えざえとした青白い月光が裏庭を照らしていた。男たちの目の先には離れがあり、その近くに。淡いブルーのキャミソールワンピースを着たひとりの小柄な女が、美しい紋様で彩られた縦笛の管の楽器を吹いていた。二人は立ち止まった。
 モノノケたちは嬉しそうに彼女の前に駆け寄り、わしゃわしゃした声は次第に声をあわせ合唱へと変わっていった。庭には次々にモノノケたちが集まり、皆ゆらゆらと踊りながら曲に合わせて聞き取りがたい言語で歌っている。
 タカオは眩暈がした。傍らの靭彦は腕組みをして女を見つめている。その表情に先刻までの陽気な色はなかった。
「どうすんだろうね。こんなに集めちゃってさ」
 言葉こそ軽いが口調には厳しさが混じっている。肩の馬頭の琴を降ろして構えようとした靭彦を、タカオが制した。
「よせ」
「なんで? 払っちまおうぜ」
 タカオもどうしてモノノケを追い払うのを止めたのかわからない。それよりも何故、自分は靭彦の弦が彼らを払えるとわかっていたのかという事のほうが不思議だったが、今はそんなことを考えている場合ではない。タカオは靭彦の問いかけにただ思いついたことを口に出した。
「楽しそうじゃないか」
「奴らは、ね」
 再び楽器を構え直そうとした靭彦を、今度は別の声が止めた。
「まって」
 ぎくりと二人は振り向いた。背後に人がいる気配など全くしなかったのだ。
「綾女……ちゃん?」
 声の主は、鮮紅色の短い髪に黒のタンクトップとカーキのアーミーパンツ姿の細身の少女だった。肩からはアルミ製の銀の筒を掛け、腰のベルトには小ぶりな太鼓を二つ組みにしたボンゴを吊っている。葉魚絵の後輩の高橋綾女が、そこに立っていた。
「タカオさんの言う通りにして。もう少しだけ。まって」
「綾女ちゃん、どうしたの?」
 訝しむタカオに綾女はにこりともせずに答えた。
「あれを追ってきた。あのひとだけじゃ、疲れちゃう」
 そう言うと綾女は二人の間を割ってさかさかと庭の中央へと歩いていった。
「あんた、何を!」
 靭彦は止めようとしたが、足元に無数の何か柔らかいものがまとわりついて前へ進めない。靭彦に構わずモノノケの集団の輪の一番外側あたりに腰を下ろした綾女は、膝の間にボンゴをはさむと、しなやかに手の平を太鼓へと打ちつけた。

 タン! タ、タン、タムタムタム……

 モノノケたちは一瞬、動きを止めたが、軽妙なリズムにすぐに歓喜の声をあげ、さらにリズミカルに踊りはじめた。
 そして、鰐笛の音もつられて軽く、アップテンポになっていった。

 タン、ッッタタ、タム、タムタム、タンタン、タン、ッッタタ……。

決して狭くはない芝の庭中を埋め尽くさんばかりのモノノケどもは踊り狂い、しゃんしゃんきちきちと手にした鈴や鉦を打ち鳴らし、大騒ぎしながら音楽に合わせて歌い歓喜の叫びを上げた。鰐笛の漂う調べをボンゴのリズムが捕らえ、糸の切れた凧をはっしと捕まえるかの如くしっかりと地表へと引き戻して規則的でダンサブルなリズムへと組み入れていく。あやふやな縦糸をきりりと織り込む横糸として、ボンゴは打ち鳴らされた。
 やがて曲はどんどん早くどんどん激しく、管の神経質でオリエンタルな響きはぐねぐねとうねり、ボンゴの音はタイトに刻まれていった。

 タムタムタムタム、タタタタタタッタン!

 太鼓の音がひときわ大きな音を刻んだのとほぼ同時に、鳥の鋭い鳴き声か馬のいななきのような管のトーンが吹き放たれた。
 沈黙。
異形のモノたちは満足気にしゅわしゅわとささやきながら、粒子と化して空に散り、消えながらつむじ風に巻き取られ星のまたたく天へと昇っていった。
月は雲に隠れ、明りは繭良の部屋から漏れるオレンジ色の電球の光のみになった。
 虫の声が戻った庭の隅に立ち尽くしていた二人の男のうち、先に動いたのは靭彦のほうだった。あわててタカオも後を追う。
 靭彦は細長い脚で大股に庭を横切っていくと、目を閉じてうつむきかげんに肩で息をする繭良の前で立ち止まった。
「マユラ」
 靭彦の堅い声に顔を上げた繭良の右頬を、靭彦がパン! と音をたてて張った。とっさに楽器をかばって倒れた繭良はもろに肩から芝に落ち、うっ、とうめいた。
 あっとタカオと綾女が声を上げるより早く靭彦が繭良の両肩をつかみ揺すぶった。
「馬鹿野郎! あんなに集めやがって! お前ひとりであいつらを『還せ』なかったらどうするつもりだったんだよ! ハンパな笛吹きやがって!」
「……痛あっ!」
 眉をしかめ繭良は激しく躰を半回転させて靭彦の手から逃れた。靭彦がはっとして繭良から手を離したとき、ふたたび月が雲間から顔を現した。
 楽器を抱え込むようにうずくまり丸まって痛みにこらえようかとする繭良の華奢な躰が青白い月明りに照らし出される。三人はぎょっとして、繭良の露な肩や服から大きく覗く背中に浮かび上がる紅い疵跡に釘付けになった。
「ひどい……」
 思わず口を開いたのはタカオだった。
「マユラ、お前……」
 痛みの波を越えた繭良はそろそろと顔を上げ、潤んだ瞳で靭彦を見上げた。
「ひさしぶりだね。ユキ」
「ばっ、ばか。何言ってんだよ」
繭良は痛みに顔をしかめながらも懸命に笑顔を作ろうとしていた。
「大丈夫か? すまない。この痣は……」
「わかるだろう? 君ならね」
 月の光より冷たく、低音にしてはぬくもりのカケラもない声が場を凍らせた。
 彼らからやや離れて、寝間着らしい浅葱の浴衣に濃紺の丹前を羽織った男が立っていた。削いだような頬とくぼみ気味でぎょろりとした目の風貌は靭彦にどことなく似ていたが、靭彦の人なつっこさはどこにも感じられない。細身に見えるが骨の太いしっかりとした体格は浴衣の上からもはっきりとわかる。
榊宮司だった。
 とっさにタカオは深夜の訪問を詫びようとしたが、宮司は言葉を続けた。
「ずいぶん早かったね。鎌宮(かまみや)靭彦君だろう? 繭良から話は聞いている。協議会の依頼を受けてくれてありがとう」
「仕事ですから」
 繭良のそばで立ち上がりもせず、靭彦は宮司をにらみつけている。しかし榊はそんな靭彦の物凄い形相など無視して喋り続けた。
「そちらにいるのは、福田家のタカオくんだね?」
「深夜に突然お邪魔しまして、申し訳ありません」
 タカオは丁重に詫び、頭を深々と下げた。
「いや、いいんだよ。それより靭彦君を連れてきてくれてありがとう」
「宮司、あの……」
「君が連れてきたんだ」
 榊は口元だけで笑い、タカオはぞくりとしてそれ以上言葉が出なかった。
「そちらのお嬢さんは、染色学校の生徒さんだね」
 綾女は宮司に向かって軽く会釈しただけだった。
「それは『くだぎつね』だね?」
 綾女は反射的にびくりと躰を震わせた。
「どうして? って思ったかい? 昔はね、その筒を背負ったイタコたちがよくこの神社に来たんだよ。『オシラ神』を請け(うけ)にね。もっとも僕が生まれるずっと前のことなんだが。君も『オシラ』を請けに来たのかな?」
 綾女は小さく、首を横に振った。
「そう。今日はもう遅いから送ってあげよう。染色学校の寮は雛川沿い、タカオ君の家は大きな白桑のある家だったね」
 柔らかいが有無を言わさぬ調子で宮司はその場を終いにしてしまった。

 宮司の車の中で、三人はほとんど言葉を交わさなかった。タカオは聞きたい事が山とあったが、肝心な事はうまくかわされそうな気がした。特に繭良の傷に関して詳しく聞きたかったが、あの無数の痣が宮司によるものだとは断定できない。また、綾女は染色学校の生徒だ。今夜の事から生徒たちに里の異変について漏れるのでは、とタカオは危ぶんだが、綾女は宮司にも自分にも何も問いかけない。綾女なら大丈夫だろうとタカオは自分に言い聞かせた。逆にタカオから彼女に問いたいことはあったが、聞いてはいけない気がした。
 染色学校の寮へ綾女を送り届けた後、タカオは軽トラックのある丘の下まで車を走らせてもらった。タクシーがわりにしたようで宮司に心苦しい気もしたが、この際甘えてしまうことにした。
「良かったらまた遊びにきなさい」
 どういうつもりで言ったのかはわからない。榊宮司は綾女にもそう言っていた。おやすみ、とドアを閉めて走り去る宮司の乗用車は派手ではなかったがシートの気持ち良い、内部の広い外車だった。神社というのはそんなに羽振りのいいものなのだろうか。宮司の家はもともと名家の血筋らしいが、そう何代も財産が続くものなのだろうか。あの神社がそんなに収益をあげているようには見えない。そういえば神社には宮司と繭良、そしてまかないのおばさんしかいないはずなのに、あの広い神社はいつもきちんと掃除されている。そしてあの屋敷も手入れが行き届いていた。神社は祭りなど催しの時期には応援が来るが、それ以外に人を見た記憶がない。実は人をもっと雇っていて、自分があまり神社に足を向けない不信心者だから気づかないだけかもしれない。
 里の人間がそれほど皆、信心深いとは思えないタカオには白里神社の整いぶりが不思議だったが、今夜の出来事を振り返るとそんな小さな疑問は消し飛んでしまった。軽トラックのエンジンをかけながらタカオはふと、葉魚絵は今どんな夢を見て眠っているのだろうと思った。


「早かったんだね」
 急だったので靭彦がおさまるはずの部屋の用意はまだしていなかった。靭彦の逗留先は白里神社の宮司の屋敷と決まっていたが、まさかこれほど早く到着するとは思っていなかったのだ。 母屋へ部屋を整えにいこうとした繭良を靭彦は疲れているだろうと止め、繭良の部屋に泊めてほしいと申し出た。繭良は少しの間ためらったが承諾し、靭彦のために予備の布団を敷いてやった。時刻は深夜だったがふたりとも眠れなかった。
 繭良と靭彦はともに壁に寄りかかり、呆としていた。
「本当は今日来るつもりじゃなかった。街へ寄ってから連絡するつもりだった。なんとなく、来ちゃったんだよ」
「ふうん」
「桑奉納の家の息子、いい声してるな」
「タカオさん?」
「ああ」
 靭彦はくしゃくしゃになった箱から一本、煙草を取り出し火をつけた。繭良の部屋には灰皿がない。繭良は蚊取り線香を吊る陶器の豚の置物を引き寄せて靭彦の前に差し出した。ありがとう、と靭彦は礼を述べてふうっと煙を吐き出した。
 くゆる紫煙の先を目で追いながら、繭良は自嘲気味に言った。
「染色学校の生徒さんに助けられちゃった。今度会ったらちゃんとお礼を言わないと。駄目だね、私。ハンパな笛しか吹けないや」
「悪かったよ」
「え?」
「あんな事言って」
「ううん。本当の事だから」
 長い沈黙が訪れる。象の鼻のようになった灰を蚊取り豚のなかに落とし、ギュッと煙草をもみ消すと、靭彦はそっと繭良のほどかれた髪を一束、手にとった。
「髪、染めたんだな」
「うん。茶色い髪じゃ巫女装束、似合わないし」  靭彦に触れられても動じずに繭良は返した。
「薄茶の髪、好きだったのに」
「しょうがないよ」
「マユラ、この痣も『しょうがない』って言うんじゃないだろうな?」
 ぴくりと繭良の肩がはぜる。
「あの宮司、なんでお前に『神降ろし』なんかさせてんだよ」
「ユキ……」 靭彦の手から逃れようとする繭良に靭彦はにじりよった。
「なんで……? あれは『神降ろし』の時にできた傷なんだろ?」
 耳元にかかる声に顔をそむけた繭良の顎をとらえ、靭彦は自分のほうへと向けさせた。
「なんで『神降ろし』なんかすんだよ? 相当なサディストだよな、お前んとこの宮司」
「ユキに関係ないでしょう?」
「マユラにとっちゃ関係なくても俺にはあるんだよ。こんなに傷だらけになって」
 繭良の肩口に顔を埋めた靭彦の舌が、紫に変色しかかった痣を舐め上げた。つっ、と小さく叫びを上げ繭良の顔が歪む。
「ユキ……やめて」 「やめない」
 靭彦は尚も繭良に刻まれた見落としていた引っ掻き傷や痣の上に舌を這わせる。
「ほんと、やめてよ、ユキ……! 」
「唾液には消毒作用があるんだ」
「ばか! ユキ、ちょっとやめてってば!」
 やっとのことで靭彦の腕から抜け出て這い逃げる繭良を難なく捕らえ、靭彦は布団の上に彼女を組み敷いた。
「ユキ、やめてよ」
「やだ」
 布団の上に広がる繭良の黒い髪の端が、やや持ち上がった。
「やめて」
「やだってば」
 バチッと音をたてて、繭良の手首とそれを捕らえる靭彦の手の間に青白い燐光が走った。衝撃にうっと靭彦はうめいたが、その手を離そうとはしない。
 再び、バチバチと音がして、燐光の火花は靭彦の腕を伝った。彼の腕がびくびくと痙攣する。
「ユキ、手を離して」
「……いやだ」
 靭彦の艶のあるしなやかな黒髪が、ふわりと波打った。長めの髪の端が、線香にともる火に似てあかく光る。懐かしい色調の赤い光は次第に靭彦全体から発光され、繭良をも包もうとしていた。
 繭良は赤い光に覆われた傷があたたかくなるのを感じた。無数の細かな傷や痣周辺の組織が活発に動きはじめ、自己治癒速度が急速に上がっていくのがわかる。
「こんな、好き勝手にされて……。黙ってられるかよ」
 苦しげに呟いた靭彦もまた、慰めのつもりが大して変わらないことをしようとしていることに彼はまだ気づかない。
 靭彦が繭良の上に重ねていく肢体と、繭良の間には、バチバチと青い火花が散った。青い光は赤い光に抗い(あらがい)それを押し返し、広がっていく。赤い光も負けじと繭良の上に落ちる。赤い光と青い火花が合わさるところでは、透明感のある紫いろがつくられた。
 靭彦の光は攻撃しない。ただただ繭良をやさしくなぜるのみだ。繭良にもそれはわかっていた。けれど……。
 ふいに、繭良の躰から青い火花が消えた。
「マユラ?」
 靭彦の赤い光も蛍が光を消すようにふっと消え去った。
「よく考えたら、できるわけないんだよね」
「え?」
 緩められた拘束から、ゆらりと逃れ上体を起こした繭良は靭彦の目を見つめ返した。その瞳は自らを蔑む色をしていた。
「ユキが私を抱けるわけないんだよね。だって、ユキ知ってるでしょう?」
「そんな……。そんなの関係ない」
「うそ。ユキが私を抱くわけないんだよ! 何人が、ううん、何十人、いや何百人が、私の上を通ったと思う? もしかしたらもっといるかもね? 汚いって思うよね? そうだよね? それだけじゃない。私は……。ユキ、全部知ってるじゃない? それともそんな女だから抱くの?」
「マユラ……」
 靭彦はすぐには繭良を抱きしめてやることはできなかった。
 一気にまくしたてた繭良は、一息つくとがくっとうつむいた。
「ごめんね。ユキが悪いわけじゃないんだよ」
「なに謝ってんだよ」
 靭彦は繭良の頭に手を置いてくしゃりと髪を掻きやった。そしてゆっくりといたわりながら繭良を抱きしめた。
「俺、自分のことしか考えてなかった。悪かったよ。でもマユラ、俺はお前のこと汚いなんて思ってないから。それだけは信じてくれよな」
「……うん」
「マユラ、もう寝ろ」
「ユキは?」
「俺、もう少ししてから寝る」
「私も」
「寝ろって。弾いてやるから」
 靭彦は壁に立て掛けた馬頭月琴を手にとった。
「弾いてくれるの? 」
「何がいい?」
「『ハッシャバイ』」
「弦だけで?」
「アレンジして」
「はいよ。おやすみ」隊始め
「おやすみなさい」
 繭良は布団にもぐりこみ、靭彦は明りを消した。カーテンから差し込む月明りを頼りに靭彦はバチを操り、丘の上で弾いたのとはうって変わった柔らかな旋律を奏でた。繭良は満足気な寝顔で寝息をたて始めた。  弦を弾き(はじき)ながら、靭彦はやり切れなかった。
―俺が倒すのはたぶん……『あいつ』だ……!
 靭彦は低く歌い始めた。

 鳥も樹も花もねむる
 鳥も樹も花も夢をみる
 くらやみはねむり ねむりはくらやみ
 クレーンも歯車もラジオもねむる
 クレーンも歯車もラジオも夢をみる
 あかりはかたつむりのゆめ かたつむりのゆめはあかり
 イーニーミーニーマイニーモー
 きょうはどこで遊んだ?
 ハッシャバイ
 ハッシャバイ
 あしたはどこで遊ぼうか?

 外では鳥たちがさえずりはじめていた。


 寄り合い所には青年たちの姿はなかった。
 は、と靭彦は溜め息とも嘲笑ともつかない息を吐いた。昼間はたっぷりと眠ったが、まだ眠り足りないような気がする。プレハブ小屋の寄り合い所では日焼けした農夫たちが頼りない電球の黄色い明りの下、顔の皺を更に深くし皆一様に厳しく渋い顔をして靭彦を穴のあくほど凝視していた。
 里長らしい初老の男性は、長というにはまだ若く見える。福田タカオの父、タカユキよりも少しばかり年上くらいの年齢だろう。
 靭彦を伴って寄り合い所にやって来た榊は、彼をそこへ置くとさっさと神社へ戻ってしまった。榊を頼りにしていた訳ではないが、まな板の上の鯉の心境にさせられる。
 コの字型になった会議机を前に、靭彦は裁判所に連れてこられた気持ちになった。
「『蚕殺し』とは何だ? とか聞かないでくれよ」
 里長が語りかけるより前に、靭彦が口火を切った。
「奴の正体は知らなくても、奴がどうして養蚕の地域を狙うのかはあんたたちもよく知ってるはずだ」
 靭彦の横柄な口のききかたにも誰も咎めだてをしようとはせず、彼らは黙って靭彦を見つめつづける。
―オトナなんですね。みなさん。
 あてが外れ、靭彦はいったん自分の足元へと視線を落とし一呼吸ついた。
「そうだね。あんたたちがそれを知らないだろうとか思ってる奴ならニセモノだもんな。わかった。あんたたちが知らないことだけ言おう。途中で既にわかりきった事も言うかもしれないが……。それは進行上、許してほしい。話の途中でもわからないことは質問してくれていい」
 口調は相変わらず横柄だが、殊勝に靭彦は前置きした。
「まず『蚕殺し』はひとりだ」
 はじめて寄り合い所はどよめいた。
「信じられないことかもしれない。でも依頼を受けて俺がひとりでやってきたのも信じられないことだろう? 攻めるも守るも、これは誰もができることじゃない」
「具体的に言ってくれ」
 農夫のひとりが冷静な声で頼んだ。
「つまりそれくらい強いってことだよ。核兵器は一発で広範囲の土地を壊滅させるが、一発で十分だろう? それ一つあれば何百個の爆弾も何百人の兵隊も要らない。しかし核をぼんぼん落としたって意味はない。自分たちに利益のあるエリアまで潰しちゃおしまいなんだ。でも核兵器を一発作るのだって簡単じゃない。手間ひまかかるんだよ。『あいつ』はそれだけ手塩にかけて育てられた兵器なんだ」
 謎かけめいた靭彦の説明を、一同はなんとか理解しようとしていた。
「人間ではない、ということか?」
 別の農夫が尋ねる。
「無機物ではない。一応だが……人間だ」
「君の今までの戦果は?」
「『蚕殺し』と呼ばれる輩を三人。俺は葬った」
「殺したのか?」
 気弱な声が尋ねる。
「いや」
 靭彦は口元を歪める。
「それよりタチが悪いよ。ある意味殺すってことだろうけど。今、奴等は『チャイルド・マーケット』のはずれの施設に収容されている」
「施設? 刑務所か?」
「身体に打撃を与え再起不能にするのか?」
「半殺しの目に合わせたということなのか?」
 次々と問い掛けは降る。
「あのエリアでの医学施設で研究材料になってる。人間のカタチをしたモルモットみたいなもんだ」
「人道に反するぞ」
 くぐもった声が非難する。
「人道? もう畜生扱いだな。俺が決めたことじゃないし確かに酷いかもな。でも仕方ないよ奴等の場合。だってもう人間の思考はできないもん」
 潮がひくように、一同は静かになった。
「俺たち『ハンター』に負けたら頭ん中がヤられちゃうんだよ。同じく俺が負けたらそうなって、やっぱり『マーケット』の研究施設に送られちゃうんだけどね」
 沈黙を裂いて靭彦は続けた。
「ちょっと話がそれたな。当たり前のようだが『蚕殺し』は、その名のとおりまず蚕を狙う。蚕には奴を操るバックが恐れる力なんかありはしないんだが、象徴である物理的なものを大量に叩けばダメージは大きいからね。『あれ』だって感情のようなものはある。そうだろう?」
『あれ』の意味はその場の全員がわかっていた。視線を投げられ、福田タカユキは思わず目を逸らした。
「『奴』はどうやってこの里を潰すんだ。何を使って? 爆発物か? 細菌か? よく訓練された工作のプロらしいな」
 神経質な声が問う。
「俺が負けたら奴等と同じになると言ったろう? 『毒をもって毒を制する』が俺に唯一与えられた戦法だ」
「君は何を使って闘ってきたんだ?」
 里長が、落ち着いた口調で質問した。
「これだよ」
 靭彦は馬頭の月琴を肩から降ろし、両手に持って前に抱えてみせた。
 一同の表情は複雑な、笑っていいのか怒っていいのか感心していいのかわからないといったものに染まった。
「超コロラトゥーラソプラノでガラスが割れるって知ってるかな? 」
 皆の様子に動ずることもなく、靭彦は急に陽気な口調で今度は逆に質問した。
「いいや」
 ややあって、くぐもった声が答えた。
「できるんだよ。嘘じゃない。オペラをやってる人で、たまにそれができる人がいるんだ。グラスを前に置いて歌うとパリン、てね」
 一同は思わずそれぞれ互いに顔を見合わせた。
「俺は歌でガラス割ったりはしないけど」
 手に抱えた馬頭月琴を愛しげに見つめると、靭彦はしっかりした口調で言い放った。
「俺はコレで奴を壊す」
 異様に楽しげな、ぎらぎらとした目。誰もがその気迫に呑まれた。
「私たちはどうすればいいだい?」 声はタカオの父だった。
「私たちは何をすればいいんだ」
「まず当たり前だが侵入を防ぐ事を優先させる。当たり前だが簡単な事ではない。巧妙にやってくるだろう。それから『蚕殺し』はひとりと言ったが、サポートがつく。これの人数はその時によって違うが、それほど多くはない。せいぜい2、3人。奴等に『蚕殺し』と同じ事はできない。奴等の仕事は『蚕殺し』を動きやすくするため、たとえば侵入や攻撃時において邪魔な要因を抑止、除去するという作業だ。俺は『蚕殺し』を3人潰したが、サポートは5人潰した。今度もサポートはつくと思う。でも俺は今回はできれば『蚕殺し』を潰すことに専念したい。『この里』だからね。きっと強敵だよ」
 最後のほうの言葉の意味を一同は重々承知していた。
「サポートはあんたたちに任せる。きっと俺よりあんたたちのほうが効率よくやれると思うからだ。そうだろう?」
「サポートのスキルは?」
 神経質な声が鋭く訊いた。
「最近の実践経験は確かにあんたたちはよりある。でもあんたたちは精鋭だった。頭でケンカする方法、知ってるよね?」
 一瞬の沈黙が流れた。
「わかった」
 里長が答え静かに頷くと、やるべきことを与えられた男たちも皆、深く頷いた。
 もう話されるべきことはすべて終わった。
「俺はね、」
 肩に馬頭月琴をかけながら靭彦は親しみを込めた調子で語り出した。
「俺はね、たとえどんな所であってもやっぱり『よりどころ』を大切にしたいって気持ちは間違っちゃいないと思ってる。生まれた場所じゃなくてもいい。ニセモノだっていい。居場所ってさ、なくなれば他に見つければいいものだとも思うけどさ、大切なものを必死になって守ろうとするのはマチガイじゃないよ。例え誰かが『違う』っていっても、自分の『中』でホントなら、もうそれは真実なんだよ」
 その言葉は皆のなかに共鳴を起こした。
はりぼてだろうと、ニセモノだろうと。
『この』白里は守るべき『よりどころ』なのだと。その場の誰もが再認識したのだった。


「あーん、もう! ばかばかあっ! 信じらんなあい!」
 カンにさわる女の声は甘ったるく、溶けたチョコレートのようにべったりと耳にはりつく。片耳にだけどな、とスマイルは仏頂面で心の中で呟く。こんな時だけは自分の障害を有り難く思う。スマイルには左耳の聴覚がない。生まれつきなのだ。それでも彼はイイ音楽を愛し、ことに有名なジャズ・アーティスト、マイルス・デイビスをこよなく愛していた。
 以前、紅(く)美(み)にステレオで音が聴こえないのになんで音楽を愛せるんだと聞かれたことがある。スマイルは「骨で聴くのさ。首のあたりでね」と答えた。すると紅(く)美(み)は、あんたのその太い首で骨までとどくもんか、と毒づいた。こういう時、スマイルはこの女の無神経さ、自分の障害に気を遣わない態度を愛しく思った。ただ、彼が紅美の性格で褒められるのはその点だけだったのだが。
「ねー、スマイル! ここさあ、ぜーったいヘン!」
「マトモだと思ってんのか? 俺はものすごく不自然だと思うけどな」
 巨体を揺らしながら、スマイルは草の上にどっかりと腰を下ろした。山の頂上は露出した白茶けた土と石ころだらけだが、わずかに草の茂る場所もある。それほど標高は高くなく、街と行き来するための道もあるのでサイドカーでここまで来るのはそうたいして難儀なことではなかった。が、それは物理的なこと。スマイルの神経はかなりまいっていた。原因は言わずと知れている。
「もー、さいってー! あんたの運転ってヘボ! 顔に小石はがんがん当たるわ土ぼこりで顔真っ黒だわ、もー! さいってー!」
 だからあれほどフルフェイスのメットにしろと言ったのに、紅美はファッションを優先してクラシックなメットに大きなサングラスでサイドカーに乗り込んだのだ。自業自得である。しかしこの女にそんなことは通用しない。スマイルはこっそりとため息をついて、ジャケットの胸ポケットからボールペンよりひとまわり小さい携帯プレイヤーを取り出しイヤホンを耳にさした。プレイヤーに記録された中身はもちろん彼の神、マイルス・デイビス。死後かなりを経てもイイモノは残るものだ、とスマイルは流れる曲に聴きいった。
そんな彼の至福の時を阻止しようと、紅美は血管も切れよとばかりにがなりたてる。
「なにやってんのよ! こっちは一生懸命仕事してんのよお?」
 片手にオペラグラスと見まごう機械を携えた紅美は、ミニスカートから惜しげもなく晒された美しい足で大股にスマイルに歩み寄った。こいつも性格さえよけりゃイイ女なのに、とスマイルはもう何千回心のなかで嘆いたことだろう? 紅美の年齢は二十代のスマイルより上で若づくりなのかもしれないが、性的魅力をまき散らしていた。
 下の方で縦ロール気味に巻かれたゆるくウェイブがかった茶色い長い髪。きちんと引かれた美しい形をした眉。大きなぱっちりとした目は自然な二重で睫毛はこれでもかというほど長く、カールしている。口紅のコマーシャルに出てもおかしくないセクシーなぽってりした唇、そして超がつくほどのナイスバディ。張りのあるバストはGカップは軽くあるだろう。ウエストはスマイルの腕の太さと同じ位かもしれない。脚は細すぎず太すぎず、美しい筋肉の曲線で形づくられている。紅美はいつも挑発するような服を着て、やめろというのにいつでも踵の高い靴をはいていた。しかしスマイルが彼女に欲情したのは初対面、まだお互い口をきく前の一度きりだった。
 頭から湯気を出さんばかりにドスドスとスマイルに歩み寄った紅美は、荒々しく彼の耳からイヤホンを抜き取った。
「何すんの」
「仕事! シゴト!」
「あわてないあわてない。ひとやすみひとやすみ」
「休むなー!」
「スキャナー、だめなんだろ?」
 スマイルの言葉に、紅美は急にしょんぼりとして、オペラグラス型スキャナー機に目を落とした。珍しくしおらしくなった紅美に、スマイルはあわてて言葉を続けた。
「ほら、だからここは一筋縄じゃいかないって。あの部隊の造り上げた集落だ。いくら本部の誇る機械だからってさ、駄目なんだよ。『異物』を持ち込む俺たちにはね。まあ俺たちがウィルスってとこか」
 スキャナー中央に咲く小さな花型のパラボラとその中から突き出た短いアンテナを指でさすりながら、紅美は悔しげに言った。
「手強いわね。スキャナー見ても全然、道や建物の構造が見えてこないの。この機械対応のスクランブル信号がかかってる。こんなことってある?」
「有り得るな。いくらスキャナーの性能が良くても、奴らの中には開発部に居たのもいるだろう。技術力ではあいつらのほうが上かもしれない。古い奴らの癖に最新機械もお見通しなんだよ。攻めの実践は回数が少なくても守りに関してはプロ中のプロだ。奴らも本気ってことさ」
「でも侵入経路と潜伏場所がみつからなきゃ話になんないわ」
「観光客を装うとか?」
「これだけ警戒されてんのに?」
「冗談だ」
 紅美は笑いもしなければ怒りもしなかった。装備を持って里に侵入すれば、すぐに探知器に引っかかるだろう。かといって丸腰では意味がない。
「どうしようね」
「たまには聴いてみないか? マイルス」
「遠慮しとくわ」
 紅美は風になびく長い髪を後ろへとかきやり、また白里を見下ろす地点へと立った。
「役立たずになるのは嫌」
 きっぱりと、紅美は言い放つ。紅美のプライドと勝負が、今回の仕事にはかかっていた。前回の仕事で全くの無傷で帰ってきたのは、紅美ただひとりだった。しかしそれは彼女にとって屈辱でしかなかった。討ち死にするのはそれを上回る屈辱ではあったが、無傷ということが彼女の実力ということではなく逃げ足の速さの結果ととられているのではないかという不安が彼女にはあった。
 曲に合わせて巨体を揺らすスマイルの意見が、紅美の背中に向かって投げかけられた。
「無機的なスクランブルは完璧かもしれないけど、有機的な防御はどのくらいかな。お前さんの特殊技能の見せ所じゃないかな?」
「どういうこと?」
「スクランブルをかけるからにはそれを発生させるためのポイントがいくつかあるだろ? たぶん……」
「その先は言わないで」
 紅美の表情が酷薄な笑顔へと変わった。紅美は右手をゆらりと前へ差し出すと、フェイクジュエリーを散りばめた朱く塗られた長い爪の先を眼下の集落へと向けた。
 紅美の右腕が、むき出しの肩から爪の先までぼうと白く光り輝いた。腕全体に同じ像がややずれて重なった「絵」が形作られ、やがて腕に螺旋状に絡み付く長い銀の毛皮のたなびきがはっきりとしてきた。
「いける」
 紅美はさっと右腕を下ろした。と、同時に白い光も毛皮も瞬時にすっと消えた。
「やらないのか?」
 イヤホンを耳から外し、スマイルが拍子抜けして問う。
「ええ。まだ早いわ。今からやったらより守りを固められるだけ。『この子たち』だったらポイントを探し出し、破壊するのはたやすいこと。実際にやってみなくちゃわかんないけど、でもまだ先にしましょう」
「それはお前さんに任せるよ。俺の仕事はその先だからな」
「まかせといて」
 紅美はくるりと里への風景に背を向けると、大きな平たい石の上に腰かけ脚を組んだ。スマイルが深く息を吐く。
「それにしても俺にはわからねえ」
「何が?」
「なんで奴らはこんな里を『造ろうと』したんだ?」
「そうしたかったからでしょ?」
「だからなんで」
「連中の考えることを理解できたらこんな仕事、しやしないわ」
「しかしなんでだ。そしてなんで守ろうとする? すべてが模造なのに」
「みんな『コピー』なのにね。過去の遺物の」
「不自然だよなあ。今まで自分たちを育んだものへの裏切りだよなあ?」
「そう。勝手だわ」
「潰すべきだよなあ」
「潰すべきよ」
「どうしてなんだろうな。なんで奴らは薄っぺらなノスタルジーのためにここまでするんだろう。ただの自己満足じゃないか。『保存』ですらないんだぜ」
「壮大なゴッコあそびよねえ?」
「不自然ってことは自然じゃないってことだよな」
「許せないわね」
「ああ。まったく」
 山頂へ吹き上げる風は、かすかに桑の匂いがした。

 コピーの土地。

 『レトロスペクティヴ』などというよりは『ノスタルジー』というワードがぴったりくるだろう。人々は常にいつの時代でも「懐かしい」ものを求めてきた。しかし、気がつくと「懐かしさ」をモチーフにしたテーマパークはいくつもでき、ファッションも様々な「懐かしさ」を表現する流行が生まれていた。テーマパークやファッションばかりではない。
ありとあらゆる部分で『ノスタルジー』は蔓延していた。
 人々があからさまに『ノスタルジー』に浸食されはじめた頃、政府は退任予定の国防の隊士、世界共通の意味合いで言えば「軍人」(便宜上この言葉を用いる)向けに政府からある提案がなされた。それはほぼ関係者にしか知らされない、ありがちなひとつのサジェスチョンだった。
『緑豊かな自分たちの村を作らないか?』と。
 その提案は隊に在籍している若い軍人たちへと投げかけられた。退任へのすすめとも、それはとれた。
 折しも海外派兵が終り、隊員たちが戻ってきたばかりだった。彼らはその制服から「ブルーベレー」と呼ばれ、実戦に参加した。海外派兵は隊員たちにさまざまな感情の変化を与えていた。それも主に若い隊員たちばかりに。鬱状態を訴えるもの、精神の不安から休職を申し出るもの、犯罪に走るもの……。それほど海の向こうでの「リアル」は彼らの世代には信じがたく、残酷で、地獄そのものであり海外派兵は彼らに、社会に多大な影響を及ぼしていた。
 「軍」というもののなかに居れば、戦争というものがどういうもので、人命はその中でどんな存在であるのかということは、いくら自国での戦闘経験がなくても理解してはいる。けれど実際に仲間の三分の二が派兵され、戦闘に参加したとなれば……。
 その上、かつての仲間たちの中には傭兵になった者もいた。彼らは銃を「ひと」に向け構える。そして見知った顔に銃口をむけられる者も居た。「軍人」たちの、年齢の若い者たちの間ほど心の疫病は素早く広がっていた。
『緑豊かな自分たちの村』。
 その呼びかけに応えるものは少なくなかった。ただ、その村づくりはすべてお膳立てが揃っているのではなく、一から自分たちで計画するというものだった。彼らは積極的に計画会議を開き、土地を探した。地方の過疎の村を探し、絶える寸前の村と移住の交渉をし、次々と了解を得ていった。白里と名を変えた御白(おしら)村(むら)もそうである。山間の土地を切り開いてできた村もある。中には村を作らず、過疎の村に移り住んだ者も居たが、その殆どは退官したやや年かさの地位もある軍人たちだった。そしてそういった村はかつて国中にあまたと見られた養蚕農家を形づくるものが多かった。絹への関心が高まる風潮でもあったが、それだけではない。多様な農業を見て回った村づくり志望者たちが感じた「何か」がそうさせた。
 政府は助成金を援助し、軍人たちの村を保護した。元軍人たちは自分たちの退職金もかけて村を興し自分たちの居場所を造りあげていった。まるで蚕が懸命に糸を吐き、自分の閨である真白な繭をつくるように。
 やがてそれぞれの村で初めての子供が生まれるようになり、元軍人たちはやっと自分たちの「村」ができるのだと喜んだ。
しかし、どうしても彼らが造れなかったのは「歴史」だった。子供たちが村で成長してそのままそこでの暮らしを選択すればオリジナルな「歴史」は生まれていく。だが歴史はすぐには造れない。「村人」たちは悩んだ。
 そして子供たちの誕生を境に、あるルールができあがっていた。それは確かに不自然なものだった。もちろん異論を唱えるものも居た。あの地獄を隠す気なのか、と。それもまた正論である。
そのため村の中にはルールを遂行せず、事実をオープンにする土地もあったが、だいたいの村が『ルール』を守ることを望んだ。彼らは自分たちの入植のいきさつを、あの異国での深すぎる傷をそのまま直接次代へ伝えたくなかったのだ。だからこそ祈りとして「真の平和」を子供たちに教えたかった。『平和』を知ればこそ悲劇を理解できるだろうと。
 村を造るにあたってイメージした歴史は、そのまま村の歴史とされた。入植者にはすでに子供の居るものもいたが、子供たちは入植の背景を知るにはあまりに幼く大人たちの語る事を素直に受け入れた。
 イメージ通りの村づくりのために生活の便利さを意図的にある程度カットしたり、年老いたものが少なすぎたり、それでいて田舎にはまずないような施設があったりなど、不自然な所は多々あったが、彼らは「年月を経た」雰囲気を出そうと努力し、村の出来栄えにほぼ満足していた。その歴史はコピーであり、まるごと映画のオープンセット的な村であったとしても、そこが彼らの居場所であること、彼らの「ふるさと」であり「よりどころ」であることに変わりはなかった。
 大半の村々の子供たちは食草を変えられた蝶の幼虫が、素直に順応し本来のものではない種の食草を食むように(大人たちにとって)致命的な疑問も抱かずにすくすくと育った。
 また、村周辺の街も殆どがその『ルール』を守った。「軍人村」の周辺の街には入植はしなくとも退任した軍人たちが数多く暮らし始め、こちらには若いものだけでなく、年かさの元軍人たちも移住しており、事業を興すなどして自分たちの「新しい世界」と組み合って努力を重ねてきた。同じ痛みを共有した者たち同士は過去の階級を越えて互いに協力しあう態勢ができていたのだった。
 淀みない自然な流れとして。


 福田孝之が境内に足を踏み入れたとき、今までそこにいた複数の何者かがざあっと姿を隠すために走り去った気配を感じた。あたりを見回しても人影はない。掃き清められたばかりの足元に目を落として、孝之はひとり苦笑した。あいつと暮らしてもう長い。こういう感覚は「うつる」と聞いていたが、やはりそうなんだなと孝之は実感した。
 左手の社務所に目を向けると、入り口わきの授与所の窓に繭良の顔が見えた。孝之の姿を見つけると繭良は微笑み一礼すると片手で「どうぞ」と本殿を指し示した。
 孝之は会釈してそのまま本殿へと歩き、賽銭箱の横から階段を昇って本殿へと上がった。孝之に背を向ける格好で榊はご神体である丸い鏡に向かって正座していた。
「榊宮司」
 孝之の声に榊が振り返る。自分より年若いこの宮司を前にすると、孝之はいつも緊張してしまう。それは「ブルーベレー」にいた時から変わらない。彼が上官であったからではない。自分に銃を向けた兵士に何もできずに凍っていた彼のかわりに、何のためらいもなく引き金を引いたこの男を孝之は畏れていた。榊に命を救われたのに、感謝の気持ちよりもまず彼は恐怖を感じた。
「ご足労頂きまして恐縮です」
 榊はいつものように体格にしては低いバリトンの声で礼を述べ孝之に向き直った。孝之は榊と向かい合う格好でその場に腰を下ろした。
「いいんですよ。私もお話ししたいことがありましたし」
「左様ですか。ではまず福田さんのお話から伺ってよろしいでしょうか? その前にここでは何ですから、社務所のほうに行きませんか。繭良に言って冷たいものでも持ってこさせましょう」
「いえ、ここで結構ですよ」
「繭良のことなら心配いりません。なに、少しの間授与所を離れたところで問題ありませんから。もちろんその間、授与所は閉めますがね。いくら『彼ら』でも授与所の仕事はできませんから」
「わかっていたんですか?」
「ええ。あなたならわかったでしょう。彼らはよくやってくれます」
「あなたのお力でしょう?」
「いいえ。彼らのボランティア精神が強いだけですよ」
 ボランティアで境内の管理の世話を焼いているのが里の人間だけでは、いや人間だけでないのは以前から知っていたが改めて考えると、孝之にはやはり不思議なことである。
 最近になって孝之は「式神使い」という言葉を知った。
白里神社には「式神」が居ついていると妻は言っていた。先刻のこの境内に住まう見えざるモノたちを「式」というのが正しいのかはわからない。妻の房子いわく「あれは式神いうより『オニ』かしらねえ。かつて人間だったモノよねぇ。まだ若いうちに亡くなってるけど。あらあ。でも神社で奉職? 『式神』というより『式オニ』かしらぁ?」ということだが、その意味は孝之にはわからない。オニというには、孝之の鬼に対するイメージと清らかな空気を発する彼らはあまりにかけ離れすぎている。房子の言う「式神使い・使い魔」という呼称も、実はよく理解してはいなかった。
榊と孝之は社務所の応接室へと向かった。
 繭良の運んできた冷たい麦茶を一口飲むと、孝之は首元に新たに吹き出る汗をハンカチでぬぐいながら語り出した。榊は全く汗をかいていない。
「実は、うちのやつが二度目の『知らせ』を受けとったんです」
「また『シラセ』をですか。蚕殺しの到来を受けとってからあまり間隔がありませんね」
「そうなんです。うちの神棚に小さな仏壇みたいなオシラの部屋……というのか、まあそんなものがあるのはご存じですね?」
「ええ」
「昨日、その両扉がぱかりと開いたんです。ハト時計みたいに。あいつが手を合わせたときです。その場に初めて私は居合わせました」
 孝之は身震いした。その瞬間の様子を思い出したのだろう。
「もちろん地震などではありません。そして二体のオシラがカタカタ震えて……」
 福田家に祀られているオシラとは、この神社で葉魚絵が見たものと同じ、頭を白い布でぐるぐると包まれ着物に見立てた色柄の「服」を着た二本一組の木の人形(ひとがた)である。
福田家のオシラは、東北のイタコという巫女の血筋である福田……旧姓三浦房子の家がずっと昔にこの神社で請けていたオシラである。
白里神社が「御白神社」と呼ばれていた、まだ白里が御白村と呼ばれ、過疎という言葉からはほど遠い集落であった時代に三浦のイタコは仲間たちと一緒に一対の「オシラ神」を請けにやってきた。仲間たちのなかには肩に70センチほどの竹や真鍮製の筒をかけているイタコもいた。筒にはそのイタコの一族が使う「管狐」が宿っているといわれていた。その数は年々減っていったが、一年に一度は、イタコたちはオシラ神の位をあげてもらうために請けたオシラを持って御白神社やオシラ神を祀る寺社に詣でていた。今ではイタコたちは白里神社にオシラを請けには来ないのだが。
 白里はレプリカの御白村である。ここに移り住んだ元海外派兵隊員、元ブルーベレー部隊の隊員たちは絶滅寸前の御白村の名をそのまま引き継ぐことをためらった。まがいものに「御」をつけるわけにはいかない、と、村は白里という名前に変わった。御白神社も白里神社と名を変えた。
 元ブルーベレー隊員たちは廃れさびれていた小さな社を立て直し、そこの宮司に榊を据えた。榊はもともと、とある地方の大きな神社の息子である。榊の任官後、その神社は彼の義兄が継ぐことになった。土地の名士でもある榊の実家は、彼のために白里神社の裏に豪奢な屋敷をしつらえた。それは。まるで荒ぶる祟り神を慰め丁重に祀る神事に見事に似通っていた。
 御白村の歴史を調べるうち、「元隊員」たちはこの村に眠る「あるもの」の存在に気づかされた。それは自分たちが自分たちの手でこの世から消し去った魂を畏れる気持ちが作用したからなのかもしれない。
 御白村には、確かに形をなさない「命」の鼓動があった。
そのカンは当たっていた。葬ってしまった命への鎮魂の想いも込めて造営しなおした神社だったが、結果として神社は鎮魂だけではなく「土地の神」を祀るための……本物の神社となった。新たな「ご神体」である鏡に「神を入れる」儀式の時だった。彼らは社殿造営中に感じた気配が気のせいではなかったことに戦慄したのだ。
 「神」はずっとこの神社にいた。さびれ、すたれ、打ち捨てられた「神」は造営が進むにつれ、次第に重い眠りから覚めていったのだ。
儀式が終わるころ、白い巨大な「もや」が地面の下からにわかに湧き上がり、咆哮をあげて鏡に吸い込まれた。儀式を執り行なっていた街の神社の神主をはじめ、一同はどよめいた。そして皆が動揺する間もなく、次に鏡はカタカタと揺れはじめた。
パニックの寸前だった。
 すると。ざわめきの間を縫い、きれぎれに和歌を詠むような祝詞が聞こえてきた。どよめきが収束していく。
真っ白な頭で、一同はシャープな声に聞き入った。
 声は低く、澄んでいた。古語であるが韻をふんだ「うた」は、カタカタと震える鏡に語りかけアカペラの美しいバリトンに鏡は耳を傾けたのか次第におとなしくなっていった。
 詠唱が止むと鏡は完全に元の何の変哲もない鏡に見えた。
 しん、と静まり返ったその場で、最初に声を出したのは福田孝之だった。
「榊さん。あなたが鎮めたのですか」
敬語が出たのは階級の問題ではなかった。
「『あれ』は自分が何者かを忘れて暴れかけてしまったようですね。今、祭文によって思い出させました。こんなこともあろうかとこの土地の祭文を暗記していたんです。これでもう、大丈夫。神社として機能できますよ」
 静かにそう言うと、榊は自分のいた列に戻ろうとした。
「榊さん」
 孝之の声に引き止められ、榊が伏せていた顔を上げた。榊と目を合わせた孝之は心をこめて、はっきりとこう言った。
「ありがとう」
 榊は……。その場に居た者たちの中で初めて榊の晴れやかな笑顔を見たのは孝之だけだっただろう。
 改築中、御白神社からはおびただしい数のオシラが発見された。オシラは境内に新しく作られた小屋に収められ祀られた。小屋の材はわざわざ一度あぶられ古めかしさを出した。養蚕を生業としていた御白村は養蚕の神として他の養蚕の土地同様、オシラ神を祀っていたのだ。
 オシラ神の祭りには、自分が何の神であったのかを思い出させる祭文がある。榊はそれを唱えたのだった。

 榊の手も借りて村の歴史を調べるうちに、孝之はある一説に目をとめた。家を守るとされるオシラは、代々主婦が管理していたという。オシラは「知らせる」の意味もあるとされ、農作物の出来などについてオシラが主婦に「知らせる」と言われていたらしい。孝之は急に奇妙な衝動に駆られ村を離れて東北へと旅立った。そして辿り着いたのが三浦家である。
 当初、孝之はオシラを正しく管理できるものを連れて帰る、ということだけが目的だった。あの『神』のことを考えると、少しでも榊の荷を軽くしてやりたかった。だから三浦の血筋の人間なら、男でも女でも構わなかったのである。ところが、孝之は房子に出会った。母から話を聞かされた房子は「そういうことなら私は行かない。兄さんが行けばいい」とそっぽを向いた。が、孝之はどうしても房子を連れ帰りたかった。理由はそのシャーマニックな力とは何の関係もない。房子が白里に来た経緯についてはこれ以上、野暮な説明は必要ないだろう。

 房子が「知らせ」を受けることは殆どなかったが、これまでに彼女が受けた「シラセ」によって災害を予知したり、大事故の回避をまぬがれたことがあった。房子の人なつっこい笑顔と人柄から、誰も彼女に感謝することはあっても異端視することはなかった。もちろん房子が孤立しなかったのには孝之の尽力もあったのだが。
 そして房子が蚕殺しのシラセを受けた後、やや遅れて街に住む元隊員からその情報は流れてきたのだった。
「それで、どんなシラセだったんですか? 」
「あっ、すみません。つい」
 孝之ははっとして興奮気味になっていたことを詫び、続けた。
「それが……。『心してかかれ』、と。それだけなんですが」
「『あれ』にもわかっているのですね」
 結構冷静なのだな、と榊は繭良のエネルギーを与えている「荒ぶる神」のそんな意識を意外に思った。四月から九月の祭りまでの間、「神」に繭良を与えて活性化させるとともにその力をコントロールしている榊としては「神」がそんな知性を感じさせる人間臭い念を伝えることに驚いていた。
―やはりな。浸食してきていたか。「ひと」としての意識を持てば動物的なカンは狂う恐れがあると危惧してはいたが。
 まずいな、と榊はひとり心の中で呟いた。
―『神を食う』か。怖いもの知らずだな。それだけ繭良の能力が増幅されてきているということか。彼女の力も『あれ』に似てかなり動物的といえば動物的なのだが……。
「……宮司、榊宮司……」
 榊は顔を上げた。
「すみません」
「いや、榊宮司でなくても考え込んでしまうでしょう。多くは知らされませんでしたが、蚕殺しがかなり手強いということでしょう。余計な事かも知れませんが、靭彦くんにも念のため伝えたほうがいいのかと思いました」
「私から伝えましょう。ところでお呼び立てしました件ですが」
「ええ。何でしょう」
 孝夫が身を乗り出す。
「これは本来なら靭彦が直接お願いすべき事なのですが、彼から私を通して福田さんにお願いして

「それが……。『心してかかれ』、と。それだけなんですが」
「『あれ』にもわかっているのですね」
 結構冷静なのだな、と榊は繭良のエネルギーを与えている「荒ぶる神」のそんな意識を意外に思った。四月から九月の祭りまでの間、「神」に繭良を与えて活性化させるとともにその力をコントロールしている榊としては「神」がそんな知性を感じさせる人間臭い念を伝えることに驚いていた。
―やはりな。浸食してきていたか。「ひと」としての意識を持てば動物的なカンは狂う恐れがあると危惧してはいたが。
 まずいな、と榊はひとり心の中で呟いた。
―『神を食う』か。怖いもの知らずだな。それだけ繭良の能力が増幅されてきているということか。彼女の力も『あれ』に似てかなり動物的といえば動物的なのだが……。
「……宮司、榊宮司……」
 榊は顔を上げた。
「すみません」
「いや、榊宮司でなくても考え込んでしまうでしょう。多くは知らされませんでしたが、蚕殺しがかなり手強いということでしょう。余計な事かも知れませんが、靭彦くんにも念のため伝えたほうがいいのかと思いました」
「私から伝えましょう。ところでお呼び立てしました件ですが」
「ええ。何でしょう」
 孝夫が身を乗り出す。
「これは本来なら靭彦が直接お願いすべき事なのですが、彼から私を通して福田さんにお願いしてほしいと頼まれましてね」
「靭彦くんが?」
「靭彦はああいう口のきき方しかできないから私を通してと思ったのでしょう。お願い事というのは……」
 榊は楽しげである。孝之は靭彦からという申し出を聞いて驚いたが、その理由はよく理解できずに「本人に聞いてみます。私からも頼んでみますが」とだけ答えた。
 福田孝之は宮司の背後に並ぶ浅葱色の袴姿の「式オニ」たちが、そろって頭をこちらに下げているような、そんな姿が一瞬見え、目をこすった。
「お願いします」
 七つ年下のかつての上官の笑顔には、もうすぐ五十代に手が届くというのに少年の無邪気さがあった。

  3

 からこんからこんからこん。
ぎいい。じりり。
からら、だっだん!
かちゃん、ぎりりん、だったん。だったん。
ぎりりいい。だったん。

 禍々しい程の音をたて機(はた)を織りながら葉魚絵は思う。織機(しょっき)の縦糸はグランドピアノに張られた弦のようだと。横糸を滑らせ糸を織り込むとき、葉魚絵はこすれあう糸が歌ったり、時には叫んでいる気がしてしまうことがある。これらは、もとは動き、食べ、眠っていた命あるものが自らの体内で変化させ作り出したものだ。もとは体内のパーツであったもの。命を構成していたかけら。
 繭良は愛しげに桑を食む蚕たちを見つめていた。生きるために懸命に桑を喰らう小さな生き物に注ぐ繭良のまなざしは柔らかかった。けれど、葉魚絵は。
―けれど、私は……。
―私は、生きているものの命を奪って糸を紡ぎ、機を織っている。
 染色学校で初めて繭から糸を取った時に、葉魚絵は激しい罪悪感に襲われた。
 蚕は牛や豚と同じく家畜であり、蛾になっても飛ぶこともできないまさに人間のために改良された種である。糸を吐くために育てられ、糸を取るために殺される。重々承知であったとはいえ、その現場は強烈だった。
 釜茹でにされ真っ白い閨から追い出された蛹は誰をも恨まないのだろうか? 蚕は生まれてから死ぬまでひたすらに無垢だ。と、葉魚絵は思う。蚕たちの気持ちなどわかるわけがないのだからそれは葉魚絵の妄想や願望でしかないのかもしれないが、蚕は誰をも憎まず育ち、殺されていっているような思いにとらわれる。
 新たな犠牲を成すためだけに孵化した蚕蛾は、この上もなく美しかった。真っ白な躰、羽、触覚、そして大きな黒い目。そういえば繭良の黒目がちな目は焦げ茶で真っ黒ではないが蚕蛾の目のようだ。繭良はどうしているんだろう?
 繭良は人を殺したいほど憎んだことがあるのだろうか? 蚕蛾の雌は孵化するとすぐに雄を呼び寄せるためのフェロモンを分泌する誘引腺という器官をお尻から出してラブコールをする。本能的なものだが、蚕蛾は恋を求める。幼虫の蚕も良く見ると集団のなかで仲のいいもの同志がいるように見えることがある。繭良は死んでもいいと思うほど人を好きになったことがあるのだろうか? 誰かを好きになりたいと願ったり、身を灼くように誰かを恋うることはあったのだろうか? 
―他人のプライベートを詮索するなんて。何だか私、最近下世話なことばかり考えてるみたい。よくないよ、葉魚絵。
 機織りに集中しようとするとうまくいかない。なぜか繭良のことを考えながらのほうがスムーズに織機を操れる。
 染色学校の生徒たちのなかには、葉魚絵のように機を織れるものも何人か出てきていた。その作品の出来栄えは見事で、街で実験的に催した展覧会は好評だった。それがきっかけで生徒の絹織物を購入したいという声が次々と上がり、実際に、それほど高い値はつけなかったが販売をしたこともある。また、街での委託販売の話も持ち上がっていた。あくまでも実習の一環なので本格的ではないのだが、販売が軌道に乗れば生徒たちが絹織物作家として里で生計を立てる事もできる。
 葉魚絵の織物は特に評判が良かった。
―まだまだ自信はないけれどベストを尽くそう。
 今、織機にかけられている糸は、葉魚絵自ら染めたものだ。青や黄、緑系の何色もの色の糸は淡く、重ね合わされると角度によって色の感じは異なり、さまざまな違う表情になる。
「これは何になるの?」
 不思議な美しい色合いの絹がどんな形になるのか皆聞きたがったが、葉魚絵の返事は微笑むばかりだった。
―気に入ってくれるかな?
 葉魚絵の頭のなかには、陽の光りをいっぱいに浴びて風にそよぎながら様々に表情を変える桑の葉の色がひろがっていた。
 ―私は、生きているものの命を奪って糸をつむぐことに責任を感じる。だから私は……。
 葉魚絵の額から汗が流れ落ちる。首にかけたタオルでそれを拭うと、彼女は真剣なまなざしで織機に向かった。

 ぎりり、ばったんばた。ぎりぃっ。がたたん。かたん。

 糸が鳴く。叫ぶ。
 単調だがひと織りするたび織機の音は微妙に違う。ピアノに強弱があるように。ピアノは優しい音というイメージがあるが、そればかりではない。やわらかい音ばかりでなく、とがった音、重い音だって出せる、と教えてくれたのは彼女だった。
 そういえば涼子の声はピアノに似ていた。ピアノ線を叩くハンマーがたてるような声。ときには柔らかく。ときには鋭く。いつでも空気を含んだ響きに包まれ、人の耳をなぜ、ゆっくりと鋭く深く突き刺す、そんな声。
 美しい響きを持つ涼子のアルトの声は葉魚絵を魅了した。が、その性質は常にとがっていた。
 彼女は子供がだだをこねて手足をバタバタさせているうちに血まみれになってしまうような、そんな女だった。
『なんであんたが泣くのよ』
 二度目に涼子がそう言ったとき、葉魚絵は初めて彼女から柔らかい、この上なくやさしいピアノの声を聴いた。
 なぜ泣く? 彼女と離れたくなかったからだ。そのとき彼女と離れる理由などどこにも見当たらなかったというのに。彼女の痛みを思って涙したのも真実だが、それよりも彼女と離れたくなかったのだ。どうしてそう思ったのかは今でもわからない。

 大学に入学して間もなくだったと思う。涼子はいつのまにか葉魚絵の近くにいた。近くといっても一緒にお昼ごはんを食べるような間柄ではない。葉魚絵には選択する第二外国語で分けられる語学クラスでの友達がすぐに沢山できたが、同じクラスの涼子は葉魚絵とは別の少人数のグループに属していた。それにも関わらず、涼子と葉魚絵は何故かふたりきりで居る時間があった。そんな感じだったから涼子と葉魚絵が仲がいいことなど、クラスの皆は知らなかった。クラスメイトの誰かがふたりで居るところに出会っても、ただの偶然と思われていた位だ。
 彼女たちふたりに出くわすと、あれ珍しい組み合わせだねとクラスの誰もが言った。実際、涼子と葉魚絵は対象的だった。
 決して温和とはいえない涼子といつでもニコニコしている葉魚絵。涼子が朝まで呑みたいといえば、葉魚絵は門限までには家に帰るという。葉魚絵が煙草は吸わないといえば、涼子はファミレスで喫煙席が空いていなければ帰るという。それでもふたりは決裂することはなかった。葉魚絵は涼子のために(門限はきっちり守ったが)スケジュールを調整したし、涼子は葉魚絵に煙草の煙が及ばないように努力していた。
 ふたりは多くを話し合った。自分たちが選択している授業のこと、部活動のこと、そして哲学的な考えまで。一緒にいられる時間をむさぼるようにふたりは誰にも明かさないお互いを開きあい、感情を溶け合わせていた。
 ふたりが大学生になってからはじめての夏休み。葉魚絵は涼子の家へ招かれた。
 涼子の家は郊外にあり、緑の多い住宅街の一軒家だった。両親は地方で寄宿制の高校へ通う妹に会いに行っていて一泊するので葉魚絵に泊まりに来てほしい、と涼子が頼んだのだ。葉魚絵は涼子の家に行って、これではひとりで夜を過ごすのは心細いだろうな、と納得した。同じ一軒家とはいえ葉魚絵のこじんまりとした家とは違いすぎる。涼子の自宅は丘陵地帯にある住宅街のちょうど丘のてっぺんのあたりに建っていて、そこは住宅街とはいっても一軒一軒の敷地が広く家同士の間隔がかなりある。ガーデニングの施された広い庭に大きな白い家、大きな門と広いカーポート。なにもかも見慣れた家並とサイズが違う。葉魚絵はただただ圧倒された。唖然とする葉魚絵にはお構いなく涼子は、たいしたおもてなしもできないけど、と普段通りの素っ気ない口調で自室へと葉魚絵をいざなった。
 20畳くらいあるという涼子の自室はシンプルで、無駄というものがなかった。けれど涼子に出されたアールグレイのアイスティーを飲みながら、葉魚絵は涼子の部屋にある小さなグランドピアノが気になっていた。葉魚絵の視線に気付いたのか涼子は顔にかかるサラサラとした細い髪をかき上げながら、ピアノ弾きたい? と尋ねた。
「ううん。でもいいなあと思って」
「どうして?」
「うち、アップライトしか置けないから。それ、ミニグランドでしょ? アップライトも好きだけど、グランドが家にあるなんていいなあ。うらやましい」
「ピアノ、弾いてるの?」
「中1でやめちゃった。たまにしか弾かないから下手だよ、私。涼子、ピアノ弾くのね。知らなかった」
「弾いてみる?」
「弾かないけど、ちょっとみてもいい?」
「どうぞ」
 ミニグランドは真近にみると年代物で、かなり高価なものだとわかった。蓋を開けると鍵盤は象牙でやや黄ばんでいる。
―どんな音がするんだろう? 
 葉魚絵は弾かせてもらおうかと迷ったが、やはり涼子に頼んだ。
「ね、涼子、弾いてよ」
「私が?」
「お願い」
「曲をリクエストされても困るよ? 何でもいい?」
「うん。涼子の好きな曲を弾いて」
 じゃあ、と譜面を開かずに涼子は鍵盤に女性にしては骨っぽい指を滑らせた。涼子の指は、細くしなやかなその肢体にはかなり似つかわしくなかった。
 涼子の奏でる曲は、葉魚絵の聴いたことのないものだった。クラシックなのか現代曲なのか、アバンギャルドな不協和音と東欧の民族的な調べが混ざりあった曲。攻撃的でいながらどこか懐かしさを感じさせる曲。軽妙なスタッカートはアップテンポでも確実にリズムを刻み、旋律はとどこおることなく流れる。象牙の鍵盤は深みのある響きを持たせ、音階を尖りすぎない音にしていた。
 しかし何よりも葉魚絵を驚かせたのは、その激しさだった。旋律は静かな部分でも決して何かに妥協をしない攻撃性を孕み、何らかの強固な意思を感じさせる。それが何に対してなのかは推し量れないが、大きなものに対しての根源的な反発と思えた。涼子が和音で曲を締め括っても、葉魚絵は拍手も忘れてぽかんと口を開けていた。
「すごいね」
「何が?」
「すごいよ。涼子」
「簡単な曲だよ?」
「絶対上手いよ。涼子。それ何ていう曲?」
「カバレフスキーの『ソナチネ』」
「はじめて聴いた。そういうの」
「お気に召さなかった?」
「ううん。その逆! もっと弾いて」
「え?」
「もう一曲」
「もう一曲?」
 涼子は面倒臭そうに聞き返したが、どことなく楽しそうに見える。ピアノが好きなんだな、と葉魚絵は確信できた。
「バルトークでいい?」
「うん」
 東欧の民謡をベースにしたバルトークの曲は、五線譜の上で拍子記号がころころと変わる厄介なものが多い。短い曲の中で三回も四回も拍子記号が変わるものもある。正確に弾くのは実はかなり難しいのだが、涼子は完璧だった。葉魚絵はバルトークを聴いたことがなかったのでテクニック的な部分のその難しさはわからなかったが、涼子の弾く曲は涼子らしい、と思わずにはいられなかった。
 そして葉魚絵は鍵盤に振り下ろされる涼子の指先を見つめているうちに不思議なものを見た。しかしたいして驚きもせず、葉魚絵は幻想的なその現象をうっとりと眺めた。
 涼子の指先から、蜘蛛の糸のようなものがふうっと出ている。幻視にしてはハッキリと視える。それは涼子の指と鍵盤をつなぎ、指が鍵盤から離れるとゆらりとたわむ。巧みにあやつり人形を操る人形使いとして、涼子はピアノを弾いている。糸は窓から差し込む夏の光に白銀色にきらめき、葉魚絵の視線をつかまえて離そうとはしなかった。
 耳からも目からも涼子は葉魚絵に流れこみ、葉魚絵を満たす。結局、ピアノは幾度も歌い続けた。

 ある日、バスケットボール部の練習が終わって、葉魚絵は更衣室でシャワーを浴びていた。中学一年から葉魚絵はずっとバスケットボールを続けている。突き指することも多いバスケを選ぶかわりに葉魚絵はピアノを弾くことをやめた。でも涼子に何曲かの譜面をコピーしてもらってからは、家にあるアップライトでピアノの練習をしている。毎日ではないのでなかなか上達しないが、コピーされた譜面の曲はやっとなんとか弾ける程度にはなった。シャワーで汗を流しながら、葉魚絵は涼子のことを心配していた。
 ここ一週間ほど涼子と連絡が途絶えている。語学の授業にも出て来ないし、校内では見かけない。携帯電話も通じない。番号を聞かされていないので、自宅に電話することもできない。涼子のグループの友人に消息を尋ねるのは何となくためらわれた。
―どうしたんだろう? 
 大学の長い夏休みが終わって一ヶ月。そろそろ風の涼しさを感じる季節になっていた。いつまでもシャワーを浴びている葉魚絵に、女子部員たちの「お疲れ」という声がかかる。葉魚絵は友人たちにシャンプーもするから先に帰るよう伝え、湯に打たれ続けた。葉魚絵がようやく更衣室を出た頃にはあたりはすでに暗くなっていた。
 ひとりとぼとぼと校内を歩き校門まできた葉魚絵は息が止まりそうになった。
 涼子がそこにいた。
「涼子!」
 葉魚絵は涼子に駆け寄った。そして、愕然とした。
 涼子はやつれ、顔色も悪かった。長い髪は艶を失い、唇には色がない。
「遅いよ」
 口調こそいつも通りの愛すべき素っ気なさだが、声は枯れ気味だ。
「ごめん。涼子、具合でも悪いの?」
「ちょっとね。ここ冷えるよ。お腹痛くなってきた」
「え? じゃ、じゃあとりあえず女子バスケの部室行こうよ」
「そんなとこ行きたくない。講堂に行こう。あっちのほうが近い」
「でも。寒いかもしれないよ。あそこは」
「いいよ。ここよりは」
 歩き出そうとした涼子の躰がぐらりと傾いた。
「涼子!」
 涼子が倒れる! と、葉魚絵は両腕を差し伸べた。葉魚絵の肩からずるりとスポーツバッグが落ちる。
「大丈夫。ひとりで歩けるよ」
「でも……」
 葉魚絵はおそるおそる涼子から腕を離した。
ふたりはそろりと講堂に入った。普段から鍵はかかっていない。講堂のクラシカルな両開きの木製の扉を開けるとすぐ右手に二階への階段があり、その脇にはアップライトピアノが置いてあった。エントランスホールをまっすぐに何歩かいくと左手に大きな厚い扉があり、その向こうが式や集会などに使われるスペースになっている。意外にも講堂の中は暖かく木の床も冷えていないようだった。
「ここでいい」
 涼子は入口すぐの階段の最下段に腰を下ろし、座り込んでしまった。葉魚絵は階段脇に積まれた暗幕を掻き集めて無理やり涼子をいったん立たせ階段に座布団がわりに敷いたり、あまりきれいじゃないとだだをこねる涼子を毛布がないからと説き伏せ暗幕で彼女の躰をくるんだりして世話を焼いた。また念のため、涼子が暗幕に直接触れるのを嫌がって剥いでしまわないとも限らないので、スポーツバッグから自分のジャージの上着を出して涼子の肩に羽織らせ上から暗幕を掛けてやった。
 葉魚絵は涼子の隣にぴたりと寄り添い、彼女がここ一週間の次第を語り出すまで待つことにした。今は葉魚絵の「報告」どころではなかった。
「休学することにした」
 しばらくの沈黙を破り、葉魚絵のほうを向かないまま涼子が口を開いた。
「え? どうして」
「とりあえず半年、休学する」
 答えになってないよ、と言いたい気持ちをこらえ、葉魚絵は次の言葉を待った。
「葉魚絵、あたし、あんたに言ってないことがあったの」
 何? と葉魚絵が問う前に涼子は苦しげな声でぼそりと言った。
「こどもを堕ろした」
 葉魚絵は一瞬、涼子の言った事が理解できなかった。
「三か月だった。生理はしょっちゅう止まってたから気がつかなかったんだ」
「そう……だったの」
「高校の頃から付き合ってた相手だった。もう四年めで、あたし彼と結婚するつもりだった。彼も大学卒業したら結婚しようって言ってた。でもさ、彼と会う時に妊娠のこと言おうとしたらさ……」
 涼子はひざを抱えて丸くなったまま、ついと天井を見上げた。
「時間より早く待ち合わせ場所に着いたらさ、奴、知らない女の子とキスしてた。ちょっと離れたところからそれ、みつけた。約束の時間まで、あたし、ずっと彼らを見てた。女の子が奴から離れたときはもう待ち合わせ時間ギリギリ。あたし、やっと動けた」
「ひどい……」
「奴はあんまり楽しそうじゃなく『よお』って言った。そういえばここ何か月か、彼ずっとそんな感じだったんだ。笑ってなかった。あたし、気づいてたのに。わかんないふりしてた」
「涼子のせいじゃない」
「あたしね、奴に『キスしてたね』って言ったの。そしたら『ごめん』って。彼女とつきあう、って。『なんで』って聞いたら、彼女とはバイブレーションが合うんだって。うっとりしながら言ってたよ」
「なに……何よ、それ?」
「そうなったのはあたしのせい。あたしが悪いからあたしがつらいんだ」
「ちょっと、涼子!」
 思わず荒げた声が薄暗いエントランスホールに響き渡った。葉魚絵自身がその声に驚き口をつぐんだ。ややあって、葉魚絵は今度は静かに、尋ねた。
「それで……赤ちゃんできた事は彼に言ったの?」
「その日は回れ右して帰ってきた。翌日、電話で伝えたよ」
「彼は何て?」
「何も。翌日あたしは貯金下して。彼は快く同意書サインして」
「それだけ?」
「それっきり。まさか自分がこうなるとはね。堕胎を誇らしげに言う奴の気が知れない。あ、でも痛いのとかつらいのとか我慢したら人に自慢したくなるもかもね」
「ご家族……は?」
「知らない。気づかれなかったよ。知らせても同じ。強制的に子供は同じ道を辿るだけ。両親とも医者だし。父は病院長。妹も医者を目指してる。あたしはひとりで育てることも許されない。それに刃向う事も考えた。でもあたしの体力じゃ無理。葉魚絵、軽蔑する?  あたしは祝福されない命を宿し潰したから……葉魚絵?」
 涼子は講堂に来てから、はじめて葉魚絵の顔を見た。涼子の空を彷徨っていた目が、焦点を取り戻す。焦点を取り戻した焦げ茶の黒目がちの目は大きく見開かれた。
 濃く長い睫をまばたきさせることもなく、葉魚絵は涙を流していた。肩も震わせず、声も漏らさず、くっきりとした大きな目を開いたまま葉魚絵は泣いていた。
「なんであんたが泣くのよ」
 あきれたように涼子は言った。葉魚絵は何も答えず、彫像が涙を流すように泣いている。涼子は困り果てた表情で、しばらくの間ポロポロと涙を流し続ける葉魚絵を見つめていた。
「なんで、あんたが泣くのよ」
 葉魚絵は聴いた。この上なくやさしいピアノの声を。棘をすべて抜き取った涼子がすぐ目の前にいた。父親が誰であろうと夢みていた愛し子を失った聖母が。口の両端をやや上げて微笑む涼子を、葉魚絵ははじめて美しい女だと思った。それまでも涼子の美貌を認めてはいたが、彼女はいつでも中性的な匂いをまとい、その無色透明なイメージを崩すことはなかったのだ。
―このひとは私より、ほんとうはずっとおとななんだ。
 ひくり、ひくりと葉魚絵はしゃくりあげはじめた。
「ばかだね。泣かなくたっていいじゃん」
「でも、っでも……。りょうこ……、それじゃあ、涼子がかわいそすぎ……っる……」
 ひっくひっくと泣きじゃくる葉魚絵の肩を、暗幕の中から伸びた涼子の細長い腕が抱き寄せる。女性にしては長身の涼子は手足も長い。決して小柄ではない葉魚絵はすっぽりとその胸にゆるく抱き込まれた。
「ありがとう。葉魚絵」
 節のしっかりとした細く長い指が、葉魚絵の前髪をすくい上げる。葉魚絵は額にわずかな体温を含んだ涼子の唇がかすかに触れたのを感じた。
「葉魚絵、あたし、葉魚絵がだいすきだよ」
 痩せこけたマリアの胸の中で、葉魚絵はいつまでも泣いた。涼子の悲劇を嘆いて。そしてある予感を悲しんで。

涼子に恋人がいた事など知らなかった。いつも涼子と行動を共にしている石原まきと中沢彩子は知っていたかもしれない。涼子がそれを教えてくれなかったことなど、葉魚絵には最早どうでも良かった。ただ、葉魚絵は混乱していた。
 涼子は休学届けを出したらしく、学校で涼子を見ることはなくなった。涼子からは何の連絡も来ない。葉魚絵は部活も授業も休みがちになり食べ物もろくに喉を通らなくなり、満足に眠ることもできなくなった。日に日にやつれていく葉魚絵を両親と友人たちは心配したが、葉魚絵は彼らの問いかけにも力なく「大丈夫。心配してくれてありがとう」と言うばかりだった。
 そんな日々が過ぎて涼子と最後に会った日から更に一ヶ月ほど経った頃だろうか。冬の光ばかりが暖かそうな昼下がり。ぼんやりと大学の中庭のベンチに腰かける葉魚絵の横に、誰かが腰を下ろした。いつでも必ず二、三人は葉魚絵の側に友人たちがいたのだが、最近の葉魚絵は好んでひとりでいることが多くなっていた。
 葉魚絵が席を立とうとすると「待って」と聞き慣れない女性の声がした。
 魂が抜けた顔で横を見遣ると、涼子の友人である石原まきがそこにいた。一番会いたくない人物のひとりに会ってしまった葉魚絵は無視して立ち去ろうとしたが、その袖をまきがつかまえた。
「はなして」
「だめ。ここに座って。話を聞いてほしいの」
 仕方なく葉魚絵はベンチに座った。涼子と同じグループの石原まきと中沢彩子はタイプこそ違うが、涼子と雰囲気がどことなく似ていた。葉魚絵にはそれが羨ましくもあり、妬ましくもあった。そして傍らの石原と並んで座っていると、どうしてもあの懐かしい涼子の面影を思い出してしまう。それが葉魚絵にはたまらなかった。
 そんな葉魚絵の気持ちを知ってか知らずか、まきは語り出した。
「涼子の事は知ってると思うの。あたしたちもだいぶ後になってから知らされた。一ヶ月くらい、涼子とは連絡とれなかったんだ。あたしと中沢もすごく心配した。でも彼女のスタンスのとり方ってあるから、涼子からの連絡を待つことにしたの。涼子に何が起こったかって聞かされたときはびっくりした。彼氏いるのは知ってたけど、知ったきっかけは偶然。それに彼の話って聞いたことなかったから。あんな奴だったなんて……」
 途切れた言葉を不審に思い、石原まきのほうを葉魚絵が見ると、彼女は膝の上で、ぎゅうっと両のこぶしを握りしめ肩を震わせていた。葉魚絵の彼女への敵意は急速に薄らいでいった。まきは口調だけは淡々としていた。
「奴のことはどうでも……よくないけど、それはあたしがあなたに言いたい事とは関係ないんだ。この一ヶ月間、あたしは涼子の『目』だった」
 葉魚絵の眉が反射的にぴくりと動いた。
「涼子はあなたのことを心配してる。そして直接あなたと話すのを怖がってる。あたしは今、涼子に飯島葉魚絵はどうしてる? って聞かれても答えらんないよ。飯島葉魚絵、今のあなたは見ちゃいらんない。ねえ、あなたがそうなったのは涼子のせい?」
 葉魚絵は返答に戸惑った。
「あなたが壊れてしまうのを涼子の『目』は見ていられないんだよ。どうすればいい? どうすればいいの?」
 葉魚絵は沈黙するより他はなかった。一体、どうすればいいのだろう?
 まきは鞄の口をあけて、教科書やノートの間からパステルピンクの花模様の包装紙で包まれた細長い箱を取り葉魚絵の前に突きつけた。
「手紙とかは一切ついてない。これを見たらわかるって。開けて」
 葉魚絵は素直に包みを留めているシールを破いた。箱は涼子が自分で包装し直したものらしく、折り目が微妙にズレている。包みは開けると包装は二重になっていた。淡いカラーの包装紙の下は……楽譜だった。広げて見るとそれは、あの日、涼子が弾いていたカバレフスキーの楽譜だった。そして箱の中身は光沢のある薄物の淡いブルーの布だった。
「これは?」
「自分で見なよ」
 言われた通りに葉魚絵は箱から布を引っ張り出した。思ったよりそれは大きく、細長い形をしていた。
「スカーフ?」
「みたいだね。絹だと思うよ。涼子の感謝の気持ちだと思う」
「『だと思う』って?」
「何も言わなかったから。身に付ければ何かわかるのかもしれないよ。あ、ここでじゃなくていいからね。ひとりで、それを手にとってみたほうがいいと思う。それから」
「なに?」
「涼子は復学しないかもしれない。絵の学校に行くらしいよ。あの子、ピアノも上手いけど絵も上手なんだ。それに家を出るつもりらしいから。ひとり暮らしでピアノの置けるところなんて、そうそうないしね」
「ひとりで?」
「そんな顔しないでよ。涼子はしばらくひとりになりたいから、あたしを「目」にした。あたし、あんたがうらやましい」
 意外な言葉に、葉魚絵はまきの縁なし眼鏡の向こうの瞳を見返した。
「誰よりも、あなたは涼子の近くに行けた人だから」
「え?」
 校内にチャイムが響き渡った。まきがすっと立ち上がる。
「あ、授業出ないと」
「待って!」
 今度は葉魚絵がまきの袖をつかんで引き止めたが、まきは再び座ろうとはしなかった。
「あたしが言いたいことはこれで全部。涼子からの預かり物も渡した。今のあなたは見てらんないけど、あたしの希望、ううん、涼子の希望どおりに元のあなたに戻れとは言わないよ。どうするかはあんたの自由だもの。強制はしない。でも」
「でも?」
「あなたはこのままでいいの?」
 眼鏡の奥で、まきの瞳が潤んでいた。
「あたしも中沢も涼子が大好きなの。愛してる。そして涼子の大好きな飯島葉魚絵のことも」
 走り去って行くまきの後ろ姿を呆と見送りながら、葉魚絵は手の中の絹のスカーフを握りしめていた。
それから二週間後、葉魚絵は両親に「絹を織りたい」と告げ、両親は何も意見せずに退学の意思を娘に尋ねたあと、頷いた。
そして。瞬く間に二年間が過ぎた。
 葉魚絵は命に命を織り込み、機を織る。


 燃えている。いや、赤く毒々しいような朱の色が辺りを染めている。夕暮れだろうか。ぎらぎらとした赤い光りが満ちている。
 繭良は走っていた。何かに向かって駆けていた。何事かを、喉も裂けよとばかりに叫びながら。繭良の視点の先には輪郭のぼやけた影がある。影との距離はなかなか縮まらない。影は次第に像を濃くしてゆくのに。
 繭良は無我夢中で駆けた。やっと辿り着いたのは蚕小屋の入り口だった。
 影の姿は見えない。肩で荒く繭良は息をつく。呼吸を整えると蚕小屋に足を踏み入れようとした。が。

びいいいいいいぃいいいいんん。びぃぃぃぃいいいいんん。

 その音にはっと顔を上げる。あたりを見回して何かを叫ぶ。誰かを呼ぶ。繭良はぐるぐる回りながら何者かに向かって叫ぶ。

びぃいいいいんん……。

 低い、うなる琵琶に似た音。靭彦の馬頭月琴より低く、地の底から響く音色。波形を描く、その不気味な重低音に繭良の声は次第に金切り声に高くなっていく。

 音が、止む。

 繭良も叫ぶのをやめて立ちすくむ。蚕小屋へと駆け込んだ。何の音もしない。蚕は繭になる前の「眠(みん)」に入ったのだろうか? いや、全部が一斉になんてありえない。つづいてむっとする桑の匂いと葉のすえた匂いが彼女の鼻孔を突いた。蚕が桑を食む音も、葉の上でひしめきあう音も、何も聞こえない。繭良はおそるおそる二階への梯子を上った。
 高い吹き抜けの天井に、小屋中に、血を吐くような彼女の悲鳴は響き渡った。

「はッッ!!」
 がばりと繭良は布団から飛び起きた。まだ夢と現実の区別がつかない彼女は落ち着きなく上体を起こしたまま、まわりをキョロキョロと見回した。やがて自室にいることを認識すると、彼女は大きく息を吐き、はだけた寝間着の浴衣の襟元をかき合わせた。
 髪をかきあげ手を頭にやると、額にじったりと汗をかいているのがわかった。
「日(ひ)夏(なつ)……」
 思わず呟いた名前に誘われ彼女の膝を覆う布団の上に、ぽたりと水滴が滴った。続いてぽたり、ぽたりと……。
 繭良はどうして自分が涙を流しているのかわからなかった。涙は感情の発露である。悲しみのためだけに人は泣くわけではない。しかし繭良には、どんな感情が自分に押し寄せているのかわからなかった。今の彼女には恐ろしい夢からさめて緊張の糸が解けて泣いているのか、吹き出した感情に躰が反応しているのかさえも区別がつかないのだった。
「くるんだね」
 誰に語るともなく、繭良はひとり口に出して呟いた。
「ひなつ……。くるんだね。ここに」
 日夏。かつて繭良が愛した男。そして靭彦の敵。いや、今や里全体の敵。
部屋の大きな掃き出し窓にかかったカーテンからは日の光りが漏れている。陽はもう、かなり高いようだった。
 百鬼夜行の夜の翌朝、繭良は発熱した。三日たった今もまだ微熱が続いている。神社の仕事も満足にこなせない時もあったが、無理をしようとすると、まかないの市原にとめられた。そんなとき繭良はその好意に大人しく甘えることにした。
「繭良さん、起きてますか?」
 襖の向こうから、のんびりとした市原の声が聞こえる。
「はい。起きてます。どうぞ」
 繭良はあわてて涙を拭って元気に答えたが、その声はまだいつもより細い。
 襖が開いて市原に続いて室内に入って来たのは、葉魚絵だった。
「葉魚絵さん!」
「具合はどう? ごめんね。電話したら寝込んでるっていうから、どうしようかと思ったんだけど……」
 遠慮がちに言う葉魚絵のあとを市原が継いだ。
「私が頼んじゃったんですよ。良かったらお見舞いにいらして下さい、って」
「あの、調子悪かったらすぐ帰るから……」
 申し訳なさそうな葉魚絵の手にはかわいらしい小振りのヒマワリの花束が握られている。
「ううん。もうだいぶいいんだ。丁度退屈だったし」
「ほんとう?」
 とたんにぱっと葉魚絵の表情が明るくなる。
「もうちゃんと仕事しなきゃいけないんだけど」
「とーんでもない!」
 市原が反論した。
「日頃宮司にあれだけこき使われてるんですもの。たまにはゆっくり休んだほうがいいんです! ね、葉魚絵さん」
「え? ええ」
 市原に急に同意を求められ戸惑う葉魚絵から「これ、活けてきますよ」と花束を受けとった市原は、ゆっくりしていって下さいねと言い残して部屋を出て行った。
「本当に大丈夫? まだ顔色悪いよ」
 繭良の布団の傍らに腰を下ろした葉魚絵はまだ心配そうだ。
「葉魚絵さん、夏休みは?」
 染色学校の夏休みはお盆をはさんで二週間程ある。夏期休暇中は例年8月の15日前後の3日間を除いて生徒たちに学校の施設が解放され、寮も滞在が許される。また、希望者は休み中の講座を選択する事もできる。勿論、葉魚絵は毎年夏期講座を受講していた。
「今年も帰省はしないつもり……だったんだけど」
「だけど?」
「なんだか今年は長く休みをとるんだって。学校と寮の補修と害虫駆除をやるとかで、9月中までおやすみ。それでいやでも家へ帰らなきゃいけないみたいなの。急だしお祭りも行きたいし、私はいつも通り残りたいんだけど。いきなりそんなの、ひどいよね?」
 お祭りまでに仕上げたい物があるのに、と葉魚絵は唇を噛んだ。
―「疎開」、するんだ……。
 葉魚絵と会えなくなる。もしかしたら、ずっと。途端に寂しさが繭良を包む。
―せっかく友達になれたのに。
 しかし、これから起こる事態を考えると葉魚絵に残ってほしいとは言えない。9月中まで、と学校は言っているらしいが、学校が再開するめどは日夏の来訪と靭彦の働きにより変わるだろう。いや、再開はあるのだろうか? 
 9月末。それまでには、日夏……『蚕殺し』と靭彦の勝負は決まっているだろうというのが『チャイルド・マーケット』に設置されている『ハンター・ギルド』の見解なのだろう。
「繭良ちゃん?」
 黙り込んだ繭良に葉魚絵が声をかける。繭良は伏せた顔を再び葉魚絵へと向けた。
―ちかくにいて。葉魚絵さん。
 そう言いたいのに、繭良はその言葉を発することができない。繭良は力なく口を開いた。
「さびしくなるね。でもまた会えるよね?」
「うん!」
 とその時だった。
「どおっから入ったあー! このくされ外道があーっ!」
 けたたましい市原の怒鳴り声とともに襖がガラリと開いた。
 転がるように部屋に入ってきたのは葉魚絵とさほど身長が変わらないであろう小柄で細身の若い男だった。
「おいマユラ! あのおばはん、何とかしてくれ!」
 おでこにたんこぶをつくった男が繭良に助けを求める。
「こら! 入るな!」
 続いて入ってきたのは柄を上にしたハタキをふりかざした市原だ。
「お、おばさん! 病人の部屋なんだから、静かに」
 緑っぽい黒いTシャツとジーパン姿の若い男の言葉に、市原はハッとして小さな声になったが激しい語調で男を罵る。
「その病人の部屋に、しかも寝間着姿の女の子の部屋に入るな! 早く出てけ! お前の菌のせいで繭良さんが余計悪くなったらどうする!」
「ひ、ひどい言われよう……」
 じりじりと市原に詰め寄られ、小柄な男は葉魚絵の背中に隠れた。
「悪い。あれ、あのおばはんから守ってくれ」
 背中で小さくなって震えているらしい男は葉魚絵の背中にびったりとはりついている。
「ま、繭良ちゃん。誰?」
「ゆきひこ……小さい頃の友達」
 繭良はおっとりと返す。もう靭彦と市原のやりとりをとりなすのも面倒になっているらしい。
「幼馴染み? 繭良ちゃんの?」
「そ、そう! 仲良しなんだ、俺たち」
「黙れ! ちょっと目を離すとすぐこれだ! 葉魚絵さん、その男をつかまえて下さい」
「つかまえて、って……」
 市原と靭彦にはさまれる形で葉魚絵はどうしていいのかわからない。
「なあ、頼むよお。助けて。俺、このひと苦手」
「そんなこと言ったって……」
「あんた名前は?」
「は、葉魚絵。飯島葉魚絵……」
「はなちゃん、俺はユキちゃんだ」
「ナンパするんじゃなーい!」
 市原がさらに頭上高くハタキの柄を振り上げる。
「ちがう! 自己紹介だ!」
「うるさい!」
「ちょ、ちょっと……」
 葉魚絵は靭彦にはりつかれ、市原に迫られ躰を反り返らせている。葉魚絵は背中と腰が痛くなってきた。葉魚絵がほとほと困り果てたタイミングで、
「ユキ、喉乾いた。お茶。冷たいの」
 淡々と、繭良が言い放った。 ぱたり、と市原と靭彦の動きが止まる。
「待ってろ! 俺、すぐ持ってくるよ!」
 ぴょんと靭彦が葉魚絵から離れて部屋から駆け出す。
「いいえ! 外道に給仕なんかさせられません! 私が!」
 続いて市原が小太りの初老女性とは思えない素早さでダッシュした。しばらくふたりが廊下を駆け抜けながら罵倒し合っている声が聞こえてきたが、庭の中ほどに出たあたりでゴン! という音と靭彦の悲鳴が部屋に届いたあとは、また元の静けさを取り戻した。
「ごめんね、うるさかったでしょ?」
 繭良が申し訳なさそうに言う。
「う、ううん」
「田舎の友達なの。今、遊びに来てて母屋に泊まってるんだ」
「そうなんだ」
 素振りからすると靭彦は恋人ではないだろうと葉魚絵は思ったが、やはり軽い嫉妬を覚えずにはいられなかった。彼は幼少時の繭良を知っている。小さい繭良はきっと愛くるしい女の子だっただろう。
「出発はいつ?」
 繭良の質問に、葉魚絵は現実に引き戻された。
「まだ決めてない。ギリギリまで残るつもり」
「家に帰る前にまた来てくれる?」
「うん」
 市原がいつもよりさらに人なつこい笑顔を浮かべてアイスティーを運んできたとき、ふたりは長い付き合いの友達同士のように笑いながらおしゃべりに興じていた。


「あ、来たね。やっほー」
「偶然だ」
「ウソだね。『音』が聞こえたんだろ?」
 もしも犬だったらぱたぱたと尻尾をふっているであろう楽しそうな靭彦とは対象的に、タカオの表情は渋い。
 ふたりは最初に出会ったあの丘の上にいた。靭彦は満足気に馬頭月琴からバチを離した。靭彦が口を開く前にタカオが言った。
「宮司だろうと親父の頼みだろうと俺はやらないからな」
「どうして?」
 靭彦が不思議そうに問い返す。
「だいたい祭だって本当はやれるような状況じゃないんだ。第一、俺は神楽なんかやった事ないし、楽器もできねえんだぜ。どうしろってんだよ?」
「最近では神楽奉納っていっても舞踊のサークルが演歌をバックに踊ってたりとかしてるらしいよ。宮司が言ってた。だからそんなに堅苦しく考えなくていいよ。それに、タカは歌を歌えばいいじゃん。ってゆうか、歌ってよ」
「馬鹿! この緊迫してるときにだな、呑気に歌なんか歌ってられっかあ?」
「祭に参加してることにはなる」
「ばかばかしい。俺は御輿だって担ぐし青年団の見回りがあるんだ。お前になんか付き合ってらんねーよ」
「御輿は時間をやりくりすればできるよ。見回りはやんなくていいし」
 靭彦に背を向けかけたタカオはその言葉にぎっと振り返り、物凄い形相で靭彦をねめつけた。
「自分の生れ育った場所を守るなって言うのかよ? 決めた。お前とは組まない!」
 タカオは靭彦に詰め寄った。身長差があるので靭彦を見下ろすようにタカオは仁王立ちになっている。しかし靭彦は一歩も引かない。
「だから守るんだよ。宮司とタカの親父さんのバックアップがあれば、みんな文句言わないだろ? 何か大切なことだって思うよ」
「ああ、どうかしてんだよ、親父も榊宮司もな」
「それは違う」
「どう違うんだよ!」
「守ってくれ。この里と……マユラを」
 急に真剣な声色になった幸彦に繭良の名を出され、タカオは一瞬ひるんだ。
「タカ、お願いだ。詳しい事はいきなり説明しても混乱するだけだと思う」
「どういう……ことだ?」
「マユラのあの傷、見ただろう?」
 百鬼夜行の晩を、タカオは思い出した。繭良の華奢な躰に刻まれた、無数の痣が脳裏に蘇る。
「マユラは今年も神楽舞を舞う。もし俺たちが神楽奉納に出ることになれば、今回あいつは奉納のためだけに踊ればいいんだ。俺たちがかわりに『あれ』を押さえていれば、あいつは祭までの間『神』の慰みものにならずに済むんだよ!」
「『あれ』って? 『神』だって……?」
 しまった、と靭彦は小さく舌打ちした。
「ああもう! だから! 俺たちがやらなきゃマユラが祭までずっとあんな目に遭うんだよ! 俺たちが神楽奉納のために稽古やれば、マユラはただ踊るだけでいいの! わかんなくてもいいよ!」
「あ、ああ……わかんない」
 吠えまくる靭彦を前に、タカオはたじろいだ。
 繭良がたった一人で白里の『神』へのエネルギー供給のため『神降ろし』をし、これ以上痛めつけられるのは靭彦には耐え難かった。
「いいから! わかんなくてもいいから! タカは目立つし人望だってある。そんな男が神楽奉納に出てみんなの士気を高めるとか、こんな状況でも立派に祭で大役を果たしてるって『絵』があってもいいだろ? みんな納得するさ! だから……」
「だから?」
「俺だけじゃ駄目なんだ。あいつを助けてやれないんだ……」
「靭彦……?」
「頼むよ。俺だけじゃ、だめなんだよ。タカの力が必要なんだよ……」
 消え入りそうな語尾になりながらも、靭彦は必死の表情でタカオを見上げしっかりと目線を合わせている。こいつもこんな顔をするんだ、とタカオは不思議な気持ちになった。
 榊が繭良に『神降ろし』をさせる真意は、実はまだよくわからない。しかし、白里神社に宿る「神」がある一定の期間、繭良の舞により活性化されているのだろう、ということは確信していた。
元来「踊り」とは神に捧げられることから発生しているといわれている。神へ踊りを捧げる巫女は踊ることによってエネルギーを神へ捧げるのだが、そこで神と一体化するという形をとるものが多い。巫女は自らを神に捧げ、神を慰める。そしてその代償として農作物の実りを約束されたり、その身に人知を越える力を授かったりするのである。エネルギーの交換と一体化、これは何かの行為に似てはいないだろうか? 古来、巫女と娼婦は兼業されることが多かった。古代のギリシャのある地方では、「聖娼」と呼ばれる役目があった。これは職業というより「役目」に近いのだが、毎年選ばれた若い女が巫女として神殿にある一定期間籠って村の男たちを待つ。神殿にやってくる男たちは聖娼の前にいくばくかの金品を置き「ミュリッタ様の名のもとに」と唱えて聖娼と交渉を持つ。そうすることによって、男たちは一年のあいだ神の加護を受け、村と家族を守る力を授かる。これは神の力を巫女を通じて受けるということなのだろうが、神殿の巫女は肉体の交渉を持つことによって発生するエネルギーを神に捧げるということなのかもしれない。

その「役目」に繭良はうってつけの「存在」だった。

 白里神社の「神」は繭良の舞によるエネルギーを受け、明らかにそれに反応し活性化して繭良のエネルギーをむさぼり喰らっている。  
 繭良の「神降ろし」は踊るという行為からはじまるものとはいえ、限りなく人間の肉体の交渉に近い。しかも相手は実体のないエネルギー体であり、肉体を持つ人間と同じ思考を持っていない。それゆえ繭良の肉体への手加減はない。いや、手加減しようにも容量の少ない電球にそれをはるかに上回る電気を流すようなものである。肉体が損傷を受けてしまうのは当然といえるだろう。
 榊に神降ろしをやめさせることはできないだろう。しかし、形をかえて「神」のエネルギー供給を促すことができれば……。
 靭彦の脳裏にまず閃いたのはタカオが歌い唱えた祭文、そしてタカオの声だ。
―タカオの声は戦力になる。
靭彦はそう、考えた。タカオは意識していないだろうが、タカオの声には靭彦の馬頭月琴と似た力がある。おそらくは母親譲りの力なのだろう。靭彦の馬頭月琴だけでは繭良の舞ほどの出力は望めない。また「神降ろし」に対応しうる音は靭彦の馬頭月琴では周波数にズレが生じる。その点、タカオの声が出す周波数はピタリと一致する。そしてあの祭文を知っている。それでも繭良の代わりが務まるかどうかは怪しいものであったが、今の靭彦には他に手段がなかった。どういう訳か榊も快く承諾した。あとはタカオの同意を得るだけである。靭彦はじっと、タカオの瞳を見つめた。
タカオには靭彦の言っている事はさっぱり理解できない。しかし靭彦がマユラを守りたいと願っていることだけはわかる。そしてそれが里のためでもあるというのなら……。余計な思考は要らない。
「一生のお願いだ。本当だよ」
 丘を風が吹き抜け、かすかに馬頭月琴の弦を揺らす。たわんだ微かな音が、風とともにタカオの耳をなぶった。
「俺は、何をすればいいんだ?」
 泣き出しそうだった靭彦の表情がぱっと明るくなった。
「とりあえずスタジオ入り、かな」
「どこだよスタジオって」
 タカオは怪訝な声で尋ねる。
「社務所の稽古場」
「カタカナにすりゃいいってもんじゃないだろ」
「あははっ」
 タカオは差し出された靭彦の手を握らずに彼の頭を片手のひらで上からがしりとつかむと「お前、ちっちぇえ躰してるよなぁ」と言って笑った。

  4

社務所内にある板張りの大きな部屋に少女は座していた。
対峙していた長身の男は沈黙するばかりの少女に、冷たいバリトン声で無機質に同情の色もない口調で語りかけた。
「ずいぶんと、いろんなモノを引き摺っているんだね」
「仕方ないんです」
「断ち切ることはできないのかい?」
「私には……できません。これは『罰』ですから……」
 榊は笛を構えた。
「何をするんですか?」
腰を浮かした少女を榊が制した。
「座りなさい」
 戸惑いながらもその場に正座し直した薄茶色の長い髪をした少女の焦げ茶色の瞳には、まだ迷いがあった。

ピイイーッッ!

鋭い笛の音が響き渡った。
少女が躰ごと垂直に跳ね、床に倒れこんだ。榊は笛を止めなかった。少女は見えない何者かに揺さぶられるように動き、閉じられた目は小刻みに震えた。
笛は、なおも空を切り裂き啼く。 
まだ幼さを帯びた華奢で青白い少女の肌は次第に汗ばみ、その肩や背中からは細く白い煙りがたなびき、ゆるく渦になり大きく変化し立ち昇る。それにつれ、甘いウイキョウの香が少女の躰から漂い、広い部屋をたゆたっていった。
 笛を休めない榊の額からも汗が滴り落ちる。
―そろそろか。つらいだろうが、耐えてくれ。
 榊は一層目に力を込めて女を凝視した。
『やめろ』
 重い、苦渋に満ちた中年男の声が少女の唇から漏れた。
『戻りたくはない、あの躰に』
―お前は、いや、お前たちはこの女の躰に残ったお前たちの主の「影」ですらない。思い出したくない記憶の残滓だ。
 笛を手に奏でたまま、榊は答える。
『この娘はやさしい。離れたくはない』
―お前たちにとっては優しさなど当然なのだろう? そのはずなのに、当然のものさえお前たちは得ることができなかった。
『ちがう』
―優しさとひきかえにお前たちはこの女に何を与えた?
『正当な取引きだ』
―取引き? そうだ与えたものは金だ。彼女の上にお前たちの飢餓と絶望の澱を落として金を払って引き取らせた。優しさと引き換えにお前たちが彼女にぶつけたのは屈辱と倦怠の汚れだ。いや、お前たちはそれだけじゃない。肉の快楽だけでなく相手に屈辱を与える悦びに満足してきた。もう、十分だろう? 
『お前も男だろう?』
―馬鹿が。
酷薄な笑みが榊の口の端に浮かんだ。
―俺は無駄な期待などしないさ。

ピイイ―!!

 その時、浅葱の袴姿の神職の装束を身に付けた数人の青年たちが彼女の背後に現れた。しばらくの痙攣ののち、少女は金切り声をあげもがいたがすぐに崩れ落ちた。
『もう、抜けました』
『抜けたというより飛び散りましたね』
『こんな脆い影、どうして今まで。この人なら払えたでしょうに』
浅葱の袴の青年たちは皆、一様にぼやけた輪郭をとり、顔の造作ですら定かでない。その声も調子のはずれたビブラフォンの残響に近く人間とは思えない。
「あえてそのままにしてたんだよ。今まで健康にも影響が出ていただろうに。馬鹿な子だ」
 榊が少女を抱きかかえ上げると、青年たちは掻き消え姿を消した。
 榊結也(ゆうや)は意識を失い目を閉じている少女の顔を見下ろした。もう汚濁の念たちの跡など微塵もない。
―伊織の言った通りだ。
 結也は弟の語ったことを思い出していた。なるほどよく似ている。結也と弟である榊伊織の姉、ひな子と……。
 ウイキョウの匂いは、まだ微かに部屋のなかに漂っていた。

 榊結也と妻の咲(さき)の間に子はなかった。けれど結也は咲が傍らにいるのであれば、それで満足だった。子を育てる楽しみを味わうことはできなかったが、あるとき突如として幼児に戻ってしまう咲を守る充実感を、結也は知っていた。
 咲は数少ない御白村のネイティブである。村が白里と名を変えた時、そこに住まっていた本来の村民は彼女のほかにはその弟と百歳は越えているであろう彼らの曾祖母の老婆の三人だけだった。
 彼らは御白神社を護ってきた家系にあったが、神社の維持は難しく境内は荒れるがままに任せていた。二人きりの姉弟は過疎の村でほそぼそと養蚕と農業を営み、生活していた。手先の器用な弟は絹の工芸品を作って街へ持って行き、売って生活の糧の一部としていた。村に残った彼の作品は、のちに染色学校に保存されることになる。また、姉の咲は神楽舞と謡い、弟のヨシロウは神楽を演奏することができたので、他の村の祭りでそれらを披露することもあったという。彼らの曾祖母も白里ができた直後に死亡しているが、拝み屋のようなことをやっていて、遠くから訪れる依頼者も居たらしい。
 彼ら三人は、異郷のものたちが自分たちの場所に故郷をつくることに、意外にもあっさりと承諾した。
断ってもそれは遂行されていたことではあるのだが。
 結也が初めて咲の舞を見たのは「白里村」での最初の祭りだった。舞台の上から濃すぎないが艶やかな化粧を施した咲が結也に向かって微笑みかけたのは、彼の思い違いだったのかもしれない。が、25歳にして結也は生まれてはじめての恋をした。不器用に結也は咲に少しづつ好意を示して行き、咲も徐々にそれを受け入れた。結也より五つ年下の咲は度の過ぎる位純粋な女だった。結也にとって咲の精神に宿る微かな異常など問題ではなかった。咲の無邪気な笑顔は結也を救う。それだけで結也は満たされていたのだ。やがて結也の努力は実り、咲は彼にすべての心を開き、二人は結婚した。
 咲が発作により家事を満足にこなせない場合を考えて結也は街から賄いの市原を雇い、なるべく咲を刺激しないよう人ではなく境内に、いや榊の元に集う、かつて人間であった『モノ』を式として使役することにした。二人の結婚後、同居を断っていたヨシロウであったが、結也が庭に一軒屋として機能できる離れをしつらえると、彼は遠慮がちに曾祖母と共にそこに移り住んだ。
 ヨシロウは心身ともに健康であったが姉と同じく無邪気で無垢な青年で、素直に結也と咲を祝福し結也を実の兄のように慕ってくれた。
 祭りの時には咲が舞い、結也が笛を吹き、ヨシロウが太鼓を打ち鉦を鳴らした。結也にとって至福の時が過ぎていった。
 そんなある日、ヨシロウに旅立ちの時期がやって来た。
「兄さん、姉ちゃんをよろしく。姉ちゃん、実は前からああじゃなかったんだ。姉ちゃんが十六、俺が十三のときに街で事故に遭って両親いっぺんに亡くしてからだよ。姉ちゃんは頑張ってくれた、とても。頑張りすぎたんだよ、きっと。だから時々、一番楽しかった幸せだった時間に戻るようになっちゃったんだ。俺たちと一緒に居るときだけ、ああなっちゃってたんだ。仕事中はそんなことなかったみたいだよ。はじめて言うね、こういうこと。ごめん結婚前に言わなくて」
「気にするな」 
結也にそう声をかけられヨシロウは、端がやや吊り上がってはいるが、ひな人形によく似た形の良い目を細めて微笑んだ。
「兄さんに会えてよかったよ。姉ちゃんも、俺も。もうここでの俺の役目はないし、婆ちゃんも死んじゃったし、俺ももうハタチになったし……。俺はここを出るよ。兄さん、姉ちゃんを任せていっていいよね?」
 結也はまだ幼く見えるヨシロウの瞳をじっと見返し、深く頷いた。
「ありがとう」
「ヨシロウ」
「なに?」
「いや……。何でもない」
 結也は何を言いたかったのか瞬時のうちにわからなくなっていた。
ふっと胸をよぎった不安は思い過ごしか寂しさか。
「兄さん、俺も兄さんみたいに幸せな家庭を作るよ。今度こそ一緒に生きていくパートナーを幸せにするよ。最高に愛せる女ができたらこれを」
と、ヨシロウはうす紫のちりめん地の大きな巾着袋を出し中を開けてみせた。
「これをあげようと思うんだ」
「これは?」
 それは鼓だった。しかしただの鼓ではない。装飾用だが、素晴らしい出来だ。桑の木枠に巧みに絹糸を絡め編まれた綾の鼓だった。
「俺の最高傑作だよ」
「すごいな」
「これを手にした女と、俺はまたここに来るよ」
「来る? 帰る、だろう?」
「あははっ。そうだね」
 この世の汚れの何物にも染まない無垢な笑顔を残して、ヨシロウは里を離れた。その数年後、ヨシロウは消息を絶った。

 ヨシロウとの連絡が途絶えても、不思議と咲は嘆く様子はなかった。結也を思いやり不安を見せなかっただけなのかもしれない。結也もその事には触れなかった。もしも何かあったとしても何の連絡もないのはおかしい。ヨシロウは何も言わずに旅立った。彼なりの考えがあったのかもしれない。非常時なら何かしら自分の元に「シラセ」は来るだろうと考えた。淡々と日々は過ぎていき、夫の支えもあってか咲の発作は減っていった。
 年月を重ねても咲は年をとらなかった。いや、年齢を重ねていくように見えなかった。咲が20歳のころ、はじめて会った時から彼女は変わらず若く美しいままに結也は思えた。咲の、その名の通り芍薬の花が咲くがごときふわりとした微笑を常にたたえた顔は人生の錆など寄せつけず、ややぽってりとした唇は瑞々しさを失うことはなかった。いつまでも艶やかな黒い髪はほどくと山から吹き降りる風にふわりふわりとそよいだ。
 三十半ばを過ぎても表情はおろか体型も何もかもが変わらない咲を見ていると、時折、結也は異類婚の話を思い出さずにいられない。
 人間の異界のものの婚姻の際には「かみきり」という妖怪が現れ、はさみをシャキシャキと鳴らすという。「かみきり」が何のためにはさみを鳴らすのかは知らない。人と結ばれる人でないモノと、異界との縁を断ち切る意味だという説もある。結婚式の時、結也ははさみの音を聞いてはいないが、聞こえなかっただけなのかもしれない。
 しかし。咲が異類のモノであろうと人でなかろうと、結也には関係ないことだった。
 芍薬の花のような咲は芍薬の花を愛した。結也は庭に何本もの芍薬を植えた。五月になると芍薬たちは美しいうす紅の八重の花を咲かせ、結也の妻を喜ばせた。

ある年の五月。その年も芍薬は大輪の美しい花を咲かせていた。
 うららかな昼下がり。所用を済ませ神社に戻る前に母屋に寄った結也は、庭の芍薬の群れの前に佇む妻を見つけた。声をかけようとしたその時、彼女は急にうずくまり肩を震わせはじめた。
「咲!」
 足袋のまま縁側から飛び降りた結也は、咲に駆け寄り屈み込んでその肩に両手をかけた。咲はしくしくと泣いていた。童女のようにしゃくりあげる彼女に、結也は久しく起こらなかった発作だと感じた。咲の場合は発作といっても激しいものではない。ただ幼児に戻ってしまうだけだ。しかも特に暴れる訳でもなく、淡々と時を巻き戻すだけだった。だが今回はどこか違う。結也の背中に冷たいものが走った。
「咲、どうした? 咲、もう大丈夫だよ、もう大丈夫だから」
 優しくなだめる結也の顔も見ようとせず、咲は泣き続ける。
「咲?」
「……なきゃ……」
「どうした? 言ってごらん?」
「さきちゃんねえ………。いかなきゃだめなの」
「どこへ?」
正体の知れない恐怖に、結也の喉がごくりと鳴る。
「ヨシくんがね、おねがいしてくれたの。だからヨシくんもいかずにまっててくれたの」
「ヨシロウ? 咲、ヨシロウがどうかしたのか?」
「ヨシくんね、いっぱいおねがいしてくれたんだけど、じゅうねんしかだめだって。でももうじゅうねんたっちゃったの」
「ヨシロウから連絡があったのか? ヨシロウはどうしてるんだ? どこなんだ?」
 ゆらりと咲が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになり髪をはりつかせたその顔はキョトンとしている。
「ヨシくん、ずっとここにいたよ」
「え? だって……」
咲が言葉を継いだ。
「ヨシくんねえ。ここにいたんだよ。かえってきたの。しんじゃってから」
 結也は冷水を浴びせられたように硬直した。
―なん………だって……?
 ヨシロウが死んだという言葉は結也にとって衝撃的なことであったが、結也がそれを気付かないはずはない。まして自分たちのすぐ近くにその「魂」が寄り添っていたのだというのなら……。結也であればそれを……。
 結也はかぶりをふり、咲に語りかけた。
「咲、大丈夫さ。ヨシロウはきっと元気でいるよ。きっとそのうちひょっこり戻ってくるから、さあ、おうちへ入ろう」
 そう言って連れて行こうとする結也の手を、咲は驚くほどの強さで振りはらった。
「ちがうの! ヨシくん、しんじゃってちかくにいたの。じゅうねんかんっておやくそくだったの! でも……もうじゅうねんたっちゃった……」
 立ち尽くす結也の首に、いきなり咲が飛びついてきた。バランスを崩してふたりは芝に倒れこむ。
「はなれたくない。はなれたくないよう。さきちゃん、ゆうやがすきなの。だいすきなの。どこにもいきたくないよう……」
 ぎゅうっと結也にしがみついたまま、咲は再びさめざめと涙を流す。結也は華奢な骨格の上に適度に載った咲のやわらかい肉を抱き締め、その髪をゆっくりと撫ぜた。
「咲、どこにも行くな。大丈夫だ。一緒だから。どこにも行かせない。ずっと一緒だ」
「ゆうや、ごめんね、ゆうや……。ほんとうはさきちゃんヨシくんといっしょじゃなきゃだめだったの。ふたりでひとつなの。さきちゃんたち。ずっとまえから。うまれるまえからの、おやくそくだったの。もういかなきゃ」
 陽光に彩られた庭が、かげりを帯びる。厚く雲が張られていく空。ひやりとした風。気流が、異常だ。
―オニたちよ、来い!
 結也の背後に、浅葱色の袴姿をした輪郭のぼやけた数人の青年たちが現れた。
―弓をつがえろ!
 輝く太陽は消え、辺りは真夜中の闇に包まれている。
 結也の背後にきりきりと弓の引き絞られる音がする。暗がりは芍薬の群れの後方から吹き出してきている。
「ゆうや、だめなの。もうさよならなの」
「咲! そんなこと言うんじゃない! 俺と一緒にいるって言うんだ! いつまでも一緒にいますって! 咲!」
 目に涙をいっぱいに溜めたまま、咲は結也の瞳を見返した。
「さようなら、あなた」
 妻が正気に返った瞬間、弓がいっせいに芍薬の群れに向かって放たれた。しかし、弓は芍薬の前で、いとも簡単に空で折られていく。
「咲!」
 結也の腕の中がふうっと軽くなる。咲は一瞬のうちにばらばらの細かな水の玉として弾け、夥しい芍薬の花弁となって散った。結也の腕のなかには咲が纏っていたモスグリーンの半袖のワンピースだけが残された。
 一陣の、季節にそぐわない冷たい風が吹き、咲であったうす紅の花びらを舞い上げる。結也はなりふり構わずそれらを掻き集めようと必死に腕を振り回したが、徒労に終わった。渦を巻いて舞い上がった花弁は芍薬の群れの上方へ、闇の空間へと吸い込まれていった。
 結也は声にならない叫びを上げて、その場に倒れ伏した。
 庭には、明るい陽射しが降り注いでいた。

夕刻。賄いの市原は庭に座り込んで微動だにしない結也と、その前に倒れている咲の亡骸を見つけた。驚いて駆け寄った市原に何度も肩を揺すられた後、結也はぽつりとこう言ったという。
「咲は、花に還ったんだ」と。
咲の葬儀の晩、結也がふらふらと足を向けた場所があった。神社の何十体ものオシラが眠る小屋で、その最上部の棚の真ん中に一組だけ黄変した白い絹布にくるまれたオシラがあった。結也はかなり以前にその片割れにひびが入っていたのを見たことがあったが、二体一対のオシラは今や胴体の部分がぼきりと折れて布にくるまれた頭をくにゃりと垂らしている。
『宿命』という過酷な因縁か? この血筋の。それも絶えた。結也のひとつの「感情」とともに。

 鳴動は夜毎、結也の眠りを破った。彼の使役する式たちもおびえているのを知ってはいたが、結也にはどうすることもできなかった。
 白里神社を立ち上げた際に鏡に封じ込めた御白神社の「神」がその鳴動の主であろうことは簡単に予測がついたが、結也にはそれをどう扱いどのように処理すべきかがわからなかった。鳴動と地鳴りは音にならない唸りをあげ咆哮し夜の神社から伝わってくる。それは腹を空かせた獣の鳴き声のようであり、何かを求めて泣き続ける幼子の叫びによく似ていた。
 めちゃくちゃなベクトルで発されるエネルギーが白里神社の平穏を乱しつつあった。しかし結也にはそれを正そうとする危機感などいっこうに浮かばない。ただ投げやりな気持ちがあるだけだ。
―咲とヨシロウが。本当はあのふたりが『あれ』を御(ぎょ)していたのか。俺に何ができるという?
 自問自答と咲のあの芍薬の笑顔を渇望する時間ばかりが過ぎる。生ける屍と化し日々を暮らす結也のもとに双子の弟、伊織からの電話が入ったのは咲の死後、一年が経過した晩の事だ。
「咲さんが亡くなってもう一年か。早いな」
 伊織の声にはノイズが混じっている。何度修理を頼んでも、一年前から神社の電話には耳障りな雑音が入る。
「まだ、若かったのにな。40だったのに」
「39だ」
感情のこもらない結也の返答にノイズの向こうで弟の呆れた含みの溜め息が聞こえた。
ザーザーというノイズがガザガザというより不快なものに変わる。
「兄貴、ヒナ姉さんに会いたくないかい? ああ、神社は義兄さんと姉さんで上手くやっているそうだよ」
「別に」
「嘘だな」
結也は胸を突く不快なやりとりに受話器を電話機に戻すことも考えたが、なんとか留まった。なぜ姉の名が出るのかが気になったのだ。
「ヒナ姉さんがどうかしたのか」
険を含んだバリトンの声にかぶさるように、その声まねをしているかのようなやや結也より高い声がかぶさった。
「ヒナ姉さんのコピー、預かってくれ。というより、要るだろう?」
―コピー? ひな子姉さんの?
「話が見えないな」
「兄貴がわからない? 重傷だな」
結也の不快感は我慢の限界だった。
「伊織、切るぞ」
「待てよ。明日、ヒナ姉さんのコピーがそっちへ着くからよろしく。もう切るよ」
「伊織! 待て」
今度は結也が引き止める番だった。
「どういうことだ? まったく訳がわからない」
「とにかくヒナ姉さんのコピーがそっちへ行けばわかるよ。その子がそっちで世話になることは兄貴にとって必要なことなんだ。俺にとってもね。まあ利害は一致しているが、兄へのプレゼントってとこさ。じゃあ、よろしく」
「伊織、待て。おい!」
 結也の耳にはツーッツーッという通話が切れたことを知らせる音のみが残された。
 翌朝。まだあどけない少女がひとり、結也を訪ねてやってきた。
「有栖川繭良です」
アリスガワ マユラ。少女はそう名乗ってうすく微笑んだ。

 結也は彼女に何をして良いのか全くわからなかったが、繭良の住込みで働きたいという要望を受け入れることにした。追い返す気も理由もなかった。繭良は神社の巫女としてよく働き、市原も素直な彼女にすぐに好感を持ったようだった。
 繭良が白里神社に来て一週間ほど経った頃、結也は自宅の庭で咲き誇る芍薬の群れの前に佇む繭良を見た。夕刻から夜への逢魔が時と言われる時間。奇妙な既視感が結也を襲う。
「そこを離れなさい」
縁側から庭の繭良の背中に向けて、結也の口から言葉が漏れ出でた。何故そんなことを言ってしまったのかはわからない。うす紅の芍薬の花の前で、繭良がゆっくりと振り向く。結也は眩暈を覚えた。
―咲? いや、ちがう……。ひな……子?
 不思議そうに結也の声に振り向いた繭良の顔に、一瞬咲の顔が重なり、続いて少女の頃の姉、ひな子の顔が重なった。
 ―彼女は若い頃の姉さんによく似ているんだ。
しかし懐かしさを感じたのも束の間、結也は全身が粟だった。
 繭良と芍薬の間に薄汚れた灰色の、もやもやした気体がはさまっている。それはよく見ると蠢き、繭良の肌の上にはりついていた。
「繭良!」
繭良は結也の鋭い叫びにビクっとする。
「こっちへ来なさい。早く!」
 縁側から差し伸べられた結也の手に、繭良は溺れかけていた海から這い上がろうとするかのように辿り着き、その手をとった。
 結也は繭良を神社の社務所にある広間へといざなった。そして繭良にまとわりつく不浄な思念を笛によって「落とした」のだった。
離れに運び込んだ繭良の横たわる布団に並んで結也は畳の上に片方の肘を立てて枕にして寝そべり、こんこんと眠る繭良の顔を見つめていた。気がつかなかった。繭良がひな子と似ていることに、今の今まで。彼女を慰みものにした男達の残留思念が消え去った後、その表情はよりひな子に近くなっていた。
 顔の造作はひな子よりもはかなげでセンは細いが、彼女にひな子の意識を宿すとすれば、同じ笑顔が見られるかもしれない。そこまで考えて結也はかぶりを振った。
―姉さんは姉さんだ。
 その特殊と見做された能力のため、幼いころから周囲に疎まれ異端視されてきた結也をただひとり愛してくれた姉、ひな子。両親にすら気味悪がられた彼を救ってくれたのは年の離れた姉だけだった。実は彼を異常に思わなかった人物はもうひとり居る。それは双子の弟の伊織だったが、要領がよく、ごく普通の子供で誰からも愛された彼に結也は憎悪に近い嫉妬を抱き続けていた。
 結也は姉を母のかわりに愛していた。しかし姉は花婿を迎え、結也はひとりぼっちになってしまった。眼前に目を閉じた姉に似た顔がある。結也は繭良の頬に指を伸ばしかけ、それを引っ込めた。
寝返りを打ったその面差しは愛しい懐かしい「咲の寝顔」に酷似していた。
―俺は……俺は……。違う! 俺は姉さんに裏切られたのではない。そして愛した女は咲、ただひとりだ!
沸き上がる渇えていた愛情を乞う思い。嫉妬と憎悪、愛情への渇望が一気に押し寄せ、結也の心を乱す。
絶え切れず結也はすっと立ち上がると繭良の部屋から退出した。

 鳴動は今夜もまた、結也を襲った。結也は起き上がり庭へ出た。芍薬が月光に濡れ輝いている。結也は寝間着姿のまま芝にあぐらをかいて座り目を閉じた。彼に限界が近づいていた。鳴動は神社からものすごいスピードで根を走らせ庭の下にも伝わってくる。
―咲。
 咲の近くにいきたい。と結也の願いは日増しに強くなっていった。しかし今、彼には迷いが生じている。その迷いを断ち切るためにも急がなければならなかった。
―咲のところへ連れていってくれ。咲とひとつにさせてくれ。お前に喰われれば俺は咲に会える。そうだろう? 
 鳴動はゴオオと唸り、座る結也の周囲を丸く取り囲んだ。
―俺には咲やヨシロウのような力はない。せいぜいお前の餌になることぐらいしか……。
 鳴動が描く円の縁から乳白色のもやが立ち昇り結也を包み込もうとした。

 シャン、シャン、ジャラランン……。

 結也は閉じていた目を開いた。今までの空気に裂け目が入り、いくつもの鈴を重ねた音がする。唸る鳴動はおとなしくなり、凶暴な飢えた獣の気配が薄らいだ。

 シャラン、シャランン、ジャララ……シャン……。

 鈴の音の裏で、タン、タン、と芝に足音が落ちる。ゆっくりだがしっかりしたステップに合わせ、鈴が鳴る。そして細い響きが、ねっとりした闇に放たれ泳ぎ出す。それはややカン高い女の声だった。

 かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ
 つくしのひむかのたちばなのをどのあわぎはらに
 なりますはらえどのおおかみたち
 もろもろのつみけがれあらんをば
 きこしめせどかしこみかしこみもうす

 それはごく日常的な祝詞だったが、明らかに飢餓の叫びは弱くなっている。まるで子守歌を歌うように、女の声は詠唱する。結也にはまるでそれが「おやすみなさい」と言い聞かせているように聞こえた。

 シャラン、シャン、シャン……。

 舞う足音が結也を取り巻く円の縁をなぞる。一周した足音は、背後でぴたりと止まり、鈴の音が止んだ。いつしか鳴動は止んでいた。
 結也の背後でどさりと芝に何かが倒れる音がした。結也は振り返り、芝に倒れた繭良を抱き起こしその腕にかかえ込んだ。いつかの胸を引き裂かれる光景が結也の脳裏にフラッシュバックされ、結也は腕に力を込めた。
「いたっ……」
 小さく叫んだ繭良に、結也は力を緩めて大丈夫かと声を掛けた。
「宮司は……? 宮司は大丈夫ですか?」
 繭良は苦しげにコホコホと咳き込み、そのまま芝に投げ出された柄と房のついた鈴の束をたぐり手にした。
「宮司……。『きこえた』んです。宮司が危ないって。女のひとでした。『そんなことをしても私とひとつにはなれない』って」
「繭良……」
「だからもうこんな事しないで下さい。あのひとを悲しませないで」
「繭良、お前は……」
「私が『チャイルド・マーケット』から来たのはご存じですね? もうお気づきかと思いますが私はチャイルドマーケットの『ガーデン』の出身です。でも……お願いです。ここに置いていて下さい。私、待たなければならないんです。何でもしますから……お願いです」
 消え入りそうな声だが必死で繭良は結也に訴えた。若かりし日のひな子がこんな痛々しい表情を見せたことはなかった。
ふたたび様々な想いが、高速で結也の脳細胞を駆け巡る。そして。この少女の痛々しい様子を見つめながら絡まった思考の糸が編み上げたのは、彼の中に潜んでいた孤独ゆえの願望だった。
「結也の暗闇」の中、マッチの火がシュッとすられるが如く芽生えた嗜虐欲という願望が。


 火の柱夜を照らす
 塩の柱陽をうける
 たどりつきたるひかりのくにへ
 羽のねむりに みるは天上

 ギイン、ギインと弾かれる馬頭月琴の弦の音にハリのあるタカオの声が乗り、響く。
「あ、ストップ」
「なんだよ」
「『たどりつきたる』のあたり、もっとやわらかくなんない? メリハリつけようよ。なんか一本調子でさ」
「お前のメロが甘すぎるんだよ」
「じゃあその前をもちっと強く弾くから。抑揚つけるともっと言葉に入り込みやすいよ」
 ぶつくさ言いながらもタカオは靭彦の言葉に従う。靭彦は古来伝承の民謡をアレンジして、同時に独自の節を編みあげていく。その作業はタカオを驚嘆させるものがあった。古えの節を変容させていいものかという戸惑いももちろんあったが、タカオには靭彦の作り上げる曲のほうが受け入れやすかった。
 しばらくののち、ふたたび靭彦がストップをかけた。
「ピアニッシモ。小さな声で歌う時は腹にもっと力を入れて。小さな音にするには余計に力が要るんだ」
「大きな声のほうがよくないか? 聞こえないだろ?」
「聴かせるんだよ。大切なことを語る時は大声を張り上げない。重要なことを言う前には、囁き声になる。そうだろ? ピアニッシモっていうのは聞こえなくするためじゃない。注意を引くためさ。でも聴こえなきゃ意味がない。訓練すれば小さくてもうーんと向こうまで聴こえる声が出るんだよ」
「そういうもんかい?」
「うん。そういうもの」
 タカオには靭彦の指導を理解するのは至難の技だったが、声を出して腹筋を使って歌うことは楽しかった。また休憩時間に靭彦が戯れに馬頭月琴を弾きながら歌う歌も(靭彦には伝えなかったが)タカオの楽しみのひとつとなっていた。
 靭彦は心底タカオに感謝していた。彼は気づいていないだろうが、雨天や曇天の日でもタカオが声を出すとじめっとした空気がからりとなる。社務所の広間はもちろん屋内で、外の天候など関係はないのだが、それでも雨や曇りの日は室内がどんよりとしている。しかしタカオの発声で部屋は明るさを増し視界をクリアにさせる。そしてタカオと靭彦が織り成す今までにはなかった力の流れに『あれ』も歓喜の咆哮を上げていた。
 やはりふたりで良かったと、つくづく靭彦は思う。タカオを選んだのは大正解だった。靭彦だけでは『あれ』を納得させることなど到底できない。
 稽古をはじめたばかりの頃、タカオはしきりに疲れるとぼやいていた。
―そりゃそうだろ。俺たちは餌なんだから。奴の。
靭彦は昨晩、思い切って榊に尋ねた。
「どうして俺たちに『神降ろし』を任せてくれたんだ?」
「『神降ろし』? 君たちのは神楽の稽古だろう?」
「とぼけるな。繭良のやってたことを何で俺たちに託してくれた?」
「繭良にはもう無理だ」
「どういうことだ」
「朱に交わればあかくなる。ってことさ。『あれ』はひとではない。ひとのようになってはいけない」
「繭良が『あいつ』をひとにするとでも?」
「そう。それはそれでエネルギーは強くなるが、そんなベクトルでは彼女に『あれ』を託すことはできないね」
「最初から繭良ひとりに託するのが間違っている」
 抗議する靭彦にニヤリと口の端だけで笑い、榊は言った。
「あいつは迷惑なくらいに強いが、強すぎれば『あれ』だって喰らってしまう。『あれ』が喰われてしまえば、ひとのようになって元も子もない。そんなところだ」
「マユラが強かったらあんな傷はつかないはずじゃねぇの?」
ややためらったのち、靭彦は口ごもりながら尋ねた。
「俺たちに任せて……その、大丈夫だって思ったのかよ?」
「弱気だな」
「え?」
「君の要望だろう」
 それにしても。と、靭彦は思う。稽古のたび、これだけ疲れるとは思いもよらなかった。それなのに『あれ』はたびたび不満の念を送ってよこす。
―ちっとはダイエットしやがれ。腹八分目に医者いらず、だ。
心の中で毒づきながら、靭彦はバチを構えた。


 綾女は染色学校の史料室でひとり、ガラスケースのむこうを見つめていた。
―ほんとに帰んなきゃだめなのかなあ?
ガラスケースのむこうには、絹糸や絹布で作られた様々な工芸品が収められている。どれもそう古いものではないらしいが、その中でやや黄変してしまっている絹糸と繭で作られた孔雀が綾女の目を引いた。
 綾女は入学当初からこの孔雀が好きだった。彩色を施されないままの孔雀はウズラほどの大きさで、豪奢な羽を広げながらもその表情はどこかユーモラスで可愛らしかった。
 もう残って居る生徒たちもわずかな染色学校で、綾女はまだなんとか里に残る方法はないものかと実家に連絡もせずにいた。帰りたくないだけではない。この里とこの孔雀が好きなのだ。孔雀のいる史料室で数時間を過ごすのは綾女の最近の日課になっている。
「それがお気に入りみたいだね」
 孔雀に没頭していた綾女は急に声をかけられ、振り向いた。
「ああ、失礼。驚かせてしまったね」
 授業では厳しいが普段は気さくな教師である富樫が背後に立っていた。綾女は軽く会釈をし、再び孔雀に向き直った。富樫は綾女の隣にやってきて、工芸品の説明をはじめた。
「この孔雀を作ったのはね、当時まだ十五歳の少年だったらしい。とても器用で、ここにある作品のいくつかは彼の手によるものだよ」
綾女の父ぐらい、というには年上で祖父というには若い富樫の声は、ちょっと調子を変えただけで温かさと冷たさの印象ががらりと変わる。聴かずには避けられない質の声だ。
「そのひとは、今どこに?」
珍しく言葉で反応を示した綾女に富樫はにっこりと微笑み返した。
「さあ。今はわからない。ずいぶんと前に里を出てしまったようだから。ああ、でも白里神社の榊宮司なら……」
「白里神社の?」
「そう。あの人は彼の親戚だから。ただ、噂なんだけどね、彼は行方不明になってしまったらしいんだ。だから宮司にもわからないかもしれないが……。そんなにこの孔雀が気になるのかい?」
綾女は深く頷いた。
「そうか。君は絹工芸に興味があるんだね」
そう言うと富樫はポケットから鍵を取りだし、ガラスケースを開けた。ガラス越しでない孔雀はブラインドで極力、光を遮られたほの暗い史料室でわずかな光を集め、黄ばみを跳ね飛ばし白銀に輝いた。
 富樫はケースの棚に手を伸ばすとそっと孔雀の台座をつかまえ、綾女の前に差し出した。
「持って行きなさい」
「え?」
「いいんだよ」
ためらう綾女に富樫は微笑んで言った。
 綾女の手に、完全なる無垢と何の代償も求めない優しさが伝わる。
―この糸のいっぽんいっぽんはいきている。
 小さな薔薇の花の蕾がほころぶような笑顔が、綾女の富樫への精一杯の礼だった。

 寮の裏手を流れる雛川は、川と呼ぶにはあまりに小さくささやかな流れであったが、その水は澄んでおり両脇には小振りな夏の野の花がいっぱいに咲いていた。
 その雛川にかかる短い橋の欄干にもたれかかり、綾女は川の流れを見つめていた。綾女の肩には銀色の筒と大きめの縮緬地の巾着袋が掛けられている。
 夏の陽射しは名残惜しげに川面に朱を落としはじめている。綾女は躊躇していた。白里神社へ向かうべきか、と。
 絹の孔雀は綾の鼓と同じ「何か」の感触があった。やわらかさと緊張感という波動の違いはあれど、二つとも綾女にとって譲り難い共通点があった。それは言葉では説明のしようのない、綾女のはるか遠い記憶の感触であった。
 水面にゆらぐ綾女の像の背後に、大きな広い肩の影が映った。
「綾女、ここにいたんだ?」
久しく聞いていない懐かしい声に、綾女は振り返る。
「パパ?」
 綾女の父、高橋啓二がそこにいた。
「迎えにきたよ、綾女。一緒に帰ろう」
 綾女はゆっくりと川へ向き直った。
「先生から連絡が来たんだ。また、戻れるようになったら戻ればいい」
「戻れるかな?」
 啓二も、そして言ってしまった当の綾女でさえもその言葉におし黙った。互いに意味も知らずにいたが、口をついて出た綾女のキッパリとした言い方には納得せざるを得ない響きがあったのだ。
「ママは? 元気なの?」
 ややあって綾女は父に尋ねた。
「ああ。最近はずいぶん顔色も良くなってね。その……まだ退院はできないけれど」
「そう。元気ならいいんだ。パパは? ちょっと痩せた?」
「パパは元気さ。綾女は元気だったかい?」
「うん」
 血の繋がらない父子は、またしばらく黙った。
「きれいなところだね。ここは」
 さらさらと流れる川に目を落とし、啓二は綾女の肩を包み込んでその腕に抱いた。綾女は長身の父を見上げ、目を細めた。
「きれいでしょ? 綾女、ここが好きだよ」
「うん。いいところだ」
「ね、パパはどうしてママと結婚したの?」
「え?」
啓二はうろたえたが、軽く咳払いをしてから答えた。
「このひとだ、と思ったからだよ」
「それだけ?」
「はじめて会ったときママはまだ短大に通っててね、歯医者さんでアルバイトをしてた。パパはそこの患者だったんだ。受付でママに名前を呼ばれた時、なんか、こう、電流が走ったんだよ。すぐさまパパは付き合ってほしいと頼んだ。照れるな。娘にこんな……」
「パパ、知ってたんでしょ?」
「綾女……」
「知ってて、どうして?」
 啓二は深く息を吐いた。
「バレバレだよ。綾女、もう知ってる。ずいぶん前から。そういうことは嫌でも耳にはいる。でもね、これだけは信じて。綾女の父親はパパだけなんだよ!」
 優しく微笑みながら啓二は、綾女の端のやや吊り上がった双眸を見つめた。
「パパだって、綾女はパパの本当の娘だと思ってるよ」
「お願い、パパ。どうして?」
「ママの嘘はすぐにわかった。一緒にいても、笑っていても、手をつないでいても。美音子は僕とは一緒にいない。笑っていない。手を強く握り返すこともしない。美音子はどこかを見ていた」
 啓二は空を見上げた。茜色の空には、小さなコウモリたちがチロチロ舞っている。
「美音子は子供を宿していた。それがわかって僕は美音子を連れて高橋の家の戸を叩いた。おばあちゃんとは長いこと話したよ。僕には俄かに信じ難い話ばかりだったけれど、僕は美音子の夫になりたかったし、子供の父親になりたかった。一生懸命だった。何度も高橋の家を訪ねて、やっと、僕たちは結婚を許されたんだ。でも……」
「でも?」
「美音子は僕の申し出に首を縦に振ってくれた。でも彼女は……」
「パパ!」
 いつになく強い娘の語調に、啓二は目をみはって綾女を見返した。
「何いってんの! だってパパがママと結婚してくれなかったら……綾女はパパに会えなかったんだよ! パパ、そんなこと言わないでよ! ママだってパパが好きだったんだよ。きっとそうだよ。だってそうじゃなきゃ。だって……そうじゃなきゃ……」
 綾女に母の真意などわかろうはずがない。綾女は啓二の胴に両手を回し、ぐいっと抱き付いた。
「パパ、嫌なお願いかもしれないけど、教えてほしいの。綾の鼓のこと。綾女の……生物学上の父親のこと」
「わかったよ。でもパパが知ってる範囲でいいかな?」
綾女はこくりと頷いた。啓二は静かに語り出した。

『くだ』により繁栄をしていた高橋の家を、綾女の祖母、音女は変えるつもりでいた。それは代々母系による『くだ』の声を「きく」異端の能力の系譜を娘には受け継がせたくないという思いがあったからだ。高橋の家は長男の手腕を持ってすれば『くだ』の力を借りずとも事業を潰すことはないだろうと考えていたし、もしそうなっても今度は高橋家、自らの力で立て直せばいいと思っていた。
 娘の美音子には特殊さは現れず、音女は能力の「期限切れ」と見た。そういうケースをいくつか音女は知っていた。彼女は『くだ』を自分の墓の中へ持っていくことに決めていた。
しかし、美音子は出会ってしまった。彼女の能力を呼び覚ます異端の力に。
 美音子の通う短大の美術部に白川義郎は現れた。ヨシロウは美術モデルのアルバイトのかたわら、彫刻や工芸品を制作していた。自身も美術作品を作る彼は、すぐに部員の兄同然の存在になっていった。二人が恋に落ちるのにはそれほど時間がかからなかったが、美音子の能力が目覚めるのも急速だった。
 それに気づいた音女は二人の交際に猛反対を示した。急速に解凍された美音子の力は不安定で、彼女の精神を破壊しかねないエネルギーを孕んでいたのだ。
 当然、そんな理屈を美音子が理解できるわけがない。けれどヨシロウは違った。音女との話し合いの末、ヨシロウは美音子のもとに綾の鼓だけを残して姿を消した。しかし、真剣に結婚を考えていたヨシロウも知らないうちに美音子は懐妊していた。さらに悪いことには二人が引き離されて間もなく美術部に、ヨシロウが飲酒運転の車にはねられ事故死したとの訃報が届いた。ヨシロウには身よりがないということで高橋の家は丁重に、だが高橋の家ではなく彼を無縁仏の墓に葬った。
 美音子の悲しみようは凄まじいものであった。彼女は『くだ』の存在に気づき、その力によるヨシロウの復活を試みたが、土台、物理的に無理な話である。肉体はなくともその存在だけには会えるという反魂も一度きりのわずかな時間しか許されないとは知らない美音子の計画は、音女により阻止された。が、その間に時は過ぎ胎児の小ささから腹の目立たなかったが為、家族が美音子の妊娠に気づいても強制的な堕胎もできなくなっていた彼女の赤ん坊が、6カ月にさしかかろうとする頃。何故かその時を境に美音子は悲しみから立ち直ろうとする様子を見せ始めた。それは、美音子の胎内に宿る命の為したことであったのかもしれない。
 美音子は啓二と結婚し、やがて綾女が生まれた。
「その綾の鼓は高橋家のものではないんだ。綾女の実のお父さんの形見なんだよ」
「そのヨシロウってひとはここの出身なんだね」
綾女の誕生後、高橋家の調べによりわかったと言い、啓二は頷いた。
「パパ」
「何だい?」
「もう2、3日ここに居ていい? そしたら帰るから」
「どうして?」
「聞きたいことがあるんだ。ヨシロウの親戚に。綾の鼓のことを」
啓二は短く切られた娘の鮮紅色の髪を撫ぜると、愛しげに答えた。
「わかった。パパはもうしばらく街に滞在するから、用事が終わったらホテルに連絡しなさい。一緒に帰ろう」
「うん。ありがとう」
夕闇のなか、綾女は橋から離れ駆け出した。白里神社へと。
 啓二はいつまでも娘の小さな後ろ姿を見送っていた。まだ親元へは当分帰らないであろう愛娘を、いつまでもいつまでも見つめて。

 思い切り走っていた綾女は、ぱたり。と立ち止った。
―どっちだっけ? 白里神社って。
 モノノケどもに導かれたときは周囲など見ずに神社へと歩いただけで、綾女はその行き方を知らない。茜色の空にはもうオレンジがかった赤い星がまたたき、闇の到来を告げている。舗装されていない道の脇のまばらな木の街灯にも、ぽつんぽつんと明りが灯りはじめていた。
―こまった……。この前の道じゃない。引き返すか。
 ぱちん。と綾女の耳に何か張り詰めた金属の糸が切れてはじける音が聞こえた。続いてぱちん、ぱちん、と……。
―なに? 
 綾女は風に乗って鼻先をかすめる獣の匂いに顔をしかめた。と、

 バクン! 

 彼女は自分の心臓が大きく脈打ち、その音が聞こえたのかと思った、が、それは違っていた。銀色の筒の蓋が、彼女の背中で大きく開いたのだ。
「どうしたの? だめだよ!」
 しゅるしゅるとふわふわした白く細長い小さな毛皮たちが筒から次々と飛び出し、綾女の周りをとり囲んだ。
「どうしたの?」
『くだ』は問い掛けには答えず、ぐうう、しゅううとも聞こえる唸りをたてている。次にぱちん、と音が聞こえたのを合図に『くだ』の一団はもの凄い勢いで空へと駆け昇った。
「だめ! 行っては駄目! 戻って!」
 綾女の叫びが終わるか終わらないかのうちに空中で激しい火花が飛び散り、暮れゆく空をぱっと照らした。綾女は見た。
―あれは、なに?
 キツネほどもある大きな白いイタチに似た二頭の「生き物」が、綾女の小さな『くだ』たちの喉元を噛み千切っては放り投げている。『くだ』たちの断末魔の叫びがこだました。それでも『くだ』の群れは「生き物」に向かって攻撃を繰り返す。
「やめて! 戻って! そんなのにかまうなあっ!」
 綾女の耳に『くだ』の思念がハッキリと届いた。まだそばに何匹かの『くだ』が残っていたのだ。

―おまえさまはにげろ。ここにいたらやられる
―このまままっすぐはしれ。しらさとじんじゃへ
―しらさとじんじゃへ
―しらさとじんじゃへ

 そう囁いた数匹の『くだ』も、ひゅんと空気を切って空へと走った。
「戻れ! もどるんだあっ!」
 綾女の怒号に、数匹の『くだ』が動きを止め、綾女の首のあたりまで戻り空へ向かい唸りをあげる。空では血みどろの戦いがくり繰り広げられている。
―どうして……。こんな……。
まるきり酷い悪夢だが現実だった。
「ここにも使い手がいたなんてね。潰しとかなきゃねえ」
 傲慢な調子の女の言葉に、綾女は目をぎらぎらとさせその方向を見た。道の向こうから、のどかな里の風景には似合わないひどく派手ないでたちの女がひとり、歩いてくる。
 決して流行的ではないやたらに高くて細いヒールの靴。念入りに巻かれた金髪に近い髪。長くカールした睫毛。幾重にもグロスを塗った唇はてかてかと光り、きらきらと反射する生地のミニワンピースとあいまって、ある種悪趣味な色気を醸し出していた。
「やーっと、突破したのにねえ。でも大丈夫か。こーんなに弱っちいもんねえ」
 女の声は甘ったるく、耳の中まで溶けた音が張りいてくるようだ。綾女は嫌悪感に身震いすると女に問うた。
「あれ、あんたの?」
「そう。あたしの可愛いケダモノ。見てのとおりのツワモノよ」
「やめさせて」
「え? なにかな?」
「やめろって言ってんだよ」
 空ではまだ火花を散らして戦闘が続いている。
「なによお。そっちがかかってきたんじゃなあい」
「『くだ』は守ることしかしない。悪い事しなきゃなんにもしないよ!」
「わるいこと?」
 紅美の形の良い眉が片方吊り上がった。
「あんた、善悪って知ってる?」
 声に厳しさをこめた紅美が片手を上げる。綾女の小さな『くだ』を噛み殺していた獣たちはしゅるりと身を一回転させ『くだ』たちをなぎ払うと、紅美の掲げ上げられた腕に降りて巻きついた。のこりの『くだ』たちも空から降り、綾女の眼前に並ぶ。
「ブルーベレーが何のために国土を離れて闘いに参加したか知ってる? 国内の原子力発電所に反対する輩が彼らを支持したわ。それはあの戦争が、原子力に替わるエネルギーをめぐってのものだったから。ウラン鉱はもう底をつきはじめていた。あの派兵は決して原子力の安全性が問われていたからじゃない。でもあの動きのせいで、余計に原子力発電はバッシングを受けた。反核運動の高まりのせいで原子力発電所ではなく再処理施設や高速増殖炉の管理はより杜撰なものになっていった。世論を気にして助成金の予算が下りなかったのよ。人手不足ね。それに反対運動家たちが監視するなかで、メンテナンスをするにもケチがついてままならなかった。どんなにエンジニアが頑張ったところで無理だったのよ。あたしの父はそれでも現場で頑張っていた。たとえ最も危険な作業の管理を任されても。父は改善に尽力してた。でもエンジニアとして、夜も眠らず。管理者としてろくに食事もとらずに。でもあたしは父を誇りに思っていた。たとえ家族をかえりみることがなくても」
 紅美の腕でらせんを描くようにくねる獣が甘えた声を出す。
「そして事故は起きた。父は全責任を負わされ自殺した。そしてブルーベレーは新しいエネルギー源を手にした。でも! そのエネルギーは実はプルトニウムよりさらに強大ですぐには加工が難しいということがわかったとき、鉱山は一時閉鎖されすべては無に帰した。ようやっと再処理施設と高速増殖炉の見直しに一般大衆が聞く耳と見る目を持ったとき、幼かったあたしの父はもうこの世にはいなかったんだ!」
 紅美が腕を振る。遠心力を合図に獣が舞い上がり、綾女に向かって突進する。
「マシーンに頼りその恩恵を受けながらマシーンを否定し、あまつさえ他国の殺戮に手を貸して、私の父を無駄死にに追いやった。私はこの国が許せない。この土地が許せない!」
 何百から何十匹に減った『くだ』が、いっせいに獣に躍りかかった。ふたりの間で再び殺戮がはじまり、『くだ』たちは凶暴な獣の牙と爪にかかり次々と白い毛皮を赤く染める。
「こんなところでぬくぬくノスタルジーやってんじゃないわよ。冗談じゃない。だからあたしたちはブルーベレーを潰す。父を死に追いやった国家の手先を潰す。あたしはテロを肯定する。でなきゃ父が浮かばれないのよ」
 綾女の眼前でばたばたと『くだ』が爪と牙に倒れ、地に落ちては雪のようにかき消えていった。
「……んだよ」
 無表情の綾女の口だけが動く。
「ん? 何かな?」
 からかう口調で紅美が問う。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ」
綾女は肩にかけた筒と巾着を下ろした。
「あんたのも相当傷ついてるのに、あんたそれでも平気なんだね? さっきからひとことも、あの子たちの心配してないけど」
「心配なんて。負けるはずないもの」
「ふざけるなああっっっ!!」
 綾女の鮮紅色の短い髪がざあっと逆立つ。
「『くだ』よ! 下がれ!」
綾女の号令に『くだ』たちは光の速さで綾女の背後へとまわった。綾女の手には、綾の鼓が携えられていた。地面にすばやく片膝をつき、綾女は鼓を構えた。

 ッツキイイイインンン!!!

「っきゃあああっ!!」
 紅美は耳を押さえうずくまろうとしたがそれは果たせなかった。強大な渦を巻く嵐に吹き飛ばされ、紅美は地面に叩きつけられた。口から血を流し紅美は指先を綾女に向ける。
「い……いけ……」
 紅美とともに吹き飛ばされた一対の獣たちは、態勢を整えるや否や真っ赤な口を開いて綾女に襲いかかった。綾女は再び鼓を打った。

 キイイイイイッ!

 耳をつんざく超高音に紅美は耳をふさいでその場でのたうちまわった。そして獣たちは、喉にいくつもの牙をつきたてた『くだ』を何十匹もぶら下げながら断末魔の咆哮をあげていた……。

キイインン! キイイイイッ! ッッキイイインン!

 鼓が連打される。紅美のまわりで鋭い気流が舞い狂い、紅美の躰をズタズタに切り裂いていく。
「いっ! いやあああっ!」
 泣き叫びながらのたうつ紅美を、そして紅美の獣たちのまわりを『くだ』はひゅんひゅんと飛び交い、容赦なく彼らを切り裂いた。
「ころしてやる。ころしてやる! あんたなんかころしてやる!」

―ころせころせころせ
―きょうだいたちをころしたこいつらをころせ

「殺してやる! 殺してやる!」
 綾女の目は怒りにぎらぎらと輝き、その躰は白銀色を帯びた。強風は止むことなくゴオゴオと吹き荒れ、道の脇に生い茂る草を散らせた。
「いやあ! 助けて!」
「あんたなんかしんじゃえばいいんだ!」
 綾女がそう叫んだ時。

―やめるんだ。

 どこからか、綾女の耳に聞き慣れない男の声がおちてくる。綾女は鼓を打つ手をやめない。そして、もう一度。

―やめるんだ、綾女。

 綾の鼓は叫びを止めた。打てども打てども鼓は鳴らない。綾女は鼓を下ろした。風の吹きすさぶ地面には血まみれになってうめく紅美と白目を剥いて『くだ』に喰われて骨をみせている「つがい」の獣が転がっている。

―殺しちゃだめだよ。

 男の声はやさしく、おだやかだった。

―おなじにはなりたくないだろ? 

 その声に、今度は『くだ』が反応した。『くだ』たちはキュウーンと鳴くと無残な姿となった獣たちから離れ、しゅるりしゅるりと銀色の筒へと戻っていった。風が止む。獣の骸は砂のような粒子となり、ゆっくりと消滅していった。綾女は尋ねた。
「あんたは……?」

―おおきくなったね、綾女。

 声は二度と聴こえなかった。しばし綾女は棒立ちになった。が。
「……どいつもこいつも、ふざけんなあああっっ!」
 絶叫とともに綾の鼓を巾着に押し込み、筒とそれとを肩に掛けると、綾女は道の先へと駆け出した。
静けさを取り戻した闇の中で、ぼうと街灯に照らされた紅美は地面の上で蠢いていた。ざく、ざくと重い足音が紅美へと近づく。
 明りに照らし出された巨体の主はスマイルだった。スマイルは血だるまの紅美の上にかがみこみ、声をかけた。
「せっかくセンサーを破壊してくれたけど、元の木阿弥になりそうだな」
紅美は答えない。ただ、うう、とうめくだけだ。
「前から言おうと思ってたんだけどよぉ、お前、やっぱ俺たちとちいっと主義が違うよな。俺たちの教義はお前の頭じゃ理解できなかったのか、そのつもりはなかったのか? すべてのフェイクは害悪さ。『自然』の何たるかを広めるために俺たちは頑張ってんだよ。紅美。ただの一個人の復讐で動いてもらっちゃ迷惑ってもんだ」
紅美は瞳孔の開いた目でうめきながら、地面を掻きむしる動作を繰り返している。
「もう、聞こえないか」
 スマイルはサイレンサーを装着すると、銃口を紅美のこめかみに当てた。
「聴こえなくなる前にマイルス聴いとけよな」
 プシュッと小さな音がして、紅美はがくりと頭を垂れた。
 ざく、ざく、と紅美を肩に担ぎ歩いて行くスマイルの足音がその場から遠ざかった。

背骨を電流が走った、と思った。二人は同時に顔をあげた。そして互いの行動を認識すると顔を見合わせた。
「靭彦……」
「タカも……か?」
「何だよ今のは」
タカオの顔は青ざめ、額には冷や汗をかいている。靭彦も同様だった。
「なん……だろうね?」
「こういうのでお前にわかんないことが俺にわかるわけないだろ」
 ふたりの言葉は早口になっている。
「あ、ああ、そうだね。わかんないよね」
「それはそれでムカツク」
「どうすりゃいいんだよ」
「だから俺に聞くなって」
「いや、だからそれじゃなくて」
「どれだよ」
「いじめるなよ」
「俺がいつお前をいじめた? いつ? 何時何分何十秒? 地球まわって何回目?」
「タカ、お前いくつだよ」
「184センチ」
「身長じゃねえっ!」
170センチにはるかに満たない靭彦がキレかかったとき、再び二人に電流の衝撃が走った。
「ゆ、靭彦……」
「タカ、落ち着け。俺と同じことをできる奴がこの里にいる」
「それって……?」
「いや。『奴』じゃない。それは間違いない」
先刻よりゆるやかになったものの、大振りの鋸の刃がグイグイと肉の塊を切り裂いていくのにも似た「波動」は、靭彦とタカオに干渉し続けていた。それは遠雷の距離を感じさせたが、彼らを緊張させるには充分すぎる力があった。
「空気が変な気がする」
「ああ。「気」が乱れまくってるよな。鼓膜がビリビリする」
「俺も、なんか耳鳴りしてる。さっきから」
「素人くさいけど、素人っていうには……」
「『奴』の仲間じゃないか?」
「それにしちゃ……」
 その先を続ける前に、靭彦はうっと呻いて耳をふさいだ。
「どうした?」
「ひでえ……。頭が割れそうだ」
が、急に気流のうねりは止み、あたりはそれまで以上に静穏な空気に支配された。
「靭彦、とまった、よな?」
「とまった。急に。多分時間差で『きて』るから、もうちょっと前に収まったんだと思うけど……。急すぎるよ」
 何ものかに対する、とてつもなく凶悪でピュアな敵意。それは嫌悪と憎悪のミックスされたものと呼ぶにふさわしかった。反抗期らしい反抗期を経ていないタカオには馴染みのない、波動の抱くその手触りは凍りつくように冷たく、タカオは冷たさのあまり火傷に似た痛みを負った気がした。
「とにかく、外へ行ってみた方がいいんじゃないか」
タカオは恐怖感を振り払いしっかりとした声で提案した。
「ああ。そうだな」
 ふたりは足早に部屋を後にした。タカオと靭彦が社務所を出て鳥居をくぐって境内を出ようとした時だった。

 タッタッタッタッタッ……。

 軽やかだが、かなりテンポの早い足音がふたりの耳に届いてきた。続いて視線の先に小さな影が像を結び、それはだんだんと大きくなってくる。突風のような風圧を、ふたりは顔に感じとった。と、タカオが素っ頓狂な声を上げた。
「あれは……」

タッタッタッタッタッ……。

 自然と足の動くまま休むことなく綾女は走り続けていた。こんもりとした小さな森を抜け、ひらけた視界の先に神社の門が見え、大きな白っぽい石造りの鳥居が見え、その下に……長身の男と小柄な男がつっ立っているのが見える。
「綾女ちゃん!」
 なぜここにタカオが? という疑問が浮かぶより早く、綾女は二人の前でストップし、息を切らせながらまくしたてた。
「宮司! 榊……宮司は? どこ?」
 険しい形相の綾女にうろたえながらもタカオは尋ねた。
「どうした? 落ち着いて、綾女ちゃん。何かあったの?」
「宮司はどこっ!」
「榊宮司なら……たぶんもう自宅に……」
「わかった!」
「ちょっと、待って!」
 踵を返し再び走り出そうとする綾女をタカオが制した。
「ちょっと待ってくれ。おだやかじゃないな」
「急いでるんだ! 宮司に聞きたいことがある!」

 ギンッ!

 弾かれた弦に、綾女は口をつぐんだ。
「まあ。待てよ」
 靭彦の口調はいつもの通りだが、目は笑っていない。タカオは靭彦と綾女を交互に見てどうすべきかと迷った。
「あの宮司に何の用があるか知らないけど、その調子で行ったって、体よく追い返されるだけだぜ。たぶん」
タカオも頷いた。
「あいつと話すのにはさ、ていうかあいつの話って禅問答みたいだからさ、神主なのに。だから、そんな殺気だってちゃどんな返事がかえってきても頭にくるだけだよ。まず落ち着いて。それに俺、君に聞きたいことがあるんだ。先に俺の質問に答えてくれてもいいかな?」
 タカオがその場にいることで警戒心を解いたのか、綾女がやっと落ち着いた声で言う。
「何を?」
「その紫の袋の中、何が入ってる?」
 綾女はさっと肩に掛けた巾着袋を庇って抱えた。
「大丈夫。とったりしないから」
 靭彦は幼児相手の笑顔をつくった。
「さっきの、綾女ちゃんだね」
「えっ?」
タカオが驚いて靭彦を見る。
「すごい『音』、出すんだね。」
靭彦は頭痛の名残があるのか片手で頭を押さえている。
「なんのこと?」
綾女の目が靭彦を睨みつける。
「だいじょうぶ。大丈夫だから。俺は何も君に危害を加えようなんて思ってない。それにそんなことしようとしたら」
つい、と靭彦はタカオを見上げて続けた。
「このデカイにーさんが黙ってないよ」
「お前がちびっこなだけだろ」
「チビっていうなあ!」
「だってちっちゃいから」
「タカがおっきすぎるんだよ! そんなんだからアタマまで栄養まわんないんだよ!」
「そりゃお前だっての! アタマだけじゃなくってカラダも栄養たりないからおっきくならないの! お前好き嫌い激しいだろ?」
「俺は何でも食べる良い子だよ!」
淡々と綾女が犬のケンカそのもののやりとりを割った。
「用がないなら、行くけど」
「あ! ごめん! 綾女ちゃん、実はお願いがあるんだ」
「おねがい?」
「いきなり何だよ」
 綾女の代わりにタカオが尋ねた。
「タカもいっしょにお願いして!」
「だから何を……あ」
口を開けたままタカオは靭彦の顔を見下ろした。百鬼夜行の晩、綾女は……。
「靭彦、まさか」
「うん」
 靭彦の目は楽しげにキラキラ輝いている。
「綾女ちゃん、俺たちに協力してほしい」
 一語一語、区切るようにしっかりと靭彦は綾女に申し入れた。

  5

 店内には軽妙なジャズのピアノ曲「クレオパトラの夢」が流れている。
 オレンジと茶を混ぜた明りの色に木で作られたカウンターとテーブルと椅子は程よく溶けて馴染み、自分たちが載せている客やグラスまでもその色に同化させ溶かし尽くそうとしているかに見えた。
 グラスを持ち上げた太い指はすぐにはそれを口元には運ばずカラリカラリと氷の音をさせ、長い時間手の中で弄んでいる。ぼってりとした頬の膨らみには不釣合な薄い唇から溜め息をひとつ漏らすと、スマイルはぐっとグラスをあおった。
「いや、別に後味が悪いっていうんじゃない」
 同席している男がそんなことを考えもしないとわかりきっていながら、沈黙に耐えられずスマイルは問われるでもなく言った。それは彼が『後味の悪さ』を感じているのではなく、男に反省を促す意味合いのほうが強かった。
「だが戦力が減ったことは事実だ。はっきり言うがお前さんの責任もあるんだぜ」
 男は無言でスマイルを見やった。それはスマイルにとって『お前もそんなことを言うんだな?』とでも言いたげな動作に思えた。
「待ち切れなかったんだよ、紅美は。あいつはあせってた。まあ、ほとんどは自業自得と言えるだろうが」
 淡々としたその物言いには棘があった。
「紅美は『壊され』た。これがどういうことかわかるよな。『ハンター』はもうスタンバイしている。もう『はじまって』いるんだ。お前さんの好むと好まざるに関わらず、な」
 スマイルの言葉を聞いているのかいないのか、男はレモンの輪切りの入った赤いロングドリンクを飲み干すと、ウエイターを呼び同じ物をオーダーした。
「お前さん、本当に好きだな。ブラディ・マリー」
 メンソールの煙草に火を付けた男はスマイルの言葉に「ん?」とくわえ煙草のまま反応し、ふうっと紫煙を吐くとようやっと言葉らしい言葉を呟いた。
「特に好きって訳じゃないけど」
「もう三杯目だ」
「トマトはカラダにいいから」
「意外と健康に気を遣うんだな。いい事だ。トマト、好きなのか?」
「キライ」
「じゃあ何でブラディ・マリーなんてカクテル飲むんだ? 健康のためか?」
「トマトはキライだけどウォッカとトマトジュースは好きだから」
 スマイルはあのうるさい紅美と居ても、鬱陶しいことはあってもさほど頭にくることはなかった。しかし、この男と話をするのは苦手だった。無駄なおしゃべりはしない。けれどこんな風にふたりで話をするときはいつも困ってしまう。男はいつもスマイルの聞こえる耳のあるほう……右側にいつも席をとり、彼と話をしようという意思はあるようだったが、まず自分のほうから語り出そうとはしなかった。自身も話し好きという訳ではないスマイルは沈黙も会話のひとつと考えることのできるタイプであったが、どうもこの男といると調子が狂う。スマイルはまんまるな黄色い円のなかで笑顔を作っているマークが大きくプリントされたTシャツの腹を一度、大きく波打たせるとミックスピザとバーボンのボトルをオーダーした。
「話は戻るが、どうして来なかった。今まで」
「時期じゃなかった」
うう。とスマイルは言葉に詰まった。が、反撃を試みる。
「期限いっぱい待つつもりかい?」
「問題は期限じゃない。『時期』」
「活動の足並みを乱すなよ」
「ほかに予定があるんならそっちを優先していいよ」
「いや。これも予定のうちだから」
「俺はひとりでもいい」
 男はさらにオーダーしたカットレモンをカクテルの中に絞ってはギュウギュウとグラスに詰め込んでいる。
「そういうわけにはいかんだろ」
 スマイルが反論した。
「これはチームプレイだ」
「チーム? お目付け役と?」
 キロリと、黒目がちの大きな目がスマイルを射抜いた。スマイルは瞬間、その巨体に突風に近い風圧を感じた。が、すぐに平静を装い諫める。
「まあそう言うな。お前さんにはごまかさねえ。確かにそういう役目もあるさ。お前さんの暴走をとめる誰かが必要なんだ」
「暴走、ねえ」
「そうさ。お前さんの暴走は手に負えない。お前さんと同じ役目の他の奴と違ってな。まさかやり方の違いのせいじゃないだろうな」
「次にそうなるかどうかもわかんないよ」
「とにかくお前さんのダメージを必要最小限に食い止めつつ目的を完遂すること。それが俺の使命だ」
「使命か。お仲間のダメージを食い止めたい、ってこと?」
スマイルは無視して続けた。
「使命のために俺たちは活動する。そうだろう? 他の奴とは別の武器を使っていても、だ。お前さんは俺たちと同じ組織の人間だ」
 六つ目のカットレモンをグラスに押し込もうとしている男の手を、スマイルがつかんだ。
「?」
「お願いだからもうやめてくれ。レモンはカラダにいいんだろうが……」
「いや、単に好きだから」
「こっちまですっぱくなる」
「飲んでみる?」
「いや、いい」
 スマイルに妨害され、男はつまらなさそうにレモンをグラスに入れるのを断念した。
「で、具体的にはいつ頃やるんだ?」
「もうちょっとあと」
「具体的にと聞いてるんだ」
 やや面長の顔を少し傾けて男は逆にスマイルに質問した。
「なんでそんなに急ぐ?」
「紅美がセンサーポイントを破壊したからな。防御がさらに堅くなる。いくら待ったって奴等の態勢が緩むとは思えない。それくらいお前さんにもわかりきってるはずだけどな」
「奴等? ……ああ。考えてなかった」
「じゃあ何を考えてた?」
「アタマで考えちゃいない。ソウルの問題さ」
「何でそこでソウルが出るかな」
「だめだよ。俺のソウルが『うん』と言ってくれるまではね」
「はっ」
 スマイルは鼻先で笑ったが、その笑いは瞬時にフリーズした。
 男の指先が皿にぽつんとひとつだけ残ったカットレモンをつまみ上げ、そのまま男の口のなかに放り込んだのだ。
「……やめてくれ……」
 レモンの身を齧りとった口をモゴモゴさせながら男は蒼白になったスマイルを「ん?」と見返す。大きな目がくりっと開き、面長の男の顔がとたんに愛嬌のあるものになる。
「俺、実は酸っぱいモン苦手なんだ。見るのも震えが来る……」
 男の目が笑う。まるで知ってるよとでも言うように。
「なあ、やめてくれよ……。生理的に駄目なんだ。そんな幸せそうな顔で……。やめてくれ、日夏」
 日夏は。また生のカットレモンをオーダーして口に含んだ。

店内には軽妙なジャズのピアノ曲「クレオパトラの夢」が流れている。タカオはこの店が好きだった。街に繭を納品した帰りに、あれやこれやと手続きが遅くなって疲れて里に帰れない晩に必ず寄るこの店は、いつ訪なっても居心地がいい。繭の一部は街で生糸になり、染色学校に送られる。学校では初期の段階に繭から糸を引き出すが、だいたいの繭が街に集められ糸を紡がれたりシルク製品の加工に回される。
 タカオは今日ばかりはカウンターに陣取らなければ良かったと後悔している。大事なことを告げるには、カウンターでは店の人間の目が気になる。マスターはそんなタカオの様子を察してか何も聞こえていないフリをしてくれてはいるが、タカオはそれでも落ち着かなかった。
「タカオ」
 少し酔いの回った愛しい声が耳をくすぐる。
「あ、ああ」
「どうしたの? ぼんやりして」
「あ、いや。大丈夫」
 オレンジと茶の混じった照明の下、葉魚絵の胸元でタカオの贈ったペンダントのゴールドバスケットとその中の丸い水晶が光っている。アルコールが入っているせいだろうか、それともほの暗い明りのせいだろうか。今夜の葉魚絵はいつもよりも色気を感じさせてタカオはどぎまぎとしてしまう。
「タカオ、いつもこのお店に来てるんだ?」
「あ、ああ」
「いい感じのお店。もっと早く連れて来てくれれば良かったのに」
「そうだね。うん」
「ねえ。どうしたの? 何か今日はタカオ、変だよ。もしかして疲れてる?」
「いや」
 タカオは上目遣いにカウンターの中を見やった。氷を器用に包丁でまるく削っていた大柄でスキンヘッドのマスターは、滅多に見せないにっこりとした笑顔を浮かべカウンターの端へと移動した。
「ねえ、タカオ。向こうのテーブルのお客さん、すごいよ。グラスにぱんぱんにレモン詰めてる。酸っぱくないのかな?」
「こら、あんまりジロジロ見るなよ」
「えへへ」
「葉魚絵、お前酔っ払ってるだろ?」
「うん。ちょっと」
 タカオはやっと笑顔になり「俺は酔ってないぞ」と葉魚絵の頭を軽く小突いた。葉魚絵も「いつも飲酒運転だったの? 帰りは事故らないでね」とやり返した。タカオは翌日になってもアルコールの抜けるまで運転はしないようにしていた。もともと深酒はしない。
「あ、そうだ葉魚絵。……靭彦に会ったんだって?」
「うん。繭良ちゃんの幼馴染み」
「あいつ、その、口説いたりしてこなかったか?」
「まさかあ、あのひと繭良ちゃんが大事だもの」
「え? そうなの?」
「うん。もう繭良ちゃんのためならって感じなの。豆柴みたいに」
「なんで豆柴なんだよ」
「ほら、ちっちゃい柴犬って忠犬っぽいじゃない?」
「豆柴ねえ……。確かにちっちゃいもんな」
「あ、そういう意味じゃないんだけど」
その場に靭彦がいるわけではないのに葉魚絵はあわてて弁解した。
「一途なのよ、とっても。なんだか。可愛いくらい」
「ふうん。繭良さんの彼氏だったとはねえ」
「ちがうって!」
激しく打ち消す葉魚絵の語調に、タカオはびっくりしてグラスを落としかけた。
「そんな、リキ入れて否定しなくても……」
「うーん。恋人志願って雰囲気じゃないの。あの二人って。兄妹みたいな?」
「まあ俺もそうじゃないかとは思ってたけど」
 タカオは葉魚絵の変貌が気になっていた。『明るくて元気な優等生の女の子』。それがタカオの葉魚絵に対するイメージだった。しかし最近の葉魚絵は以前よりもくだけた感がある。勿論、タカオと話す時は葉魚絵はいつも極上の笑顔を見せてよく笑いよく喋ってはいたが、それまではどことなくタカオは彼女から一歩引かざるを得ない近寄りがたさを感じていた。けれど、最近の葉魚絵は違う。このところゆっくり会う時間がなかったせいで違って見えるのだろうかとも思ったが、タカオは葉魚絵を変えた何かに裏付けのない嫉妬の念を抱いていた。
 今までなら自分とのデートの時でも化粧らしい化粧はせず、少しだけパールの入った口紅を塗るくらいだったのに最近ではきちんと眉の形を整え、唇には常にうすく色を載せている。今夜も厚くはないがしっかりとメイクをし、服装までも垢抜けていた。
 靭彦に会ったのは繭良のところに葉魚絵がちょくちょく顔を出しているからだ、と葉魚絵から聞いた時、タカオは疑心暗鬼にならざるを得なかった。
―葉魚絵がキレイになるのは嬉しい。以前に比べて距離が縮まったような気がするのもすごく嬉しい。でも……。
 葉魚絵が、またなんか考えてる? とタカオに話しかけてくる。そんな葉魚絵は可愛らしく美しかった。もともとどちらかというと彫りの深い整った顔立ちで長い睫毛の瞳が魅力的な娘だったが、今の彼女はそれまでになく色香を漂わせている。タカオは余計に焦りを感じていた。
「タカオ、神楽の稽古は順調?」
「あ、ああ」
「びっくりした。タカオが神楽奉納をやるって。でも嬉しいの。タカオの声って私、大好き。お祭りが楽しみだな」
 そう言ってから、葉魚絵の表情は暗くなった。
「あ、でもお祭りの時期には……。私は……」
葉魚絵はタカオとふたりきりで時間を過ごす機会はあとわずかだという事実を思い出した。タカオもそれを承知で今夜、この店に連れてきてくれたのだろうと考えていた。
 また戻れる、ということはわかっている。しかししばらくの間、彼と離れ離れになってしまう。そして繭良とも。
「綾女ちゃんも、神楽奉納出るんだってね」
「ああ。彼女には打楽器を頼んだ。とうてい神楽には似つかわしくない編成なんだけど」
「でも面白そうじゃない」
 綾女は寮から繭良の住まう離れの一軒屋の二階にある空き部屋に移ることになった。その日の昼間、葉魚絵は繭良との時間を長く持てる羨ましさを押し殺して綾女を励ました。葉魚絵の言葉に綾女は微笑んで、がんばります。と言ってくれたが、葉魚絵の心中は複雑だった。
―私ってイヤな女だと思う。
タカオは靭彦とともに榊の所へ綾女を連れていった時を思い出した。
 榊の家の門の前に繭良が全てお見通しといった風に出迎えていた。
「宮司がお待ちです」
 カン高いが耳障りではない発音で繭良は彼らを導き、榊のもとへと通したのだ。
「マユラ、やっぱり聞こえたんだな」
 靭彦の問いに廊下を進みながら繭良が答えていた。
「うん。宮司にもね」
 そして。
―綾女ちゃんがあの宮司の姪だったなんて。
 宮司も、そして綾女までもが彼らの同席を許し、一同はそれを知り……そして侵入者のことを知った。
―だから俺は……。いや、俺は……。
「この曲、知ってる」
 不意に葉魚絵が弾んだ声で言った。
「え?」
 音楽は変わり店内には女声の歌が流れている。
「これ、ピアノで弾けるよ。大好きな曲なの」
「ふうん。何て曲?」
「これ? “FRY ME TO THE MOON ”」
「きれいな曲だね」
「ねえタカオ、私、タカオと一緒に月に行きたい」
「え? 月? いきなり何だよ」
「多分私たちが生きてるうちは無理だとは思う。一般人が誰でも月へ行けるようになるのはもっともっと先のことで、もしかしたらいつまでも行けない所かもしれない。でもね、月に行きたいんだ」
「月ねえ。俺も葉魚絵と一緒だったら……。いいよ。月だろうと火星だろうと木星だろうと」
「私も」
「俺と一緒なら、どこでも行ける?」
「うん」
「天国でも地獄でも?」
「いっしょならどこでもいい」
「葉魚絵、白里が好き……か?」
「うん。大好きだよ」
 タカオはグラスを持つ自分の手が震えているのがわかった。
―そうだ。だから俺は、急がなければならない。
 タカオは葉魚絵の衿元が大きめに開いた服の胸元にちらりと目をやった。金色の鳥籠型バスケットの中で水晶球は深海の生き物のように淡い光を放っていた。
―俺は間違っているかもしれない。彼女の身に何が振りかかってくるかはわからない。でもその時には……。
 タカオはテーブルの上に置かれていた葉魚絵の手を、そっと握りしめた。
―俺が葉魚絵を守る。
「タカオ?」
タカオの手が微かに震えている。葉魚絵はタカオの手の温みとその振動に、彼の目を見つめた。タカオはまっすぐに葉魚絵を見ていた。葉魚絵の手にぎゅうっとタカオの力がかかる。
「タカオ? どうしたの」
「葉魚絵」
「なあに?」

「俺と……結婚、してほしい」

「いっしょに、いられるの?」
「ああ」
「私、白里の人間になれるの?」
「ああ」
「タカオの家族になれるの?」
「ああ……でも」
「でも?」
タカオの表情が曇る。
「俺の話を聞いてから返事がほしい」
「返事をしてから聞くわ」
「大切なことなんだ」
「大切なことは……」
葉魚絵はいったん言葉を切り、続けた。
「ほんとうに大切なことは、ただの恋人じゃなくて『家族』に話してほしいの」
「葉魚絵」
「月じゃなくて地獄行きでもかまわない。何があるのか知らないけど、タカオ、ずっと変だったよ。何でだか教えてほしかった。でも私はあなたの奥さんでもなければ白里の人間でもないから、何も聞けなかった。後戻りできなくてもいい」
「でも葉魚絵……」
「私、タカオのお嫁さんになる。なりたいの。白里の人間になりたいの」
「葉魚絵、い……いいのか?」
「いいのか? って、結婚してくれって言ったの、タカオでしょう?」
「ほんとうに?」
「嘘ついてどうするのよ」
「そ、そうだよな」
「嬉しくないの?」
「うれしいよ! 葉魚絵と結婚できるんだから!」
 思わず大声を上げたタカオの声に店中の人間がカウンターに注目した。二人は恥ずかしげに背中を丸めて小さくなる。
「うれしいよ。葉魚絵」
小声でタカオが囁く。
「私も」
 にっこりと微笑んだ葉魚絵の前に、可愛らしいピンク色の液体をたたえたショートグラスが差し出された。
「マスター?」
 タカオが目を上げるといつのまにか岩石そっくりの風貌のマスターが二人の前に居た。
「おめでとう。おごります」
「ありがとう」
葉魚絵が礼を述べると、今度はタカオの前に細かな泡のたつカクテルグラスが差し出された。
「マスター、これ?」
岩石マスターは、カウンターの端を手のひらで指し示した。
「シャンパンカクテル。あちらからです」
カウンターの端で趣味の良いベージュのスーツ姿の中年男性が、グラスを持ち上げておだやかな笑顔を浮かべていた。タカオはスツールから降りて中年男性のもとへ歩いて行き隣に座った。
「あの、ありがとうございます」
「部外者が失礼かなと思ったのですが」
その男性は、やわらかくタカオに語りかけた。
「お祝いさせてほしかったんです。迷惑でしたか?」
タカオはいいえ、とんでもないと首を横に振った。
「良かった。実は私はここの人間ではないんです。明日、家へ帰るんですよ。本当は娘と一緒に帰るはずだったんですけどね。娘は自分の意思で帰らないと言った。あれもやっと独立心が出てきたんです。だから今日は娘の……いや私にとっての記念日です」
「娘さんが?」
「ええ。まだここでやるべきことがある。って、ね。そんな気はしてました。嬉しいけれど……複雑ですねえ。親離れされるのは寂しさも正直いって、ありますよ」
「そうだったんですか」
「ああ、下らないおしゃべりを聞かせて失礼しました。ご結婚、なさるんですね」
「ええ。さっき返事をもらって……まだ信じられなくて」
「いろいろと不安も出るかもしれません。でも大丈夫。これからはひとりではないのですから」
「そう、ですね」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
 タカオが席に戻ると岩石マスターが「駄目ですよ。これをプレゼントされたらちゃんと『君の瞳に乾杯』っていわなきゃ」と、タカオのカクテルを目で差して微笑んだ。その微笑みは岩というよりクレイアニメーションの動きだったが、祝福の気持ちがあふれるほど滲み出ていた。


―日夏がくる。もうすぐ。
 桑の海の中、繭良は佇む。養蚕用に改良された桑は摘み取り易いように人の腰までの高さであるのが常だが、そこ一面に広がる桑の群れは繭良をすっぽりと覆い隠すだけの丈があった。それらは普通のサイズの養蚕用の桑の形状であり、桑の大木といえるような太い幹を持たない。突然変異の野生種か、もとは養蚕のためのものであったのが突然変異を起こしたものかもしれなかった。
 ざざざ、と桑が風にさざめく。繭良は顔にかかる細い髪を後ろへとかきやり、その場に膝を抱えて座ると目を閉じて風の音を聞いていた。
―くるんだね。ひなつ。
繭良の小ぶりな耳がぴくりと動いた。続いて彼女のまぶたが開かれる。
「マユラ。ここにいたんだ」
 息を切らせてやってきたのは靭彦だった。
 繭良は桑の木の根元に生える露を含んだ草の上に腰を下ろした。
「早起きだね。ユキ」
「たまにはね」
「宮司に言われて呼びに来たの? すぐ戻るよ」
「いや、まだ大丈夫だろ」
 靭彦も繭良に並んで座り込んだ。
「躰、どうだ?」
「うん。もう舞の稽古も普通にできるし大丈夫」
「そっか。良かった」
「ねえユキ」
「え?」
「ありがとう」
 ややあって、靭彦は神降ろしの件だと気づいたのか、ああと答えた。
「でもユキ、大変じゃない。大丈夫なの?」
「俺の体力、甘く見るなよ。それに強力なメンバーたちも一緒だし、もう最強ユニットだよ」
「でも」
「心配すんなって」
 ざざ、と風は桑の葉の上を滑る。沈黙のかわりに風が微かに歌を唄い吹いて流れていた。
「日夏、くるね」
 その名を出すことを考えあぐねていた靭彦が、はっとして繭良を見た。
「俺は……自分の任務をまっとうするだけだ。でも、お前、本当に大丈夫か?」
ずっと、聞きたかったことを靭彦は尋ねた。
「うん。私の目的も、ユキと里のみんなの目的もほぼ同じだからね」
「ほぼ?」
「ちょっと違うのは個人的なこと。裏切りはしないよ」
「それは信じてる。それに、もし万が一、お前に『ゆらぎ』や迷いが生じても俺はやるぜ」
「うん」
「日夏、か」
うーんと伸びをして靭彦は呟く。
「強いよ」
短く繭良が言う。
「俺も強い」
「わかってる」
 靭彦は肩から馬頭月琴を下ろすとバチを構えた。
「弾くの?」
「弾きたくなった」
ふふ、と繭良は笑い、弦の音に目を閉じた。
 既視感。軽い眩暈が靭彦を襲った。しかし靭彦は弾き続ける。波立つ胸の鼓動をなだめるがため。
 間もなく九月を迎えるというのに、周囲を山に囲まれた盆地地形の里を渡る風は今だ湿気を帯びた熱を孕み、油蝉の声と張り合いその生命を主張していたが、控え目だったひぐらしの歌が油蝉の合唱よりも優勢さを示しはじめると、むっとする風も早朝にはさわやかなものへと変化しつつあった。
 すべてが。はりめぐらされ末端を結合させていき広がっていく神経細胞のように、いや、結合と化学反応により姿を変えひとつになっていく原子たちの運動のように、変容しリンクしていくようだ、と靭彦は思った。
 蚕の繭はほぐすと切れ目のない一本の糸になるのだと、繭良の部屋に遊びにきていた葉魚絵が教えてくれた。休むことなく蚕は糸を吐き続け、繭を形作る。もしかしたらバラバラであったと思われていたものは、すべてはじめから繋がっていたのではないのだろうか、そしてそれを傍観するものが……?。
―ばかばかしい。俺は無宗教だし運命論者でもない。
 靭彦が弾く音に、繭良がおや? という顔をしてみせた。
「きれい」
「え?」

 キン、コキインン、コオオンン……。

 キン、とテンスの強い音に何故かころん、からん、という軽やかでやわらかく、まるみのある音が含まれてきこえる。それは以前靭彦が繭良のために子守歌を弾いてやったのとはまた違った優しさがあった。
 繭良はその音色に甘える猫の顔できれい、きれいとはしゃいだ。
「何だよ。それじゃいつものは汚いって?」
「ううん、そうじゃないよお。弾いてひいて」

 キイン、コキーイインン……。

 どれほどの時を経て、ふたりはこの時間を取り戻しただろう? 靭彦は変調し、キーを高くしておだやかな旋律を奏でる。靭彦の音に繭良は目を閉じる。

 キコオンン、キン、キインコオオンン、コオオンン……。

 繭良は囁く声を滑らせ音に合わせ歌い出した。その声は普段のソプラノではなく、メゾソプラノほどに低くトーンを落とした声だった。靭彦が聴いた事のない繭良の発する声。

 うちへかえろう
 おうちへかえろう
 迎える者はいなくても
うちへかえろう おうちへかえろう
 あかいススキの穂のたなびいて
 月見草の笑顔のなかへ

―ねえユキ、あなたの望むものは私じゃない。あなたは私を欲しいわけじゃない。望むということが、願うということが、欲望というのなら。欲望が罪悪だというのなら、ひとは呼吸をするたびに罪を重ねる。個人の欲望のためにひとに迷惑をかけることは、ひとを悲しませることは明らかに罪と思う。罪。その大小の違いはあれど、ひとは罪を犯して生きていく。責任を意識できるかどうか、それがそのひとがひとと呼べるかどうかのボーダーラインであるといえるでしょうね。誰かを深く傷つけ、心にも躰にも消えない傷を負わせた罪に対する罰には死を与えても構わない。でもね『罰』の基準は程度と原因。その判別がハッキリとしたものであるなら罰というものもおのずとハッキリとする。それはとてもわかりやすいね。エゴというのではなく望むということは悪い欲望かしら? 何が正義なんて各々のものよね。だからひとは正しさを求める。欲望に戸惑う人間ほど迷うけれど、大切な生命を守るための『願い』は『罰』を受けるかしら? 私はそう思わない。

『ゆるして。おねがい。ゆるして。おねがいだから』

 フラッシュバックされる光景が、繭良にキリリと頭痛を起こさせる。

―私は罰を受けた。自らの、自分のための願いから。ユキ、私はあなたが私を望んでいないということに感謝している。

 うちへかえろう
 おうちへかえろう
 そして
『ただいま』と言おう

「マユラ?」
「え?」
「それ、なんて歌?」
「知らない。昔々どこかで聴いた歌」
コキン、と弦を弾いて靭彦は馬頭月琴からバチを離した。
「どうした? お前、何か変だぞ」
 繭良は靭彦から顔を離し、目を膝に落とすと呟いた。
「ユキ、私『チャイルド・マーケット』へ行ってくる」
「何だって? 正気か?」
「二、三日。暇をもらうよ。こんな時に、だけど。でも大丈夫。まだ日夏は来ないよ」
 早口で言い切ってしまうと繭良は立上がり、すたすたと歩いていく。
「待てよ! おい、マユラ!」
 しかし靭彦は追うことができなかった。桑の群れのなか、靭彦は唇を噛み締めた。
「『チャイルド・マーケット』か……」

―ごめんね。ユキ。でもね、私は今、あそこに行かなきゃだめなの。日夏に立ち向かうには行かなきゃならないの。これ以上、あなたの優しさに頼りきって……「わたし」が弱くなる前に……。
 桑の上を渡る風は、いつしか少し強くなっていた。 
チャイルド・マーケットの章

  6

 神楽の稽古は順調だった。
 綾女もすんなりと靭彦とタカオの申し出を受入れ、練習にいそしんでいた。綾女のボンゴは今まで絶えず練習を積んできた訳ではないとは信じがたく、天性のものかリズム感に優れ、靭彦が心配する必要は皆無だった。また稽古中の綾女はタカオの彼女へのイメージが変わる程、楽しそうで生き生きとして見えた。タカオはまだ強弱のつけ方と呼吸に難儀していたが、靭彦と言い合いながらも真剣に稽古に取り組んでいた。

 繭良が白里を出て一週間が経とうとしていた。
 靭彦は榊に繭良の動向を尋ねたが「戻るさ」という返事しか返ってこず、イライラをかなぐり捨て靭彦は神楽ユニットの稽古に熱を込めていった。

―何やってんだよ。マユラ。二、三日って言った癖に。

 靭彦は極力、繭良のことを頭から追い出そうとした。雑念が入ってしまっては『あれ』を満足させることはできない。靭彦は稽古を重ねるうち、榊が何故『あれ』に『餌』を与えていたのかが、あくまで推測ではあったが、理解してきていた。今の靭彦たちはいわば猛獣の飼育係のようなものなのだから。

―何考えてるんだ? あのサディスト宮司は?

『あれ』は一年のうち一定期間、凶暴さを増す期間限定のパワーではないかと靭彦は考えていた。動物的な波動を放つ『あれ』の発情期のようなものだろう。市原の話からしても繭良の舞の稽古が激しくなるのは、ある一定期間だという。おそらくはその時期に合わせて……。靭彦はその際に繭良により調整され、かつ活性化されていた『あれ』の力を、榊がどのように扱っていたのか疑問を持ちつづけていた。彼は一体、何を考えているのだろうか?
『あれ』の得体の知れない貪欲なパワーにタカオも綾女も何も気付いていない、ということはない。しかし彼らは何も問わない。それは靭彦への信頼からくるものである。靭彦はそれを認識してはいなかったのだが。
 ひとりではなく、複数でともに楽を奏でるのは靭彦にどこかくすぐったい戸惑いを感じさせたが、それは決して悪い感触ではなかった。

―『チャイルド・マーケット』か。

 ふと頭に浮かんだその土地の名前を振り切り、靭彦はソロパートに没頭した。
 あれから、もう何年になるのだろう。
 物心ついた時、靭彦は既に『チャイルド・マーケット』にある『ガーデン』にいた。『チャイルド・マーケット』と言っても、子供の売買が行われているわけではない。いや、古くは実際に(勿論、非合法に)行われていたらしいのだが、表向きは電子機器を中心に幅広い種類の食材、その他入手困難な品々が手に入りやすいとされている地域である。『チャイルド・マーケット』はジャンルによりエリアが分かれているが、それらが隣接しているその一帯は都市といえるほどの大きな範囲ではない。
 何かしらの専門の商店街を抱える小さな町が寄り集まり、形づくっている特異な街。それが『チャイルド・マーケット』と呼ばれる地であるが、正式名称ではない。
 また、街まるごとがひとつの市場である『チャイルド・マーケット』には昔ながらの裏の顔も根強く雑草のように息づいていた。いや、その「裏」が「表」というイメージのほうが強い地域と言えるのかもしれない。何故なら『チャイルド・マーケット』には「裏」の要素を多分に含んだ施設が堂々と存在していたからである。
『チャイルド・マーケット』のややはずれに位置し、ひとかたまりの居住専用区域から一番遠い場所にある『ガーデン』は家族から離れての生活を余儀なくされる子供、もしくは身よりのない児童を預かる、いわゆる『シセツ』なのだが、そこに収容される子供たちにはある種の規定があった。

靭彦が覚えている一番古い記憶は三つのときだろうか。大きく固い手が彼の手を握り、誰かに挨拶をしていた。そしてその手は幼い靭彦のまだ柔らかな髪をひと撫ぜすると、背を向けて去っていった。小さな彼の肩に、ずしりと何か固いものが入った麻袋を託して。
 その記憶に音声はなく真っ青なフィルターをかけられた映像として彼の脳に残っている。
 大きく固い手の主は時折、彼の元を訪れて馬頭月琴を弾いて帰って行った。靭彦が五歳になっていただろうか。固い手に指南されようやく馬頭月琴の弦の押さえ方をマスターできるようになると固い手の男の来訪は徐々に減っていき、やがて男は姿を現さなくなった。
 靭彦は男の顔を覚えていない。声すらも記憶していない。男との時間はすべて深く透明な青いフィルターをかけられた、音のない映像として靭彦の脳内にメモリーされている。
 ただ、ひとことだけ。その男の声ではないかもしれないが靭彦が覚えている言葉がある。
「『音』ヲ忘レルナヨ」
 その『音』とは何であるのか。今もって靭彦には理解できていない。その言葉は、男が何者であるのかという疑問と同じくらい彼にはどうでもよいことではあるのだが、忘れることはできない。
 男の来訪が途絶えたころ、靭彦は繭良に出会った。

 幼児向けらしく可愛らしいプレイルームの片隅で、小さなちいさな繭良はひとり、緑色の低い平均台の上にちょこんと腰掛けていた。ぬいぐるみか大きめの人形と見まごう他の幼児よりも一回り小さな繭良が赤い毛糸で器用にあやとりをしているのを、靭彦は少し離れた場所から珍しそうに見つめていた。
―動いてる。あんなちっこいのが。
 繭良は毛糸の糸で橋をつくり、ほうきをつくり、星をつくっていた。靭彦はしばらく不思議な面持ちでそれを見ていたが、繭良の前へ歩いていくと、もみじ大の手からするりと難なく毛糸を奪い取った。
 何が起こったかわからない繭良は年長の児童を見上げた。しかし泣きもしなければ言葉を発することもない。靭彦は輪になった毛糸の結び目をほどこうとしたが結び目は固く、なかなかほどくことができない。彼は赤い毛糸の糸を口にくわえると、とがった犬歯で噛み千切った。
 一本の糸となった毛糸がふわふわと平均台の下へと落ちて行く。靭彦は満足気にそれを見届けると、続いて繭良の顔に目を向けた。
 繭良は靭彦をじっと見上げていた。
 薄茶色をした黒目がちのまるい瞳は睨むでもなく哀しげでもなく射抜くでもなく、靭彦の顔を、瞳をただ、ただ見つめていた。その時、靭彦はうなじのうぶ毛がザワリと逆立つのを感じた。
「ユキヒコくん! はなれて!」
 鋭い女の声に、靭彦はあわてて飛びのいた。
 子供たちの世話をしている若い保育士がスライディングして子供たちの間に割って入り、平均台の上の繭良をざっと抱き上げると繭良の頭をかかえその胸にぎゅっと抱き締めた。

 パキイン! パン! パン! パン! パキッ!

 小さな靭彦には大きすぎるが片時も離さないでいる彼の肩に担がれた馬頭月琴の弦が、一本だけを残して切れてはじけ飛び、切れた弦の一本の先が靭彦の頬を掠めた。一瞬、焼ける痛みが頬に走り靭彦は顔をしかめた。そこに片手を当てると、生温かくどろりとした赤い液体がべったりと手のひらいっぱいに広がっている。
「ユキヒコくん!」
 繭良を抱きかかえたまま若い女性保育士は叫ぶと、靭彦の前に屈みこんで、エプロンのポケットからスミレの刺繍されたハンカチを取り出すと靭彦の頬と手の血を拭った。「目に入らなくてよかったあ。でも……けっこう深く切ったわね」
 靭彦は答えずに保育士の腕の中にいる繭良を見た。繭良は無表情のまま、じぃっと靭彦を見つめ続けている。
「保健室に行きましょう。手当てしなきゃ。まったくもう、イジワルなんかするから」
 靭彦にハンカチで傷を強く押さえておくように言いつけると、保育士は片腕に繭良を抱き、片手で靭彦の手を取って早足でプレイルームを出ていった。
『ガーデン』の保健室には養護教諭でなく医師が常駐していた。
「またですか」
 光沢のある白髪を後ろでひとつにまとめた女医は、保育士の顔を見ると淡々とした声で言った。その言葉に保育士は繭良を抱く腕に力を込めた。
「シールドは万全です」
保育士の声は硬い。しかし挑むその口調に構わない様子の女医から何らかの指示を与えられると、保育士は繭良を抱いて保健室を出ていった。
「かわいそうだわ」
保育士は捨て台詞というには気弱な声でぽつりと呟いていた。
 スミレの刺繍をほどこしたいい匂いのするハンカチを頬に当てたまま保健室に残された靭彦は、何も喋らず素直に医師の手当てを受けた。
 頬に大きなガーゼを貼り付けた靭彦がプレイルームに戻ると、繭良の姿はそこにはなかった。
翌日、庭の隅で大きな置き石に腰掛けて弦を張り替えた月琴を弾く靭彦のもとに、トコトコと繭良がやってきた。手には年少組が持つことを禁止されている、先の丸くなっていないハサミが握られている。靭彦は身構えたが、無表情で彼の前で立ち止まった繭良に声をかけた。
「何だよ……」
不機嫌に靭彦が言い捨てるや否や、繭良はハサミを開いてその刃先で自らのやわらかい頬を切り裂いた。
「ばかっ! なにすんだ! お前!」
 靭彦は馬頭月琴を放り出し、繭良からハサミを取り上げるとできるだけ遠くに投げた。放り出された月琴が土の上に落ち、不協和音を奏でる。
「ばかばかばかっ!」
靭彦はどうしていいかわからずオロオロとして「ばか」を連呼したが、繭良の白桃のような頬から流れ出てくる鮮血を認めると、とっさにその血を舐めとった。傷は細く浅く見えたが血はなかなか止まらない。靭彦はペロペロと血を舐めとりながら、小さな獣をそっと、抱きしめた。幸い、二人が顔に負った傷は跡にはならなかった。深さがあったのにもかかわらず。
 それからだった。繭良が靭彦の後をついて回るようになったのは。
だいたい殆どの時間をひとりで過ごしていた靭彦にとって、繭良は鬱陶しい存在ではあったが、繭良の姿を見失うと、その所在を確認せずにはいられなかった。
 靭彦にはひとつだけ、繭良に関して気になることがあった。
「これ、何だ?」
 靭彦の質問に繭良は、わからない、という顔で首を横に振った。靭彦が保健室に連れて行かれた数日後から、繭良の細い首にはパールホワイトの首輪が巻かれている。ふわふわした真綿の感触の柔らかい布が巻かれてはいるが、触ってみると首輪の中にはやや硬めの金属らしいリングが入っている。首輪の留められる部分には丸いスナップボタン状の金属がついており、靭彦は外してみようとしたが取ることはできなかった。丸い金属の中央には穴が開いていて、それが鍵穴になっていた。
 靭彦はその首輪について誰に尋ねることもしなかったが、それを繭良がつけ始めてから繭良を監視する気配は緩んだように思われた。しかしやがて靭彦と繭良を含む『ガーデン』の子供たちが、普通の保育園や幼稚園で行われる教育のほかに『プログラム』と呼ばれる授業の時間を重ねていくうち、いつのまにか繭良の首からは首輪が取れていた。
『ガーデン』の『プログラム』は全員が受けるものもあれば個別にされるもの、グループに分けられるものもあり、どれも何らかの「能力」を開発させる目的を持っていた。
そして。それぞれが生まれ持つ「特殊」といえる能力のために彼らが家族と別れ『ガーデン』で生活しなければならないのだ、ということを幼い靭彦はだんだんと、理解していった。

「ゆき、ひいて」
「弾いてるよ」
「それじゃないの」
「何だよ。ヤならあっち行けよ」
 幼い繭良の黒目がちの薄茶いろの瞳がみるみるうちに潤んでゆく。
―やばい……。
「わかった! あー、もうわかったから泣くな! 泣くなよ!」
「ほんとっ?」
「なに弾いてほしいんだよ?」
「うーんと、ねえ」
繭良はもう無表情で無口な幼女ではなかった。暇さえあれば靭彦にくっついて離れない。そしてよく泣き、怒り、靭彦をさんざん困らせたあとにころころと笑った。
「ユキヒコくんはえらいね。マユラちゃんの面倒を良く見るいいお兄さんだ」
あの日、スミレの刺繍を施したハンカチを靭彦に渡してくれたヒロコ先生は、ふたりの姿を見つけるとにっこり笑ってそう言って靭彦の頭を撫でた。
「ヒロコ先生。オレ、こんな妹いらないよ」
抗議する彼にヒロコは微笑し、屈みこんで靭彦と視線を同じくする。
「あら。そう? いいじゃない? こんな可愛い妹だったら」
「かわいくないよお」
―ヒロコ先生のほうがかわいいよお。
幼い靭彦にはそんな本音は伝えられなかった。靭彦が保育士という管理者を必要としなくなった年齢になっても、ヒロコは優しかった。保育士のかわりに児童職員と呼ばれる人間が靭彦の世話に当たるようになったが、子供たちとのケンカが絶えない靭彦をかばってくれるのは、いつもヒロコだった。そんなヒロコが靭彦は大好きだった。
 そんな日々が過ぎる中で『ガーデン』の子供たちは微妙に顔ぶれを変えていた。『ガーデン』から姿を消した彼らがどこに行ったのかは知らない。受け入れてくれる「家族」を手に入れたのであろう彼らをうらやむことはなかったが、靭彦は見知った顔が消えるたび、胸にちいさな冷たい塊ができるのを感じた。その塊はしばらくすれば溶けてなくなったが、彼はカタマリを意識すると『プログラム』に真面目に取組み、馬頭月琴の練習に打ち込んだ。
 何回目かのそんな出来事の直後だった。
「ユキヒコくん、ヒロコ先生のお手伝いしてくれる?」
大好きなヒロコの頼みを靭彦は(渋ってみせたが)承諾した。それは『ガーデン』の庭に小さな花壇を造るという作業だった。
「『ガーデン』はね、お庭という意味だから。私たちも私たちのお庭を作りましょう」
「ねえ、なんでこんなめんどくさいこと、するの?」
「面倒臭いけど、でもお花が咲いたらきっとうれしくなるわよ」
「ふうん」
文句を言いながらも靭彦は庭の隅で花壇を囲むレンガを埋めていく。小さな繭良も小さなスコップを使って懸命に土を掘り起こしている。
 花壇が出来上がると、ヒロコは花の種を靭彦と繭良に渡し、自分も一緒に埋めた。
「ヒロコ先生、何の花が咲くの?」
靭彦の問い掛けにヒロコは「デイジー」と答えた。
「春にはかわいい花が咲くわよ。さんにんで育てようね」
「でいじー! たのしみ!」
きゃあきゃあと泥だらけの繭良は飛び跳ねて喜んだ。

 大きな黒檀の机の向こうには座らず、その男は机の前に立ってヒロコを出迎えた。
 男は三十代の前半くらいだろうか。長身で細身だが肩幅のしっかりとした骨格で、柔和な雰囲気をたたえてはいるが、奇妙な威圧感がある。若めには見えるが年齢は測れない。
 小さな繭良の手を握るヒロコの表情は固い。ヒロコの目はまっすぐに男の顔を睨みつけている。その傍らで不穏な空気に落ち着かなく、年若い男性職員は何かを喋ろうとしているが口をぱくぱくさせるのが精一杯だ。ヒロコはそちらを見ずに職員に向かって言った。
「どうして園長の居ないときにこうなるんですか」
「そ、それは……。急に……」
ヒロコよりは年かさであろう職員は冷ややかな問いかけに額にじったりと汗をかいている。
「ヒロコ先生、いや『紋白』……さんとお呼びしたほうが良いのかな?」
ヒロコの真向かいに立つ男の、バリトンに近いテノールの声は穏やかだったが、それは聞く者の神経を逆撫でする口調だ。
「どちらでも構いませんよ。それより、率直に言います。あなたにこの子は渡せません」ヒロコは小さな砂袋をかかえ上げるように繭良を腕に抱き上げた。
「ひ、ヒロコ先生っ!」
男性職員がうわずった声で悲鳴を上げる。しかしヒロコは動じない。
「私にこんな事を言う権限がないのは百も承知です。でもこの子をあなたに渡すことはできません。その理由はおわかりですね。私を『紋白』と呼ぶあなたなら」
 男はやれやれというように一息つくと、一歩前へ踏み出した。
「お気を悪くされたなら申し訳ない。ほう、その子が繭良ちゃんですか? 可愛いですねえ。でもね、もっと可愛くなりますよ」
「お帰り下さい!」
ヒロコの激しい声に繭良がひくっと怯える。
「おや、いけませんね。繭良ちゃん、びっくりしてますよ。それよりヒロコ先生、いや紋白さん、あなたどうしてまだこんな所にいるんです? 一時的な措置だったはず。まだまだ現役でも良かったのでは? 『揚羽』さんもきっと寂しがってますよ」
「アゲハはアゲハです。私は私。私は今、ここの職員です」
「勿体ないなあ。あなたの活躍には期待できるし、それにもっと稼げるのに……」
「稼げる? 稼いでどうするの? ここでだってちゃんとお給料は頂いてるわ。それで十分よ。あなたから見たら少ないでしょうけど、私はここに居たいからいるの。もう……戻りたいなんてこれっぽっちも考えてないわ!」
「紋白」
あくまでも穏やかだが、男の口調は豹変した。その目は冷たく黒目の動きというものが殆ど感じられない。
「繭良ちゃんだけじゃない。僕はね、君も迎えにきたつもりだったんだよ」
「何ですって? 繭良ちゃんにも同じ事をさせるんでしょう?」
男は無視して続けた。
「『揚羽』の活躍は相変わらずめざましいものがある。彼女の情報収集力は確かに優秀だ。でもね、君のその力も必要とされているんだ」
「私くらいのなんてゴロゴロいるでしょう。人手不足というだけなんでしょう?」
「自分を卑下しちゃいけないね」
「そうじゃない。私の力はアゲハには及ばない。もしあれ以上のことができるとしても疑問を持ちながら仕事をするのはもう嫌。能力とかの問題じゃないの。あなたたちのためだけに働かされるのは嫌。もうイヤなの!」
「今は疑問はないのかい? 今の仕事だって僕のためという部分もあるんだぜ」
ヒロコはぐっと言葉に詰まった。
「部署が変わっただけじゃないか? 紋白。君には『力』がある。貴重な『力』さ」
「嫌よ。もう『見たく』たいのよ! 私はアゲハのように割り切れない。早く自分の愚かしさに気がつくべきだったわ。私は癒すことが使命と感じていた。でもあなたたちの目的は違った。あなたたちは私を使って彼らの頭の中からあなたたちに有用な『情報』を引き出すのが目的だった」
「でも実際に君のおかげで彼らは癒されたんだ。自信を持てよ」
「不自然なことよ」
「不自然?」
「どんなにつらくっても、どんなに苦しくっても、生きていく本能としてひとは問題を解決する力を持っている。そんな強さを持っている。他人の力が必要になるのも悪いことではないと思うわ。でもね、私が……私のしたことは」
「君の『命じられたこと』と言いたいんだね」
「私にもそれを受け入れた責任があるのはわかってる。でも私のしたことは癒し、先へと進めるようにケアすることじゃなかった。彼らの「なか」にダイブして私は彼らを癒すことに専念したつもりだった。でも! いつでも疑問は残った。ある時わかったわ。私は中毒患者を作っただけなのよ! そして」
「そうさせたのは僕たち、と。まあもちろんそうなんだけどね。『客』はみんな僕たちが連れてきた奴等ばかりだったしね。でも彼らだって望んだんだぜ」
「それは……『ほんとうの望み』だったのかしら?」
 張り詰めた沈黙が流れる。男性職員は硬直したままだ。
「榊さん、ひとの「なか」にダイブするのはひとの領域ではないのよ。彼らの綻びをリペアするのが私の仕事であり、重い秘密を解放させる。その代償にあなたたちはあなたたちの欲しい情報を手にして商売にした。優しさや思いやりは売り物じゃない」
「いっぱいあるじゃないか。そんな仕事はさ。君のそんなところが揚羽にはなくってね」
「アゲハのほうがまだ罪がないわ。彼女の思いやりは本物よ。私は彼女より優しさや思いやりというケアが足りなかった……」
「それはどうかな。揚羽と君のやり方は違う。君は相手の「なか」へダイブしてリペアするが、彼女は「引き摺り出す」からねえ」
「アゲハはそれでもそのあとケアがしっかりしてた。アゲハはほんとうの思いやりを知ってたから、頭のなかを組み替えられすっきりした彼らに、元気をあげる思いやりの言葉を染ませることができた。アゲハは器用で頭もいいけど、無垢だったのよ。だからアゲハは本当の優しさも思いやりも知ってる。だから仕事だと割り切っても、どうすれば元気をあげられるのかを知ってたのよ」
「考えすぎさ」
「私はアゲハのようにすることができなかった。私は……彼女を羨ましいと思ったわ。成績じゃない。彼女は器用で冷淡なようでいて、ひとを愛することを知っていた。一生懸命、愛することを知っていた」
「それが?」
「ほんとうの『思いやり』を知らなければ、ひとを愛することなんかできないのよ! ひとを『思いやりたい』って、ほんとうに強く願ったとき、依存ではなくて相手に『思いやり』を持ちたいって思えたら、ひとはほんとうにひとを愛することができるのよ」
「……彼は、残念だったねえ」
 ヒロコはぎっと、男を睨み付けた。大きな窓のガラスがビリビリと震える。
「ふうん。相変わらずだな。シールドの特に強い園長室でこれ、か。『こっち』を本業にしても良かったんじゃないか?」
「『彼』に関してはもう、あなたたちにも私にも関係のないこと。とにかく私はここにいるわ。私はここの子供たちに『愛すること』を教えたい。私のできるかぎり。洗脳じゃないのよ。教育は」
「君は望んでここに来たわけではないっていうのに?」
「『島流し』って言いたいんでしょう? 刑期が終わったから戻れって? 嫌よ。あなたの力を持ってすれば無理にでも私をここから出すことは可能でしょうけど……。それであなたたちの思い通りになるとは思わないことね」
男ははあっと息を吐き、肩の緊張を抜くとのんびりと言った。
「君のようなエージェント、今ほしいんだけどなあ」
「とにかく繭良ちゃんはあなたには渡せません。それに……まだこんなに小さいのに」
「君はこの子にえらくご執心だね。ま、いきなり赤ん坊なのに『ガーデン』の門前に捨てられていた君と同じだからかな?」
「私のようにはなって欲しくないのよ」
 ヒロコは男から目を逸らすと繭良の額にそっと手を当てた。目をまるくしてヒロコを見上げていた繭良は目を閉じ、すうすうと寝息を立てはじめた。
「『愛すること』を知れば『愛されること』がわかるわ」
 ヒロコはそう言うと顔を上げた。

 ひゅん。

 風を切る小さな鋭い音。目を開いたままの彼女の額の真ん中に、細く金色に光る小さな針が刺さっていた。針はすぐさま溶けて消滅した。一秒で意識を失ったはずの彼女はそのままばたりとは倒れず、なぜか、繭良を守るように懐に抱きかかえたまま躰を前方に二つに折り、ゆっくりと。静かに崩れ倒れていった。
「あ、あわわ……ああああ」
 硬直していた男性職員は壁にもたれたままずるずると床にへたりこんだ。
「君? こういうシーンはじめて?」
男性職員は涎の垂れるのも構わず口を大きく開けたまま首をタテにぶんぶんと振る。
「そうか。大丈夫。ヒロコ先生は死んでないから。他の職員呼んで、彼女を指定する『センター』に送るように言っといてくれ」
 男は倒れたヒロコの腕から眠る繭良を奪い取り腕に抱くと「それじゃ」とひとこと言い残して部屋を出ていった。
ヒロコの声が残響として彼の耳に届いた。
―私が愛した『彼』のことはもう忘れます。でも………。わたしはあなたたちを許さない。
「頑固な女だねえ」
 榊伊織はすやすやと眠る繭良を愛しげに見つめると、骨張った長い指の先でその柔らかい頬をつん、と突ついた。

 ヒロコが姿を消した。そして繭良も。
『ガーデン』じゅうをくまなく探した靭彦は、迷った末に児童職員に彼らの所在を尋ねて回った。そして最後に一番会いたくない人物に頭を下げる覚悟をした。
 その四十代前後の女性児童職員は常に事務的で、靭彦は彼女をどうしても好きにはなれなかったが背に腹はかえられない。
「マユラは……幼年部のマユラはどこ?」
 児童職員室には運悪く、彼女しかいなかった。
「マユラ?」
「そう。幼年部のちっちゃな女の子だよ」
「昨日、引取り手が来ましたよ」
「きのう?」
「ええ」
 職員は靭彦に目もくれず手元の書類を整理する手を止めない。
「なんで教えてくれないんだよ!」
「なんで教えなきゃいけないの?」
「なんで? ……って」
 靭彦は質問を変えた。
「ヒロコ先生……ヒロコ先生は?」
「ご不幸があってご実家に帰ったのよ」
「そんな」
「急なことですからね」
「そんな………オレ、なんにもきいてないよ」
「用件がすんだら戻りなさい。もうすぐ『プログラム』の時間のはずよ」
「マユラは……マユラはどこに引取られたんだよ?」
 職員は面倒臭そうに顔を上げた。
「しつこいわねえ。じゃあ教えてあげるわ。でもあなたに言ってもわからないでしょうけど」
「どんなことでもいいよ」
「あの子はね『ガーデン』の出世頭ってことになるのかしらね」
意味ありげに職員はにやりとすると言葉を続けた。
「スカウトされたのよ。それもこの『チャイルド・マーケット』の最高権威者によ。あの子の『力』には手を焼いたわ。首に制御装置をつけたり調整は難しかったわあ。あんな小いうちにスカウトされるなんて『ガーデン』の誇り、かしらね?」
「……どういうことだよ……」
「だから言ったでしょう? あなたに言ってもわからないって」
「わかるようにいえよ!」
「私にその義務はないわ。ねえ、靭彦くん。あなたも早くここを出られるといいわねえ」 
ぞっとする笑みを浮かべ、職員は書類に向き直った。後ずさり部屋を出た靭彦はその日、食事をとることも眠ることもできなかった。
 ヒロコと繭良の居ない日々は過ぎた。ヒロコからも繭良からも靭彦に宛てて何の便りもなく。

何カ月ぶりか。桜の蕾がふくらみ花弁がはじける季節、靭彦は繭良に再会した。
 再会はほんの数分。それも全くの偶然だった。
 その日、靭彦はいつもよりだいぶ早く目が覚めてしまった。朝食までまだだいぶ時間がある。馬頭月琴を肩に担いで、彼はぶらりと建物の外へと出た。
 靭彦が寝起きしている場所から本部と呼ばれる建物までやって来たときだった。
 本部棟の正面玄関の車寄せに大きな黒塗りの車が止まっている。遠くに見える玄関の前では『ガーデン』の園長と、見慣れない三十代前半くらいのブラックスーツの男が何か立ち話をしていた。
 靭彦はのろのろと何かに吸い寄せられそこへと歩いていった。彼らは靭彦に気付かないらしく、六十前後の男性園長は男にしきりに頭を下げお互い笑い合ったりしている。靭彦が玄関まで数十メートル付近まで歩み寄ると、園長は本部棟の奥に引っ込み男も車の後部座席へと入っていった。
 車はすぐには動かなかった。靭彦を待つかのように。大きくひらべったい黒塗りの車から数メートルというところで、靭彦は車内に繭良の姿を認めた。

 ドクン。

 靭彦の喉よりすこし下のあたりが大きく脈打った。
―マユ……ラ?
 もうすぐ靭彦は六歳、繭良はまだやっと四歳になるかならないかのはずだった。
 いつも靭彦のだぶだぶの上着の裾を握ってくっついてきた繭良。すぐにべそべそと泣く繭良。きゃっきゃっと無邪気に笑う繭良。薔薇色の頬。トコトコというより軽い足音。薄茶いろの黒目がちの瞳……。靭彦のまだ鮮明な繭良の記憶が猛スピードで彼の脳内を駆け巡った。
 靭彦の立つ側に、繭良は車のシートにもたれて座っていた。
 繭良はボランティアなどから寄せられる古着ではなく綺麗で子供向けにしてはお洒落な服を着せられていた。靭彦は自分の存在を示すことも忘れ、呆と立ち尽くしていた。
 ふと、繭良は顔を上げてシートから躰を起こすと外に目を遣った。そして靭彦を見つけた繭良は歯を見せずにゆっくりと微笑んだ。しかし、ラズベリー色のその唇は靭彦にはひどく禍々しくあの無邪気な子供らしさがなく、そのしぐさは機械仕掛けの人形に見えた。
ふたりの視線が合い焦点を結ぶやいなや、大きな骨張った手が繭良の肩にかかり、繭良はシートの奥へと引っ込められた。そして車はゆるゆるとスピードを上げ、走り出した。靭彦は声を出すことはおろか繭良の名を呼ぶこともできなかった。
 走り去った車を見送り、車の影が針の穴ほどの大きさになったころ、靭彦はおもむろに馬頭月琴を肩から下ろすと、まだ小さなその指を弦に走らせた。

ギイン、ギイイインン……。

それは。おとなしい旋律ではあったが、いちばん温度が高いと言われる蝋燭の芯の周りで青く燃える炎の激しさで、まだ肌寒い朝の空気を裂いた。

ギイイインン……。
ギイイイイインン、ギイン、ギ、イ、ンンン……。

こまやかな振動が彼を包んだ。しかし靭彦はその場を動かない。空気の振動は靭彦を中心に空洞を作り、蚊柱のように立ちのぼっていった。

ギイン、ギインギイイイイ……ン。

広い庭の木々たちの葉がみな、頭を垂れる。鳥のさえずりがとまる。そして陽の光が乱反射する。鳥たちは木々の枝に鈴なりにとまり、靭彦を見下ろしていた。葉という葉は吹く風にかさりとも音をたてなかった。馬頭月琴の調べの音はしばらく唄いつづけた。
 庭のすべての動植物が頭を垂れて黙り込むなか。庭のかたすみの小さな花壇で、ヒロコと繭良、そして靭彦が種をまいた真っ赤なデイジーだけは靭彦の世話の甲斐あってか、繭良の手のひらと笑顔そっくりの可愛らしい小さな花弁をいっぱいにひろげ、まっすぐに空を見上げていた。雲ひとつない青空を。

 7

 濃紺の車は車寄せまではいかず、校門にほど近い道に止まった。
「電車でいいって言ってるのに」
ぶつぶつ言いながら、運転手にドアを開けられて車から降りたった薄茶の長い髪の少女は繭良だった。
「そうはいきませんよ。伊織さんのお言い付けなんですから」
後部座席から見送るのは伊織の秘書・ルーだ。ルーは艶のある黒髪をアップにし、きちんとまとめている。身に付けているのはスリムな黒いパンツスーツだ。いかにも有能な美人秘書といった趣で顎の細い卵型輪郭と切れ長の目の顔立ちは東洋の美しさをまとっている。年齢は二十代半ばあたりであろうか? もっと若いのかもしれないが凛とした仕草が堂に入っている。
「ねえ、ルー、今日ね、バーゲンの初日なんだ」
車から降りた繭良が腰をかがめて後部座席に頭だけ突っ込む。
「それがどうしたの?」
ふたりでいるときは常に堅苦しい雰囲気ではないらしく、ルーはつらっとした顔で言う。
「いこうよお。ルーに付き合ってほしいんだもん」
「サボるお手伝いしろっていうの? だーめ! ちゃんとお勉強してらっしゃい」
「けち」
ぴしゃりと言い放ったルーの言葉に素直に頭を引っ込め、繭良は校門へと歩いて行く。
 襟のまるい白いブラウス、幅広の蝶結びの黒いリボンに黒のプリーツスカート。スカートの丈は短く詰められ、黒のハイソックスを履いていても、その華奢な白い足の見える面積は広く、人目を引く。制服姿の繭良が校門をくぐり、友達と挨拶を交わしたのを見届けると、ルーは車を発進させるよう運転手に命じた。
あれから十年。『チャイルド・マーケット』と呼ばれる地区からややはずれた私立校に繭良は通っていた。小等部から、繭良はここでずっと教育を受けている。全く『普通の』女子中学生として。伊織は小学校から大学を擁するその私立女子校に繭良を入学させ、普通の子供と何ら変わりない生活をさせていた。
 車が発進するとルーは密かにかすかな笑みを作り、小型のノートパソコンを膝に載せてスケジュールのチェックに取りかかった。
―あのひとは家族が欲しかったのかもしれない。
 伊織の繭良への扱いに不安を抱いていたルーは、そう感じはじめていた。
―あの子の『能力』とかの問題じゃない。最初はそうであったかもしれないけれど。あのひとは本当にあの子を気に入ったんだ。
 娘というには年が近すぎるが、繭良は伊織の養女として入学している。
 自分が手にすることのできなかった幸せを羨む気持ちがないではなかったが、ルーは繭良がこのまま伊織の家族として『普通の生活』を送ってゆくことを心から願っていた。
―でも油断はできない。あのひとのすることには。だけど……もし繭良の『力』をあのひとが利用しようとするなら私は……私はどうするのだろう? 
 ルーは運転手にデパートへ向かうように命じた。繭良が欲しがっていたワンピースの入荷を知らせるメールが、パソコンに届いていた。
―バーゲンなんか行かなくてもいくらでも欲しいものは買ってもらえるのに。
ワンピースもルーが内緒で予約したものだ。
―このまま、このままなら……。
 それは繭良だけでなく、ルーの心の平安への願いでもあった。
―ほんとうは家族が欲しかったのは私かもしれない。
不在がちの伊織にかわり、学校から帰って来た繭良の話を聞くのはいつもルーだった。
繭良が小学校四年生の頃だっただろうか? 繭良は真四角の小さな白い箱を持って帰ってきた。
「それは何?」
ルーの問いに繭良は嬉しそうに微笑んで箱を開けた。中には綿に埋もれてうずくまる小さな繭が入っていた。
「学校でね、蚕を育てたの。私ね、理科係だったんだよ。私がえさをやって育てたの!」
 得意げにはしゃぎながら繭良はルーに向かって箱を突き出した。
「繭? 蚕の? よく大丈夫だったね。繭良、虫キライじゃない」
「うん。フシギなんだけどね、全然、蚕はだいじょぶだったの。すっごく可愛かった! 蚕ってね、すっごく食べるんだよ。いっぱい食べて眠って食べて眠って大きくなって、繭になったから、みんないっこずつもらったんだよ」
「そう」
「蚕がガになるところ、ルーと一緒に見たいな」
 箱のなかの繭はルーが見たところだいぶ小さなものだった。
「小さいね」
「私もちびだけどね」
 そう言って繭良は笑った。繭はなかなか羽化しようとしなかった。ルーは最初に感じた心配が日増しに強くなっていったが、繭良は蚕蛾の羽化を心待ちにしている。
 もう羽化はしないだろう、なんと繭良を慰めたら良いだろうと思いながら日々の仕事をこなしていたルーはある朝、眠っていたベッドの上に繭良にダイブされ、目を覚ました。
「ルー! きて!」
 屋敷の中とはいえ廊下にパジャマとガウン姿で出るのにはかなり抵抗を感じたルーだったが、ぐいぐいと手を引っ張られ繭良の部屋へと連れてこられてしまった。そして。ルーは目をみはった。
 繭の入っていた箱の上にはあの繭、そしてその上に羽をゆっくりと広げる蛾が乗っていた。
―きれい……。
 蚕蛾は真っ白だった。夏の網戸に張り付く蛾とは違い、真っ白な蛾の姿はルーの目を奪った。ゆっくりとひらかれてゆく厚みのある羽。タンポポの綿毛の先のような細かな毛を生やした太い腹、大きな触覚、すべてが白く、真っ黒な大きな目だけがその生物の色彩だった。
「ねえ、ルー、きれいだね」
「ええ。でも籠に入れなくていいの?」
「うん。カイコガはね、飛べないの」
 そのままふたりは白い蛾に見入っていた。しばらくすると蚕蛾は尻から黄色い突起を出し、ゆっくりと腰を上下させた。
「これはね、誘引腺っていって、オスを呼んでるの。この子、女の子なんだね」
繭良が説明する。
「蚕蛾って、何を食べるの?」
「食べないよ」
「え?」
「カイコガはね、成虫になったら交尾して卵生んだら死んじゃうの」
「あ……、ああ……そうなんだ」
小学生の繭良は「交尾」の意味も深くは知らず無邪気に説明する。
「ゆういんせん、がんばってだしてるね。オスはこないのに」
 ルーはその時、首筋に冷たいものを感じたのを覚えている。繭良の言葉は特に意地悪な言い方だったわけではない。むしろ哀れむ口調だった。この雌の蛾はもうすぐ死ぬ。繭良はそれをどうとらえ、考えるのだろう? とルーは思った。
 ふたりが朝食を終えて繭良の部屋に戻ると繭のまわりにはびっしりと無精卵が生み付けられ、蛾は疲れ切りながら飛べない羽をゆっくりと羽ばたかせていた。ルーは、どう表現して良いのかわからない想いにとらわれた。
「あ! 遅刻しちゃうよ。ルー!」
「あ、そ、そうだね」
 ルーは繭良に蛾の死骸を見せたくなかった。繭良が学校に行っているあいだ、まだ息のあった蚕蛾と繭を箱に入れ屋敷の庭の花壇に埋めた。
 帰宅し蚕蛾の不在を確かめた繭良が、ルーを見上げてどうということもなく言った。
「飛んでっちゃったのかもね」
 ルーは逆に慰められた気がした。
―わかんないな。子供って。
 その晩、ルーは久しぶりに楽を奏でたくなった。もうだいぶ長いこと楽器には触れていない。しかし得体の知れないやりきれないモヤモヤした思いを胸に抱えたままで眠るのは嫌だった。まだ時間も早い。広い屋敷内は防音設備もある程度はしっかりしている。ルーはケースを開け、リードをコップの水に浸すと管楽器を組みたてた。それはルーの肉親であった者がただひとつ、ルーに持たせたものだった。
 黒塗りの木管楽器は蒔絵のような装飾が施されているリード楽器だった。葦のリードが柔らかくなったのを確かめるとルーはリードを管楽器にさし、一呼吸おいてからリードを口に含んだ。
 ロングトーン。神経質でありながら美しい音色。
 ルーは遠い記憶から頭にこびりついて離れない曲を吹いた。それは東洋的な旋律を織り込んだ不協和音の重ねられた、そして何らかの感情を呼び起こさずにはいられない曲だった。
「ルー」
 演奏をとめてその声に振り返ると、鍵をかけたはずの部屋のドアは開け放たれ、繭良が佇んでいた。
「繭良。ごめんなさい。うるさかった?」
「ううん。聴きにきたの」
「これを聴きに?」
「それは、なあに?」
「これ?」
 ルーは管楽器を掲げて見せた。
「うん。何ていう楽器なの?」
「鰐笛」
「わにぶえ?」
「神経質なワニが泣いてるみたいな音でしょう?」
繭良はくくくっと笑い、でもきれいな音ね、と感想を述べた。
「ワニが泣いてるみたいだから『わにぶえ』なの?」
「ちがうよ」
 ルーは目を伏せ、一瞬次の言葉をためらい視線を漂わせた。
「『鰐笛』っていうのはね、この『くに』の呼び名。うんと昔にね、私のいたところからこの『くに』にこの楽器が来たときにつけられた名前」
「ふうん。はじめて見るよ」
「古い楽器だけどあんまりポピュラーじゃないんだ。それにこれはもとは私の『くに』の物だから、正しくは『鰐笛』とは言えないかも。オリジナルだからきっと微妙に違うと思うよ」
「『わにぶえ』のお母さんみたいなもの?」
「おかあさん」という言葉にルーは軽く胸をトンと突かれた思いがしたが、うん、と頷いた。
「繭良、『いなばの白うさぎ』ってお話し、知ってる?」
「うん!」
「あれに『ワニ』が出てくるでしょう? あれは鮫のことなんだよ。昔このくにのひとは鮫のことをワニといってたんだって」
「え! あれってサメのことなの?」
「そう。鰐鮫といってね、鮫のことなんだよ。この笛は鮫なんだよ」
「鮫でできてるの?」
「ううん。木でできてる。大きな桑の木でつくるんだ。これがどうして『鮫』なのか……。そうだね、もし繭良がこれを吹くことになったらわかるかもしれない」
「ルーのくにではなんていう名前?」
ルーは困ったように発音してみせたが、どうしても繭良が復唱することはできなかった。
「繭良、これを吹けるようになりたい?」
「うん」
「じゃあ、繭良の指が鰐笛の穴を押さえられるようになったら、教えてあげるよ」
「ほんとう?」
「約束するよ」
「絶対だよ」
 ルーは窓を開けた。冬場の外気では割れてしまう恐れがあるが、夏の気温ならこの木管楽器に影響はないだろう。窓から吹き込む夏の風はほどよくあたたかく、それほど湿気も感じなかった。
 ルーはリードを口に含み、鰐笛に息を吹き入れた。耳よりも胸と喉に響く旋律は風に乗り室内をぐるりと舞った。
 演奏にしばらく耳を傾けていた繭良が、あ! と小さく叫んだ。ルーがどうしたの? と言おうとリードから口を離しかけたとき、繭良はやめないで! と叫んだ。
 季節はずれの風花か、ある種の柳の花が風に乗って舞い込んだのか……。いや……。
「ルー、花………。お花がふってくる……」
楽の音を奏でながらルーは目を上げた。
 花。牡丹の花弁か? 薄紅の花びらが、ふわりふわりと室内に舞っている。花弁は床につくかつかないかのうちにシャボン玉のようにふっと消える。
「お花が……ふってくる……。すごいねえ、ルー……」
 ルーは切れ長の目で微笑みを見せた。
「ルー、すごいね。わたしも、はやくわにぶえを吹けるようになりたいな。そして花をふらせるんだ。いっぱい……いっぱい……」
もし「しあわせ」という言葉を感じていいのなら。
ルーは目を閉じ、鰐笛は高音を歌い上げる。
―いま、わたしはしあわせ、だな。
 しかし。その日の出来事が、のちにルーにとって繭良という『しあわせ』を失う結果になろうとは、そのときのルーには思いもよらなかった。

車はデパートに到着し、駐車場へと吸い込まれていく。ワンピースは外商担当が家まで届けにくる予定であったのだが、ルーは自分で受け取りにいくと約束していた。
学校から帰った繭良は歓声をあげてルーの執務室へと飛び込んで来た。
「ねえ、ルー! あれ、ルーでしょう?」
「今、ちょっと忙しいんだけどね」
 ごめん、と繭良はしゅんとしてみせたが嬉しさを隠そうとはせずにルーの側へと走って来た。
「またすぐ走る」
「コンパスの問題よ。人の倍早く歩いたり走ったりしないと、同じ時間で同じ距離は進めないんだもん」
「でも走るのはやめなさいね。イイ女は走らないものなんだって」
「私、まだコドモだもん!」
「都合のいい時だけね」
 一瞬、繭良はふくれて黙ったが再び興奮気味にルーを構いだした。
「私ね、部屋のドアノブにかかってたあのブランドの袋の中身、見たよ。あれ欲しかったんだあ! あれ、ルーでしょ?」
「英語の成績が上がってたからね、ごほうびに」
「ありがとう! ルー! じゃ、邪魔してごめん! あとで着て見せるから部屋に来てよ。じゃあ、あとでねっ!」
ルーの返事も待たず、繭良は言いたい事だけ言うとつむじ風よろしく走り去っていった。
「走るな、っていってんのに」
 今日は部活があって疲れているはずなのに、中学生は元気だ。繭良は謡曲部に所属していると言っていた。繭良が能楽に興味を持ったのはルーにとって意外だったが、ルーから『鰐笛』という雅楽器に似た音色の管楽器のレッスンを受けている影響なのかもしれない。
 謡曲部とはいえ、指導に当たっているのは能楽を趣味としている神社の神主の妻である。週に2度、神社で子供たちに神楽舞いを教えているその老齢の婦人は、希望者には能ばかりでなく神楽と神楽舞いも教えてくれるのだという。好奇心旺盛な繭良は神楽舞いにも挑戦しているのだとルーに話していた。
―音楽やダンスに興味を持つ年頃だとは思うんだけど、何か、ちがうよねえ……。
 半ば呆れ半ば珍しいなと感じながら、ルーはポットに新しい紅茶をいれるために椅子から立ち上がった。
繭良の鰐笛は上達が早かった。ルーは彼女が十二の時から教え始めている。しかしルーは、自分の不在時に鰐笛を吹く事を彼女に禁じていた。ルーはこのままの生活が壊れることを恐れたのだ。レッスンも伊織の不在時を選んでいる。だが、ルーの考えは甘かった。
 ルーの目の届かないところで『芸能』というもの、ことに能楽に繭良が関わってしまったという事は、繭良を『開花』させることにつながってしまうのだ。
夕食後、シンプルだが品の良いピンクのワンピースを着て、繭良はルーの来訪を待っていた。電気ポットにはお湯ができている。ティーセットは繭良が小遣いでちょっとずつそろえたアイボリーの丸みを帯びた無地の陶磁器。ルーはフレーバーティーが好きだ。繭良はアップルティーの茶葉を用意し、ルーを待った。
 けれどその日、深夜になってもルーは繭良の部屋にはやって来なかった。また仕事が詰まっているのだろうと繭良は諦め、アイボリーのカップにアップルティーを注いだ。
―もうすぐ発表会なのにな。
 謡曲部を指導する「先生」が主催する神社の「神楽舞奉納」に、繭良は誘われ出ることになっていた。
―忙しいと思うけどさ、ルーには観に来てほしいな。
蒸らしすぎたアップルティーは舌に苦みが残り不味かった。

 伊織はルーの腕を掴んで離さなかった。
「繭良と約束があるんです」
 冷たく言い放つルーに構わず伊織はルーの躰を絡めとり、ベッドに押し倒した。両手首を押さえ付けられたルーはじっと伊織を見上げる。
「俺より大切か? 繭良が」
「あなたこそ。どうしてすぐに会いに行ってあげないんです」
「つれないなあ。紋白がセンターの再教育をはねとばして脱走して大変だったんだぜ。そんな仕事の合い間を縫って車を飛ばしてきたんだ」
「予想していた癖に。それより繭良はあなたの家族でしょう?」
「家族は他にもいるさ」
「そうじゃなくて、あなたの、あなたの持ったふたりきりの『家族』でしょう? どうして会ってあげないんです?」
「戸籍上はねえ。ルーは僕を待っていなかったのかい?」
 ルーは視線を反らせた。
 伊織の唇が、舌が、ルーのか細い喉を這ってゆく。その動きにルーはくっと頭をのけ反らせた。
「相変わらず感じやすいね。ルー。君はよくやってくれてるよ。ご褒美をあげたいんだ」
 伊織の動作にルーの息はだんだんと荒くなっていく。
ルーの耳朶を舌で嬲りながら伊織は喋る。
「ルー、お前は女かい? 男かい? 人間かい?」
 潤ませた目で、ルーは伊織を睨みつけた。
「怒るなよ。お前は天使さ。天使は男でもなければ女でもないそうだから。お前のようにね」
 伊織は片手でルーの両手首をまとめてつかみ押さえ付けると、片方の手で襟元からルーの衣服を引き裂いた。ルーは諦め全身の力を抜いた。
 衣服をすっかり剥ぎとられたルーの躰の上で性別を示すもの。それは初潮前の少女と同じタイプの不自然にわずかに隆起した乳房あたりの胸と小さな二枚貝そっくりの閉じ合わされた幼げな女性器、そしてその上に突き出た小ぶりの……男性器だった。
 ルーは伊織から顔を背けきつく目を閉じた。
「長らく会えなかったから拗ねているのかい? ごめんよ。忙しかったんだ。だから今夜は楽しませてあげる」
 噛みつくように伊織はルーの薄い唇にキスをしてきた。屈辱なのか快楽なのかわからない喘ぎと伊織の呼吸音、容赦ないベッドの軋みが長い時間部屋を埋め尽くした。
ぐったりとシーツにうつ伏してテンポの早い呼吸を刻むルーの上に、のんびりとした伊織の声が落ちてくる。
「繭良はいくつになった」
「十四歳ですよ。中等部の三年です」
荒い呼吸を押し隠しルーはつとめて淡々と答える。
「いつの間にか大きくなったなあ」
「ええ」
 伊織のくゆらす細い葉巻の紫煙には薄荷と肉桂を混ぜたような独特の匂いがした。
「ルー」
妙に明るい声を上げた伊織に、ルーはけだるげに顔を上げた。
「みつけたんだよ」
「何をですか?」
「僕が長らく留守にしてたのもそのせいさ」
 勿体ぶった言い方に、ルーは細い三日月型の眉を片方吊り上げた。
「今度は何を見つけたんです?」
「天然もの」
「てんねん?」
「『ガーデン』育ちじゃない奴さ。これという訓練を受けてきた訳でもないのに戦力になりそうな凄い才能のある奴をね、見つけたのさ。年齢は繭良より少し上だが、あとちょっとの調整さえすれば使いモノになるだろう」
「ここに連れてくるんですか?」
「さあね。まだ考えてないよ」
「どこで見つけたんですか?」
「道に落ちてた」
「拾ったんですか?」
「『チャイルド・マーケット』の電子エリアの道端に落ちてたからね」
「行方不明者じゃないですか」
ルーは冷淡に言った。
「『チャイルド・マーケット』にあるモノはみんな僕のモノさ」
伊織はにまりと笑い、体温の低くなったルーの躰を抱き寄せた。
「そういえば」
「他にもなにか?」
「繭良ももうすぐ十五か。そろそろ、かな?」
 ルーは伊織に向かい顔を上げた。
「繭良に………繭良にいったい……何を? 何をするんですか! 繭良を何の目的で!」
早口に問うルーを無視し抵抗を難なく押さえ付け、伊織は再び情欲を走らせた。


『チャイルド・マーケット』電子エリアにほど近い緑地帯にセンターCはあった。
 センターAに送られることもあり得る奴を育成する所だというのに、どうしてこんな近くにセンターCがあるのか、靭彦には理解できなかった。単に無神経なだけなのか、脅しということなのか? その両方なのかもしれない。靭彦はセンターCの廊下に大きくとられた窓からセンターAを眺めるとき、一度立ち止まってからそちらを見る癖がついていた。センターAに送られること。それは人間としてこの世から抹殺されることを意味していた。
 靭彦が十二歳でスカウトされ、『ガーデン』からセンターC入りしてからもう六年が経つ。十八歳の靭彦は、既にほとんど実戦といえる訓練も経験した。
『ガーデン』で、そしてCにおいてもとび抜けて優秀な成績を修めていた靭彦はCの職員たちから畏怖とも言える感情を抱かれていた。それは「特殊」とされるものに関わる彼らがまず持つことのないであろう、ある種、差別的なテイストを含み靭彦にもそんな波動は伝わっていた。が、彼にとってはどうでも良いことであった。どんな賞賛も妬みも恐怖を抱かれることも。今の靭彦は関知していない。才能を見いだされ、馬頭月琴とともに「能力」を伸ばしていくことは彼にとって「幸せ」と言えた。
 その日、センターCでの『プログラム』のひとコマを終え、廊下を歩いていた靭彦の数センチ横を白衣姿の職員が駆け抜けていった。
 彼の視線の向こうで、ゆっくりと別の職員がこちらへと歩いてくる。
「横島さん!」
 走っていた若い男は目の前の初老の男性職員の名を叫ぶと、その場にへなへなと座り込んだ。
「百済くん、あわてても仕方ないよ。彼の行方はもうこちらにも伝わっている。仕方ないよ。こうなったら」
「わたくしの……わたくしの責任ですっ!」
 そのまま百済は横島に土下座して詫びた。
「まあ頭を上げて。君は彼のベビーシッターではなく『プログラム』の進行をしていただけだ。彼の外出を止められなかったのはC全体の責任ではないかな? そして彼は私たちのシールドもセンサーも黙らせる才能があったんだ。わずかでもデータはあるだろう?」
百済はよろよろと立ちあがり頷いた。
「じゃあいいじゃないか。百済くん。処理はおおかた済んでいる。彼はあの方が保護したんだってね? あの方は彼の才能を伸ばすだろう。それは研究者として喜ばしいことじゃないかな?」
 ぴたりとなでつけた横島のグレイの頭がふと持ち上がり、靭彦と目が合った。普段ならどんなスクランブルが起きても我関せずの態度であった靭彦は、どうして自分が立ち聞きのような真似をしてしまったのかとわずかに動揺を感じた。
 銀縁眼鏡の奥からのぞく横島の細い目が微笑んだ。靭彦は無表情のまま踵をかえすと、申し訳ありませんと叫びつづける百済と横島を背にしてセンター内の自室へと足を向けた。
「百済くん、これもあの方のシナリオだったかもしれないじゃないか。そうだ。私の個人研究室へ来てくれないか? 済まないが私のデータ整理を手伝ってくれるかい?」
 百済は、はい、と答えておとなしく横島の後についていった。Cの長く幅広い廊下を歩きながら、横島はおっとりと百済に言葉をかけ続けた。
「彼を見つけたのは君だったね?」
「ええ」
「ええと、場所は……」
「『チャイルド・マーケット』の電子エリア東部の端です」
「ああ、あの美味いあんパンを売っているパン屋の……」
「そうです。あの店の裏手で袋だたきにされてたんです。無抵抗でした。なにかを守るみたいにかかえて彼はアルマジロみたいに丸くなって……」
「意外だな。『彼』はもう幼くもないし老いてもいない。それにあの身長はかなり相手を威圧するはずだが」
「何が原因かはわかりません。襲っていた少年たちは一目でクスリをやっているとわかりましたから、発端は偶然の気晴らしだったと思います」
 百済はその情景を思い出していた。もうずいぶんと昔のような気がする。しかしあれは、まだひと月前のことなのだ。
「とっさに私が護身用の携帯防犯ブザーを鳴らすと、少年たちは一瞬ひるみました。それで続いて催涙ガススプレーを出そうとして……」
 百済にはまだ新しい記憶を整理することができない。センターへ『彼』を連れて行った時もどう説明したらよいのか途方に暮れた。
 あれは少年たちがスキを見せたその時だった。
『彼』が立ち上がった。つい先刻まで足蹴にされて暴行を受けていたとは思えない素早さで。とても人間とは思えない咆哮が上がった。それと同時に少年たちが耳を押さえて地面に転げまわった。百済は何が起こったのか理解することができないまま、ただ呆然とその様子を見守るしかなかった。
「やめろお!」
「やめてくれええ!」
少年たちは口々に苦しげにのたうちながら叫び哀願した。
『彼』の手には、琵琶の形によく似た楽器があった。
 丸くなって無抵抗だった『彼』はこれを守っていたのか、と百済は思った。次の瞬間、百済は全身の毛穴が粟立った。
『彼』は琵琶に似た楽器の弦を弾いてはいるが、音が「出ていない」のだ。
 口からどす黒い血を滴らせ『彼』は弦を弾(はじ)いている。その一音一音が少年たちを鋭利な刃物でメッタ刺しにして攻撃している、と百済には見えた。地べたの少年たちは耳ばかりでなく躰中を押さえ苦しげに転げまわっている。それは不気味な光景だった。『彼』は音のしない弦をはじく。その瞳はボロ雑巾のようになった彼の躰から滲む血より鮮やかな紅色に燃え、切れた唇はなにかを呟き動いている。
―紅い目? まさか……。いや、充血だ。毛細血管が切れているんだ。酷いことをされて……。
 のたうちまわる少年たちは次々にごぶごぶと血を吐き始めた。
「君!」
 正気に返り百済は『彼』の腕に手をかけた。

ビシイイッ!

「……ーっつう……」
『彼』に触れた百済の腕に、電流が這い昇る痛みが走った。しかし百済は手を離さなかった。
「もう、そのくらいでやめとけよ!」
 渾身の力を込めて、百済は『彼』を背後から羽交い絞めにして制止した。

ビッ! バチバチッ!

「うっ……うっああ……」

 百済の両腕が焼けるように痛む。我知らず、百済は昔、祖母に教わった念仏をとなえていた。それは百済が中学生のころ、もてあましていた暴力への欲求に悩んでいた彼に亡き祖母が教えてくれた経だった。
『これをとなえるとね、おちつくよ』
 祖母は、ひとしきり暴れて座り込んでいた百済にやさしく、伝えてくれた。

なうまくさんまんだばさら だんせんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん なうまくさんまんだばさら だんせんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん なうまく……

不動金縛り。邪気を封じる経。精神の安定をも兼ねる念仏だった。
 どれほどそうしていただろう? 音のしない弦をはじく『彼』の腕が止まった。
「歩けるか?」
百済の問い掛けに、その青年は素直にこっくりと頷いた。
 ふたりは血の海に背を向けその場を後にした。

「Cに来る途中で、彼の目はもう通常に戻っていました。あれは私の見間違いだったのかもしれませんが」
百済は横島の研究室で涙でかゆくなった目をこすりながら語った。
「そういう例はいくつかあるよ。調整前の個体にはね」
「それにしても……彼はどうなるんでしょうか?」
「さあ。百済くん、ちょっと早い『卒業』だと考えてみてはどうかな? 君の心配はわかるが、残念だが我々の管理を外れてしまったのだから」
「横島さん」
「彼に今度会えるときには君の『心配』の要因はもうなくなっているんじゃないかな」
「そうであったら、と思います」
「彼に会いたいか?」
「ええ」
横島の研究室の窓の外の木の枝に、数羽のスズメがとまってきた。スズメは何ごとかをお喋りしてさえずると、パタパタと羽ばたいていった。
―もっと、話がしたかったよ。日夏……。
 百済は窓から目を逸らし、横島の手伝いを始めた。


「昨日はごめんね。大事なお話しがあったものだから」
「ううん。いいよ。お仕事だもん。でも……」
 繭良のトーストをかじる速度はいつにも増して遅かったが、今日ばかりはルーは繭良を急き立てることができなかった。
 昨晩、ルーはとうとう繭良の待つ部屋には現れなかった。しかし重苦しい朝食の理由はそればかりではなかった。
 ルーは二杯目のエスプレッソをすすりながら繭良を観察する。あからさまに落胆している。遠慮がちにルーは繭良に慰めの言葉をかけた。
「伊織さんも忙しいひとだからね」
「うん……」
「まあ……朝ごはんぐらいは一緒に食べたかっただろうけど」
「うん」
 ルーとしては伊織と一緒に朝食の席など共にしたくはなかったのだが、繭良は違う。
 ルーは繭良が何故、伊織を慕うことができるのかが不思議だった。
―伊織さんのおかげで繭良が今のような生活ができるっていうのはわかるけれど、でもわかんないな。
広い屋敷、自分の部屋、名門女子校での教育、何不自由ない暮らし。生きて行くには十分すぎてありあまる生活だが、あんなに放っておかれて繭良はそれでもこれほど伊織を慕うのは何故なのだろう? 
「繭良は本当に伊織さんが好きなんだね」
つい口をついて出た言葉にルーは時間を巻き戻したくなったが、繭良は無邪気に「うん!」と答えた。
「なかなか会えないのは寂しいけど、私ね、伊織さんが大好きなんだ。だから……ちょこっとでも会いたかったんだけど……」
「やっぱり引き止めればよかった?」
「ううん。しょうがないもんねっ」
 その言葉に思わずルーは微笑み、壁の時計を見遣った。
「大変! 遅れちゃうよ」
「え? あ! ごちそうさまっ!」
バタバタと席を立とうとした繭良の制服のポケットから、何かがかさりと落ちた。
「繭良、なんか落としたよ」
ルーに指摘され、繭良は床の小さな封筒を拾い上げた。
「繭良、それはなに?」
 繭良は幸せそうな笑顔を浮かべ答えた。
「伊織さんからのお手紙だよ。部屋のドアにはさんであったの」
「ふうん。やっぱり繭良のこと、気にしてたんだ」
 ルーはほっとしたが、次の繭良の言葉に表情をこわばらせた。
「もうすぐ。……もうすぐね、伊織さんの『コピー』に会わせてくれるって」
「え?」
「それ、どういうこと?」
「さあ……」
「さあ、って」
 不吉な予感がルーの胸のうちを浸食していく。
「いつになるかはわからないけど、近いうちにだって。きっと私が寂しくないように伊織さんは考えてくれてるんだね。嬉しいよね」
 ルーは昨晩の伊織の言葉を思い出した。
『天然物をひろったよ』
 ザワリとルーの腕に鳥肌が立つ。
―センターに任せずに伊織さんが調整に関わるなんて……。
「ルー、早くしないと遅れちゃう」
「ごめん。繭良。今日はお供できないんだ」
「そっかあ。じゃあ、行ってきます! あ」
学生鞄を手にしてぱたぱたと走り出した繭良がつと足を止めて振り返った。
「ねえ、ルー、来週の日曜、あけといてね! 絶対だよ!」
 そう言い放つと繭良はダイニングルームから出ていった。
 繭良を送り出してから、ルーは足早に自分の執務室へと向かった。
 ドアを開けるとデスクの上の白い猫の置物が、自分宛てのメール受信を知らせるチャイムを鳴らした。デスクトップパソコンでの検索を急ぎたかったが、とりあえずルーはノートパソコンを開け、受信メールボックスを開いた。
「繭良からだ。なんでまたメールで?」
 メールにはこうあった。

『 ルーへ
 来週の日曜日、氷川神社で神楽舞奉納があります。謡曲部の先生の推薦で、なんと私も舞うことになりました! すっごく忙しいとは思うけれど、絶対、絶対、絶対観にきてください。ほんとは直接言おうと思ったけど、恥ずかしいのでメールしました。今から緊張してるよー! 下手だけどそれなりにがんばります。 繭良より』

 メールには日時と場所を示した地図が添付されていた。ルーのスケジュールは何とかなりそうだった。
「仕方ない観にいってやるか」
 ひとりごちながらもルーまでもが緊張してきた。こんなギリギリになるまで教えなかったのだから、自信はないのだろう。ルーは保護者のくすぐったさを感じたが、今はそんな感情に浸っている暇はない。デスクトップパソコンを起動させ、ルーはパスワードを幾度も打ち込んでゆく。二重三重のパスワードを解除し、伊織の動向を追いかける。しかし『天然物』に関する検索はなかなか進まない。ルーは深呼吸をひとつするとキーから指を離し、意識を集中させた。
―バレたら殺されるかも。
 ルーは目を閉じ、ネットワークのバーチャルイメージを頭の中に描いた。
 点線と曲線がうねうねと絡み合うなかで、時折、ものすごいスピードで光の筋が走る。そのどれかをつかまえようとルーは意識を「飛ばし」、イメージのなかに「眼」を走らせた。
―ロック・オンした!
 ルーは目を開き、キーに指を滑らせた。
「センターC?」
 画面にはセンターCで『プログラム』を受け訓練されている人間のデータ一覧が表示されていく。ルーは更に機密データを導き出し、ようやくひとりの人物を絞り込んだ。ところがそれは……。
「なに? これ……」
 絶句したルーの顔前の画面に二十歳前後とおぼしき男の顔が表示された。が。
 ファイルナンバーのない男のデータはおよそデータとは呼べないものだった。情報らしきものといえば『氏名 日夏』それのみと言っても良い。
―ひなつ?
「なに? これなに? 『センター』でしょう?」
 ひとりきりの部屋で、ルーは誰にぶつけるともなく疑問の声をあげた。

 氏名 日(ひ)夏(なつ)
 年齢 不詳(推定二十代前半)
 出生地 不詳
 レベル 不詳
 身長・体重 不詳
 血液型 不詳
 備考 すべての測定は不可能。測定機材は故障・突然の破砕、あるいは測定時のみの一時的な使用不可となった。面談は名前以外沈黙。苗字不明。解析に当たった専門エージェント数人はすべてセンターAへ移送となったため、測定その他調査を断念。本人は測定・解析に対し、無抵抗であったが、考慮の上その様な措置がとられた。調整期間一か月にて失踪。捜索するも現時点では発見されていない。

―失踪? 嘘。Cは知ってるはず。なのに所在を隠すなんて、余程の……。
 ルーは諦めずに詳細を追いかけた。

 その他 担当研究員、百済洋二により保護される。主に琵琶状の楽器を媒介に能力を発揮すると思われる。尚、百済洋二の健康に異常はなく業務にも支障はない。

―担当か。このひとはAに行かずに済んでいる。調整には協力的だったってことか。
 センターCで担当といえばトレーナーのようなものである。
―化け物だ……。
 ルーは頭に浮かんだその言葉に苦笑した。
―自分だって、そう言われてきたじゃない。ケタはずれの人材ってことか。この男は。
 それにしても伊織はこの男をどうしようというのだろう? ルーは頭を抱えた。そして昨晩の伊織の言葉の記憶を巻き戻し、何度も何度もリプレイさせた。
『繭良も大きくなったなあ。そろそろだな』
 ルーはうなだれていた頭をぴくりと上げた。
―『そろそろ』だって?
 母性であるのか父性であるのか、本能ともいえる凶暴な庇護欲が、ルーの意識のなかに沸き上がり、次第に熱を帯びてゆく。
―伊織は繭良に日夏を会わせると彼女に言った。
 小学生のころ、繭良の羽化させたメスのカイコガの記憶が蘇る。
 カイコガは飛べない。繭をつくるために改良された種である。改良はアナログな方法での遺伝子操作により行われた。
 ルーの読みとして、まず頭に浮かんだのは古い時代の権力者や文化を著わす文学や遊郭、血統を重視する愛玩動物のブリーディングなどのワードとその意味だった。
「ヒカルゲンジ」、「引き込みカムロ」、「血統書付き愛玩動物」。
「最高なるもの」への欲求から理想を形にし(乱暴に言ってしまえば)「実用」も兼ねるそれらの動向は、架空の世界のみならず現実においても未来永劫変わることはないのだろう。
 まず「ヒカルゲンジ」を伊織が夢みていたのだとしたら、時代からしても現実的にも繭良はまだ幼すぎる。彼女の成長は通常とはいえない。外見的に幼く見えるだけではなく、繭良はやっと昨月初潮をみたばかりなのだ。詳しい解析は行っていないものの、繭良の成長速度はかなり遅い。そして伊織がそんな繭良の破瓜を狙っているのだとしたら、繭良の躰だけでなく精神面にも大きな影響、いや傷を残すだろう。
 繭良は父親同然に伊織を慕っている。『源氏物語』をひもといたとき、ルーは紫の上が源氏により娘から妻へとなるシーンに美しさよりも恐怖を抱いた。他国にも似た物語は存在する。しかしそれらの多くは娘という立場であった少女の悲しみと戸惑いが綿々と語られていた。『源氏物語』において、紫も嘆き混乱をきたすが、源氏の魅力の前に妻としての意識にいとも簡単にシフトチェンジしてしまう。それがルーには不思議だった。
「ヒカルゲンジ」であれば、フィクションの世界でなくてもそれは可能かもしれない。しかし相手が伊織であるなら、繭良はどうなってしまうのだろう? 純粋で無垢でそしてまだ『コドモ』の繭良。繭良と同じ年で伊織の手で「女」にされた繭良のその後の精神状態を考えるとルーはいたたまれない気持ちになった。
―あのひとならやりかねない。
手間ひまかけてじっくりと育てたものを破壊するような遊びを、伊織が好むかもしれないということは十分に考えられた。しかし可能性として日夏を連れて、という点でその線は消える。 
 続いてルーは「引き込みカムロ」のパターンを想定してみることにした。
 遠い過去、このくにで隆盛をきわめた「イースト」の「ヨシワラ」。数々の文芸、文化を生み出したその一帯では「ユウカク」という娼館がひしめきそれらはランク分けされていた。その歴史のなかで、大きな遊廓のあるじは見込みのありそうな容姿と才能を持つ幼女を引取り、幼い頃から楽器、歌、文芸、などさまざまな教養教育をほどこした。やがて幼女は才色兼備の遊女として成長し、最高の娼伎として豪商などの実力者のみを相手に春を売る。
 それならば繭良の場合は『紋白と同じ仕事』が割り当てられそうだ。しかし『ガーデン』の報告によればルーには繭良の素質を考えると伊織がそんな仕事をさせるとは思えない。人材は他にも居る。ここまで大切に育て上げる必要はない。
 そしてみっつめ。『血統の保護』。
 血統の保護を考えるのであれば、繭良と同じ系統の男性を探しだし、子供を産ませることになるが、それは突飛な発想だ。人間は犬や猫ではない。動物のある種ではあるが、同系統のものを交配させたところで繭良のような血統を完全に存続させることはできない。ましてやそれは時間と不可能な技術を要する。
けれど。『改良』ならどうだろう? いや、とルーは首を振った。日夏のデータにはゲノムパターンの解析結果がない。いくらなんでも遺伝子を絡めて考えるのには無理がある。そしてもしも繭良に子供を産ませることを考えても、まだ繭良の躰では幼すぎてリスクが大きすぎる。繭良ほど成長が遅くなくとも普通に考えれば「そろそろ」はおかしい。女性として身体ができていない。人工授精と代理母による出産も、特異なゲノムを受け入れる母胎に大きな負荷のかかる危険がある。
―何が『そろそろ』なの? 
日夏と繭良を引き合わせるというのなら、三番目の可能性が一番高いといえるだろうが、どうしてもしっくりこない。
 それに。繭良は『ガーデン』を離れてからその『能力』の開発・訓練を一切受けていないし、ゲノム解析も受けていない。
―私の考え過ぎだろうか。
『そろそろ』大人の意識を持ち始める
『そろそろ』高校進学の準備
それだけかもしれない。
―でも、何か嫌な予感もする。なぜ日夏? コピー? 伊織さんにとっての護衛で繭良にはただの遊び相手として? それだけ?
 屈託のない笑顔の繭良。いつまでも走ってばかりの繭良。だいたい何のために伊織さんは繭良を……? 何を考えているの? あのひと?
 ルーは混乱する思考を強制終了させ、本来の処理業務にとりかかった。もちろんハッキングの痕跡をあとかたもなく消去してから。 

 日曜日は快晴だった。
 繭良はためらい続けていた。
「さあ、早く外して」
巫女装束の中年の女がもどかしげにせっついてくる。
「でも」
「神様に舞を奉納するということはね、神様にお仕えすることなの。『きまり』だからアクセサリーの類は全部取ってしまって」
「ええ……」
 繭良は片手で耳たぶに穿たれた金色の球状のピアスをいじりながら、なかなかそれをとろうとはできないでいた。
―どうしよう。ルーに絶対外しちゃ駄目って言われているのに……。
 一緒に舞う他の少女たちはもうネックレスやピアスを取ってしまっている。彼女たちにも異存はあったが仕方なく神社の巫女に従った。しかし、繭良も知らないことだが彼女たちの中で繭良だけはピアスを外してはならない大きな理由があった。
「さあ、もうすぐ始まるから。早くしてね」
 舞の指導にあたっている神主の妻が苛立ってきているのがわかる。
「わかりました」
 さんざん迷った末、繭良は両の耳たぶからピアスを外してしまった。
―繭良の出番はラストか。
 会場へと車を走らせながらルーはちらりとコックピットの時計をちらりと見た。
―間に合うかな? もう、こんな時に!
 例によって例のごとく伊織の連絡は突然だった。ルーは暇であれば繭良の舞を観に来るようにと強く意見したが、伊織は笑って長々と通達を伝えた。
―急いでるって言ったのに。
 ルーがイライラしている理由は他にもあった。
『明日、行くから。例のヤツを連れてね』
―ほんとに勝手なんだから。例のヤツってあの『日夏』のこと? ああもう何考えてんだろ! あの人は!
 裏道を器用に通り抜け、ルーはさらにスピードを上げた。
―がんばって、繭良。あの『お守り』が繭良を守ってくれるから。きっとうまくいくよ。
ルーは繭良が『お守り』を躰から離してしまったことを知らない。

―何だろう?
 繭良は舞台の袖で異な空気を感じていた。プログラムは達者な者たちの単独での舞や演奏が先にあり、最後に繭良を含む6人の少女たちが舞う。奉納が始まってから、繭良は胸の奥がしいんとする雰囲気に包まれていた。
―私、きっと緊張してるんだ。神妙な空気っていうのかな。こういうの?
 舞や演奏が終わる度に聞こえる客席からの拍手の間、その張り詰めた感は途切れる。繭良は何度も深呼吸をし、舞台から流れる音楽に耳を澄ませた。
―なんだか、変。こんな感じ。まるでちがう世界に来てしまったみたい。初めて来た土地に居るみたい。
 横で同じく緊張している少女に目を向けると、視線に気づいたのか彼女は小声で「がんばろうね」とささやいてにっこりと微笑んだ。繭良もひきつった笑顔を返す。
―笛の音だ。なにかに似てる。……似てるけどルーの鰐笛ともちょっと違う。ルー、もう来てるかな? なんだか、足元がふわふわする。頭が躰から離れてしまいそう。
 繭良は背中の中心からひやりとする感覚が広がっていくのを感じた。
―つめたい。でも冷たくない。冷たくない氷を噛み砕いているみたい?
 繭良たちの出番はもうすぐだった。
 会場まであとわずかというとき、ルーは鳥肌の立つ寒気に襲われ、あわててハンドルを強く握りなおした。
―なに? 今の?
 続いて舗装された道路を走っているのに砂漠の上を走る感触が足元から伝わってきた。
 フロントガラスの上部を見上げると、晴れ渡った空に灰色の雲が細くたなびいている。しかし雲にしては風もないのにスピードが早く、雨雲にしては細い。煙だろうか? とも思ったが、それにしては勢いは弱くまた高すぎる。
 ルーは『見た』。細くたなびく灰色の雲は何本かに増えていき、その中心に発光して猛スピードで走り抜ける細い線が確認できた。それらは全て、会場である神社に向かっている。
「繭良!」
 神社の駐車場に車をとめると、ルーはダッシュした。舞台が近づいてくるにつれ、ルーの右から左から、ウレタンに似たクッションの圧力を持つ空気が押して来る。よろめきながらもルーは走った。上空では白っぽい灰色の雲が立ち込め、渦をゆっくりと巻いている。

ぐおおお……くああああ………

 微かだが獣ともノイズともつかない咆哮が天から降って来る。立ち止まらずにルーは走った。
―お願い。繭良、無事でいて!
 ルーはつくづく自分の認識の甘さを痛感した。元来、歌舞音曲というものは神に捧げられる所から発祥した。しかも神社で舞うということは、たとえ発表会という程度の扱いであれ『神とつながる』ことを意味する。この世ならぬモノとの接点を特殊なカンを備える繭良が持つということは……。
 繭良たちの舞は既に始まっていた。ルーは愕然とした。
 客席は異変はなく見えたが、ほっとしたのも束の間、ルーはその空気が尋常でないことがわかった。皆は平静でいるのではない。集団催眠の静けさが、客席を覆っている。客たちの目は皆、焦点が合っていない。ルーは舞台をキッと見据えた。
 舞台の上空には灰色の雲を従え、細長い発光体が歓喜の咆哮を上げながら舞い狂っていた。舞台の少女たちは規則正しいステップを踏み、扇を操っているが、操られる人形が如く舞っている。舞台は薄く白く発光するもやに包まれ、その中でひときわ白く光るものが動いている。
―繭良だ。
 舞台の上空にはどんどん発光体が集まっている。空気は歪み、演奏は厳かな調べに興奮を思わせる激しさを孕んでいた。
―龍? 蛇? ……。鬼? こんなになってしまうなんて。もう! 私ひとりでこれをどうにかしろっていう訳?
 佇むルーの目に舞台前面に姿を現した繭良が見えた。繭良も他の少女たちと同じに舞ってはいるが、ただひとりその表情は違った。陶然と、快楽に身を委ねて……この場に最もふさわしくない『俗』と呼べる蠱惑的な微笑みを浮かべている。
―繭良! 制御ピアス外したんだね! 
「空気」はその空間を煙となり覆っていく。このままではおそらく、舞は『空気』の満足ゆくまで「おわらない」だろう。ルーは途方にくれた。
―どうしようか?
 ルーは楽を奏でる一隊のなかでただ一人、正気の瞳をキョロキョロさせながら笛を吹く青年に目を向けた。
―さすがこういうことやるだけあるね。分かってる子もいるんだ。あの子、戸惑ってる。わかってるんだ?
 ルーは心のなかで彼に「ちょっとごめん」と謝って行動を開始させた。
 まず、意識の集中をいったん解き、深呼吸したルーは目を閉じた。目を閉じるとさらに舞台上の様子が良く分かる。ルーは「空」の状態へ自分を導くと、ゆっくりと、焦らずに青年の意識を探り当てた。
―やっぱり。彼だけは覚めている。覚めているけれど身体は操り人形状態だ。
―ごめん。ちょっと借りるね
 青年の記憶は空白をつくるだろう。
―この笛は? 
 うっとりと舞いながら、白くもやのかかった意識の片隅で繭良は疑問を抱いた。
―懐かしいようなきがする。からだがあたたかい。ねっとりした空気の波がおさまっていく。きもちいい。この笛は……。
 繭良は意識を取り戻した。相変わらず躰は自分のものでないようだったが、先ほどよりも自分が動き舞っている感覚が強くなっていく。
―ルー、ルーがきてる。ルーの匂いがする。
 ルーは客席を縛めていた圧力が弱まってゆくのを確認した。しかしまだ気は抜けない。会場上空の灰色の雲もしだいに晴れていき、発光体も散っていった。舞台では舞と楽は佳境に入っていく。扇につけられた鈴の音と楽の音は融合し、舞い手のステップはしっかりと地を踏みしめる。
―もうすぐだ。
ルーはさらに「力」を込めた。
―これは、花? 
綿毛状のものがふわふわと繭良の眼前をかすめた。
―花? 花が降ってる。花のなかで私たちは舞っている。
 繭良を包んでいた白い光は、クリーム色がかった白にかわり、その光は他の少女たちにも広がっていった。
―みんなと同じ。私、みんなと一緒になっている。
 今、少女たちは同調していた。そして楽の奏者たちの放つ淡い青い光と少女たちの光はマーブル状に合わさり、調和に向かってゆっくりと溶け合っていった。
 拍手の音に繭良は止めていた動きから解凍された。同時に他の少女たちも人間らしく動き出す。
―おわったんだ。
鳴り止まぬ拍手に戸惑いながら、夢から醒めたばかりの面持ちの舞台上の演者たちは深々と礼をした。

「ごめんなさい」
「えっ? 何で」
 助手席で神妙に謝る繭良に、ルーはわざと明るい声を出した。
「ピアスとっちゃったから」
「しょうがないでしょう? だって外さないといけないものだったって、さっき言ってたじゃない」
 ルーは繭良を責めなかった。何も知らないはずの繭良を叱責することはためらわれたのだ。
「ルー、私のせいだね。そうなんでしょう?」
ルーは即座に答えられなかった。
「ルー、ありがとう。ルーが助けてくれたんだよね。私たちのこと。ほんとは……最初にお礼言うべきだったね」
「繭良は悪くないよ。仕方ないって。持って生まれた体質だもの」
観念してルーは精一杯の慰めの言葉をかけた。もう、隠すことはできない。
「ああなるとは思わなかったんだから。誰も怪我しなかったし、進行にも問題はなかった。それでいいじゃない?」
「でも」
「それなら私に責任のあることだよ」
「どうして?」
信号が赤に変わる。車をストップさせると、ルーは繭良の膝の上で固く握り締められた両手の上に片手を置いた。微かな温度が繭良の白い手に染みる。
「ピアスの意味を教えなかった。ピアスはあなたを守るためのもの。私にとっては繭良以外の人間がどうなろうと知ったことではないよ。でも、あなたはそんなの嫌でしょう? だから、それはあなたを守るの。私が居ないときに」
「ルーがいないときに?」
信号が青に変わり、ルーは繭良から手を離した。車が走り出す。
「そう。私はあなたから他の人や物を守ってるんじゃない。私はね、繭良を守りたい。私が繭良を守るよ」
こんなルーを見るのは初めてだった。
「繭良、言葉だけで説明するのは私もあなたも大変だし、必要はないと思う。どう?」
「うん。全部じゃないけど、わかる。私が何であるのかはわからないけど、何が起きてしまうのかは……なんとなく」
「それが聞ければ充分だね。理解に関してはちょっと頼りないけど……。でも把握してきている。繭良、帰ったら鰐笛を吹かない?」
「うん」
「今まであんまりキアイ入れて教えなくてごめんね。でもわかってくれるね?」
「うん」
「教えてあげるよ。鰐笛の真の音。私のできること、すべて教えてあげる。でも繭良、ひとつ約束して」
「なに?」
「伊織さんには今日の事、鰐笛のこと、言わないで」
「どうして?」
「お願い」
「うん……」
 有無を言わせない短い言葉に気迫され、繭良は弱く承諾した。
―わたしは『何』なんだろう? そしてルーは?
 緊迫した空気はそこで終わりほぐれて屋敷に着くころには何事もなかったかのように、ふたりは冗談を言い合ったりして笑い合っていた。しかし、屋敷の扉を開けエントランスホールに足を踏み入れたふたりは、立ちすくんだ。
「おかえり、繭良。おかえり……ルー」
 榊伊織とひとりの青年が、ふたりを出迎えた。
「繭良とルーだよ」
無表情の長身の青年は、ふたりに向かって軽く会釈をした。
「繭良、ルー、こいつは……」
―ヒナツ……!
ハッキングでも顔写真すら見られなかったが、間違いない。ルーの心臓は激しく鼓動した。

  8

 バスルームからはシャワーの音に混じって鈴を転がす心地よい歌声が聞こえてくる。
 靭彦は最後の一本になった煙草に火をつけ、ベッドの上にごろりと横になった。
『靭彦くん。君なら抜け出すのは構わないが、外出許可をとってくれないか? そのうち私以外にもばれてしまうよ』
演習の前にスレ違った横島の笑顔が靭彦の脳裏をよぎる。
―あのジジイ、あいつがいちばんCで腹黒いよな、きっと。
 靭彦はひとり、くすりと笑って煙を吐いた。
「あー、寝煙草はだめって言ってるのに」
 いつの間にかシャワーを浴び終えた、髪と躰にバスタオルを巻いた格好の女がいさめる。年齢は靭彦と同じ位か少し年上だろうか。その柔和な顔立ちは、センターCの図書室の写真集で見た技芸天の仏像に似ている、と靭彦は常々思っていた。
「だいじょぶ。まだ起きてる」
「珍しいね。いつもはすぐ寝ちゃうのに。いいの? 今、寝ておかないと朝、起きられないよ」
「ああ、今日は平気。外出許可とったからゆっくりできるよ」
「ほんと?」
「うん」
 靭彦は微笑んで彼女に片手を差し伸べた。その手を握り返す彼女の手は湯を浴びてあたたかく、シャンプーの花の香りが靭彦の鼻をくすぐった。
 靭彦は貝殻の形をした青い透き通った灰皿で煙草を揉み消すと、ベッドの上に膝をついた彼女をゆっくりと抱き締めた。靭彦にとって、こんな至福と言えるときがくるとは今まで考えられないことだった。
「ショーコ。あったかい」
「シャワー浴びたばっかりだもん」
 さらにぎゅっと靭彦はショーコを抱き締める。あっと彼女が声を上げると同時に髪を巻いていたバスタオルがシーツの上に落ちた。まだ水分を含んだたっぷりとした明るめの栗色の髪が縛めを解かれて広がった。
「くしゃんっ」
湯冷めしたのかショーコがくしゃみの音を立て、靭彦はあわてて躰にバスタオルを巻いただけの彼女の肩に毛布をかけてやった。
「髪、乾かしたら? その前になんか着ろよ」
「うん」
 ドライヤーを使うショーコを残して靭彦は汗を流しにバスルームへと入っていった。演習の汚れと汗を流し終えるとショーコはパジャマを着てベッドに横たわっていた。
 毛布をかけてやったショーコの肩から腕にかけては服の上からはわからないがしっかりと固い筋肉がついている。ショーコとは『実地訓練』の帰りに先輩メンバーに連れて行かれたこじんまりとした内装の美しいスナックで知り合った。二度、三度、飲みに通ううち、靭彦はその店でコンパニオンとして働くショーコが『隊にいた』ことを聞かされて驚いたときの事を覚えている。
 衿にゴールドの縁どりを施した白いスーツの彼女がまくってみせた腕には無駄のない筋肉がしっかりと載っていた。それはまるで彫像の腕のようで、靭彦はしばし見とれてしまっていた。
「やだ、そんな見ないでよ」
「いや、キレイだなと思って」
ショーコはちょっと困った顔になってから誇らしげな表情になり、言った。
「お祭りで射的なんかあると、友達に頼まれるの。隊にいたときはみんな怖いからって嫌がってたけど、私は射撃訓練がいちばん好きだったんだ。もう、すごいよ。百発百中!」
 ショーコは指でピストルの形をつくると、片腕をピンと伸ばして靭彦を狙って「ぱん!」
と撃つマネをした。ショーコの居る店に、いつしか靭彦はひとりで通うようになっていた。そして……。
―見事撃たれたよ。ショーコ。そして俺は天国行き。天使は元軍人。変なの。
 靭彦は『ガーデン』を思い出した。数少ない子供らしい行事は少なかったがクリスマスの劇が催されたことがある。観客は『ガーデン』に出資するスポンサーや関係者ばかりで自分たちの肉親はいなかったが、子供たちにとってそれは楽しい思い出のひとつだった。
 靭彦はそのとき、あれ? と感じたことがあった。聖歌隊とは別に『天使の軍勢』というコーラスとコール(大勢で一斉にセリフを喋る)の役があったのだ。
 平和の象徴とも思えた天使が軍隊を組織しているということが靭彦には不思議だった。その劇は繭良とヒロコ先生が消える前のことで、靭彦はヒロコにそれを問うたことがある。ヒロコは少し考えてから屈み込んで靭彦と視線を同じくし、あのやさしい声で答えてくれた。
「天国でもね、昔戦争があったの。だから兵隊の天使たちもいるのよ」
「戦争? なんで? 天国なのに?」
「神様になりたい天使がいたの。その天使は神様と仲良しの天使とケンカして戦争になったのよ」
「その天使は負けたんだね?」
「ええ」
「そいつはどうなったの?」
「戦争に負けて地獄をつくったの」
「地獄の神様になったの?」
「地獄ですもの。悪魔になって、地獄の王様になったのよ」
 協調性ゼロの靭彦は聖歌隊にも軍勢にも配役されず、なぜか、キリストの生誕のお祝いに駆けつける博士という大役を任された。しかし、そのキリスト生誕劇は通常のシンプルなシナリオとは少し違っていた。
 キリスト生誕劇のストーリーといえば普通、こうである。
 クリスマスの晩、人口調査のために生れ故郷に帰ってきたヨセフと神の子を宿した身重の妻マリアは宿を探すがどこもいっぱいで泊まれない。二人は途方に暮れるが、やっとある宿屋の馬小屋に泊めてもらえることになる。同じころ、救世主を待つ羊飼いと東方の三博士の前に二人の大天使ガブリエルとミカエルが現れ、イエスの誕生が迫っていることを告げる。やがて馬小屋でイエス・キリストは産声を上げ、お祝いに駆けつけた羊飼いたちと三博士たちに祝福され、皆が救世主の誕生を喜ぶ、というのが大方の筋だ。
 しかし、靭彦はその三博士のどれにも入っていなかった。
 もうひとつのキリスト生誕劇に『遅れてきた博士』というストーリーがある。この話は劇のなかで少しずつ、幕間の形で展開された。そして祝福のシーンのあとで、ひっそりとこの話のラストがやって来るという形式だった。
 靭彦は稽古の間中、不機嫌だった。『遅れてきた博士』がとてつもないマヌケに見えて道化役の気がしたからだ。しかし、何度稽古から脱走しようとしても何故か彼の行く手にはヒロコがいる。幼年部と児童部合同の行事はそうそうないからと説得され、靭彦はしぶしぶ台詞を覚えた。
 靭彦は覚えている。
 祝福の華やかなシーンのあとに、そろそろと舞台へ出ていくのが嫌だったこと。その小さな背中を押してくれたヒロコの体温、そしてラストに彼へ送られた拍手と喝采を。
『遅れてきた博士』。それはこういう話だった。
 世界の四大賢者とされる博士のなかで靭彦の演じた博士は一番若く、またキリスト生誕の地から一番遠い所に住んでいた。救世主の誕生を告げる大天使たちはほぼ等しく博士たちの前に現れ、三人の博士はすぐに集結した。しかし、四人目の博士だけはなかなか合流できず、ついにはひとりで教えられた星をたよりにイエスを訪ねることになる。
 なぜなら、彼は行く先々で不幸な人々に出会ってしまうのだ。先を急がねばと思いつつ、病気の老人に会えば元気になるまで看護してやり、お腹をすかせた子供がいれば自分のパンを分け与え、夫を亡くした女がいれば慰めてやり、喧嘩があれば仲裁し……。不幸に嘆くその人々を救うまで彼は先へ進むことができない。とうとう何十年もの月日が経って、彼も病魔に犯されてしまう。そして。死の床で彼はやっと成長したイエス・キリストに出会うことができるのだ。四人目の博士はイエスに誕生の祝福ができなかったことを詫びるが、その彼にイエスは微笑んで言う。
「何を言うのですか。あなたは今まで何度も『わたし』に会ったではありませんか」と。
 そこへガブリエルとミカエルのふたりの大天使が現れ、ミカエルは彼をやさしく抱きしめるのである。
靭彦はショーコに会うまで、どうして自分があれほどの喝采を受けたのかが理解できなかった。けれど今ならわかる。天使の抱擁を経て。
 そういえば、あのとき、靭彦への賞賛を一番喜んでくれたのはヒロコだった。ヒロコは幕の降りた舞台に駆け出し、舞台の上級生のミカエルより愛情深く、本物の天使として彼を抱きしめた。
「ユキヒコくん、がんばったね」
その声はまだ鮮明に彼の耳に残っている。それから……。
「ゆき! すごいねー。はくしゅー、はくしゅー、すごいねー」
それから……。聖歌隊の衣装のままマユラが走り寄ってきて、その長い衣装の裾につまづいて……こけた。
「ゆきーおめでとー」
ぶつけたおでこを赤くしてマユラは泣かずに笑っていた。靭彦も笑顔を見せた。

 しかし。今、靭彦の表情は暗かった。センターCの職員たちからの「おめでとう」という言葉も靭彦を笑顔にすることはできない。彼の天使・ショーコとの甘い時間のカットアウトはいきなりだった。
 二週間前、ショーコと逢った翌日に『ガーディアン』と呼ばれるセンターCで組織されているチャイルド・マーケットの治安部隊から、スカウトによって『ハンター・ギルド』への移籍が決まったことを聞かされても、靭彦はまるで他人の事のように思えていた。センターCを去るのは明日に迫っている。しかし荷物をまとめる靭彦の動きは鈍い。
―ショーコ。
 一週間ほど前、靭彦はショーコのいる店へと向かった。ショーコからの連絡が途絶え、多忙だったが、彼はガーディアンの目を盗んで店に向かった。だが、そこにショーコの姿はなかった。
「ユキちゃん、誰にだって事情ってものがあるから。ショーコはあなたに会いたいと思ったら必ず連絡するって。だから、ね、今はお祝いさせてよ。『ガーディアン』を卒業するんでしょ?」
 その前日、ショーコは店を辞めていた。靭彦に何も知らせずに。黙り込んでカウンターで酒をあおる彼の姿に、見かねた店のママが隣に座った。
「大丈夫。ショーコはユキちゃんのこと嫌いになった訳じゃないよ。そんなこと全然言ってなかったんだから」
「ママ」
 中年というにはまだ若いママは美しく、その日もいつものように見事なボディラインのはっきりわかるチャイナドレスを身に付けて居た。ママは母性的な笑顔を靭彦に向けると、なあに? と尋ねた。
「ショーコ、どこに行ったの? 電話ももうつながらない。部屋にももういない。ママ、ショーコがどこに行ったのか、知らない?」
「ユキちゃん、ストーカーになるつもり?」
笑顔のママの声は厳しい。
「いや、俺は……」
「ごめんなさい。私にも居所はわからないの」
「そう……」
 それからしばらく店で時間を過ごし、ふらつく足で靭彦は店を出た。いつもは店の女の子に見送らせるのに、その日はなぜかママが、自ら見送りに出た。そしてそのまましばらく靭彦と並んで歩き出した。
「ママ、店は? 戻らないとまずいんじゃないの?」
 千春ママは店から黙って歩いていたが、少し店から離れるとおもむろに口を開いた。
「店では言えなかったけど……。ユキちゃん、ショーコね、あなたのこと本当に好きなのよ。だから、ユキちゃんにまた会うことになるわ。……もう、あなたのせいよ。ウチの人気株を持ってっちゃったのは」
 泣き笑いの表情のママは靭彦の顔をじっとみつめた。
「あの子のこと、よろしくね」
 酔いのまわった靭彦には、慰めでしかないであろうママの言葉をただ聴くことしかできなかった。
―ショーコ、なんで……!
 目覚まし時計を荒々しくバッグに投げ込むと、靭彦は荒々しく部屋を出て行った。
『ハンター・ギルド』の建物は、靭彦のイメージに反して堂々としてモダンなデザインだった。表向きは民間の組織でありながら官庁の清潔感と緊張感をまとったその建物は、意外にも『ガーデン』にほど近い位置にあった。
―全然、知らなかった。
 苦い思い出が靭彦の胸を刺す。
―まあ、いいか。仕事が入れば諸国巡業の旅だものな。
 入寮手続きを済ませ、所属チームの顔合わせの場所へと向かう靭彦は耳を疑った。
 微かではあるが『うた』がきこえる。それは実際に今、歌われているものではない。ふと思い出した、あのショーコの歌の旋律が耳の中に入ってすり抜ける。もっと良く聴こうとするとその音は逃げてしまう。頭をひと振りして、靭彦はドアを開けた。
「ユキ!」
「ショーコ?」
「ショーコ、なんでお前ここにいるんだよ!」
挨拶より先に靭彦は叫んでいた。
「スカウト」
「スカウト、って、お前!」
 班長の説明が靭彦のクエスチョンを遮った。狙撃において隊で優秀な成績をおさめていたショーコはギルドにスカウトされ、長い間渋っていたが、横島から靭彦の今後を知らされ承諾したという。
「だって、ユキも来るっていうから」
 複雑な喜びと怒りが、靭彦を包んだ。
「ユキ、一緒にいられるね」
 髪を耳の下あたりに切り揃えたショーコは、無邪気に笑った。
入所一日目にして靭彦には任務が課せられた。もちろんまだ単独ではない。しかしチーム作業とはいえ、いきなりの実戦だ。そして作戦にはショーコの参加も決まっていた。

 
日夏とは一緒に食事もとらない日々は、淡々と過ぎていた。あの日、日夏を置いて去った伊織の姿がまだ残像として頭に残っている。いつものことだが一抹の寂しさが繭良の小さな胸にとどまってなかなか去ろうとはしない。繭良は同じ屋敷に住まいながらめったに顔も合わせない日夏のことをまだ気にかけていたが、鰐笛の稽古に熱を込めていた。
 繭良は鼻から思い切り息を吸い込み、口からゆっくりと吐き出すと瞳を閉じた。
―大気とまざること。
 肩を一回、ゆっくりと回し、足を肩幅より少し狭くひらく。
―風を読むこと。
 繭良の臍下から数センチに、熱い球状のかたまりが形成される。
―そして溶けること。
 鰐笛が声を出す。
 声は伸び、高低をつくり『うた』になり、流れてゆく。
「肩のチカラを抜いて、そう」
 ルーは繭良の前に立ち、囁きに近い声で繭良の鰐笛を導いてゆく。
「目を開けてもいいよ。でも集中して。迷えばいろんなモノを引き寄せ邪魔されるかもしれないけれど、気にしては駄目。私の声を聴いていて」
 部屋の空気は微細な揺れを生じている。ルーは念を強めてシールドを厚く重ねた。繭良の片方の眉がぴくりと痙攣する。
「こわかったら目を開けて。目をつむっても光が見えたでしょう? 気にしないで。それからロングトーンを大切に。均一に、トーンの終わりも大切にフェイドアウトさせて」
 鰐笛の練習はそれまでとは少し傾向を変えていた。
―急がなければ。でも焦っては駄目。繭良のコントロール力と防御力を高めなければ。
ルーは焦燥感を必死に押さえ、繭良の鰐笛の指導にあたった。
 あの日、初めて日夏を見た瞬間ルーは伊織の手紙の言葉を理解した。
―似てる。伊織さんと。
それが第一印象だった。日夏の容姿は伊織とまったく違っていたが、長年伊織の下で従事してきたルーにとってその印象に鳥肌が立った。
―似てるんだ。なんていうのか……『魂のかたち』が……。
思い過ごしであってほしいと願いつつ、その確固としたインパクトは拭いようがなかった。そして、ルーが最も不安に感じるのは繭良の心だった。
―繭良は伊織さんを慕っている。やがては……?
幸い、まだ繭良はそれほど日夏に興味を示しているようには見えない。繭良が日夏に目を向ける前に、ルーはある程度の防御力を彼女に持たせる必要を感じた。しかし、それは同時に繭良の力をさらに開花させ、調整することになる。それは皮肉な事に伊織にとって何らかの戦力となる能力を身に付けてしまうことを意味していた。
―でも。このままにはしておけない。せめて『人形』にはならないで。繭良。
 ある程度、自分のコントロールができれば自身の能力への自覚が形成される。そうすれば伊織に意のままにされる可能性は低くなるだろう、とルーは読んでいた。
―私の仕事はシールドとしての役目を果たす事だけ。だけどあの人の好きにはさせない!
伊織が繭良の能力開発のために日夏を使う可能性も浮上した。『その種族』としてのカンで『共鳴』を恐れていた。
―『私たち』は共鳴する。影響しあい、神経のように繋がって時にはリンクしてその力を連携させる。何が起こっても私は繭良を守る。
繭良はそんなルーの思いを露ほども知らない。あの日からひと月。鰐笛の稽古が毎日になった他は何ひとつ以前と変わらない生活が続いている。何も変わらず、何も起こらない。何も。
 だが着実に『種子』はもう芽吹くときを待つばかりになっていた。
「もうすぐ試験だから今日はここまでにしない?」
「ううん。もうちょっとお願い」
甘えるような瞳を見せて繭良は鰐笛をぎゅっと握りしめる。
「繭良、せっかく上がった英語の成績を落とす気?」
「私、がんばるから。ね?」
「しょうがないね」
 苦笑したがルーの声は嬉しそうな響きを帯びている。
 ルーは繭良の薄茶の髪をひと撫ですると「あの曲をやろうか」と言った。
「うん! 花……ふるかな?」
「さあ。やってみたら?」
 繭良は鰐笛を構えた。
『あの曲』。それはルーが受け継いだ故郷の旋律で、以前、繭良に聞かせた曲だ。
 ピアニッシモからはじまるロングトーン。そして流れ出す不協和音を織り交ぜた耳と胸に引っ掛かってゆくオリエンタルな調べ。鰐笛が鰐笛としての存在をアピールする、風が啼き水の滴り流れていく旋律。
 ルーは覚えることのない懐かしさを感じた。
―短期間で、よくがんばったね。繭良。……まゆら? 
ルーは突如としてひやりとする感覚を覚えた。
―シールドの外だ。この『波動』ね。繭良を怖がらせているのは。
 色にすれば群青と濃い紫だろうか、不気味な得体の知れない波動はシールドの外壁を波打たせ、蛇が草むらを這うように流れていた。
 ルーは耳を澄ませた。ルーは日夏の楽器を思い出した。しかしこの繭良の部屋と同様、物理的な装置まで使ってシールドがほどこしてある。しかも日夏の部屋には特に強力に。各部屋には防音を施してある。
「繭良、どんな音がするの?」
 繭良の一生懸命な表情が変容を見せ始めた。陶然として、ひどく妖しい表情と潤んでゆく瞳。あの神楽の発表会の時と同じ……。
 ルーは厳しい目でドアを見遣った。
―『きて』いる! そんな! 馬鹿な……。シールドを破るなんて!
 すでに遅かった。薄紫のもやが室内に充満していく。その色はしだいに濃さを増していった。
「繭良! 繭良! 鰐笛をやめて!」
しかし繭良の耳にルーの叫びは届かない。
「繭良! あ、うっ!」
繭良から鰐笛を奪おうとしたルーは指先に焼ける痛みを感じて反射的にとび退いた。
―鰐笛に触れない!
ルーは繭良の胴をギュッと抱きしめ、叫ぶ。
「繭良! やめて! やめて!」
繭良は、あの神楽舞で見せた表情よりさらにうっとりとした微笑みを浮かべ、鰐笛は歌うことをやめない。濃紺と紫のもやは広がり、闇と化し光を奪っていく。
「やめて! やめて! 繭良! 戻って!」
そのとき。ルーは自分の叫びと鰐笛の間に、ある旋律を聞いた。それは繭良の鰐笛に添うように、時にはリードするように流れ、溶け合うふたつの音は室内に気流の流れを形成しつつあった。
「やめて! 『日夏』! 繭良を連れて行かないでえええっ!」

 バキインンッ!

 繭良は鰐笛から唇を離した。『気配』はなくなっている。ルーは繭良から躰を離して崩れるようにがくりと床に座り込んだ。
「ルー?」
 不思議そうに声をかける繭良の視線の先で、ルーは肩で息をしている。
「ルー? どうしたの? 顔、真っ青だよ。具合わるいの? ごめん気付かなくて。没頭しちゃって。私……」
 ほつれた前髪を汗で額にはりつかせたまま、ルーはゆっくりと繭良を見上げた。
―よかった。いつもの繭良だ。
「ルー、ルー、大丈夫? お水、持ってこようか?」
「大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ」
精一杯の体力を使ってルーは立上がり、繭良に微笑みかけた。
「だいぶ、上達したじゃない? 繭良」

「あ、弦、切れた」
 日夏は琵琶に似た楽器をベッドの上にそっと置くと、弦の張り替え作業にかかった。
「でもこっちが壊れなくてよかった」
 琵琶に似た楽器のヘッドには龍の上体を彫刻した装飾が施されている。日夏は竜の頭をなぞると呟いた。
「『龍の珠』っていうけど、こいつはどこに隠してるんだろね。いや、どこかに落としてしまって持ってなくて探してるのかもしれないな」
 弦を張り変えると日夏は窓を開けた。猫の爪によく似た月がこちらを見下ろしている。
 このところ、彼は何かに突き動かされるように弦にバチを滑らせてしまうことがある。そして今夜は特にその衝動は強かった。彼はその衝動に抗うつもりはなかったが、日夏はまだ胸にのこる濃紺の闇の感触に奇妙な興奮を覚えていた。
 日夏は月を見上げた。曲線を描く月は雲に紛れ姿を消した。雲に隠れた月はなかなか姿を現そうとしない。日夏は頬に生温かいものを感じ、思わず手をやった。手のひらにべっとりと血がついている。はじけた弦で切ったらしい。
 途端、日夏の表情が険しいものへと変貌した。彼は立ち上がると部屋に備え付けられたチェストの上の花瓶を取り、床に叩き付けた。バリン! と花瓶は割れ、その大きな破片を手に取ると、日夏は無言のまま自らの両腕にざくざくと破片を走らせ切りつけていった。

「長袖の季節でよかった」
 日夏の腕に包帯を巻いてやりながら、ルーは彼のほうを見ずに言った。
「こんな傷、繭良が見たら心配するじゃないの」
「あのちびっこ?」
「名前くらい覚えなさいよ」
 ルーはあきれて日夏の顔をまじまじと見つめた。
―調子狂うな。こいつと話してると。
あわてて繭良の稽古を切り上げ、日夏の部屋に駆け込み血まみれで眠り込んでいた日夏を発見したルーは彼にどう対処すれば良いかと頭を超高速で回転させたが、すべての段取りは無に帰した。
「とにかく、もう血まみれでベッドに寝るのはやめてね。血液ってきっちり落とすの大変なんだから」
「うん」
 もう気を遣うことをやめたルーの注意に殊勝に日夏は答えた。
「日夏、外出したくない? ちょっと遠くに」
「いや、別に」
「行きましょう」
脅すようにルーはきっぱりと同意を求めた。
「行くのよ。ピクニック」
「ピクニック?」
 目をぱちくりとまばたかせ、日夏は手当ての終わった腕をまだ差し出したまま、なんでまた? と質問した。
「繭良がね、気にしてたの。もうだいぶ時間が経つのにあなたと話してないって。親睦会というか歓迎会、みたいな感じかな?」
「別にいいのに」
「行きたくないの?」
「いや、いいけど」
「コドモとおばさんとじゃ嫌?」
「おばさんって?」
「私」
「あんた、そんなトシじゃないじゃん」
「ありがとう。って言っておくよ。でもあなたより年上なのはわかるでしょ?」
―なんだ。けっこう喋るんじゃない。
 ルーはやっと笑顔を顔に昇らせ、慎重に疑問をぶつけてみた。
「なんで?」
「え?」
「なんで手当てなんか?」
「スジ切ったら楽器弾けないじゃない? わざとずらして切ったの? けっこう深く切ってたみたいね。恩に着せるつもりはないけど、組織回復速度が上がるようにしたからもう今日か明日には『今回の』傷はあとかたもなく消えるよ。……余計なこと、した?」
「いや」
「どうしてあんなこと?」
「さあ。なんとなく」
「楽器では解消できない何かがあるの?」
「そういうテもあるか」
「はあ……」
 ルーは訳がわからずため息をついた。
「どうして?」
「え?」
今度は日夏が質問を投げてきた。
「なんで『ピクニック』に行こう……って?」
「さっき言ったでしょ? 繭良が……」
「いや、そうじゃなくて」
ルーの説明を日夏が遮る。
「そうじゃなくて、どうしてあんたがその気になったのかな? ……って、」
ひくりとルーのこめかみがひきつる。
―距離があれば、あの子は余計にあなたに惹かれてしまうから。
そう言ってしまいたかった。けれどまだ油断はできない。日夏に、いや伊織に。
「私は忙しいの。でも繭良があなたはさみしくないのかな? って心配してたびたび聞いてくるの。一緒に食事も会話もしてないし。それにピクニックは二人じゃさみしいでしょ?」
なんとか切り返したがルーの弁解のような答えは歯切れが悪い。
 納得したのかしていないのか、日夏はそう、と素っ気なく答えると空腹を訴えた。


「眠れないの?」
 靭彦は寝返りを打ちショーコに背を向けた。
「あん。お布団とっちゃだめ」
靭彦は答えずに、引き寄せた毛布をすこしずつ背後のショーコへと送った。
「器用なことしないでこっち向いて。眠れなかったらもう少し、お喋りしようか?」
 ショーコは無反応な男の背に手を伸ばしかけたが、ゆっくりと引っ込めた。
 彼女にはわかっているのだ。次にどんな言葉がくるのか。
「お前、平気なの?」
ショーコは上体を起こすと煙草に火をつけた。薄暗い室内に、小さなオレンジの光りの玉ができる。煙をふうっと吐くとショーコは赤く灯る煙草の先に視線を注いだ。困った場合の彼女の癖だ。
「『隊にいたからね』としかいいようがないわ」
「……ごめん。そういうつもりじゃ」
「仕方ないよ」
 泣きたいのをこらえてショーコは天井を見上げ頻繁に煙草に口を付ける。
―そうよね。想像してたよりショックだったでしょうね。でも私はそう教育されたの。あんなことに対して『それはあり得ること』だって。
 靭彦は目をつむることができず、まばたきすら恐怖を感じていた。一瞬でも眼前がブラックアウトすればあの場面がスクリーンに映し出される映像として蘇ってきそうだった。
「わたしを鬼だと思う?」
 ショーコに背を向けたまま靭彦は激しくかぶりを振る。
「あなたは自分が鬼になったと思う?」
 靭彦の躰が固くなるのがわかった。
「初めての実戦だったものね。生身のターゲットひとりに……多勢に無勢。作戦展開。そして制止、狙撃」
「やめてくれ」
「ターゲットを撃ったのは……」
「なんで撃った?」
「確かにターゲットをフリーズさせることには成功していた。あなたの力でね。でもね。はっきり言うけど、あれは一時しのぎでしかなかったの」
「そんな!」
がばりと靭彦は布団をはねあげ起きあがった。正面からショーコと目が合い、靭彦の喉がひくりと引きつった。ショーコの双眸は凍てつくほど冷たい。
「違うって言える? ゼッタイ違うって言える? あなた、死にたかった?」
「え?」
「ターゲットに殺されたかった? 私は嫌。私はあなたを失いたくなかった。確率の問題なら、確実なほうが良かった。ユキが死なないっていう確率を、私は選びたかった」
 靭彦は押し黙った。真夏でもないのに汗をびっしょりとかいている。
「私は『守る』ことを教えられてきた。ハンターは攻撃だけ考えればいいわ。守るのは私の役目なんだから」
「ショーコ……」
「守るためっていうのは黙って見てるだけじゃダメなこともあるんだってば! 今回、ああいうケースだけじゃない。あなたはターゲットを『狩る』のよ? これからどうするの? やめる? 脱走する? 私だってあんな私、見せたくなかった! だけど、ユキと……」
 沈黙と静寂。ふたりはうつむいたまま微動だにできない。
 先に口を開いたのはショーコだった。
「わかってる。私は狙撃班で、しばらくの間しかあなたのチームにはいられない。いつかあなたはあちこちへと行ってしまう。私を必要としないミッションだってある。それでもね、私はあなたと居られる確率をとったの。同じフィールドにいたいの。離れてたって、あなたと同じフィールドにいるって感触がほしいの」
「危険だ」
「ユキ、あなたのような力を持たない私が何で狙撃班にいると思う? それは『精神』なの。私が受けた『教育』は、あなたのような力に耐性がある。それは……」
「それは?」
「私が『鬼』になるプログラムを受けているからよ。一般的にそう思われてる。でも私は自分が『鬼』だとは思わない。『ひと』は『ひと』である自覚を常に持って生きている?」
「息をしていると自覚して呼吸してる奴はいないと思う……」
「ありがとう。ユキ」
 ぎゅっと抱き締める靭彦の腕が、ショーコの背に食い込んでいく。肩から背の上部にかけてのショーコは女性のものとは思えない程、固い。その固さは筋肉と骨だけではないと、靭彦は思った。意思。その想いが重要な部位に宿っている。
「一緒にいたいの。ユキ。一緒に」
「ああ……。そうだよな」
 約束というものは、たとえ紙にしたためられても確実とはいえない。もちろん、その時の決意は大方は本物なのだろうが。けれどショーコは『確率』を信じたかった。祈りを込め。


『ピクニック』に出るにはもう肌寒い季節になっていたが、その日は例年より暖かい小春日和だった。それでもルーは繭良に厚着をさせ、自分もストールを上着の上に重ねた。日夏は薄着で外出しようとしたところをルーに見咎められ、ほぼ無理やりに途中で購入したジャケットを着せられていた。
 三人はチャイルド・マーケットから車で一時間ほどの広い緑地帯へやって来た。広大な公園には芝がひろがり、休日を楽しむ人々が思い思いに球技やフリスビーに興じていた。
ゆるく斜面になった芝の上にピクニックシートを敷き三人はそこに場所をとった。
「今日のお弁当ね、ルーと一緒に作ったんだよ」
繭良の声は弾んでいる。しかし。ルーは自分の監督不行き届きを痛感した。鰐笛のほかに料理も教えなければ……と。だが日夏はおにぎりに餃子が入っていようとうどんが具に入っていようと一向に構わずしっかりと食べていた。彼は一応食べられるものなら何でも良いらしい。
 昼食が終わると、日夏はおもむろに龍頭琵琶を構えた。
「日夏、弾くの?」
期待に目を輝かせ繭良が問う。
「うん」
ルーは背骨を緊張させたが、不穏な気配は感じない。
―良かった。何げに楽しんでるじゃない。日夏ったら。
 日夏がバチを弦に当てる。そっと、軽く。

 びいいいんん、びいいいいいんんん……。

 龍頭琵琶の奏でる音はルーの予想に反して明るめでおだやかなものだった。けれどその音はどこか哀しく(楽器の特性上のようにも思えたが)、切ない響きを含んでいた。
 斜面の下から風が吹き上げ、弦を奏でる日夏の前髪をなぶった。
日夏がラストのフレーズをびいん、と響かせるとパチパチと繭良が拍手を送った。
「日夏、すごいねー。うまいんだね。難しそうな楽器なのに」
「そう難しくはない」
 バチの先で軽く弦を弄びながら、日夏は照れる風でもなく言った。
「弦の音、私、好きだな」
 繭良は合わせた両手のひらの指さきに小さなあごをのせると、焦点のぼやけた目で語り出した。
「ちっちゃいころね、私の面倒をみてくれたお兄ちゃんみたいな子が居たの。その子がいつも弦の楽器を持って歩いていて、私、よくせがんで弾いてもらったんだ」
 ルーの瞳の奥が鋭く光った。
―まさか……。

 ぱしゅっ

 三人は一斉に顔を上げた。
 その直後、公園内にサイレンが鳴り、続いてアナウンスが流れた。
『近隣の工場で事故が発生しました。皆様、ただちに避難をして下さい。繰り返します。近隣の……』
「やだなあ。もっと日夏の弦、聴きたいのに」
繭良は不平を漏らしたが、その表情は固い。それはルーも日夏も同様だった。
 三人は感じていた。尋常ではないその『空気』を。その『歪み』を。
―聞こえる訳はないのに。あれは……サイレンサー……。
思考を即座に中断しルーは手早く撤収にかかった。
「私たちも避難しましょう」
「風がある。早いほうがいい。何か有害な気体が発生してるかも」
日夏もルーに同意する。
「でも……」
 しかし繭良の動きは何故か緩慢だった。
「早く!」
「急げ。ちびっこ」
「日夏、繭良の名前くらい覚えなさい!」
「ね、ねえふたりとも……。わかった。急ぐよ……」
 車に乗り込んでも繭良は未練がましくそれまで自分たちの居た方向をじいっと見つめていた。ルーも日夏も無言だった。
―音。『音』がきこえた。
 しかし緊迫した車内で、繭良はそれをルーにも日夏にも伝えることはかなわなかった。


「外した!」
「いや、当たってるよ」
「まだ仕留めてないわ!」
 ショーコは銃を下ろさずに身を低くして駆け出した。
「ショーコ! 待て! 単独で出るな!」
 靭彦は仲間とともにショーコの後を追った。
 ショーコが足を止めた先には、すでに班長が植え込みのなかに身を潜めてゴーグルのセンサーを微調整していた。
「よくやった。ショーコ。ターゲットの動きが鈍くなった」
「よくないですよ」
悔しそうなショーコには答えず班長は付近の避難状況を確認した。
「不可視線シールド外に全員退避完了です。シールドは広範囲ですがターゲットは封じられています」
早口でチームのひとりが報告する。
「風は?」
「プラス2。追い風ですか。南西からです」
「班長、サーモ(サーモスタット・温度感知器)は働いてますか?」
ショーコが厳しい目で班長のゴーグルを睨み付ける。
「ああ。それほどイカれてない。ただ距離が遠すぎる」
「鬼ごっこかあ」
何げなく言った靭彦を彼以外の全員が睨み付け、靭彦は軽く頭を下げた。
「風は南西プラス2か。厳しいな。靭彦、いけるか?」
班長は靭彦に顔を向けた。靭彦はゴーグルごしの班長の目を見返すと、頷いた。
「よし。ゲンは位置確定。オーブプラスマックスでよし。ルカは援護しろ。こいつが調子に乗らないようにな」
「どーいう意味ですか?」
靭彦が抗議する。
「攻撃による周囲への被害は最小限に食い止めないとな。いくら退避完了しているとはいえ、過ぎたるは及ばざるがごとし、だ」
「わかりましたよ。ゲン、位置は?」
「私は?」
ショーコが噛み付かんばかりに班長につめよった。
「待機」
「なんで!」
「あせるな。お前は『隊』でもそうだったのか?」
ぐっとつまったショーコの肩をぽん、と叩いてやり、靭彦は金髪で長髪・長身のルカとともにターゲット付近へと移動をはじめた。特殊な波長で機能するインカムからの、がっしりした体格に合ったゲンの重く厳しい声の通信は良好だった。
「靭彦、まずい。風が強い。プラス3に近くなってきている」
「いいじゃん。ゲン。そのほうが」
「俺たちはお前のほうが心配なんだよっ! この破壊小僧!」
「あはは。褒め言葉?」
「いいから、丁寧な仕事しやがれ!」
「ゲンってこれだから好きさ」
「ルカ! あとでそいつを殴っとけ!」
 ルカにはそんなやりとりに付き合っている暇はない。意識を集中させ不可視線シールドを自分の念で張りつつ、靭彦の攻撃をもセーブしなければならない。
―俺がやらなきゃショーコが撃つ。でも繊細な作業は難しいな。
 軽口を叩きながらも靭彦の目は真剣だった。
「靭彦! 聞こえるか」
ゲンの声は緊迫していた。
「良好っすよ」
「その辺で止まれ。ターンレフト。まっすぐ十歩」
「え? マジ? 俺、丸見えじゃん」
「いいから早くしろ!」
 靭彦は信じられねえと毒づきながら、芝の斜面に姿を現した。
「俺、やられちゃうってば」
「それは向こうも同じ条件だ。でもまだこちらが有利さ」
ゲンの声にノイズが混ざりかけている。「近い」。斜面はゆるやかで腰を下ろしたくなる気持ちよさげな地面だった。
 そこは、先刻まで繭良たちがピクニックシートを張っていた場所だった。
「ちょっとさー、サバイバルゲームでもこんなのないよー」
「お前の場合、この位でいいんだよ! いいから前見ろ!」
靭彦はゲンの叫びに前方に目を向けた。『ひと』の影はない。しかし。
―この気配。バカだねえ。頭隠してなんとやら。
 靭彦は馬頭月琴を構えた。

 ギイイイインンン!

 前方の森から鳥たちが一斉に羽音を立てて飛び立つ。
―でてこいよ。後には引けねえ。シールドされてるから背後にゃ行けないもん。
『気配』がスキを見せた。

 ギイイイイインン! ギュイイイイインン! 

 森から転がり出たのは、小太りのひとりの男だった。押さえた左肩からはどくどくと血を流している。靭彦の姿を認めると、男は大きく口を開け、声にならない叫びを発した。
 瞬間、靭彦は鋭利なナイフを振り下ろすが如くバチを躍らせた。

 ギイン! 

 襲いかかる押し寄せる音波を巨大な鉄板が跳ね返す衝撃が空気を震わせ、続いてどさりと鈍い音がした。
 芝生のひろがるのどかな緑地で、男は大口を開けたまま、真後ろに倒れ込んでいた。口からは大量の血がだらだらと流れていく。
―ビジュアル的に、あんまりキレイじゃないなあ。
 男は想像以上に弱っていた。あの大きく巨大な『気配』は古い幻灯機の映し出すのと同じこけおどしの映像だったのだ。靭彦はそっと黙礼し、馬頭月琴からバチを離した。
 男の生命波動が徐々に弱くなっていくのがわかった。靭彦の背後のルカのもとに、メンバーたちがわらわらと集結してくる。
「まだ息がある。ゲンと俺はセンターへの搬送を担当する。あとはここで『掃除屋』が到着するまで待機。ひとまず完了とする!」
班長の響が指示を下し、彼とゲンは次の作業に向かった。待機を命じられたショーコ、ルカ、靭彦の三人は芝の斜面に腰を下ろし、しばらくの沈黙が彼らを包んだ。
「ピクニックにきたみたい。こんなとこ座ってると」
ショーコはまだ片膝を立てて銃から手を離さないでいる。
「ピクニック、かあ」
 靭彦はポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を出すと、煙草に火をつけた。すかさずショーコが携帯灰皿を横に置く。
「まさかひとりとは。マヤカシに手こずらされたって訳か」
『掃除屋』の到着までシールドを解除できない状態のルカの声はまだ固い。
「でもあっけなかったね」
ショーコは靭彦の煙草を奪い取り、ひと吸いすると靭彦の手に戻した。
「ショーコのおかげさ」
「私としちゃ不本意だけど」
「まあ、いいんじゃない?」
 紫煙を吐き出し、靭彦はショーコに「なに?」と顔を向けた。
「え? 私、何も言ってないよ」
「気のせいだろ……」
向きを変えた風が斜面を吹き上げ、ぽつりと言ったルカの金色に染めた前髪をなぶった。
 しかしその場でただひとり『力』を持たないはずのショーコの目が、なにかを追い辺りに目を走らせていた。
―誰がユキを『呼んだ』の? 
 ショーコはしばらくの間、靭彦の横顔から目を離すことができなかった。

  9

 繭良、ルー、日夏の共同生活は、ピクニックの日を境に急速に「共同生活」らしくなっていった。日夏もふたりと共に食事をとるようになり少しずつ会話も増えてきた。そして繭良の鰐笛の稽古中に感じたあの蛇そのものの不気味な気配もぱったりと止み、ルーは胸をなで下ろした。
 日夏は天気の良い日はルーフバルコニーに姿を現し、龍頭琵琶を弾くようになっていた。しかし繭良にその様子を見つかると大変なことになる。
「あ! ひなつ! 弾いてるね! 歌って! 歌ってよー!」
 学校から帰ったばかりでまだ制服のままの繭良は階段を駆け昇り廊下を走り、その場所まで突進して日夏に歌をねだる。
「え。うた?」
 さすがの日夏も繭良の急襲には一瞬狼狽を見せる。
「うた! 曲だけでもいいけど、やっぱり、うた! この前歌ってたやつ!」
「俺『流し』じゃないんだけど……」
気を悪くした風ではないが、日夏は簡単には承諾しない。
「え? 『流し』ってなに?」
「えーと、ナガシっていうのは……」
 毎回なんだかんだと歌うことを渋る日夏だが、結局は繭良の要望を聞き入れる。
「一曲、だけ」
「けち! いーや。早く歌ってよ!」
 龍頭琵琶に日夏の低い歌声が混ざって『聴こえる』と、ルーは「ああ、また」と、執務室でひとり微笑む。ルーは日夏が『ガーデン』の出身ではないかと考えたことがあった。それはあのピクニックの日に繭良が言った言葉が引っ掛かっていたからであるが、調査の結果、繭良が兄のように彼女の面倒を見ていたという弦を弾く少年は全くの別人であることが、いともあっさりと判明した。
―鎌宮靭彦。今は『ハンター・ギルド』所属のハンターか。すごいね。
 幼馴染みの行方を繭良は知りたいと思っているのだろうか?
 ルーは調査結果を繭良に伝えるべきかどうか逡巡したが、頼まれもしないのに、と靭彦の現在を教える事を思いとどまった。もし、ルーがこのとき繭良に靭彦の事を告げていたら。その後の繭良の選択は変わっていたのかもしれない。
 上弦の月が天空に浮かぶ晩。繭良は鰐笛を途中で止め、沈黙した。
「どうしたの?」
ルーはおし黙る繭良の異変に、心配そうに声をかけた。
「ねえ、ルー。きょう、なんか胸がいたい」
「えっ?」
あわててルーは繭良の脈を計り、華奢な背中に手を当てた。鼓動がやや不規則ではあるものの異常は感じられない。
「身体的な面では問題ないね」
含みのある言い方をするとルーは繭良の不安げな顔をのぞきこんだ。
「なんかあったの?」
「これといって……でも」
「でも? なんでもいいよ。言ってご覧」
「今日ね、日夏に歌ってもらったんだけど」
「うん。何かあったの? けんかでも?」
「ううん。いつもと同じ。でもそれから変なんだ。胸のあたりが痛いっていうか、血管がきゅーっって締まる感じ。それから躰がゆるいゼリーのプールに漬かってるみたい」
「?」
「私にだってうまく説明できないよ」
―共振してる? 
ルーは室内とドアの前の気配に意識をめぐらせたが、何も反応はない。日夏が発信源と思われた、あの蛇そのものの不気味な気配も嘘のようにぱったりとなくなっている。
「日夏、何を歌ったの?」
「えーと。私の知らない曲。でも」
「でも?」
「今日の日夏、ちょっと変だった。いつもより気合い入れて歌ってた」
「よかったじゃない?」
「よくないよお。すっごくせつない感じのラブソング、かなあ? そういうの」
「感動しちゃったんだね?」
「そうなのかなあ」
「繭良、あなただってきれいな舞や音楽にきゅーっとなることあるでしょう?」
「……うん」
「いい演奏、聴けたんだね。私も聴いてみたかったな」
「ちょっと悔しいけど、染みてくみたいにどんどん日夏のうたが躰に広がってた。今日、だから日夏のことばっかり考えてたような気がする」
「繭良は……どんな鰐笛を吹けるようになりたい?」
「え?」
「『自分の音』。どんな音を出したい?」
「え。えーと……」
「日夏はきっと『自分の音』を持ってるんだよ」
「そっかああ」
 しばらく思案顔だったが繭良はふたたび鰐笛を構えた。
 繭良は日夏に恋心を抱いている。日夏の弦への興味・共振の気配は繭良の自我が発芽し理性の一部がほころんだ証拠……。
 その晩、ルーは自室の窓のカーテンを開け、半分だけ光を受け輝く月をみていた。
 もうあとは本人同士の、いやもしかしたら繭良の問題だということはわかっている。しかし、ルーはやはり繭良が傷つく事を回避させたいと思ってしまう。
 はじめのうちは、ルーは伊織の思惑を警戒し、繭良と日夏との接触を極力させまいとしていた。しかし、逆効果を生む危険が高いと感じ、ルーは繭良と日夏の壁を取り払う方向へと発想を転換させた。繭良は滅多に会えない養父を慕ってやまない。距離というものの効果を、ルーは目の当たりにしているのだ。
―伊織さんの企みよりも、今は繭良の気持ちが大切。このまま操られ人形のように繭良がなってしまわないとも限らない。繭良が真剣に日夏を愛せるなら、それもアリでしょう。でも。日夏。彼が繭良を愛することはまだ考えられない。あの様子じゃ、ね。恋を失う悲しみを知ったら、繭良はどうなってしまうんだろう? 
 ルーの心配は尽きなかった。
―でも。それでも「裏切られる」のでなければ……。失恋も必要な経験ね。
 ルーは天空を見上げ、ため息をつく。
私がそんな偉そうな事、思い巡らせてるなんて変かな。私は恋などしたことがないのかもしれないっていうのに。
 過ぎし日に伊織に恋をしたような気もする。
生まれ出で男の名を付けられたルー。当時何者かに両親を殺されひとりぼっちになったばかりの幼なかったルーのその「力」に周囲が気づくと、神の使いの巫女として崇められ祀りあげられ土地の習俗から女として育てられた。が、長ずるにつれ畏怖され、しまいには勝手な大人たちの都合で「鬼」と呼ばれ血縁からも厄介者扱いされていた十二歳のルーを引き取ったのは、商用でその地を訪れていた伊織だった。
ルーは伊織に心から感謝していた。伊織の言うことならどんな汚い仕事も手掛けた。が、今のルーはかつての想いを恋であったとは思いたくなかった。ルーには頼れる者が彼しかいなかったのだ。ルーは愛されているのだと思っていた。いや、伊織に愛されていると思いたかった。
―伊織さんはどういうつもりなんだろう。だけど何があっても繭良は私が守る。もし繭良の恋がうまく行くなら、それはそれでいい。日夏が繭良を守るべきものとして見てくれるなら。
 繭良の「光」が急速に失われていくのを、ルーはこのところ、感じていた。
―それは仕方のないこと。
そう、思いつつもルーにはそれが口惜しい。けれど成長の一過程の証でもあるその現象は、期間を経過すればまた、違う光を放つこともルーは心得ていた。今が少女にとって最も残酷なときなのだ。繭良の鰐笛も最近、音に『冴え』がない。
 古代、巫女が処女であることを義務づけられたのは、恋をすることでそのコンパスが狂うためである。しかし、それより時代を溯れば巫女は幾多の男性を相手とする娼婦であった。ただ、巫女兼娼婦は恋ではなくその肉体と能力を与えるのであるが。
 自身をニュートラルな状態に置けない巫女はその資格を失う。巫女が娼婦であった時代でもそうであっただろう。恋に狂えば「女」はオニになり、巫女でもなければ「ひと」でもなくなる。
―でも『愛される』ことを知れば別だったんでしょうね。
 恋することと『愛すること』はルーの視点からすれば別の問題だった。『恋』は成就か終わりを乗り越える事なくしては新たな光を生まない。ルーはそう考えていた。果たせぬ想いは「ひと」をオニという種族に変える。練れた者であれば変貌してしまう自己と折り合いをつけ、その『火』の尽きるまで「ひと」としての皮を被って「ひと」として振る舞うのだろう。
『恋』を感じるや否や『裏切り』を知り、長らく心を閉ざしたルーにとって、今の繭良は羨ましくもあり、痛々しくもあった。しかしルーは気づいていない。自身に巣くう『嫉妬』という感情を。冷徹な目で繭良の淡い恋を見つめつつ、無意識のうちにルーは喪失感への恐れを抱いていた。

 結也、お前は覚えているだろうか? ヒナ姉さんはいっとき、俺たちを捨てた。
 あのとき、ひな子姉さんは泣いてばかりいた。俺はヒナ姉さんをなぐさめようと必死だった。ヒナ姉の好きな花を摘み、ヒナ姉の好きなお菓子を調達した。でも彼女は泣きやまなかった。お前は覚えているか? 姉さんがはじめて愛した男を。あんな奴でも姉さんには宝だったんだな。いや、あいつを思う気持ちが彼女の宝だった。あのときの姉さんを思い出す度、俺は身震いする。泣き腫らし吊り上がった目。燃えるような波動。あのとき姉さんは「ひと」ではなかった。
 俺は姉さんは鬼に憑かれたんだと思った。子供の考えることさ。
 子供だったのさ。
 結也、俺がやらなきゃお前がやってたかもな。
 姉さん、姉さんは結局は「我欲のオニ」から「ひと」に戻ったよ。確かに。でも俺にとっては姉さんは鬼さ。
 愛しいといい、恋しいといい、うらめしいといい、なのに何故、奴の葬儀から帰ったあと、あんたは笑っていたんだ? 泣きながら、なんで笑っていたんだ? 
 そして姉さん、あんたは数年後に生涯の伴侶を迎えた。いともあっさりと。義兄さんには感謝しているよ。鬼を封じこめてその上シアワセにしてくれたんだから。
 結也、お前だけは知っていたかもしれないな。俺の鬼退治を。

浅い眠りのなか、伊織は姉、ひな子の笑顔を見ていた。その笑顔は急激に幼いものへと変貌し……繭良の顔になった。伊織はうっすらと目を開け、起き上がった。
―同じタマゴから生まれたのに、どうして俺たちはこうも違うのだろう? 
『一卵生の双子と言っても遺伝子の発現率は違うんですよ』
 試験管とシャーレに向かう研究員は伊織の問いかけに笑ってそう答えていた。センターBに赴いたとき、伊織は何気なく研究員に聞いたことがある。
『僕には双子の兄貴がいてね、でも性格とか、全く別なんだ』と。
―他人のほうがコピーらしいなんてね。
 ベッドでルーが寝返りを打つ衣ずれの音がする。
―あいつは俺さ。これはひとつの実験。そして……。
 夕食の席で、繭良ははしゃいでいた。ように見えた。
 伊織と会えた時、繭良はいつも無邪気に彼に向かって微笑んでいた。しかし今日は今までとは違う、しっとりとした笑顔を浮かべ、はにかむ仕草さえ見せていた。伊織と顔を会わせる喜びは十分に伝わったものの、伊織は消えて行くかに思えたあの、残酷な気分が蘇るのを感じずにはいられなかった。
―あっさり恋なんぞ覚えたな。
 細い葉巻に火を点け、伊織は窓辺に立った。
「あなたが何を考えているのかわかりません」
ベッドに横になったままのルーの声が伊織の背に投げられた。
「ああ。アタマで考えることじゃないからな」
「リクツじゃない、というやつですか」
「いや、わからん。『子供の考え』だしな」
「何言ってるんですか」
「『永遠の少年』なのさ。俺はね」
 ルーは無言で返答した。
 群青の空。月は冴えざえと明るい。
 日夏はなついてくる繭良を邪険にはしなかったが、自分から彼女へ何らかのアクションを起こすということもしなかった。しかし、繭良はそんなことなど見えてはいないように、日夏をかまい続けて弦の音をねだっている。
 ただ、ルーの恐れる二人のセッションを、繭良が提案することはなかった。
 葉巻をふかす伊織の背をうっすらと開けた目で眺めながら、ルーは楽器という媒体を使わないで日夏と「ひと」同士でのつながりを求めたいという繭良の気持ちを、この男が知ったら何とコメントするだろう? と思った。
―笑う、かな? いつものように。
 疲労が足元から這い昇りルーの躰を包んでいく。ぼやけた伊織の広い背中を見つめるうち、ルーがとろとろと眠りに引き込まれようとする刹那。
「ルー」
 静かな、しかし厳しい伊織の声に、ルーは、はっと目を覚まし枕の下から小型のデリンジャー銃を取り出すと、裸の上にバスローブを羽織って伊織に駆け寄った。
「すみません」
「いや、いい。普段なら大丈夫なんだけどね。シールド、今回は危ないかもな」
「それって」
「時々いるんだよなあ。波調の変わってる奴。俺は自分で支度するからさ、お前、あいつら連れて来てくれないか?」
「はい」
 ルーの行動は迅速だった。繭良を叩き起こし、日夏に非常事態を告げ、自らも装備に身を固めてふたりを連れてリビングルームへと走った。リビングには一体、どれほどの速度で動いたのか、きっちりと身支度を整えた伊織が既に待機していた。
「お、早いな。でもここは危ない。エントランスホールへ行こう」
「もっと危ないじゃないですか!」
「フツー、真っ正面からくるかい? もし来るんだとしたら余計お出迎えしなきゃいかんだろ?」
ルーの抗議に伊織はつらっとした声で言う。
「……あなたを、信じてますから」
「ルー、そんなに俺、信用ないかな?」
 情けない調子で冗談のように話しつつも伊織の両眼からは厳しさは消えて居ない。
「日夏。龍頭琵琶、持ってきたな」
「ええ」
「俺が合図するまで弾くなよ」
「了解」
「あー、いいねえ。その張り合いのない声。ルー」
続け様にルーに指令が下る。
「鰐笛は?」
「……一応、でも」
「スタンバイしとけ」
「でも……」
ルーの躰には既に銃と火器がぶら下がっている。それでは足りない相手なのだろうか?
「万が一のためだよ。繭良に持たせとけ」
「え?」
一瞬、ルーがびくりと躰を震わせる。
「繭良に荷物番、してもらえ」
「……はい」
安堵から息を深めに吐き出したルーは、まだ寝ぼけまなこの繭良に鰐笛のケースを渡し、準備を頼んだ。状況のよくつかめない繭良だったが、その緊迫した空気に無理やりにアタマの中を起こそうと必死になった。
「ここで食い止めるぞ」
伊織の表情に楽しげな色が宿るのを、ルーは見逃さなかった。
―思春期の女の子がここにひとり居るってこと、忘れないでくださいね。スプラッターは御免こうむりますよ!
ルーは心のなかで祈るのみだった。
「近くなってきたな」
 そのときルーは気がついた。建物の構造上、このエントランスホールがいちばん気配を関知しやすいことに。また、この場所のスクランブルの強さに。
 不可解な鳴動が、四人の足にじわりじわり迫ってきた。
「ゲート付近、シールド破損」
ルーが感知した波動を報告する。
「間もなく来ます」
「きちんとこっちを捜して『追って』いるようだな。繭良、下がってなさい。日夏、繭良をガードしろ」
「はい」
目をぱちくりさせている繭良を片腕で庇い奥へと退くと、日夏は後衛に回る態勢をとった。
「ゲート、第二段階突破」
早口でルーが告げる。
これまでも伊織を狙う連中を相手にしてきたが信じられない事態だ。
「やるねえ」
 伊織はクラシカルな模様の描かれた、筒が長めの銀色の銃に弾をこめ、確認した。
「伊織さん、それ」
緊迫する状況下、ルーが半ば呆れ驚きの声を上げる。
「ライフルじゃ、感じ出ないだろ?」
「ゴシックホラーじゃないんですから!」
「おもてなしさ。それ相応のね。信用していいから」
 ルーもマガジンラックを素早くチェックし、マシンガンを構えた。
 波動は鳴動となり振動を起こす。それは急にスピードを上げ、床下を波立たせた。
「ゲート、第三、第四、突破。あとふたつです!」
「わかった。もう黙ってていいぞ。ルー」
 伊織は一歩ドアへと踏み出した。
張り詰めた空気が幾重にもエントランスホールに見えない糸をはりめぐらせていく。
「きやがれ」
伊織の口元に笑みがのぼる。大きな獣の駆け足の音が天井に届くまでになった。

バアンンッッッ!

 鍵を破壊されたドアが激しく開く。
 月明りを背に照らし出されたのは、馬ほどもある一頭の巨大なオオカミだった。
紅に燃える目をして猛り狂った狼が、白銀の毛皮をなびかせ伊織目がけて躍りかかる。

ドンッ! 

一発の銃声とともに太い、人間の男の悲鳴が、ホールにこだました。
ホールの床で。額から血を流し舌をだらりと垂らして横たわる巨大な狼の姿を、伊織は見下ろしていた。
「ゴシックホラー、ごっこ。おしまい。銀の弾丸までプレゼントしたのに礼もなしか」
「これは……」
 銃口を下ろし、ルーは絶句した。
「本体も、もう駄目ですね」
言い終えて、ルーははっと後じさった。
「まだ、息がある」
伊織は銃口を狼に向けた。
「オレハ……」
荒い息の下、血まみれの犬の口から男の声が漏れる。
「オレハ……」
「いちいち聞いてるとね、キリないから」
伊織は引き金を引いた。
「え?」
弾丸は一発ではなかったはずだ。しかし、弾丸は発射されない。ガチャガチャと引き金を引く伊織の耳に、水晶を思わせる冷たく、美しい音がひたり、と流れ込んできた。
 ホールに、フェイドインしてきた音は、鰐笛のロングトーンだった。
「繭良!」
ルーが悲鳴と同じく叫ぶ。
「繭良! まだ危ないの! やめて!」
ロングトーンはゆったりと流れる水のようにひたひたと床にその音を滲ませて満たす。
「繭良!」
しかし、ルーは動けない。伊織も狼から目を離さず銃を構えたままだ。
 鰐笛は徐々に旋律を刻んでいった。それは「切ない」といってしまうには簡単すぎる「切なさ」を含んだ音色だった。ルーは胸の締め上げられる思いのする音を耳に入れまいと必死だった。
―さいごぐらい、いわせてあげて。
音はそう言っていた。繭良は狼を見つめ鰐笛に息を吹きいれている。
 床に倒れた狼が、かすかに微笑んだ。ルーは機関銃の先をぐいと前へ突き出す。狼の大きく裂けた口がわずかに開く。
「アア……。ナニヲイウベキカ、モウカタルモノナドドウデモイイ。ココマデダッタノサ。ソイツハユルセナイガ、オレはココマデサ。オレガノベオクリヲサレルナド、オモイモヨラナカッタ……オレガ……」
狼の紅い瞳から大粒の涙が流れる。
「アリガトウ……」
 繭良は慎重に、鰐笛の旋律を押さえていき、ロングトーンをフェイドアウトにきりかえていった。その矢先。

びいんんんっ!

テンスの強く張られた龍頭琵琶の鋭い音に、獣の巨体がはねあがった。
「ウアッオオオオガアアッッッ!」
空中で断末魔の叫びを上げ唸りながら獣はホールの床に落下し、そして今度こそ絶命した。
「あれだけおしゃべりすればいいだろ」
日夏は淡々と龍頭琵琶からバチを離した。そして、繭良は……。
「あのままでも死んでいったのに……」
ぽろぽろと繭良は涙を流していた。まばたきもせず。しくしくと、鰐笛を携えたまま、繭良は泣き続けた。
 そんな繭良に投げられたルーの言葉は厳しかった。
「繭良。騙されたかもしれなかったんだよ。伊織さん、殺されるかもしれなかったんだよ」
「……」
繭良はうつむいたが、謝罪の言葉を発することはない。
「あなたのやさしさが、伊織さんを殺していたら、どうするつもりだった?」
 繭良から伊織の顔に目を移すルーの目は潤んでいた。とまどい、かなしみ、怒り。それらすべてがいっしょくたになった目で、ルーは伊織に訴えかけた。が、やはり伊織の気持ちがそれで変わることはなかった。
「お仕置きだよ。繭良。仕方ない。わかるね?」
あくまで伊織の通告は柔らかかったが、繭良はまだ泣きやまなかった。
 狼の亡骸はかなりの時間をかけて薄らいでいった。最後に残った目玉はもう燃える紅ではなく、薄茶に変わっていた。最期の最期まで残った涙の小さな水たまりも時間をかけて干上がっていった。

『申し訳ございません』
 電話の向こうで班長が頭を下げている様子が目に見えるようだった。
『本来ならば直接お目にかかってお詫びするべきですが……』
「あー。いいよ。忙しいだろ? エントランスは掃除屋に任せて、君らは来なくていいからさ」
『何とお詫びしたらよろしいのか……』
「いいって。いや、よくないけど、僕は今、機嫌がよくないんだ。今回のことはまた改めて」
『あの……』
 葉巻をひと吸いし、一方的に伊織は電話を切った。
「本体に気をとられすぎたんでしょうね。……わかりきったことですけど」
 弁護するつもりはなかったが、ルーは感想を述べた。伊織が忌々しげに言う。
「まれにああいう奴、いるからねえ。特攻カミカゼみたいなの。本体ヌケガラにして馬鹿だな。ハンターたちも苦戦したようだね。それにしても……」
リビングに重苦しい沈黙が落ちてくる。伊織が口を開いた。
「まあ、日夏も命令無視だが、よしとしよう。でも、繭良」
 ソファーの上で、繭良の細い肩がびくんとはねた。
「ごめんなさい……」
繭良はうつむき、震えている。繭良と並んでソファーに腰かけていた日夏が口を開いた。「眠い」
「日夏……」
ルーを遮り、伊織は日夏に自室に戻ることを許可した。
 日夏が退出すると、伊織は繭良の前に屈み込み、顔を覗き込んだ。
「怖かったのかい?」
繭良は首を横にふる。
「哀れだったのか」
繭良は頷いた。
「お前、まだコドモなんだよな。繭良」
ふたりを見下ろすルーは、自分が責められている錯覚を感じていた。
「コドモってそうなんだ。そりゃ仕方ないさ。繭良、でも僕はお前に罰を下す。そうでもしなきゃお前のようなコドモにゃ、わかんないからな」
繭良は泣きはじめ、頷いた。
「大人になることだな。まずは」
繭良は「ごめんなさい」を繰り返し伊織の目を見返そうとしない。
「お前の鰐笛、良かったよ」
ふっと繭良が、そしてルーまでもが顔を上げた。
「大人になろうな、繭良。コドモはみんなちいさなオニさ。大人になって「ひと」になればあの音も変わる。もっと良くなる。それに嫌でもコドモは大人になるんだから」
 やさしい口調の伊織に、繭良は新たな涙をこぼす。
「まあ、そう泣くな。一生分、泣く気かな? とりあえず一週間、謹慎。いいね」
繭良は頷いた。
 伊織に繭良の鰐笛を聴かれてしまった。ルーの思いは千々に乱れ、ルーは心の整理と冷静さを必死に取り戻そうとした。
 繭良は自室での謹慎を命じられ、ルーと日夏とも共に食事をとることさえ禁じられた。繭良は一日の殆どを自室のバスルームで過ごし「ごめんなさい」と呟き続けた。ただひとり繭良の部屋への出入りを許されたルーは見ていられなかった。
―たかが一週間。でもつらいでしょうね。日夏に会えないんだから。
『とりあえず』一週間、と伊織は言い、翌日には屋敷を後にした。
―『とりあえず』。ってそれで済まして忘れてくれないかな。あのひと、気まぐれだし。
ルーは浴室のドアを開けた。繭良は浴槽に身を沈め、ぼうっとしている。
「繭良、そんなにお風呂にばっかり漬かってたらふやけちゃうよ」
「さむいの」
「え? エアコン、調子わるい? それとも体調悪いの?」
「よく。わかんない」
「伊織さんは商売柄、逆恨みされやすいの。ウラミってのはね、そりゃあしつっこいんだから。でも伊織さんは私たちを守ろうとしてたでしょ?」
「うん」
「だから、もうあんなことないって思いたいけど、よく考えるように、ね」
「うん」
 ぱちゃんと水音をさせて繭良は肩まで浴槽に沈んだ。
「さむい」
「日夏に会いたい?」
繭良は無言だった。
「あいつはあなたに怒る筋合いないし、嫌われてなんかいないよ」
「そう?」
「もう少しで会えるから、それまでホリデーしてなさい」
「伊織さんは?」
どきんとルーの胸が鼓動を打つ。
「うーん。怒ってるでしょうけど、あのひともすーぐ何でも忘れるからねえ。でもあなたを大切に思う気持ちは変わらないと思うよ。謹慎で済んでるしね」
「あたし、どんな罰でも受ける……」
「繭良、あなただって理由のあったことだもん。反省はするべきだけど、ご飯だけはちゃんと食べてね。今日のお昼、オムライスだよ。テーブルに置いておくから冷めないうちに食べるんだよ? いいね」
「うん……」
「あと1日だからね」
「うん」
「あとすこし……」
 浴室のドアを閉め、ルーは繭良の部屋を出ていった。
「どんな罰でも受けるから……」
湯に小さな躰を浸し、繭良は両手で自分の肩をかき抱いた。
「日夏、伊織さんから何か言われた?」
ルーは日夏の部屋に居た。
「別に」
「そう」
「あんたさ」
「何?」
「あのちびっこが大切?」
「ええ。娘みたいなものだからね」
「娘、ねえ」
「わかった。正直に言う。それ以上だね。日夏は?」
「俺?」
「あの子、あなたのこと気になってる。私が言うことじゃないけどね。日夏は?」
「あのちびっこが……」
「あなたの気持ちは?」
「さあ……」
「『さあ』って。まあ、そうよね。本人同士の問題よね」
「俺とちびっこの?」
「あなたと『繭良』の」
「ああ、マユラね」
 日夏の部屋の電話が鳴った。電話をとった日夏に背を向け、ルーはそこから出ていった。
「あ、はい。わかりました。あ、いや、そうしろっていうなら」
電話の向こうでは、男の声が笑っていた。
 繭良の謹慎最後の晩だった。
繭良にとって長かった一週間が終わろうとしていた。自分のしでかした罪の意識は胸を冷たくさせたが、もうだいぶ落ち着きを取り戻している。
―あしたになったら伊織さんにメールしよう。これからは伊織さんのためになることとか、伊織さんが喜ぶこと考えよう。
 繭良はバスルームから出ると髪を乾かし、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
―ルーの喜ぶこと、そして日夏の喜ぶことも、いっぱい考えるんだ。鰐笛も稽古もはやくしたいな。
 まどろみのなか、繭良は遠くでノックの音を聞いた。
―ルー?
 繭良はピンクのふんわりしたガウンを羽織り、ドアを開けた。
「ひなつ……」
 龍頭琵琶を片時も離さない日夏は、今も琵琶を携えている。
 狼にとどめを刺した光景が蘇り、繭良は身震いしたが、ためらいつつ繭良は日夏を自室に招き居れた。
「椅子、座って。日夏。今、お茶でも入れるよ」
日夏は無言だった。
 普段から無口な日夏だが、繭良に紅茶をサーブされる間も一言も発しない。繭良は震える手でカップに紅茶を注いだ。
「ねえ日夏、何か用事、あったんじゃない?」
やっと日夏が口を開く。
「あのさ」
「うん」
繭良の鼓動は早くなっていく。
「お前、カミサマって信じる?」
 いきなりの奇妙な質問だった。
「うーん……。神楽とか能とかやってるけど、見たことないし」
間抜けな返答だと、繭良は思った。
「日夏はどうなの?」
「考えたこと、ないな」
「何で……そんなこと訊くの?」
「『神はみずから助くるものを助く』って、ことわざ、あるよな。あれって何だろうって思ったんだよ」
「他力本願じゃだめってこと、かなあ? 私もよくわかんない」
「だよな」
「でもね、カミサマってよくわかんないけど、運命もよくわかんないけど、宿命って、あるような気がする」
「宿命?」
「使命、みたいな。そのひとそれぞれの存在の意味とか……」
「存在の意味?」
「うん」
日夏は紅茶に口をつけると、言葉を継いだ。
「『ある』じゃなくて、それはお前の願望じゃない?」
「……そうかもね。でも、でもね、『使命』とは違うけど、私にとって……日夏は意味のある存在で……えーと」
もう繭良は自分の言っていることの目茶苦茶さに消えてしまいたい思いだった。
「『好き』ってこと?」
「あ……」
顔から火が出そうな恥ずかしさに繭良は日夏から目を逸らした。
「『好き』ってこと? 『アイシテル』ってこと?」
「それは……」
絶え切れず、繭良は席を立ち、カーテンに手をかけた。
「今日は曇ってるね。月も星も見えないや」
ね? 日夏と、振り返ろうとした繭良は両の肩から腕にかけて激しい痛みを感じた。
「いた、あっ!」
悲鳴と同時に繭良はベッドの上に投げ出された。続けて固い重みが全身にのしかかり、おそろしい程の力で両手首を頭上に押さえつけられた。
「ひな……つ……?」
繭良は目をみはった。日夏の目は凍て付く色で繭良を見下ろしていた。およそ人間らしさを感じさせない日夏の様子に、繭良は驚愕と恐怖にまみれ急激に喉の乾きを覚えた。
「俺、お前を愛せないから。お前だけじゃないけど」
「ひなつ、私、こんなの私の望んでることじゃないよ」
「あ、そうだ。伝言。『お仕置だよ』だって」
繭良の両眼が燐光のように、いや、燐光と呼ぶには激しく青色に光った。ゴウと風が天井から日夏の背中めがけて渦巻き落ちる。しかし、風は日夏の背でバシッと音をたてて弾け飛んだ。繭良の躰が一瞬、力を失った。
「目、開けてろよ」
繭良は恐怖に目を見開く。覆い被さる日夏の髪が繭良の頬に触れると、部屋中がバキバキと軋み音を立てた。カーテンは裂け、壁には亀裂が入り、ティーカップは割れて弾け飛び、鏡も同様にひび割れて粉砕された。しかし日夏は全くの無傷だ。
「なぜ、俺を攻撃しない?」
日夏の囁きが繭良の耳元をなぶる。
「なぜ?」
「そんなの……できるわけ……」
焦点の合わなくなった繭良の視界が滲んで歪む。
「……ゆるして……」
「だから『罰』だって」
「ゆるして……」
 少女の哀願が室内を揺るがす。荒れ狂う風が舞い、部屋中の物がことごとく粉砕されてゆく。日夏と、彼の龍頭琵琶を除いては……。

 ルーは跳ね起きた。体中に汗が滝のように流れている。ルーはガウンを羽織り、自室を飛び出した。そして繭良の部屋へと疾走した。廊下には物音ひとつ聞こえてこない。ドアの向こうで『何か』が暴れ狂っているのはハッキリとわかるのに、繭良の部屋のドアはびくともしなかった。合鍵を差し込もうとすると火花が散り鍵を開けることもできない。たまらず、ルーは叫んだ。
「繭良! どうしたの! 繭良!」
―きこえる。きこえてくる。繭良、泣いてる。繭良、叫んでいる!
「繭良! 返事をして! 繭良ああっ!」
泣き叫びながら、ルーは扉を叩き続けた。しかし、応答はない。
「繭良! 返事をして! 私を『呼んで』! なんであなた『助けて』って言わないの? どうして? 私に『たすけて』ってどうして言わないの! 私を求めてくれないの!」
 閉ざされた扉にもたれかかり、ルーはそのまま廊下にずるずると泣き崩れ落ちた。
―どうして……。あなたはあなたの痛みすら私に預けてくれないの? 
愛した人間に傷つけられる痛みと悲しみを、ルーは誰よりも理解しているつもりだった。だからこそ、繭良を救いたかった。
―でも……。繭良は救いを求めていない。
 絶望は、ルーにひとつの選択をたたきつけた。

―いたい。いたい。いたい。いたい。いた……い……い……たい……。痛い。
 乱れた姿のまま、目を開いている繭良はぴくりとも動かない。ベッドから起き上がり身支度を整えていた日夏の目に、ぐしゃぐしゃのシーツの間に付着した茶色く変色しかかった血液が飛び込んできた。
「生理?」
微動だにしない繭良の答えを待たずに、日夏は龍頭琵琶のストラップを肩にかけると繭良の部屋を出た。
 日夏は足を止めなかった。廊下の突き当たり、そのあたりから凶暴な念が彼を待ち受けている。日夏の背で、龍頭琵琶の弦が微かに震え、びいん、と暗い音を立てた。念は濃く、どろりとした感触はひと足ごとに次第に強まり日夏の足に絡みついていく。日夏は歩調を緩めなかった。
 廊下の突き当たりには、鬼の形相のルーが待ち受けていた。
「はやく繭良のもとには行きたい。でもその前にやることがある。繭良の近くでは駄目。だからここに居たの」
 怒りに震えた声の奥では、低いうなりが響いている。
 ルーの背後では、長い躰の『獣』がうなりを立てていた。
「ああしろって、言われたから」
 日夏の言葉に呼応してルーのかわりに紅い口をがっと開き、牙を剥いたのはその背後で天井まで届く巨大な『龍』だった。
「白い龍。はじめて見る」
日夏は龍頭琵琶を構えた。
「伊織さんに言われたんだ? それで繭良をあんな目に遭わせたんだ? ひどいことするね。日夏」
「あんただって……あのおじさんのコマだろう?」
 白い『龍』が再び吠え、空気がビリビリと震える。琵琶の弦ががらんがらんと反応し、不気味にその音は廊下に反響した。
「時間が惜しい」
 ルーはすっと右手を上げた。
「なら、やめろ」
 日夏が言い終わらないうちに『龍』はとぐろを解き、咆哮を上げ鋭い鉤爪を振り上げ日夏に襲いかかった。

びぃいいいんん! 

 日夏の龍頭琵琶が唸りを上げた。日夏の鼻先で、『龍』の爪が空を切る。
「時間が惜しいならやめろ。その『龍』は『珠』を持たない。あんたに俺は倒せない」
『龍』の爪が日夏の上に再び振り下ろされた。

びぃいいいいん! ギギッギイイインン!

 全く動かない日夏の前で、爪はまたしても空振りした。
「あんた、何なの?」
「俺もわかんない」
『龍』の攻撃は全て無に帰してしまう。ルーは唇を噛んだ。
「きりがないね」
琵琶のバチの動きとともに。確かに、日夏は弦を鳴らしたはずだった。
―音、音がしない……! 
 意識を失ったのはほんの束の間と思えた。日夏の姿は既になかった。
 ルーは床からよろよろと起き上がった。動く度全身の骨が軋む音がする。なんとか立ち上がると、ルーはゴボゴボと血を吐いた。
「まゆ……ら……」
 口元の血を手のひらでぎゅっと拭うとルーは血まみれでよろめきつつ繭良の部屋のドアを開けた。ドアは簡単に開きルーを受け入れた。
「繭良、まゆら……」
 徐々に、繭良の視界がしっかりとした像を結んでいく。繊細なガラスを扱う手つきでルーは繭良を抱きしめ、声をかけ続けている。
「ルー?」
「かわいそうに。繭良。かわいそうに……。何であなた『助けて』って言わなかったの? どうして……こんなに……」
「ルー、私は望んでいたのかもしれない」
「繭良?」
「日夏は私を『愛せない』って。フラれちゃった。でも私はこんなカタチでも彼とつながりたかったのかもしれないよ」
「ちがう。ちがうよ、繭良。自分にウソつかないで。それで楽にはならないよ」
「ルー!」
突然、繭良はルーの腕から逃れようとした。しかし、ルーはしっかりと繭良の肩を抱く。
「ルー、私にさわっちゃだめ! 私、キタナイよ。すっごいキタナイんだよ。きっと、私は……日夏と寝たかったんだ。そうだよ。きっと!」
「繭良!」
 暴れる繭良をルーは逃そうとしない。
「ルー、だめだよ。ルーにまでキタナイのがうつっちゃうよ! 私、すっごいキタナイよ! ほんとはすっごく汚い女なんだよ! だからルー! 私から離れてえ!」
「繭良、落ち着きなさい! そんなこと言わないで! 汚くなんかない! 繭良は絶対、何があったって汚くなんかない! たとえ本当にセックスしたかったって思ってたって何が悪いの? 愛する男と寝たいっていう事の何が悪いの? それは自然なことでしょう? 悪いのは……身勝手な考えでひとを傷つける奴だよ。あなたが誰を傷つけた? 傷つけられたのはあなたのほう……」
 そこまで言ってしまってから、ルーは繭良の動きが止まったことを確認した。
「ルー……」
 ゆっくりと薄茶の目がルーの切れ長の黒い瞳を見つめ返す。しかしその目は急速に焦点がずれていっている。ほどなく再び繭良が暴れ出すことを予感したルーは、繭良の額に手を当てた。がくり、とルーの腕の中で繭良が頭を垂れた。
 ぐったりとした繭良の躰を、ルーは痛む両腕で抱え上げた。
「繭良、私の部屋で眠ろう」
 意識のないはずの繭良の目から、一筋の涙が流れ落ちた。

「丁重に詫びてお咎めはナシだったが。信用はガタ落ちだな。まさか榊伊織邸の警護が破られるなど前代未聞だからな」
沈鬱な面持ちなのは班長だけではない。
「まあ、過ぎてしまったこと。とは言いたくないが、以後、更なる注意が必要だ。私も含めて、な」
 靭彦は隣で小刻みに震えているショーコに目を向けた。彼女の恐怖は、まだ続いている。
「解散」
 チームの面々は無言のまま、ぽろぽろと会議室から出ていき、ショーコと靭彦だけがその場に残っていた。
「ショーコ」
 靭彦はポケットから煙草を取りだしくわえると火を点けた。
「怖かったんだろ?」
「……うん。あんなのもいるのね。何か、アタマがおかしくなりそう。私たちはターゲットを追った。追い詰めた。追い詰めたと思った。でも……人間の身体からあんな化け物が出て……」
「忘れろ」
「でも」
「仕方ないだろ。滅多に出ないんだからああいう手合いは」
「私……、私、わかんない。あんなの相手にしなきゃならないなんて」
「ショーコ、広い意味じゃあ俺も同類なんだぜ?」
 靭彦は優しい口調だった。
「……ユキ……ごめんなさい……。そんなつもりじゃ」
「俺だって『あんなの』なんだ。俺が……怖いか?」
「ユキ、ごめん。ごめんなさい」
「謝ることないさ」
「でも、ユキ、ユキはちがう。やっぱり違うわ。この前の『あんなの』とは」
 ふたりは視線を合わせた。靭彦はどうしても見ないようにはできなかった。ショーコの瞳の『ゆらぎ』をそして『怯え』を。
「ユキ、私をきらいにならないで」
「ショーコ、安心しろ。俺はお前を『愛している』」
 靭彦の言葉にショーコは久し振りに笑顔を見せた。
―それにしても。
 訝しんでいるのは靭彦だけではないはずだった、いや、班長は知っているかもしれない。
―ターゲットが命を賭して挑んだ相手……。奴は民間人だろ? どうして無事だったんだ?
 短く切られたショーコの柔らかい髪を撫でながら、靭彦は疑問を頭から拭い去る事はできなかった。

 悲劇の翌日、日夏は姿を消していた。
「ずいぶん、遅かったですね。こんなに連絡がつかないことなんてなかったですね」
 押し殺そうとしても怒りは隠しようがない。ルーは包帯の巻かれた拳を、かたく握り締めた。
「お前、日夏にかなりやられたみたいだな。大丈夫か?」
「私の躰は問題ありませんが。繭良は重傷です」
「部屋、派手にやったなあ。あれ、繭良だろ? 自分も壊したちまったのか?」
「伊織さん!」
 だん! とルーは足を踏み鳴らした。伊織は動じる風もなく、葉巻に火を点ける。
「俺もさあ、鬼だなあと思うけどさ。あいつ、相当な罰がなきゃ一生俺に謝り続けてたぜ? それもかわいそうだろ?」
―あなたに繭良の何がわかるって? 
 言葉にしたつもりはなかったが、見透かしたように伊織はルーに向かって酷薄な笑みを投げた。
「そういう子だよ。俺はやりすぎたとは思ってないぜ。ところで繭良は?」
「部屋を移って……。しばらくは皮膚のすり切れるまでずっと躰を洗う行為が続いてましたが……一日数回、私が『治療』を施して今は落ち着いてます」
「ふうん。ヒーリングご苦労さま」
「繭良は……。翌日から全く元気に振舞いました。私の前ではですが。学校は休ませています。本人は行くと言い張ってますが……。まだ『治療』が必要ですから」
「大変だねえ」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「自業自得だろうが」
 伊織が厳しい目でルーに向ける。
「伊織さん、そんなに繭良を許せないんですか?」
「あれは『しつけ』だ」
 珍しく伊織が感情を露わにさせはじめている、ルーの思惑どおりだった。
「あなたが許せないのは繭良じゃない」
「だから許せる許せないとか、そういう……」
「ひな子さん。彼女に似てるからですよね? あなたのお姉様に。だからあなたの怒りは度を越したんですね」
 伊織の動きがフリーズした。
 時が止まった室内の中、葉巻の灰は灰皿ではなく床にぽとりと落ちた。
「お前さ、プライバシーって知ってる?」
「やむをえないでしょう」
「何でヒナ姉さんが出るんだよ」
 ルーは大きく息を吸い込み、呼吸を整えた。
「伊織さんの心の問題ですから」
「じゃあ、余計なことを言うんじゃない」
「私には、ひな子さんに対するあなたの本当の想いはわかりかねます。ですが伊織さん。繭良は彼女に似ている。あなたはそんな繭良をこんな風に扱う。最初は……愛情だと思ってました」
 伊織は床の上に葉巻を落とし、じゅうたんに焦げ目ができるのも構わず皮靴の先で揉み消した。
「伊織さん、これはあなたの復讐ですか? ひな子さんに対しての?」
―繭良! 私の声がきこえる? 
 伊織の大きな目が更に大きく見開かれる。その瞳はギラギラと黄色く光り、光は伊織自身を包んでいった。
「余計なこと言うね」
 ルーの頬に熱い痛みが走った。鋭く走った光に切り裂かれた青白い細面の頬から、血は玉を結んで滴ってゆく。
「余計なこと? たいせつなことですよ」
不敵な笑みを浮かべ、ルーは一歩前へと踏み出した。
 なおも黄色い光の矢が走り、ルーの服の上から肩が、腕が、足が切り裂かれる。
「俺は兄貴ほどじゃないが……まあ似たようなもんだ。お前、知ってるだろ?」
「ええ」
 ルーは袖口からスライドさせたデリンジャー銃を手に握り、真っ直ぐにその銃口を伊織に向けた。
「ルー、お前を失いたくない。それを引っ込めるんだ」
 しかし伊織の手にもいつの間にか銃が握られている。
「コルトガバメント。意外と可愛い趣味してるんですね」
「この前のは特別。コルト、可愛いか? 戦場で使われたやつだぜ」
「ええ。でもコルトタイプは可愛らしいラインだと思いますよ。可愛らしさではデリンジャーには負けますけどね」
「ちっちぇえよなあ。繭良みたいだ」
「あなたの思う通りにはさせません」
ルーの躰が白く発光する。
「ふうん。俺のために『龍』まで使ってくれるのかい?」
 伊織はコルトをルーに向けた。
 ふたりの間で白と黄のふたつの光が距離を縮めていく。
「伊織さん、あなたが繭良を手元に置いた目的は何だったんですか?」
「銃を下ろせよ。ルー」
「いやだと言ったら?」
 銃声は一発だった。
―繭良、私の声がきこえる? 
「ルー?」
 自室は破壊してしまったためルーの部屋で寝起きしていた繭良は、読んでいた本から顔を上げた。
―繭良、そこに鰐笛あるよね? それからその横にあるバッグそれを持って! 早く!
「ルー、ルー、どうしたの?」
―時間がないの。繭良、逃げて!
「逃げる……って?」
―お願い。言う通りにして!
「う、うん……」
―これからあなたを『紋白』のところへ『送る』から。私とリンクして!
「リンクって……」
―私の事を考えるだけでいい! 
繭良は大きなボストンバッグを肩にかけ、鰐笛のケースを胸に抱いて意識を集中させた。
―『とばす』よ!
 瞬間、繭良の全身は、掻き消えた。

「最期の力まで使い果たしたか……」
 伊織は立ちつくしたまま、寂しげな表情を浮かべて床に打つ伏すルーの躰に目を落とした。伊織の傍らに浮かぶ黄色く発光する大きな犬は、弾丸をプッと吐き出すとフッと消えた。倒れたルーの躰はどんどん小さくなってゆく。子供のような大きさになり、赤ん坊のようなサイズになり、そしてすっかり……服のなかに『ルーであったもの』は埋もれた。
「お前を失いたくはなかったよ」
鋭い鉤爪が伊織の指先を裂いた。
 爪は母親の乳を求めてまさぐる赤子のようにルーの服の中をごそごそと這い、何かをつかみ取り出した。鉤爪と白い鱗の……一本の手だけの『龍』は愛しげに、そしてしっかりと丸い透き通った美しい珠を爪の間に挟むと素早くするりと天井をすり抜け、その向こうへと昇っていった。天上のはるか遠くから響く嘆く獣の声を耳にしながら、伊織は裂かれた指に滴る血を、舌で舐め上げた。
「目的ねえ? 自然のなりゆきかなあ? 兄貴……結也、お前はどう思う?」

蝶の家の章

10

 眼前に広がる景色は、見知らぬ場所だった。
―どうしよう。
陽はどんどん暮れてゆく。気がつくと繭良はバッグと鰐笛のケースを抱え、石段の上にちょこんと腰かけていた。そこはそれほど幅の広くない段のひくい石の階段で、三段めのあたりに、ディスプレイされたぬいぐるみよろしく繭良の躰は載っかっていた。
―ルー、あとから来るって言ってたのに。それに『紋白』って? 
「うちに何か用?」
 アルトよりやや低い女の声が、繭良の頭上から降って来た。見上げると、長身で派手な化粧をした彫りの深い顔立ちの女がこちらを見下ろしている。若くはないが、年齢を計れない妙な迫力がある。
「あ、あの……」
「仕事したいの? でもあなた、ずいぶん若いじゃないの?」
「あ、あの、私……」
「もし何の用もないならちょっと横にずれてくれる? 入れないじゃない?」
 繭良はあわてて立ち上がり背後を振り返った。
 アイボリー色の石の壁、焦げ茶のぶ厚い木製のドア、レンガ造りの三角屋根……童話にでも出そうな建物がある。紛れもなくそこは他人の家の前だった。
「ごっ、ごめんなさい!」
繭良は深々と頭を下げ、彼女が通れる充分なスペースを開けた。
「ありがと」
 長身の女は繭良の目の前を通り過ぎ、ドアを開けて中へ足を踏み入れた。
「はいんないの?」
つと、女は頭だけ振り返り繭良に声をかけた。
「え?」
「そんな薄着じゃ寒いでしょ? ま、はいんなさいよ」
「は……はい……」
言われるまま繭良は女の後に続いた。
「ウエールカーム! ようこそ『蝶の家』へ」
 おおげさな口調で、低い声の女は言った。
 間口の狭さからは考えられない程、家の中は広かった。
「はい。ココア。あったまるわよ」
 繭良の通された吹き抜けの広々としたリビングは、妙な空間だった。ソファのあるエリアと、座敷のカーペット敷きのエリアは、丈の低い本棚で仕切られている。
 繭良の座っているソファの下にはふかふかの毛足の長い敷物が敷かれ、足に心地良い。本棚の向こうにちらりと見えるカーペット敷きの座敷もクッションや毛布が積まれ、壁ぎわの縦長のストッカーの半透明の引き出しにはそれぞれ手書きで名前を書いたプレートが貼ってある。吹き抜けの天井には十分な高さと広さのロフトスペースもある。合宿ができそうだ、と繭良は思った。
 差し出されたココアにはホイップされたクリームが載せられ、あたたかそうに湯気をたてていた。
「おいしい」
ココアをひとくち飲んで思わず出た繭良の言葉に、「蝶の家」の女主人はうれしそうに微笑んだ。焦げ茶の木製テーブルをはさんだ向かいのソファに腰を下ろした女主人は、自らも湯気の立つコーヒーをすすりながら、低い声で独特の口調で繭良に質問してきた。
「どうしてあんな所に居たの? ううん、どうしてここに来たの?」
「あの……」
繭良にもわからないことは答えようがない。が、繭良はわかることを必死で探しながら女主人に説明した。
「あの、……『紋白』……さんって知ってます?」
「紋白?」
女主人の表情が真顔になった。
「あなた、紋白にどんな用事があったの?」
「それは……。あの、ルーに言われて。ルーって、その、私の保護者みたいなものなんですけど、ルーが『紋白のところへ行け』って」
「ルー? ……もしかして『ルー・シャオロウ』?」
両手でカップを包みこんだまま繭良は反射的に素直に頷いた。
「まさか……。それでルー・シャオロウはどこ?」
「後から来るって言っていたのに……来ないんです。まだ」
 女主人はしばらく難しい顔をして黙っていたが、繭良に優しい目を向けて質問を再開した。
「ちょうどみんな、出払ってて良かったわ」
「え?」
「ねえ、あなた、あいつの『気配』ってわかる?」
「けはい?」
「あなたなら近くに居たら、ルーの気配、分かると思うけど……」
 ガシャンと音を立てて繭良はテーブルにカップを置いた。繭良の全身が小刻みに震える。「ルー……」
 女主人は繭良のすぐ隣に席を移すと、震えの止まらない小さな両肩に大きな手を置いた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。遠くにいるだけかもしれないわ」
「ルー、変だった。すごく、急いでた」
「エマージェンシーな状況だったのね。いい。何があったのかなんて考えなくていい。もう、考えちゃだめ。わかった? 私、あなたを信用する。そりゃあ……『ルー・シャオロウ』の名前が出てちょっと警戒したけど、でもあなたを信用できないようだったらここに入れてないわ。だからあなたも私を信じてくれるわね?」
 震えながら、繭良は頷いた。
「オーケイ。あなたの名前を教えてくれる? ファーストネームだけでいいから。偽名でもいい。私に何て呼ばれたい?」
「まゆら……」
「マユラちゃん。本名ね、それ」
泣きそうになっていたのを忘れ繭良は女主人の顔を見た。
「心配しないで」
「もしかして、あなたが……?」
女主人は哀れむように首を横に振った。
「ひとあし違いだったわね。『紋白』はもうここには居ないわ」
「あの、あなたは……?」
「私は『揚羽』。でもここ『蝶の家』ではママって呼ばれているわ」
「あれ? ママ、面接?」
リビングに入って来たのは、まるい目に小さな顔をした元気の良さそうな二十代半ば位にに見える女だった。
「お疲れ様。ヒカル」
 ヒカルと呼ばれた女は好奇心を隠そうとするかのような目で、ちらと繭良を見て、座敷のエリアへと入っていった。が、すぐにふたりの前にやってくるとソファの上にどっかりと腰を下ろした。
「お邪魔?」
「いいえ。いいわよ」
「もー、疲れちゃってさー。ちょっとここに座らせて。あ」
ヒカルの視線が繭良の大きなバッグをとらえた。
「『家なき子』かあ? ユミちゃんといっしょだ」
ヒカルは人懐っこい笑顔を浮かべると、繭良に向かって言った。
「ほかにも泊まり込みっていうか住み込みいるからさ、安心してママに甘えちゃいなよ」
「あんたも数か月前は甘えまくったわよねえ」
ママは大げさな呆れ声でヒカルに言う。
「あははっ。ねえ、この子は?」
「マユラちゃんよ」
「かわいいねー。だけどねえママ、でも若すぎない?」
「あのねえ、この子は預かりものなの。紋白のね」
「え! 紋白さんの?」
ヒカルが素っ頓狂な声を上げる。
「マユラちゃん、ヒカルはね『出戻り』組なのよ」
「ママ、それ言わないでよー」
「いいの。何度でも戻ってらっしゃい。ヒカルは今、住んでるところは別だけど、以前はここに『住んで』たの。みんなは一時的にだけど、マユラちゃん、あなたはずっとここに居てもいいからね?」
揚羽は繭良の手をとり握り締めた。女性にしては大きな手から熱いほどのぬくもりが伝わってくる。
「そっかあ。紋白さんの身内かあ」
「そう。紋白の生き別れの妹でね」
はっと繭良は揚羽を見上げたが、揚羽は黙っていろと目で合図した。
「顔も知らないお姉さんをずうっと探し続けて……。やっとこさ彼女の居所をつきとめたんだけど……」
「すれ違い、か。かわいそうに」
ヒカルの言動から、繭良は紋白の人柄が読み取れた。
「あ、ねえマユラちゃん」
急に話しかけられ、繭良はびくっと姿勢を正した。
「あははっ。あたし、そんなにこわいかな? こわがらなくていいよ。あのさ、マユラちゃん、そのピアスなんだけど……」
とっさに繭良はピアスに手をやった。
「これ……ですか?」
「もう、ガタがきてるよ」
ヒカルの目つきがガラリと変わり、真顔に変わっている。
「ヒカル、あんたね、そんな顔したら怖がるでしょ? 実はあたしもさっきから気になってたの。別に大して問題ないと思うけど、念のため、ね」
「ママ、あたし持ってるよ」
ヒカルは小さな金の円形のプレートのトップのついた、細い金色の鎖を首から外して繭良の前に差し出した。
「ヒカル、あんた、それ」
「いいの。マユラちゃん、これ、つけて。これがあなたを守る」
「でも……。ヒカルさんの大切な物でしょう?」
「本来あなたが持つものだから」
揚羽がヒカルに確認する。
「それ、紋白のね? いいの?」
「いいの。紋白さんのなら、そのピアスと一緒につけてても『アレルギー』は起こさない。マユラちゃんにとって、そのピアスは外したくないものなんでしょう? これはマユラちゃんがつけてたほうが紋白さんも喜ぶと思う」
「でも……」
躊躇する繭良のかわりに揚羽はヒカルの手のひらからペンダントをすくい取ると、繭良の首にかけてやった。
「もう、わかるね。私だけじゃない。ヒカルも、紋白も『そう』なのよ。だから安心して。でも今、ここでは私たちだけ。だからコントロールが必要なの。他の女の子達には内緒ね。でもヒカル?」
「あたしは平気。もうそう若くないしね。それよりあたし、その子のほうが心配だよ」
「しばらく、あんたに任せていい?」
「でも、大丈夫かなあ? ママ、ここで?」
「うーん……ちょっと心配」
「なん……ですか?」
繭良は他に行くところがない。心細い思いで消え入りそうな声が出てしまう。
「環境がヘビイかもねえ?」
ママが思案顔になる。
「まあ、メンタルバランスのニュートラル化はあたしがやるけど」
ヒカルが繭良に目を向ける。
「……ってゆうかあ……仕事を……」
「しないとしてもお……」
ヒカルの口調が揚羽にも移っている。
「あの……なんですか……。私、お世話になれるんなら何でも……」
「せんでいいっ!」
ヒカルと揚羽が同時に叫ぶ。あっけにとられて繭良は黙り込んだ。
「私たちが鬼みたいじゃん。こんな若い子にあんなことさせたら」
「そんなことさせてる私は鬼かい?」
「いや、ママ。あたしは感謝してるよ。ママがここの仕事はしなくていいっていうならいいけどさあ……。環境がねえ」
「環境?」
おそるおそる繭良が口をはさむ。揚羽は頭を抱えている。
「私としちゃ、好きなだけ居させてあげたいし……」
「そうだねー」
ヒカルも同意した。
 目立たなかった壁と同色の扉が突然開き、濃紺のサンバイザーに黒い袖カバー、白いシャツに黒いベストという古めかしい事務員スタイルの男があわただしく早口でまくしたてた。
家の中に他に人が居たとは思わなかった繭良はびっくりして男をしげしげと眺めた。
「ヒカルさん! 指名! 指名はいったよ! しかもダブル! 行き先は『ホテル カリフラワー』! すぐ車よこすから!」
「うわあああ……。佐々木のばかっ!」
「え? あ? 新人? 俺、がんばって予約とっちゃうよっ! よろしくね!」
「佐々木」
仕方ないというように、揚羽は男の名を呼んだ。佐々木と呼ばれた男は揚羽がいたとは思わなかったらしい。ピッと背中を伸ばしてハイ! と勢い良く返事をした。
「あんた、その服装、なんとかしなさい。コスプレ禁止」
「これはアイデンティティーの問題でコスプレでは……」
「もどんなさいよ」
 光の速さで佐々木は扉の向こうに姿を消した。
「わかっちゃったか、なああ……」
ヒカルは顎の下をカリカリと掻いた。
「あの、何なんですか? ここの『おしごと』って?」
繭良は無邪気にヒカルと揚羽の顔を交互に見ながら尋ねた。
 ややあって、ヒカルが上目づかいに繭良に告げた。
「……男と女のオトナの最後までのおつきあい。ってやつ……」
「ミもフタもないわね」
「じゃ、ちょっと行ってくるわ」
繭良はまだ意味が飲み込めずに首を傾げていた。

『蝶の家』の女たちはやさしかった。
 それは互いに互いの傷を知った者同士のやさしさなのかもしれない。
 当然ながら揚羽は繭良に「仕事」を許さなかった。それでも繭良は何もするわけにはいかない、と、女たちのためにまず食事を作ろうとしたが、揚羽がその手順に仰天し料理上手な彼女の手ほどきにより徐々に繭良の腕も上達していった。また、揚羽は繭良にはまだ教育が必要だと言い『蝶の家』の女たちに空き時間、いわゆる「お茶を引く」時間や住み込みの女たちに繭良の家庭教師を破格の報酬とともに依頼した。彼女たちの中には博士号を持つほど学歴の高い者もおり、現役の女子大生も数人居た。『蝶の家』の仕事やシステムを理解してきた繭良にとって、職業に貴賤なしとはいえそこは『非合法営業の(基本的には)人材派遣業事務所』であるのに何故ここまで高レベルの学業をこなしていたり修めてきた女たちがそこに居るのかは理解できなかった。特にヒカルの出身校は知らないものはいないであろう学びの場で、繭良を驚かせた。が、繭良の学業の指導にあたる女たちは逆にその飲み込みの速さに驚愕していた。勉強の合間を縫って、繭良は少しずつ『蝶の家』の手伝いを始めた。まかないを作り、掃除をし、ときにはアポイントの電話を受け、その他雑用を進んでこなし、かいがいしく働いた。ただ、繭良は「仕事」を自分がしないことで、女たちの間に「壁」を感じずにはいられなかったが……。
『蝶の家』は非合法な売春を営む事務所には珍しく、一軒屋を構え、いくつかのプレイルームまで擁していた。縦に長い家は半分に分けられたつくりになっており、プレイルームに通される客は別の入り口から入る。女たちがくつろぐ控えのリビングルームのあるエリアからも行けるが、そのドアを客が通ることはない。揚羽の部屋はプレイルーム側のエリアにあり、繭良は揚羽の部屋の真向かいの客間をあてがわれた。そこはだいぶ前にはプレイルームとして使われたこともあったのか、大きなベッドが置いてあった。『蝶の家』のプレイルームは合法的な風俗店とは違い、シンプルながら趣味のいいブティックホテル風のインテリアが施されている。「いかにもラブホテルってございって感じの悪趣味なのってイヤなのよねえ」とは、揚羽の弁だ。揚羽の部屋だけが趣味なのか臙脂のベルベットと毛皮の絨毯、天蓋とカーテンつきの大きなベッドなどに埋められゴシックともロココともつかないデザインであったが。プレイルームに客が通されることは滅多になく、ほとんどの女たちはホテルや客の自宅へ出張するという形で仕事をしていた。
女たちは一日で辞めてしまう者、しばらく稼いで金が溜まると去って行く者、短期間の居候を繰り返す者など、様々だった。繭良が来たばかりの頃にリビングのロフトで寝起きしていたユミは、しばらくするとアパートの部屋を借りて『蝶の家』に通うようになっていた。ユミがロフトを仮の住まいにしていた間、繭良は時々ユミの隣りで寝ていた。ロフトは天井も高く六畳ほどのスペースもある。ユミは主に夜番のため、睡眠時間帯が繭良とはズレていたが、客のつかない日や休みの日には繭良の来訪を快く許してくれた。
「えっ? ユミさん、子供いるの?」
『蝶の家』は皆、若く見えるが二十代後半から三十代前半の女が多く、若いといえる女は少ないが繁盛していた。ユミも二十七歳と言っていたが、全く二児の子持ちには見えず繭良は驚いてユミに問い返したのだった。
「うん。今、実家にいるの。旦那? うーん、今どうしてるのかなあ?」
「結婚……は?」
「いっかいね。あ、ヒカルも子供いるんだよ」
「うっそお!」
「いや、ホント。ヒカルってあたしと同い年なんだよ。子供も同い年。ヒカルのちびちゃんはどこにいるのかわかんないけど……。でも多分、前の旦那のところだと思うよ」
「そうなんだ……」
「あたしが言ったって、ヒカルにはナイショね?」
「うん。ふたりともお子さんいるって、びっくりしたけど、でも、なんかヒカルさんもユミさんも、近くにいるとね、なんか……ほっとして、あったかいな」
繭良は枕の上に頭を載せ微笑んだ。
「そう?」
「おかあさんだからなんだね」
「そういうもの?」
「ねえ、ユミさん? ……もうちょっと近くに寄ってもいい?」
「寒い? いいよ。おいで」
繭良が枕をユミに寄せると、ユミは繭良の頭をやわらかく抱き、その髪を撫ぜた。
「サラサラ。赤ちゃんみたい」
「うん。今、ユミさんの赤ちゃんになってるみたいな気がする」
「マユラちゃん……、お母さんは?」
『蝶の家』の女たちは同僚に家族の事を聞くことは滅多にない。子持ちの女なら尚更だ。
 しかし抵抗なく繭良はユミのふっくらした胸に抱かれたまま答えた。
「知らない。おかあさんって会ったことないの。っていうか、記憶、なくて。シセツにいたから」
「そうなの。ごめんね。変なこと聞いて」
「ううん。今はおかあさんやおねえさんがいっぱいいるから」
 やがてユミはロフトを寝床にしなくなったが、泊まり込む女の居るとき、繭良は許可を得てロフトに上がって眠った。
 ある晩『蝶の家』のリビングは緊張に包まれていた。キッチンに続くリビングの奥の暖簾をひょいとくぐり、待機している女たちのための食事を載せたトレイを持った繭良は、その異様な空気を感じとった。
 リビングにはヒカルとユミ、そして二十歳になったばかりの新人のカナコがいた。
三人は座敷のテーブルに一様にひじをつき、頭をつき合わせて声を落としてヒソヒソと何ごとかを話し合っていた。
「お待ちどおさま。グラタンできたけど……」
 繭良に声をかけられ、みっつの頭が一斉にびくっとはねあがった。
「あ、あの……」
「マユラ、ちょっと」
ヒカルが手招きする。テーブルにトレイを置き、繭良が席を同じくすると、ユミがこそこそと話し出した。
「今日ね、これからママのお客が来るんだって」
「え? 揚羽ママの?」
「ママの部屋、久々にプレイルームになるって」
興奮気味にカナコが言う。
『蝶の家』に来て数か月が過ぎたが繭良は揚羽が「仕事」をすることなど知らなかった。
「『超ぶいあいぴー』なんでしょ? ね? ユミさん?」
カナコの問いにユミが頷く。
「ママのお客だからね。ホント久しぶりだな。なんか鳥肌」
ぶるっと躰をヒカルが震わせる。ユミも声を落として言う。
「ルームにママが入ってる時ってなんか、ここに居るのも怖いの。どうしてだかわかんないけど。もちろん何が起こってるのか、どんな男が来てるのかもわからないんだけど。ああ……シゴト、こないかな」
「マユラ、多分長いから、今日はロフトで寝なよ。できるだけママの部屋から離れてな。あたしも泊まるからさ」
ヒカルが繭良に提案した。
その数時間後だった。『気配』に繭良は腕に鳥肌が立っていくのを感じた。時刻は深夜三時。
『蝶の家』の営業はだいたい朝十時から開始され明け方の四時受付け終了なのだが、今日は深夜二時でクローズされた。その日『蝶の家』にはヒカルと繭良、揚羽とその客だけが残っていた。
「眠れない?」
ヒカルは布団の中で両腕を抱える繭良に声をかけた。
「かれこれもう、四時間か、長いわね」
「ヒカルさん? これ、どういうこと?」
「『それ』か……。ユミちゃんもわかるくらいだから、マユラにはきついだろうね」
ヒカルは布団から起き出すと、煙草をくわえて火をつけた。うす暗がりのなか、オレンジの光がほわりと広がる。
「内緒ってわかると思うけど。ママの前職に関わることなんだ。そして、紋白さんの、ね」
「『紋白』……」
「マユラ、この先、あんたが『仕事』するかどうかはわからないし、私としてはしてほしくない。でも、もしそうなっても、あんたはラッキーだよ」
「え?」
急に話題を変えられ繭良は肩すかしをくらった気分になった。
「ママ……女が仕切ってるところってさ、だいたいどこも厳しいんだ。佐々木はバカだけど、夜の電話番の多賀さんとかさ、やっぱ優しいもん。男のひとからみるとこの『仕事』って痛々しいみたいなんだよね。でも女って女に厳しいよ。経営してりゃ儲け主義でさ、きっちり『仕事』させるよ。多少ゴネても女は有無言わせない。でも揚羽ママは違う。本来なら女に憎しみ持ってるはずだから女よりも厳しいかもしれないのに。でもママは優しいよ。儲けよりあたしたちの事、ちゃんと考えてくれてる。それは紋白さんの影響だと思う……」
「ちょ、ちょっと、ヒカルさん! ママは女のひとでしょ? 『本来、女に憎しみ持つはず』って……」
「あんた、気づかないの? まだ?」
丸い目を更に丸くしてヒカルは煙草の煙を吐くと。布団から起き上がった繭良の顔をまじまじと見つめた。
「え?」
「ママ、あれ、元、だけどオトコだよ」
「………」
「好きな男のために性転換したんだよ。まあその男は……今いないみたいだけど。ああいう人って実は本物の女を憎悪するのが常でさ、ママも最初はそうだったと思う。でも今のあの人は男と女、両方の優しさを持ってる。そうさせたのは多分、一緒に働いてた紋白さんなんじゃないかな」
繭良は混乱しつつ、ヒカルに煙草をわけてくれるよう頼んだ。
「吸うの?」
「吸い方、教えて……」
「あははっ! 不良ー!」
ヒカルは繭良に自分のメンソール煙草を一本分け、火をつけてやりながら最初は浅く、あんまり肺に入れるなと指導した。が、やはり繭良はむせて咳こんだ。
「ふかすだけでいいっていったのに」
楽しげに笑うヒカルに、涙目の繭良は話の続きをうながした。
「紋白さんは揚羽ママの同期だったらしいよ」
ヒカルは二本目の煙草に火を点けてから語り出した。
 揚羽と紋白は『チャイルド・マーケット』の「センター」内で『スキャナー』と呼ばれる職務に従事していた。『スキャナー』の仕事は、ひとことで言えば「心のマッサージ」と言われている。悩みを持つ者、心の問題から身体を病む者の痛みをリペアし、健康体に修復させる。それが職務内容である。『スキャナー』の仕事は『チャイルド・マーケット』でのみ行われる。その場所は『センターB』。しかし『スキャナー』の存在はほぼ非公表とされていた。何故なら『相談者』は『センターB』、もしくはその他、内密の紹介がなければスキャンを受けることができないからだ。相談者は皆が男性。それも原則として社会的に高い地位を持つとされる者、ケタはずれの収入に恵まれている者に限られていた。 そんな男たちの間で、スキャナーズの存在は不確かな噂として囁かれていた。

『とにかくスッキリするそうだ』
『浮き世は憂き世。そんな考えがふっとぶとか』
『極上の夢をみせてくれるらしい』
『しかも施術は若くて美しい女たちだとか』
『催眠術みたいなものか?』

 世を楽しんでいるとしか思えない男たちも羨む『スキャン』。その実体はスキャナーズに対面した者しか知ることはできない。そしてスキャンを受けた者はその事を口外しない。
「『スキャナーズ』にはね、才能が必要なの。能力だけじゃなくて。揚羽ママと紋白さんにはそれがあった」
「スキャンって……。やっぱり催眠術?」
 ヒカルは首を横に振った。
「リペアよ」
「え?」
 スキャナーズは若い女、もしくは女の肉体を持つ者が多かった。その要因は対象者が男性ということも大きい。
「昔、海外で売春婦たちが自分たちの事を『カウンセラー』と称するムーブメントがあったみたい。まあ、今シゴトしてて、そうかなあって感じるところもあるわけよ。で」
ヒカルは言葉を継いだ。
「具体的にはね……そうねえ、実際にカラダも使って……ここでの仕事みたいにセックスしながらってこともあったみたいだけど……。うーん、カラダを使わないセックスっていうか……。何て説明したらいいのかな? セックス以上のセックスかなあ? あー、ゴメンね、未成年に……」
「ううん……。だいじょぶ……」
繭良はペットボトルのぬるい紅茶をひとくち飲んだ。
「つまりね、ひとのココロにダイブするの。ダイブして、そのひとのほころびを見つけてそれを繕うの。ダイブするためにはココロ同士をつなぐのね、つまり相手がプラグで自分がコンセント。でもコンセントにプラグをさすのも自分。それで電球がつかなかったら、どこが悪いのかって探して修理するの」
「電気屋さんだ」
「コンセントと電気屋とマッサージ師と外科医がごっちゃになったようなもの」
「ちょっとわかんない……」
「だから、説明しづらいけど、要するに、やっぱひとことで言うと『心のマッサージ』だわ。コリも悩みもほぐれますって感じの。ただ、やり方が特殊で、めっちゃくちゃ『効く』のよ。悩みや気持ちがほぐれても現実は解決しない。でも問題って、そのひとのガンバリで解決したりするでしょ? その気力までプラスされるの。元気、あげるわけ。そのひと本来のチカラを目覚めさせて」
「すごい」
繭良は紅茶をごくりと飲んだ。
「すごいよ。ただね、相手にダイブするにはそのひとのチャンネルに自分の波長を合わせるんだけど、そのためには時にはカラダのつながりも必要だったりとかもするのよ」
「どうして?」
「いちばん無防備になるからよ。セックスの快楽の中にいる間ってね。それもただの快楽じゃないってレベルで」
「揚羽ママと紋白さんには才能があったんだね」
「うん」
「いいことなんだね。心のほころびを繕って刺繍までしてくれるみたいなものなんだね」
「いいこと……。そうね。表向きはね」
「表向き?」
「スキャンされたひとはその後、どうなったと思う?」
「元気になったんでしょ?」
「しばらくは。マユラ、この先ききたい?」
「どうして?」
「『ひみつ』だからよ。でもあんたは紋白さんの縁者だもん。聞く権利がある。どうする? 聞く?」
 しばらく逡巡した繭良だったが、意を決し、うん、と頷いた。
「スキャンを受けた人間には……。死かそれに近い社会的抹殺という結果が待ってたの。もちろん、そうはならない幸せな人間も稀にいるけれど」
「どうして?」
「スキャナーはリペアが仕事というのは表向き。丸裸になったひとの心からできる限りの情報を収集する『ミツバチ』だったのよ。けれど本人たちはそうとは知らされない。自分で気がつかなければ」
「ミツバチ?」
「スキャナーズはスキャンのあと、スキャン内容のレポートを提出する義務がある。当然相談者のあらわにした守秘事項もね。スキャナーズにとっては、自分たちは人の悩みを蜜として吸い上げる『蝶』。でも本当は『蜜蜂』。養蜂場の蜜蜂だったの」
「それじゃ……」
「機密の漏洩。それはひとの死に値することもある」
「それじゃ紹介って……」
「巧妙な『計画』」
「……」
 繭良には信じがたい「仕事」だった。そんなまわりくどい事をする世界なんて本当にあるのだろうか? 繭良はある疑問をヒカルに投げた。
「ねえ、ヒカルさん。揚羽ママがそこまで言ったの?」
不躾な質問と思ったが、ヒカルは予想していたかのように答えた。
「あたしは……なりそこないの『スキャナーズ』なんだ。訓練中に逃げたの。っていうかやめちゃった。それはノープロブレムだったよ。辞めても追尾もされない落ちこぼれだったし。リークしたら誰も信じなくたって消されるだけ。揚羽ママとは長い付き合いなんだ」
「それじゃ……」
 そう言いかけてぴたり、と繭良の躰が硬直した。
「どうしたの? マユラ?」
続いてヒカルも反応した。
「変だ……」
 目をいっぱいに見開き、繭良が叫んだ。
「ヒカルさん! 大変! ママを助けなきゃ! このままじゃ……ママが『喰われ』ちゃうよ!」
 ふたりはロフトを駆け降り、プレイルームエリアへのドアを破らんばかりに開け、廊下を走り抜け、奥の部屋へと向かった。
「すごい……足元にタコの足が絡んでくるみたい」
チッと舌打ちしてヒカルはいまいましげに足の先を振り払うようにして走った。
「ママ! 揚羽ママ!」
繭良はドアを開けようとしたが、ドアはびくともしない。
「カギがかかってる! ヒカルさん、カギってどこ?」
「わかんない! マユラ、さがって! やってみる!」
ヒカルはドアの前に立ち、深く息を吐くと、カッと目を見開いた。

 ガギイッ!

 鉄の砕かれる音とともに、ドアのノブがボトリと床に落ちた。それと同時にふたりは室内になだれ込んだ。むっとする生臭くねっとりと熱い空気が室内に充満している。
「揚羽ママ!」
「ママ!」
思わず叫びを上げたふたりの眼前にはおぞましい光景が展開していた。
 ベッドの上には初老の男が下着姿で横たわっていた。眉間にしわを寄せている彼はぴくりとも動かない。が、彼の上には……赤黒い雲が広がり、それは彼の胸のあたりから吹き上がっている。赤黒い雲は濃く、輪郭のはっきりしないその物体から伸びた毛むくじゃらの太く大きな鬼の腕の先には、鉤爪にとらえられた揚羽が空中に浮かんでいる。
 スリップ一枚でぐったりしている揚羽の額には汗が浮き、長い髪を額や顔、首や肩に張り付かせ苦悶の表情を浮かべている。すでに意識を失っている様子だ。
「暴走……だ……」
ヒカルがごくりと喉を鳴らした。
「あいつ……多分、ママのエナジーを喰らいつくすつもりだ……」
「ヒカルさん! どうすればいいの?」
 赤黒い雲からは同じ色の触手がしゅるしゅると伸び、次々と揚羽に絡みついていく。触手に血を吸い取られるように揚羽の顔色はどんどん土気色へと変わっていった。
「ママ!」
ヒカルの叫びとともに鋭い刃となった風が、バシッバシッと触手を切り裂き粉砕した。しかし、新たな触手はふたたび伸びてゆく。
「キリがないや……。くっそお……、物理攻撃じゃダメなんだ!」
「ヒカルさん!」
「こんなとき紋白さんがいてくれたら……」
―紋白……!
 ヒカルは諦めずにに触手を粉砕し続けているが、このままではヒカルも危険だ。繭良は意を決した。
「ヒカルさん、待ってて!」
「マユラ! どこいくの?」
「すぐ戻る! それまでお願い!」
 繭良はルームを飛び出し、自室へと駆け込んだ。ルーの鰐笛のケースを開け、パーツを組み立てる。
―やってみるしか。やってみるしかない!
 楽器にリードをさし、繭良は走った。
 ヒカルの攻撃に、赤い雲の中心でギラリと光るふたつの『眼』があらわれた。眼は明らかにヒカルを見ている。
「邪魔するなって感じね? そうする訳にはいかないんだよ!」

 バシイッ!

 またも触手は粉砕された。が、その再生スピードはヒカルをあざ笑うかのように早くなっていく。眼に続いて物体に大きな口が現れた。

 うおおおおお……

 鮮紅色の口には鮫よりも鋭くびっしりと本数のある牙がズラリと並び、威嚇の咆哮を上げる。
「『オドシ』がこわくてビッチなんざやってられっかああ!」
ヒカルは意識の固まりをその口へと向けた。空を切る風の弾丸が牙にアタックする。
 しかし、それは牙を「通り抜けて」しまったのだ。
「あー! もう! 中途半端なイマジネーションで暴れるなよお!」
揚羽の部屋に繭良が駆け込んできた。
「ヒカルさん、下がって!」
「マユラ! あんたのほうが危ないって! もうしょうがない! センターに連絡しよう」
「だめだよ! そんなことしたら……」
「ママの命の方が大切でしょ!」
「お願い! やってみてダメならすぐそうする!」
「あ! マユラ!」
 鰐笛を携えた繭良はずい、と物体の前に進み出た。
『怪物』は一瞬、毒気を抜かれたのか首を傾げるしぐさを見せたが、すぐにからかうように触手を繭良の眼前へうねうねと伸ばしてきた。
―ルー! 紋白さん! 力を借して!
 繭良がリードに唇をつけた。
 鰐笛が高らかなロングトーンを上げる。高音のトーンは澄み切った水の、けれど激しい流れを思わせた。繭良の胸と、耳朶のあたりが熱くなる。そこから炎が立つようだ。途端、繭良自身も青い炎に包まれた。
 触手の動きが、ぴたりと止まった。
「マユラ!」
ヒカルは叫んだが躰はフリーズしている。
 繭良は鰐笛を吹き続けた。ロングトーンからこの場にはふさわしくない、おだやかな旋律へ。しかし導入部を越えると、旋律はアップテンポになっていった。
―一緒にいる。ルーが……。紋白が……?
『怪物』に向かい、繭良は青い炎のなかで鰐笛を吹き続けた。
「あ……」
ヒカルは、『怪物』の色が変化していくのを感じた。赤黒い雲は黒みがかったオレンジへと変わり、うねうねとうごめく触手のスピードは落ちてゆく。鰐笛はさらにテンポをあげた。繭良の指使いが物凄い早さでキーを押さえ、一瞬のブレスのたび、さらに音はパワフルになっていった。修羅場のなかで、ヒカルは奇妙な懐かしさにとらわれた。そして自分自身の躰が溶け、胸のなかで綿菓子のようにはかなく柔らかなひと塊ができてゆく、そんな錯覚が彼女を浸食していった。

 うおおお………おおおお………

『怪物』の咆哮に、もはや威圧感はなかった。
 苦しみ悶え頭部を抱え「鬼の手」が雲の上部へと移動する。
 ボタリ、と重いが音がして、揚羽はぶ厚い毛皮の絨毯の上に投げ出された。
「ママ! しっかりして!」
ヒカルは揚羽に駆け寄り、その手を取った。揚羽はまだ意識を失っている。ヒカルは手のひらの中央を揚羽の手に合わせると、すぐさま「チャージ」にかかった。
「ママ、お願い。目をさまして……」
 ヒカルから注ぎ込まれるエネルギーは最初はなかなかうまく注入されていかなかったが、しだいに「流れ」らしいものが確認されていった。揚羽の顔に血の気が戻っていくのがわかる。その間、繭良の鰐笛の音は、だんだんとエンディングのコーダへと向かっていった。

 うおおお……あああ……

『怪物』の雲はしだいに小さくなり、鮮やかでクリアーな紅に変化していた雲の色彩は、淡い青がまざり微妙な紫色へと変貌を遂げていった。

―なぜだ……?

ぎょっとしてヒカルは揚羽にチャージを施した姿勢のまま、顔をあげた。
『怪物』が言葉を発している。恨むように、嘆くように……。

―なぜだ……? なぜそんなおとをきかせる? おまえはだれだ? おれをすくってくれるというのか? いや……おれにだれがなにをしてくれる? ああ……もうなにもあてにはできない……こいつにはもうなにもできない。おれはやつをくうしかないのだ……それなのに……そのおんなはよけいなことを……おまえはだれだ? おまえはどうして……。

『怪物』であったモノの言葉はそこまでだった。
 部屋は静寂を取り戻した。
 繭良はベッドに駆け寄ると、客の男に布団をかけてやった。男の顔はやすらかで、しずかに寝息をたてている。しかし彼を眺める繭良の表情は安堵と悲しみの入り交じった複雑なものだった。
「マユラ……」
ヒカルは点滴と同じ要領で自分の腕と手で揚羽にエネルギーを送り続けていた。
「ママを、私のお部屋に運ぼうよ」
「マユラ、あんた……」
「これ」
 繭良は胸から紋白のペンダントを取り出した。
「ヒカルさんのおかげだよ。ほら紋白のペンダントヘッド」
繭良が紋白のプレートを掲げた瞬間。
「あ……!」
「ああっ!」
 ヒカルの目の前で紋白の円形プレートのペンダントヘッドがぼろりと崩れた。続いて繭良の耳朶から金の球形ピアスがコナゴナになって金粉となり散った。
「ヒカルさん……ごめん」
「いや、謝ることじゃないよ。それより……」
切れ切れの低い声がした。揚羽だ。
「もう……必要ないのよ……。あとはマユラのコントロールしだい……。ニュートラル化は……もう……じぶんで……」
 揚羽は絶え絶えに息をつき、なんとか自力で起き上がろうとしていた。
「ママ、無理しないで! マユラ、足のほう持って」
ヒカルは指示を出す。
「待って」
揚羽がストップをかけた。
「ママ、喋らないでいいから!」
ヒカルの制止に耳を貸さず、揚羽はふたりの顔をかわるがわる見ると言った。
「ヒカル、マユラ……ありがとう」
 ヒカルと繭良は沈黙した。
 どうしても自分で歩くという揚羽を説得し、ふたりは両脇から揚羽を支えて繭良の自室へと彼女を運び込んだ。ベッドに横たえられた揚羽はまだ不確かな息をついている。繭良がキッチンで飲み物を用意している間、ヒカルはずっと揚羽の手を握りエネルギーチャージを続けていた。
「ママ、ママ……ゆっくり休んで」
「ヒカル……」
「ママ、喋らないで」
「ごめんなさい。油断したわ。『ダブル』だったんだ。あのオヤジ。二重人格みたいなものね。……気づいてた? あいつのカラダはもうボロボロでね、もう半年と持たないの。仕事でもいろんな厄介事を押し付けられて。……もうあいつが死ぬって周囲のひとは知ってるのね。しょいこんだ本人が死んでしまえばすべてオワリなんて……酷い話。『ダブル』が暴れ出すのも仕方ないわね」
「でも、ママが無事で良かったよ」
 室内にトレイを持った繭良が入ってきた。揚羽はすすめられるまま湯気の立つハーブティーを口にすると、また横になり目を閉じた。
 繭良とヒカルはほっと息をついて顔を見合わせ、その場を辞しリビングに戻ろうとした。
「マユラ、ちょっと残って」
「ママ、明日以降にしたほうが」
ヒカルが揚羽を気遣う。
「今のほうがいいの。ヒカルのチャージのおかげよ。もう大丈夫」
「マユラ、大丈夫?」
 心配そうなヒカルの問いに、繭良は無言でしっかりと頷いた。
 ヒカルが部屋から退出すると、揚羽は繭良を呼び寄せ傍らに座るように命じた。
「あなたに、話しておかなければならないことがあるの。また、いつこんな事があるかわからない。今度こそ危ないかもしれない。迷ったけれど……」
「揚羽ママ。私は大丈夫。話して」
「『紋白』のこと。よく知らないでしょ?」
「うん……」
「おおかたのところはヒカルから聞いたんでしょうけど」
「うん……あっ……ううん!……」
「ふふ。いいの。手間が省けたわ」
「でも、あなたがあそこまでやるとは思わなかった。正直言ってね」
「それは……ルーと紋白さんの『お守り』があったから……」
「それだけじゃない。マユラ、あなた十六歳って言い張ってたけど、私、信じてなかったの。だってせいぜい十三か十四歳ぐらいにしか見えなかったんだもの。下手したら十二歳。ふふ。ごめんね。あなた幼く見えるから。でも処女じゃないってだけじゃ『ダブル』とのあんなリンクの仕方は無理よ。あなた、本当はいくつ?」
 繭良は、何かを思い出し揚羽に問いかけた。
「ママ、今日、何日ですか?」
「明けて……十四日。二月十四日。あ、しまった。今日、客にバレンタインチョコ配れって言わなきゃ……。それが?」
「私、誕生日なんです。二月十四日」
「そうなの? いくつになったの」
「十五……歳に……」
「そう。ちょうど『解禁』だったのね」
 揚羽はやっと元気そうな笑顔になった。
「『解禁』って?」
「個人差はあるけどね、大体そのあたりなのよ。私たちのような人間にとっては二番目の第二次性徴みたいなモノ。十五歳が目安なのよね。どういうわけか」
「……」
「昔から巫女が肉体交渉を持ってはいけないって、なんで言われてたかわかる?」
「いいえ」
「恋をすると磁石がくるっちゃうの。思春期は特にね。これは十五を過ぎても気をつけなければならないこと。でも、十五を過ぎたらやっと、自分をニュートラルにして照準を合わせることができるようになるの。それが私たちの世界で俗に言う『十五歳のジンクス』」
「照準?」
「そう。対象物に対し『力』を使えるようになる。よりキッチリとね。それに性交渉を持てば『リンク』を覚えるから、巫女が処女じゃなきゃいけないって事はないの。ただ、さっきも言ったけれど恋に狂って振り回されると、ダメね。仕事するその場だけでも『ニュートラル化』しないとうまく『仕事』はできないわ」
「『仕事』?」 
「ええ。スキャンはニュートラルでいないとできないのよ」
「スキャナーの、おしごと?」
「そう。さっきのも内緒のスキャン。私たちは生けるマシーンだった。紋白も……」
「紋白……」
「マユラ、私が男の子だったって知ってるわね? スキャナーになった頃には、もう私は女になっていた。でも思考はやはり本物の女とは微妙に違う。それは仕事には幸いしたけどねえ。私には恋人がいたのだけれど、割り切り方が天然の女よりも良かったの」
「紋白さんは? 紋白さんの場合はどうだったの?」
「あの子と私は同期だった。私にとってはライバルみたいなものだったわ。でも彼女はそうは思ってなかったみたいねぇ……」
 寂しげに揚羽は微笑んだ。
「私のひとり相撲ね。なんとか彼女より一歩リードしたい。っていつもそう思ってた。でも彼女のほうはどこ吹く風。私なんか眼中になかった」
「ママ……」
揚羽はくっと顔を上に向け、天井を見上げたまま続けた。
「紋白はいつも悩んでいたわ。多分、スキャナーズになって間もない頃から。私もそうだったけど、彼女は自分の本当の仕事が何であるのか、早くに気づいてしまっていた。私は割り切ったわ。でも紋白は……。あの子はいつも自分より他人の事を優先する子だった。彼女は優しすぎたの。スキャナーとしては」
「やさしいと、だめなの?」
「『過ぎたるは及ばざるがごとし』ってね。言うでしょう? 紋白は悩んで悩んで悩み抜いた。そしてあの男に会ってから、よりそれは酷くなっていったわ」
「男のひと?」
「『恋』をしてしまったのね。相手は……そうね、機密を抱えた偉いさんの秘書ってところかしら? 来るはずのない、偶然にして心のうつくしい客だったの」
 そこで揚羽はひと息ついた。
 沈黙は一瞬だったが、話の先を望む繭良にはとてつもなく長い時間だった。
「話さなきゃ、ね」
「お願い。揚羽ママ」
 揚羽は懐かしそうに、繭良を見つめた。
「似てるわね」
「え?」
 繭良は言葉の脈絡がつかめずに思わず聞き返した。
「マユラと紋白。まるで本当の姉妹みたい」
「そんなに、似てるの?」
ぺたぺたと顔に手を当てる繭良に揚羽は言った。
「ちがう。顔じゃなくて。私はわかるわ。あなたは鏡。いろんなひとの情を映す。でも紋白と似ているのは本当。『魂の色』がね。タイプが似てるっていうのかしら? リンクの感じとか。まったく彼女と同じではないけれど、経験の差かもしれないわ。あの子はダイブして相手の中でリペアをしてた。でも私はそんなまどろっこしい事はできなくてね、相手の『心』を外へと『引き摺り出して』リペアした。語らせるとか、イメージを実体化させるとかして。それで……今回はあんなことになっちゃったんだけど」
「そのほうが凄いと思うけど……」
「同じようなものよ? 紋白が内科とか漢方医なら、私は外科医ってところかしら? ま、やることは一緒。ああ、紋白の男の話だったわね」
「うん。恋人になったの? その男のひとと紋白は?」
「なりかけたわ。あの子はダイブしてずっと潜り続けるから……お互いに強いリンクができてしまった。男は何度もスキャンに来た。でもどうして何度も来れたと思う? 一介の秘書にすぎないまだ若い男が?」
「どうして?」
「センターにとって、彼の情報量はオイシイものだったからよ」
 揚羽の口調が途端に厳しく、早口になっていった。
「やがて紋白は気がついたの。このまま正直にレポートを提出していたのでは、情報のカラッポになった彼はすぐに『始末』されてしまう。だから紋白は不正を働いた。とても巧妙に。誰にもバレないはずだった。彼は職務を解かれるだけで、抹殺をまぬがれるはずだった。でも……」
「でも?」
「カタチばかりのはずの責任者が行った気まぐれなチェックにひっかかった」
「なんで? どうしてバレちゃったの?」
「相手が悪すぎたの。ねえ、マユラ、あなたはルー・シャオロウの指示でここに来たのよね?」
「う、うん」
急にルーの名を出され、大きな針の痛みが繭良の胸に刺さった。
「ルーを思い出させてごめんなさい。でももっと辛い事を、私は言わなくてはならないの。マユラ、あなたはもう大人よね?」
繭良は深く頷いた。
「そうね。じゃあ言うわ。彼女の不正を暴いたのは……榊伊織。ルー・シャオロウの雇い主よ」
「伊織……さんが?」
思ったよりも繭良に動揺はなかった。それよりも懐かしさと痛みが、急激に繭良に迫る。繭良にとって伊織は何だったのだろう? 優しく、恐ろしく。そしてこの上ない罪悪感を感じさせた人物……。伊織をどうとらえていいのか、わからなかった。ただ、今の繭良には揚羽の言葉を信じることができた。
「そうよ。榊伊織。そして紋白の恋した男は別のスキャナーに回されて……脳がボロボロになるまで『蜜』を吸い上げられた。結果、彼はセンターAに送られたわ。人間モルモットとしてね。そして紋白はスキャナーの任を解かれた」
「スキャナーを辞めさせられて、どうなったの?」
「紋白の処分ははたから見たら軽かったんでしょうけど、監視される部署に異動になったの。もちろん、榊の系列の施設にね」
「伊織さんの?」
「そう。チャイルド・マーケットの『ガーデン』に」
 繭良の全身に震えが走った。
「揚羽ママ……」
「どうしたの?」
「ううん……」
「どうしたのよ?」
「ううん……。紋白はそこからどうして『蝶の家』に来たの? 今、どこにいるの?」
「ごめんなさい。マユラ。紋白の行方は私たちにもわからないの。これだけは言えるけれど……結果的には紋白は榊から逃げきった。そして私も。『蝶の家』で非合法にこの事務所をはじめて、私は以前のツテで来る客のスキャンを始めた」
「それじゃあ。ママのお客さんて……」
「そう。スキャンに来るの。こっそりとね。……やがて私の居所を突き止めた紋白がここにやって来た。うれしかった……」
揚羽のかすれた声には、情感がこもっていた。
「紋白は私を覚えていてくれた。私を頼ってくれた。私を『友達』だって……言ってくれたのよ……」
 揚羽の声は幸せそうだった。
「紋白はもうスキャンはしなかったけれどね。そしてあなたとスレ違いにここを出ていったの」
「どうしてルーは紋白に会えって言ったんだろう?」
「それは。紋白に『また』会えばわかるんじゃないかしら?」
「え?」
「あなたはもう紋白に会っているもの」
 繭良の予感は的中した。紋白は繭良と同時期に『ガーデン』にいたのだ。しかし、おぼろげな記憶では紋白が誰であったのか、思い出すことも確定することもできない。ただ、繭良はなぜだか紋白に会えばわかる、とも思えた。それはヒカルからペンダントを受けとった時、奇妙に「近い」感覚を得たからである。
「ママ、私、彼女が誰なのかハッキリとはわからない。でも紋白に……また、会いたい」
「会えるわよ。きっと」
「うん……」
 そこまで語ると、揚羽はふうっと大きく呼吸をし、枕に頭を載せた。
「おやすみなさい、揚羽ママ」
 目を閉じた揚羽は口の端をあげて笑みを浮かべると、おやすみと言った。

  11

 バレンタインのその日、靭彦とショーコは共に新居に移った。
 テーブルの上にはチョコレートケーキ。ショーコの手作りのケーキを殆ど平らげたのは靭彦だった。
「もうちょっと残しておいてくれてもよかったのにい」
 まだ荷を解いていないダンボールに寄り掛かりショーコは不満を漏らしたが、怒っているというよりその声は少しばかり嬉しそうだ。
「だって美味しかったんだもん」
 靭彦はグラスのスパークリングワインを飲み干すと、にたりと笑った。
「上手いこと言っちゃって」
 ショーコは靭彦の肩に頭を持たせかけると、呟いた。
「一緒にいられるのね」
「ああ。そうだよ」
「ふふっ。何か変な感じ」
「何が?」
 靭彦はゆっくりと腕を伸ばし、ショーコの肩を抱く。
「変わったのか変わらないのかわかんないわ。今までと」
「一緒に暮らすのは、嫌かい?」
「バカね」
 ショーコは靭彦の腕から逃れ、正面から靭彦を見つめた。
 ふたりは同時ににらめっこをしたが、急に吹き出し笑い合い、抱き合った。
「どこにいっても、帰ってくるのはここだよね?」
 靭彦の腕のなかで囁くショーコの声は甘く、幸せに満ちている。
「当たり前だっての」
「アタリマエが、いちばん、こわいのよ」
「そんな事、言うなよ」
「アタリマエってね、いちばん不確かなものよ」
「やめろよ。そんな事言うなって」
「ううん。不安なだけ」
 靭彦はさらに彼女をきつく抱きしめる。
「不安なの。シアワセになると」
「心配性だね。意外と」
「意外って……ひどいなあ。センシティブなのよ」
「はいはい」
「もう……」
 抗議するショーコの唇を靭彦の唇が封じ込め、ふたりは長いキスを交わした。
「ユキといっしょにいたいの」
「いっしょだよ。俺はショーコと一緒がいいよ」
「ずっと?」
「ああ。ずうっと……」
 甘い呪いの柔らかな針金がふたりを縛りあげてゆく。甘美な呪縛はふたりを固く結い上げ、靭彦はショーコへの愛しさが新たに沸き上がるのを感じた。シーツにいくつものドレープを描き出し、ショーコは切なげな声を上げる。小さな叫びをあげるそのたび声は靭彦の舌に絡めとられ、叫びは吐息と化した。窓の外は静かだった。天気予報では雪になると言っていた。空気中の音を抱きしめて呑みこんでゆく降り積もった雪は、ふたりの『音』には無関心でいた。
 ショーコは幾度となく小さな叫びを上げ、靭彦はそれらすべてをすくい上げ溶かしていった。

 叫び。

 それが聴こえなければいい、と揚羽は祈っていた。何年、この商売を営んでいても『水揚げ』の時は憂鬱になる。『蝶の家』にやってくる女たちは同種の仕事を渡り歩き、流れついた者たちが殆どだが、時折、まったくの未経験者もやってくる。さすがに処女は居ないものの、そんな彼女たちが初めて『仕事』に入る日には、その『叫び』は嫌でも揚羽に届いてくるのだった。驚愕と痛み、例えようのない屈辱感。『叫び』はそんな色合いを帯びていた。どんなにスレたフリをしていても、趣味と実益を兼ねて見えても、まず例外なく新人の女たちの『叫び』は揚羽に到達する。そんな時、揚羽は自分の能力を呪わずにはいられなかった。そんな力を持たないはずの夜の電話番の多賀もまた『水揚げ』のある日には言葉少なになる。男である彼は殊更に憂鬱そうに顔を歪め、新人が戻って来るまで決して笑顔になることはない。そして今日は……。その晩は今までになく多賀は不機嫌な面持ちで電話を取り、揚羽までもが自室に引き籠もっていた。
 今日は繭良の『水揚げ』の日なのだ。
 揚羽が客の『ダブル』に襲われた晩から一年と少しの時間が経っていた。
「私、お仕事する」
 十六歳になったとはいえ繭良はまだまだ子供に見える。もちろん理由はそればかりではなく当然揚羽は反対した。しかし、繭良は仕事をすると言ってきかなかった。
「ここにいるって事はお仕事しないと意味ないと思う……」
「マユラ、私がいつそんな事言った? 今までどおりでいいじゃない? マユラ、お願いだから私の話を聞いて。私、あなたのこと娘みたいに思ってるの。私のような人間がこんな事言うのっておかしい?」
「そんな事はないけど……」
「私、あなたを学校にだって行かせてあげたいの。紋白と違って早くにスキャナーズになった私にはガクがないから、あなたには今みたいに学費のために働いてる女の子たちやガクのあるコたちに家庭教師させるんじゃなくて、学校へやって友達と、普通の生活を送らせてあげたい。今、それを本気で考えているところなの。だから……」
「揚羽ママの気持ち、すっごくうれしい。でも……」
「それにあんた、まだ十六じゃないの」
「でも、非合法だし……」
「マユラ!」
揚羽の怒声が家中に響きわたり、電話ルームの佐々木はなんだなんだと揚羽の部屋へと乱入し、揚羽に思い切りケリを入れられた。
「……ごめんなさい」
繭良は縮こまって詫びた。
「なんでそんなに仕事したがるの? ここにいるのが嫌? 早くお金を貯めてこんなところから出たい? そりゃああなたのためには良くない環境だとは思うわ。でもまだあなたを放り出すのは不安なのよ。もし、どうしても出ていきたいなら資金援助は惜しまないわ……でもまだあなたは……」
揚羽が涙声に変わる。
「ママ、揚羽ママ、ごめんなさい。ここが嫌いな訳じゃないの。ママのことも大好きだよ。でもね、私、ここにいるなら『仕事』するべきだと思うの」
「だからマユラ、それは……」
「お願い。ママ」
揚羽はフィルターにゴールドのラインを巻いた赤いロング丈の煙草に火を点け、髪をかきあげた。
「マユラ、どうしてなの?」
「そうするべきだと思うから」
 もし、繭良が本当のことを言っていたら、揚羽はスキャンを応用し洗脳してでも阻止しただろう。
―ママ。私はそうするべきなの。これは贖罪なの。私は『罰』を受けなければならない。
 繭良は黙ってスパスパと煙草を吸う揚羽を、穏やかな瞳で見つめつづけた。
―ここのお仕事、わかってる。でもね、もう、限界なんだ。私はもっとちゃんと『罰』を受けなければならない。日夏が私を愛さなかったのは私の罪。愛されなかった私の罪。ルーを救えなかったのは私のせい。それは私の罪。育ててくれた伊織さんに背いている私は罰を受けなければならない。私は……『罰』を受けなければならないんだ。
『チャイルド・マーケット』で伊織の制裁を受けたあの日から。誰も知らないところで繭良の歯車はゆっくりと噛み合わせを狂わせていた。繭良にとって『罪の意識』を抱えてゆくことはもう限界だった。
―だから私は自分に『罰』を与えたい。私のせいで迷惑をこうむったひとたちが、それで許してくれるとは思えないけれど。
「マユラ。あなたがいわゆる『イマドキ』な娘だったら、私もちょっとは違う考えをしたかもしれない。条例も来月から改正になる。だから年齢的には、実は問題はないの。でもね、結局うちは非合法なのよ? じゅうぶんに、わかってるわよね?」
 繭良はこくん、と細い首を縦に振った。
「それからマユラ。『仕事』はじめたら、ずっとここには居られなくなるのよ? それでもいい?」
ややあって、繭良は無言で頷いた。
「多賀もいつも言ってるわよね。『短期間にさっさと稼いでこんな仕事やめろ』って。さすがに私の前では言わないけど、そんなの知ってるわ。ね、私が言うのも変だけど同意見なの。だから、お金をたくさん稼いで、稼ぎまくったら……」
 揚羽は言い澱んだ。いちばん、心とは裏腹なことを言わなくてはならない。
「マユラ、お金をたくさん稼いだら、出ていきなさい。そして、あなたはもうここへ帰ってきては駄目よ」
揚羽は繭良から目を背け、煙草の煙を勢い良く吐き出した。繭良の決意は固い。その理由は定かではないが、このままでは自分で取った電話の仕事を無断で受けてしまいそうだ。もしブラックリストの客とも知らずに繭良が客をとってしまったら……。
 揚羽は繭良に向き直ると言った。
「わかった。でも最初は、いいえ、なるべくあなたにはソフトな客を回すわ。ちょっとでもヤバそうなものは多賀にカットさせて他の子に回す。あなたの勤務時間帯にはあの大バカ者のコスプレ野郎の佐々木にはアポをとらせないから。あなたはまだ幼いし、他のコだって特別扱いしても文句は言わないでしょう。ただ、あなたも自分の出番が回ってきたのに他のコに回っても文句を言わないこと。いいわね? でなければあなたを『採用』しないわよ。それでもいい?」
 きっぱりと言い切った揚羽に繭良は微笑むと「ありがとう」と礼を述べた。
 揚羽は繭良との話のラストを、もう何十回も頭のなかで反芻させていた。
『マユラ、本当のことをいってほしいの。あなたはここと、私が嫌い?』
『どうして? 大好き。揚羽ママも、みんなも』
 だいすき。という繭良の言葉に嘘はない、と揚羽は信じたかった。
『蝶の家』にはいわゆる「指導」、つまり客とのやりとりの手順を教えるとともに内部の人間が商品である女の躰の検分がてら性交渉を持つという段階がない。簡単に段取りを教え込んでから、揚羽は繭良を送り出した。客には老齢で信頼のできる常連のひとりを選んだ。
 繭良が戻ってくる予定の時間は、まだまだ先だった。揚羽は自室にひきこもっていても時間の流れがやたらと遅く感じられ、電話室に入り、多賀の横に座った。
「ママ、やっぱり心配?」
多賀の年齢は不詳だ。まだ中年といえる若さなのだろうが、半分グレイになった頭と、その落ち着き(迫力、ととらえる客も多かったが)からすると初老にも思える。非合法らしい迫力のある声を嫌がる客もいるが、そのおかげで客の女たちへの狼藉はある程度食い止められているところも大きかった。
「心配よ。本当は仕事させたくなかったわよ。でも勝手に仕事されちゃ困るしねえ」
「おじさんより、優しいお爺さんたちに可愛がってもらえればいいがねえ」
「そうね。若くて無茶な奴よりはね。多賀さん、シフトの無理を言って済まなかったわね」
「いや。きっちり夜番になったほうが良かったよ。マユラを夜番にしたのは安全で客数が多いからだろう?」
「そうよ。そのとおり。でも選り好みばかりもできないし、イイ奴のほうが少ないわ。昼に比べれば夜のほうがかえって安全ではあるけれど、絶対に安全とはいえないからね。あの子……『地獄』を見るんだわ」
「だが本人の希望だしなあ……」
「多賀さん、明け方の客はマユラにはつけないで。アブナイ奴が多いわ」
「わかってるよ。俺もあの子が好きだよ」
「いい人よねえ。多賀さん。あいつの友達なだけあるわ」
「ママ……あいつは……」
「ごめんなさい。忘れましょう。彼の死はもう受け入れてるわ。あっけなさすぎて立ち直るのに時間がかかったけど、もう大丈夫」
「ママ、もしかして?」
「ふふっ。あいつが生きてたらマユラを引き取って、一緒に育てたかもね」
多賀はジャケットのポケットから煙草を1本取り出すとひと吸いして紫煙を吐きだした。
「……今日はヒマだな……」
「困っちゃうわねえ」
 ふたりの視線は時計と電話を行き来していた。

 シャワーを浴び終えた繭良は、またきっちりと服を着込み、畳の上に正座をしていた。湯を浴びたのに躰はガチガチにフリーズしている。上目づかいに見回した部屋は本棚に囲まれ、ぎっちりと本が詰め込まれていた。本棚に入り切らない本は畳の上に積まれ、客の腰かけている低いベッドの上にも読みかけの本が転がっていた。
 繭良は目を上げた。白髪の小柄で痩せた男は年老いているが、か弱く脆い少年にも見えた。小さな顔には大きすぎるギロリとした目を繭良は怖いと思ったが、男は長い間、正座している繭良を見つめているばかりだった。
「新人だって?」
 厳しそうだが落ち着いた声がする。繭良は顔を上げた。
「僕はもう風呂に入った。寒いかい? 震えている」
 繭良ははっとして腕に手をやった。確かに、腕は微妙に揺れていた。
「おいで」
 骨に皮の張り付いたような手が、繭良の前に差し出された。
「大丈夫。緊張しなくていい」
男の手はあたたかかった。
 繭良は男に手をとられ、痺れる足をゆっくりと、おずおずと立たせた。
 優しい抱擁だった。本当の『孤独』というものをまだよく理解できない繭良は幸運だった。男の波動を感じとるよりも緊張が勝っていた。『孤独な男』は、淡々と。しかし優しく、優しく、優しく。繭良を抱いた。
『水揚げ』で聴こえてくる『叫び』はとうとう届かなかった。が、揚羽には『水揚げ』の瞬間がわかった。胸の中にぽっかりと空洞ができ、ひたひたと水が溜まっていく、そんなイメージの感覚が揚羽を襲い、続いて洞窟の奥に住まう隠遁者の孤独感が、揚羽を包んだ。
―マユラ、どうして叫ばなかったの? どうして助けを求めなかったの?
 揚羽は『叫び』を聞く事なく繭良を出迎えた。 繭良の新しい生活が始まった。


 一週間の『遠征』から戻った靭彦は、ベランダのプランターを見てショーコを呼び付けた。
「なんか、元気ないやつがあるよ」
「え?」
ショーコもベランダにやってくる。
「ちょっと、葉の先が黄色くなってる、抜いちゃうよ」
「待って」
「なんで?」
 ショーコは哀しげに靭彦を見上げた。
 ショーコの目から大粒の涙がこぼれる。
「なんだよ? どうしたんだよ?」
「なんでもない。なんでもないの」
「なんでもない訳ないだろうがよ?」
「ハッカ……」
「ハッカ?」
「ハッカ、だったの、それ」
「ハッカ、かあ……。で、なんで泣くの?」
「……枯れちゃった……」
「しょうがないだろ。枯れたモンは。あ、これから新しいの買いにいく?」
 ショーコは泣きやまず、ベランダから室内へと戻っていった。
「待てって。どうしたんだよ?」
ショーコは自分の部屋の中央にぺたんと座ったまま、涙を流しつづけていた。
「ショーコ、仕方ないって。お互い忙しかったしさ。それに……寿命、とか、さ」
 靭彦はどうしたら良いのかわからず途方に暮れた。
「ユキ、ハッカあるの、知ってた?」
「いや。いつの間に植えたんだよ? 一緒に植えなかったっけ?」
 予告なしの間違いさがし、それも微細なものを見つけろというほうが無茶な話だ、ということはショーコにもわかっていた。一緒に暮らし始めて共に見つけたハッカの苗。大切に育てようと笑い合った記憶。あの、幸福感は? ふたりは今、共に居るのに。
―これ以上の、何が足りないの? 何が余計なの? 何が欲しいっていうの?
 ショーコは自分でも訳がわからず泣き続けた。
 靭彦は静かにショーコの部屋を出ていった。
―そっとしておこう。
 靭彦はそう考えていた。それが最良の策であると。それが間違いともわからずに。だが彼にはそれしか思いつかなかった。
 靭彦が居間で月琴の弦を張り替えていると、目を真っ赤に腫らしたショーコがやってきた。
「ユキ、さっきはごめんね。びっくりさせて……」
ふわふわとした動作でショーコは靭彦の背に流れついた。
「いや。落ち着いた?」
「うん。弦、張り替えてるんだ?」
「海の近くにずっといたから。潮風でちょっと痛んだ」
「ユキ、海はキライ?」
「いや。どちらでもない」
「森はキライ?」
「どうかな。考えたことないや」
「砂漠は?」
「ちょっと行ってみたいかな? あ、楽器がやられるかも。でも、もともとは水の少ない乾いた土地のものらしいし……」
 ゆらり、とショーコが靭彦の背中から離れた。
「ショーコ」
 呼び止めた靭彦の声にふわりと振り返り、ショーコは「なあに?」と聞いた。
「いや……。お前、大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
「だいじょうぶ。だいじょうぶよ」
 わずかな力をふり絞るようにうっすらと、ショーコは微笑んだ。どこにだって、ふたりで行けると思っていたのに、とショーコは無理矢理に笑顔を作り食事の支度にとりかかった。


「アサミさん、おかえりなさーい!」
 仕事を終えて戻ってきたアサミを、繭良はリビングの座敷で元気良く出迎えた。
「マユラちゃん、ただいま」
 アサミは昼間の仕事を持ちながら週に何回か『蝶の家』で仕事をしている。二十八歳というアサミはごく普通の女に見え、こんな仕事をしているようには見えない。繭良はおっとりと優しくて、時々客からのプレゼントであるお菓子や花を分けてくれるアサミが大好きだった。
「アサミ、柴田のところ行ったんだって?」
 アサミと同時期に入った、彼女と同い年のリサが意味ありげな口調で尋ねた。
「柴田? あの柴田さん?」
 繭良はその客についたことはなかったが、噂には聞いていた。
「ね。アサミ、今日は奴、どうだった?」
「あのねー! 今日も凄かったの!」
何が、何が? と退屈していた、若いミズキとカナコもアサミに席をあけてやりながら身を乗り出してきた。
「今日はね、ワインレッド……っていうのかな? あんな赤い色のガウンにブランデーグラス持って出てきたの! ピンポンしてガチャってドア開いたら、その格好で『やあ』だってえ!」
「きゃーっ!」
 ヤダー! と一斉に黄色い声が合唱する。
「でも河合も強烈だよね?」
リサは長くきれいにカールした睫をぱちぱちとまばたきさせ、繭良に同意を求めた。
「誰ー? 河合って?」
 新人のミズキは変わった客の話題に興味シンシンだ。
「河合って……。リサさん、あの河合? 私、行ったときになんか……レースのスケスケの女物の下着つけてて……」
「そうそうそうー! で、どピンクー!」
「やっだあ! すごい変態!」
 ミズキが鳥肌ー! と叫ぶ。
「でもやることはやるんだよね」
うん、と繭良は頷いた。と、繭良の目にアサミのカーディガンの袖口が飛び込んできた。テーブルに引っ掛かった袖口がめくれ……繭良は見てしまった。
 ミズキとカナが仕事に呼ばれ、アサミが席を立ったスキに、繭良はこそっとリサに声をかけた。
「リサさん……あの……」
「見た?」
「うん」
「柴田のヤロウ、またやったんだ。アサミかわいそうに。また縛られちゃったんだ」
「あんなに……跡ついてた。そんなことするなら専門のところに行けばいいのに」
「アサミもアサミだよ。笑ってすませることじゃないって、私も言ってるんだけどさ。下手に気にいられちゃって……」
 仕事から戻ってくるときは皆、笑顔だ。仲間の顔を見るとほっとするのだろう。本当は酷い扱いを受けたとしても、とりあえず彼女たちは笑顔を見せる。そして客の愚痴を冗談のように語り、みんなで客を笑い合う。洒落にもならない場合は、それでも笑顔で語る女を、みんなで慰め、時には電話番にブラックリスト申請をする。ブラックリストの決定は最終的には揚羽が下すが、多賀がこっそりとリストに加えてくれることもある。ごくたまに暗い顔をして戻ってくる女もいるが、そんなときはすぐに帰ってしまうか、その日限りで顔を見せなくなる。
 それゆえ『お茶ひきタイム』の会話のなかでの客の情報交換は貴重だ。上客については女同士の衝突を避けるためか、めったに語られることはないが、要注意人物の場合には情報によりある程度の予防策を講じることができる。女たちは自分で自分の身を守らなければならないのだ。夜であれば、電話番の多賀がある程度は客によって女を選んでくれる。得手不得手は人により違いがあるということを、多賀は理解している。ただややこしいのは、客が女によって態度を変える場合だ。
多賀にアガリを渡しに行ったアサミが席に戻ってきた。
 待ち構えていたリサはアサミに対して説教をはじめた。『蝶の家』では繭良が一番若いのだが、若手であまり気の回らないミズキとカナコのような女たちには聞かせたくない会話も繭良なら、という雰囲気があった。
「アサミ、また縛られたでしょ?」
 アサミは思わずガーディガンの袖を伸ばし、ためらいがちにうん、と言った。
「ダメだよー。ちゃんとママに言った?」
「まだ……」
「マユラちゃん、あいつさ、私が行くと『あなたさまの犬にして』とか気色ワルイこと言うのにさ、アサミだと全然態度ちがうの! あいつには気をつけたほうがいいよ。アサミ、あんたもはっきり言っていいと思うよ」
「でも……」
 諦めているのかアサミは言った。
「私だって嫌。でも仕事だし……。とにかく笑って……笑うしかないのよ。トラブルも嫌だし怖いのも嫌なの」
 リサは奇妙なアサミの迫力に黙った。
「リサ、ありがとう」
 にっこりとアサミが笑う。リサは表情を見せず視線をアサミからずらした。
「じゃあ、今度、私があいつの所に行ったら、思いっ切り踏んづけてやるから」
「お願いね」
 アサミは両腕でリサの首に巻きついた。このふたりは対照的だが仲がいい。
 そんな『蝶の家』の日々は過ぎていった。この種の『仕事』に対し何の予備知識もなかった繭良には不思議に思えること多々あった。
 まず、客の男たちの大体は女たちがこの仕事に就いた動機を訊きたがるのに、繭良がごく簡単に「ママにお世話になっているから」と答えてもまず信じることはない。どうせ遊ぶ金欲しさで趣味と実益を兼ねているのだろうという嘲笑と返答が返ってくる。そう思わなければ抱けない、という優しさのかけらもない口調で。そして大きな疑問があった。
 電話番の佐々木や多賀が「若いコが欲しい」とぼやくのに、圧倒的に二十代後半以上を求める客が多い。若手でコンスタントに指名客が入るのは繭良ぐらいだ。カナコも容姿端麗であるのに年齢の若さを理由に「チェンジ」をくらうことが多い、とよく愚痴をこぼしている。繭良もそういう事が何度となくあった。他の年上の女たちが出払ってしまい仕方なく繭良を受け入れた、そんな客についたとき、繭良は試しに『ダイブ』を試みた。
 繭良は愕然とした。
 それはひとことで言えば『求める』心だった。ダイブした客の内部は赤ん坊の泣き叫ぶ声で満たされていたのだ。繭良はそんな『泣き声』を抱きしめるイメージを作り、あやしてやった。すると、客は行為の途中でありながら、すやすやと眠ってしまったのだ。
 繭良は揚羽のスキャンの話を思い出さずにはいられなかった。しかし『ダイブ』による疲労は激しく、客の満足げな寝顔がなぜか慰めになった。
―みんな、どうして泣いてるの? 
『ダイブ』は疲労するものの行為による肉体的な損傷が少なく、また客の欲求を押さえるのには役立ったが、なかには身の毛もよだつ『内部』を持つ客もいた。
あるとき繭良は『ダイブ』するつもりはなかったが、つい客の『内部』に立ち入ってしまった。そこでも赤ん坊は泣いていた。繭良が赤ん坊を抱きあやすイメージを作った時だった。ぐい、と繭良の首に客の手が食い込んだ。我に返り繭良はベッドの上で自分にのしかかり、ぎゅうぎゅうと自分の首を締め上げる客の顔を見上げた。
「親が……親が何してくれたっていうんだよ」
 三十代前半らしきその客は、本当に涙を流していた。
「一体、親が俺に何してくれたって言うんだよ?」
 繭良は無抵抗だった。目の前が赤く霞むまで、じっと男の顔を見上げつづけた。眼前で光点が踊りはじめたころ、ようやっと男の手がゆるんだ。繭良は体を起こし、ゲホゲホと咳こんだ。裸のまま、ベッドに手をついて、男はおいおいと泣き続けた。やがていくらか落ち着きを取り戻した男は、繭良に謝りもせず規定の金を持たせるとホテルの部屋から追い出すように繭良を返した。危険を感じた繭良はその日から『ダイブ』を止めた。
―どうしてみんな泣いてるんだろう? 
繭良はアサミが笑顔でありつづけようとする理由が、少しだけわかるような気がした。
 繭良が『蝶の家』で『仕事』をはじめてから、二年が経とうとしていた。

 寒い夜だった。
 靭彦は馬頭月琴に布を巻き、大きめの巾着袋に月琴を入れて移動した。靭彦は空を見上げた。
―雪になりそうだ。
 はらり、と白い粒が靭彦の眼前に舞い降りてきた。
―やっぱり……。
 じゃく、じゃく、と降り積もってゆく雪を踏みしめ、チームは移動していた。
―何だか嫌なミッションだ。
 そう思っていたのは彼ばかりではない。皆、一様に無言だ。チームの中にショーコの姿はなかった。今回、ショーコの出番はない。万が一の場合でも、威嚇射撃程度にとどまるならスナイパーは必要ないからだ。その上、今回は『できるだけ生きたまま』ターゲットを捕らえるという指令が下されていた。あの日のショーコの泣き顔、そして自分を送り出す複雑な微笑が靭彦の頭をよぎる。
―何で俺たちがこんなことするかなあ? 
 靭彦の不満を感じとったのか、彼と並んで歩き出したルカがこそりと靭彦に語りかけた。
「靭彦、油断はできない相手らしい」
「だから俺たちが出るワケ?」
「だろ?」
「センターの奴らの仕事じゃん? これって」
「あいつらの手に負えないから回ってきたんだろ?」
「ルカ、お前のシールド、必要ないんじゃないか?」
「今回は俺もシールド破りだよ。たぶん」
 のったり歩くふたりのインカムに班長の罵声が飛び込んできた。
『遅いぞ! 俺が現場にいないからって気い抜くなよ! お前たちの行動はしっかりキャッチしてるからな!』
「オフにしちゃおうか? 回線」
 靭彦がルカの顔を見る。送信スイッチを入れて「了解」と伝えるルカは苦笑してみせた。  ルカは前方をひとりで歩くゲンに声をかけた。
「班長がもっとゆっくりでいいって! 慎重に、だってさ!」
 本来ならセンサーを操作するゲンがしんがりにつく。ゲンもそれはわかっているはずだが、余程「さっさと済ませたい」のだろう。ゲンは歩調を緩めなかった。
 ちらちらと降る雪はしだいに勢いを増していった。

「あ、雪!」
 繭良は窓に駆け寄り少し開いたカーテンをさらに開いて歓声をあげた。
「『あ! 雪』じゃないよお」
 不機嫌そうに煙草の煙を吐き出したのはヒカルだ。
「何も復帰一日目にしてこれはないんじゃない?」
「そうねえ。もう戻ってくるなってことなんじゃなあい?」
 肩にストールを羽織った揚羽がリビングのソファから声をかけた。
「えー? いつでも戻ってこいっていったのママだよお?」
「そりゃ言うわよ。あんた稼いでくれるもん」
「じゃあママ、雪、ストップさせて」
「高いわよ」
 決して本気では言い合っていないのがわかる背後のやりとりにはお構いなしに、繭良は「どんどん降ってくる!」と、はしゃいでいる。
 天気予報は的中した。今日の夜番であるアサミとリサは電車の運行を考慮して早めに帰らせていた。今、『蝶の家』で『仕事』のできる女は揚羽を含めても三人しかいなかった。
「まあこの調子じゃ今日は早じまいね」
揚羽はため息まじりに言った。
「多賀さん、寝てるんじゃない?」
ヒカルも復帰一日目にしてヤル気ナシだ。
「かもね」
 揚羽はリビングから出ていった。
 ヒカルは揚羽の背中を眺めながら、ひとり、不安を打ち消そうと必死になっていた。灰皿にチェーンスモーキングしている煙草の吸い殻がどんどん積まれていく。
―多賀さんがいるけど、あの晩とほぼ同じ編成じゃない……。ああ、イヤなこと考えてる場合じゃないって! どこかの物好きから仕事の電話入らないかな? 
 時刻は終電時刻を過ぎようとしているところだった。夕方から、まだ一本も電話がない。天候のせいとはいえ、珍しいことだった。
 揚羽がキッチンから湯気の立つカップを三つ、トレイに載せて運んできた。
「ココアでも飲まない?」
 あえて陽気を装うように、揚羽は明るく言った。
「めずらしいねー。ママ! これじゃ明日まで猛吹雪だね!」
 意地悪く言う割にはヒカルは嬉しそうだ。繭良も今度はママのココアに歓声をあげ、座敷のテーブルの前にちまりと座った。
「今日は人数少ないし、こんな天気だし多賀は帰したわ。ヒカル、泊まっていくんでしょ?」
「うん!」
 揚羽特製のココアにはホイップされた生クリームが載っている。最高級のココアに浮かんだ純生クリームは、三人の舌をほどよく暖めた。
「マユラ」
 ややためらいがちに揚羽が切り出した。
「ヒカルしかいないから、今、言ってしまうわね」
 繭良は緊張を感じながら頷いた。揚羽が言おうとしていることはわかる。繭良は稼いだ金から律義に家賃を揚羽に支払おうとしたが、揚羽はがん、として繭良の取り分からは一銭も受けとらないと拒否した。それなりに旅立つ資金は貯まっていた。揚羽は『蝶の家』から出ていけというのだろう。と、繭良は覚悟した。
「マユラ、私が言いたい事、だいたいわかるわね? あなた、もう『上がり』なさい」
 やっぱり、と繭良は目を伏せた。
「もうこの仕事は辞めて……でも、もし良ければ……ここから学校に通わない?」
「えっ?」
 意外な言葉に繭良はカップを落としかけた。
「『仕事』もしないのにここにいるのは忍びないって思ってるでしょうけど、そう考えてるのはあなただけ」
 繭良の横でヒカルも頷く。
「もちろん、ここを出てひとりで暮らしはじめるのもいい。紋白を探しに行くのもいい。それはあなたの自由だわ。でも、マユラ……」
 揚羽は頼み込む視線で繭良を見据える。
「私はあなたにここに居てほしいの。約束とは違ってしまう。でも、本当にそう思っているの。他の仕事をするのも学校に行くのもいい。ここから通わない? もちろん紋白を探すのもいいけど、帰ってくるのは……ここであってほしいの」
「揚羽ママ……」
「ただね、もうここの『仕事』は辞めて。そして……私の『娘』にならない?」
 繭良は両手でカップを持ったまま、口をポカンと開けていた。
「マユラ。お口ポカンしてると涎たれるよ」
ヒカルの言葉に繭良はあわてて口元をぬぐったが、まだ涎は垂れていなかった。
「こんな母親は嫌?」
「マユラ、本当に自分の行きたい道を選ぶんだよ?」
 ヒカルの言葉には揚羽を応援する色があった。
 繭良はうつむき、考え込んだ。外で雪の吹雪く風音が、室内にも響く。
 繭良が口を開く。
「ママ、私ね自分の『おかあさん』って会った事ないの。でもね。ここで何人もの『お母さん』に会う事ができたよ。もちろん揚羽ママも含めて」
 揚羽の瞳がゆるゆると潤む。
「揚羽ママにはとっても感謝してる。私……揚羽ママの娘になりたいって思ってる」
「マユラ、ほんとう?」
「うん。でも……」
「マユラ、あなたはもう十分、ここで働いたわ。あなたがどうして『仕事』をしたがったのかを教えてはくれなかったわね。私にはなんとなくわかっていたわ。だから『仕事』はさせたくなかった。でもあなた、頑固だし……」
 ヒカルがふふっと柔らかく笑い声をたてた。
「『もう、いい』のよ。もう、ここまでにしなさい。そして……」
「揚羽ママ……」
 揚羽の言葉は、啓示のように繭良の心に光をともした。
「『もう、いい』の」
「『もう、いい』の?」
「そうよ。マユラ。あなたはこれからどうする?」
「……『紋白』を……探そうと思う」
―ルーの……多分『遺言』だから。
 繭良はカップに口をつけた。よく練られ、クリームを載せていたココアはまだ熱を失っていない。
「探し出せたら、戻ってきてくれる?」
「帰ってきてもいいの?」
「ええ。私に『おかえりなさい』って言わせて。今度こそ『母親』として」
「『おかえりなさい』……かあ……」
夢見るように、繭良は目を細めた。
「『有栖川繭良』として、帰ってきてくれるのね?」
揚羽は繭良の横に移動し、隣に腰を下ろした。
「ありすがわ?」
「ママの本名だよ」
ヒカルが説明した。
「本名は知らないけれど。ね? ハヅキさん!」
「きっちり知ってるじゃないの? まったく、油断ならないわね」
「でも女でも違和感ない名前だね。男のときの名前ってあるんじゃないの?」
「あら、情報不足ね。『有栖川 葉月』。正真正銘、本名よ」
「『ありすがわ まゆら』かあ……」
 繭良は舌足らずになってしまいながら、幾度もその名前を繰り返した。
 揚羽……葉月とヒカルは繭良をはさんで顔を見合わせ、微笑んだ表情が一瞬にして凍った。繭良の両端のふたりが、ざっと立ち上がった。厳しい声で揚羽が繭良に言い放った。
「マユラ、いらっしゃい。紋白の手掛かりを渡すわ」
「ママ。シールドの補強は任せて」
ヒカルの目も厳しいものに変わっている。
「頼んだわよ」
 繭良はそのまま説明もなく引き摺られるように揚羽の部屋へと連れていかれた。
 揚羽は鍵のかかった小さな宝石箱を繭良に渡すと、すぐ荷造りするよう言った。
「揚羽ママ……」
揚羽は繭良をぎゅうっと抱きしめると、躰を離すや否や、聞き覚えのある台詞を言った。
「とにかく、今は急ぐの」
 繭良はルーの最期の言葉を思い出し、硬直した。
「いい? 繭良、ここを離れるわ。もちろん、一緒によ。紋白の手掛かりはあなたに渡しておく。いいわね? 誰にも渡しては駄目よ」
 繭良は泣きそうになるのを必死でこらえ、うん、と答えた。
「すぐ支度してらっしゃい」
 揚羽の部屋を出ようとした繭良が振り返った。
「揚羽ママ!」
「なに! 早くしなさい!」
「いっしょ……だよね? 一緒にいてくれるよね? 『おかあ…さん』?」
「ええ。当たり前じゃない!」
 力強く、揚羽は頷いた。繭良を自室に向かわせた揚羽は、必要最小限のものをまとめておいたバッグを肩にかけ、ヒカルの居るリビングへと向かった。リビングで真ん中に位置していたヒカルは意識を集中させ、足は座禅のポーズを組み、両手を真横に広げてエネルギーを放出させていた。
「ヒカル、お待たせ! 代わるわ!」
「大丈夫よ。ママ」
「逃げなさい! ちびちゃんたちのためにも!」
「ママ……」
ヒカルは自嘲気味の笑みを浮かべると言った。
「親権、とられちゃった。もう、会えないのよ」
「ヒカル……」
「あたしなんかよりずっと、揚羽ママはいい母親になれるよ」
「いいから早く逃げなさい! あんたも『センター』にとっちゃ『使えるヤツ』だってこと、忘れるんじゃないよ!」

『サーモグラフィー、ロスト。カンづかれた』
『蝶の家』の裏手にまわっていたゲンの緊迫した声が、インカムからとび込んでくる。
「ルカ、こっちのカバーしてなかったのかよ?」
「してたら余計に早くバレてたよ。不自然な気配出すんだから」
「なーんで、売春宿相手に俺たちが出るんだよ?」
 靭彦とルカは『蝶の家』の正面玄関を前にしていた。

「ママ、裏手のほうが手薄だわ」
「その分『網』がセットされてるはずよ。裏から出たら思うツボだわ。『ネット』にひっかかって意識不明のまま連行ね」
「正面から攻めようなんて、バカにしてるね」
「まったくだわ」
 シールド補強を固めたヒカルはソファに繭良を座らせ、繭良の両肩に手を回し抱く姿勢をとっていた。無言のままの繭良は、この期に及んでもはっきりした『異変』を感じとれない自分が不思議だった。
―疲れてるのかな? でも、危険な状況だっていうのに……。
「脱出、どうする?」
 ヒカルが揚羽に聞く。揚羽はリビングで腕組みをして立ったまま、玄関の方角をにらみつけている。
「仕方ないわね。ヒカル、あんたマユラの部屋で彼女を守って」
「ママ!」
 ヒカルが抗議の声を上げる。
「私だけがおとなしく連行されれば問題はないかもしれない」
「イヤ!」
 激しい口調で叫んだのは繭良だった。
「ダメだよ! 一緒だって、さっき言ったじゃない! 嘘だったの?」
 繭良はヒカルの制止もきかずに揚羽に詰め寄った。
「ダメ! 『お母さん』は渡さない! 一緒だよ!」
「でも……」
揚羽は済まなそうに繭良の目を見下ろした。
「ママ、ママもこの子の頑固さは知ってるでしょ?」
ヒカルが明るい声で揚羽に問う。
「あなたたちに余波が及ぶのは……」
 揚羽はストールを羽織った腕を大きな鷲の翼のように広げた。揚羽の躰が、金色に輝く。繭良とヒカルは意識を失った。

 それは雪ではなかった。
「なんだ、これ?」
ルカは肩に降りかかる金粉に首を曲げて、その粉を確認しようとした。
「ルカ! それに触れるな! シールドを張れ!」
 靭彦の怒声にルカはあわててミッションメンバーの波長をまとめ「包む」シールドを張り巡らせた。しかし粉は『蝶の家』周囲の空中から突然現れ、しかもどんどん舞い降りてくる。キラキラと光る粉は蝶の鱗粉に似ていた。靭彦は馬頭月琴を構えた。
「突破するぞ」
―蝶の家へようこそ。
 長いスパンコールの臙脂色のドレスにストール姿の揚羽は、長い廊下から玄関に向かって彼らを待ち受けていた。
―あなたたちの『蜜』、残らず吸わせてもらうわね。
『蝶の家』のシールドはなかなか破れなかった。
 下品な四文字言葉を怒鳴り散らす靭彦の横で、ルカの躰がぐらりと傾いだ。
「ルカ!」
 床の上に膝をついたルカを靭彦は引っ張り上げた。
「すまない……」
「その鱗粉みたいな粉に気をつけろ。それから、とにかく気をしっかり持つんだ。いいか、何も考えるな。『ひきずられ』て喰われるぞ」
「そうだな。相手は……。あ、ゲンは無事だろうか?」
「あいつが潰れても『網』が仕事するさ。それに、ゲンだったら資料をちゃんと読んでるし俺たちよりキャリアもある。わかってるはずさ」
気休めでしかなく、靭彦も心配していた。が、今はそれどころではない。
「こんなことが……」
 ルカの目がだんだんと半開きになっていく。靭彦はルカの頬を張った、つもりだったが、身長差のある靭彦の強烈な一打は平手とはいえルカの口元にヒットし、彼は唇を切ってしまった。
「いってえ……。でも、おかげでちょっと、目が醒めた」
 ルカは痛みの持続する傷から血をぬぐうと、頭をぶん、と振った。靭彦も自分を維持するのに必死だった。
「ルカ、シールド破りに回ってくれないか? こっちからのシールドは持続を考えなくていい。俺も考えて行動するから心配するな。破るのはすこしずつ、溶かす感じでいい。俺はこの鱗粉のエフェクトをなんとかする」
「珍しく、頭脳戦だね」
「俺も気い狂いそうなんだよ! 効率良くいこうぜ!」
―ふん。まだ小僧じゃないの? すぐに昇天しちゃうんじゃないのお? 来てご覧なさいな? カラッポにしてあげる……。
 不敵に笑い、揚羽は口紅を塗り直した唇を舐めた。
 ゴオと舞い上がる雪と金粉のなかで、靭彦は弦をかき鳴らした。風の音を歪ませ、弦はもがき叫ぶ。
「靭彦、もう少しだ!」
 ひときわ高い音で、靭彦が弦をはじく。

 ギインッ!

 靭彦とルカは猛烈な勢いの風とともに『蝶の家』の玄関から廊下へと転がり倒れ込んだ。
「ゆきひこ……」
 呆然とルカは呟いた。靭彦は言葉も出なかった。
 一匹の巨大なアゲハチョウ……。まずふたりが見たのは『それ』だった。破ったはずのドアを閉めた覚えはないのに、雪の舞う、あの風はない。あたりは菜の花畑のただ中と見まごう黄色に霞み、すべてのパースが失われている。 巨大なアゲハチョウのゆったりとはばたく羽の動きに合わせ鱗粉は渦を巻き、ふたりは視界が霞むのを感じた。
「ようこそ」
 巨大な蝶の前に、ストールを羽織り腕組みをした長身の女が立っている。
「楽しんでいってね」
 女が腕を広げた。
「ゲン! ターゲット、ロックオン!」
 靭彦はインカムに向かって声を張り上げた。鱗粉はスローモーションの吹雪となり舞い、どんどんふたりを包みこんでいく。
「あ……あああ………」
 ルカが自らの両肩を抱える。
「もっと、楽に…そう。受け入れて。だんだん、良くなっていくから」
 ルカに向けられた長身の女の微笑みに、靭彦の全身が粟立った。
「ふふ……。素直ねえ? ふたりいっぺんなんて……。ほんとはダメなのよ?」
揚羽の両の瞳が、靭彦に向けられた。
「私が必要なのは、本当はあなたのほうみたいね?」
 靭彦の左肩がピクリと上がった。
「う……ああ……ああ……!」
「ルカ!」
 靭彦の隣でルカが両膝をついた。震え、涙を流し、傷ついた口元からは細かな泡が唾液とともに滴り落ちている。

 ギイイイイッ! 

 靭彦の弦が吠えた。が、音は鱗粉に巻き取られ、柔らかな余韻とともにかき消され、揚羽はダメージを受けた様子もない。ルカは倒れ、ぴくぴくと痙攣している。
「金髪のボウヤのほうが実は素直じゃないのよ。苦労性っていうのかしら? この程度でこんなに『気持ち良く』なり過ぎちゃうって、そういうことね」
「どこが気持ちイイんだよ!」
 靭彦は鱗粉の波から顔を庇おうと必死になりながら、叫んだ。
「わからない? 『よがって』るのよ? 彼。快楽に弱い人間はね、常日頃、快感を拒否しながら生きている。『至高の快楽』を求めるなんてもってのほかって思ってるのよ。でも、それじゃあ人生楽しくないわよね?」
「ゴーカンだろ! これじゃ!」
「違うわ。だって彼は『リンク』したもの。解放されたがってたのね」
「ざけんな!」
 弦をはじこうとした靭彦の指は動かなかった。
―なんだ? 
 パニックを押さえようと靭彦は呼吸を整えた。
―駄目だ。エキサイトしたら相手にノせられるんだ……!
 しかし靭彦の視覚は、鱗粉の群れを本物の菜の花畑として認識しはじめていた。
―メクラマシだ。こんなのは幻覚だ!
 意に反して靭彦は喉のあたりが溶けて『自分』がそこから流れだしてゆく感覚をおぼえ始めていた。靭彦は背後に人間の体温の温もりを感じた。『体温』は背中から、肩から、彼を優しく包み、それと同時に靭彦は体内に赤く熱い球の固まりが発生し徐々に膨脹してゆくのを感じた。躰が、じんわりと熱くなってゆく……。誰かが靭彦の名前を呼んでいる。女の声だ。それは背後から聞こえてきた。
―駄目だ……。振り向くな。
 靭彦はぎゅっと目を閉じた。靭彦を呼ぶ声は、どんどん近くへ迫り、とうとう耳もとで吐息を感じるまでになっていた。
『ユキ……あなたは……さみしくないの? 私はひとりで……ふたりでもひとりぼっち』
―ショーコ!
 靭彦はがっと目を見開き、揚羽の気配に意識を集中させた。
「あんたのオモチャにされてたまるかよ!」
 靭彦は弦に指を走らせた。もう、止まらなかった。

 ギイイイイ! ギイイイインンンッ!

「てめえ、いい加減にしやがれ! 勝手に俺に『触る』んじゃねえっ!」
 鱗粉の群れは裂かれ分断され揚羽の姿がクリアになってきた。しかし、彼女はまだ余裕を見せつけている。その姿が掴めても鱗粉の群れは次々と襲いかかる。黄色い霞みを裂き、靭彦は一歩一歩、揚羽へと近づく。目を血走らせた靭彦の耳というより頭の中に、低くこだまする揚羽の声が響く。
「あなた『孤独』って知ってる? ほんとうの『孤独』に出会ったことがある? あなたは自分以外の『孤独』に触れてみたことはある?」
構わず進む靭彦の耳に、さみしげに語りかける揚羽の声もまた鱗粉として張りつき、ディレイする言葉は耳に幾度も反響し残響を置いて行く。靭彦は足を踏み出していった。

―あれは……弦の音? 
 乳白色のもやがかかったように頭がぼんやりしている。繭良はベッドの上でぐらぐらする躰を起こした。いつの間にか自室にいる。傍らにはぐったりとヒカルが横たわっていた。
「ヒカルさん! ひかるさあんっ!」
 繭良はヒカルの躰を揺すったが、ヒカルはぴくりともしない。繭良はヒカルの胸に耳を当て、心音を確めた。どうやら深く眠らされているだけだ、と確認し安心した繭良は、揚羽の事を思い出した。
―そうだ! 揚羽ママは? 
 よろよろと、ふらつく足で繭良はベッドを降りた。

 パキイン! 

 巨大なアゲハチョウの幻影が消し飛んだ。
 あたりは通常の景色を取り戻し、靭彦は揚羽本体と対峙した。
 揚羽はうろたえもせず、腕組みをしたまま小柄な靭彦を見下ろしている。ふたりは視線を合わせたまま動かなかった。肩で荒く息をつき、靭彦は弦からバチを離した。
「元『スキャナーズ』、『揚羽』だな」
「そうよ。あなたはハンターね?」
「ああ」
 妖艶な風貌とは裏腹に、濃いアイシャドウで彩られた揚羽の目は澄み切っていた。
―何者なんだ? こいつは……? 会ったことのないターゲットだな。
「おとなしく、捕まる訳にはいかないのよ」
「俺はこのまま同行してほしいな」
「ダメよ。私、子持ちなんだもの」
「子供?」
「ええ。一児の母。おかしいかしら?」
「……いや」
「ふふふっ。嘘つきねえ」
「ちがう。あんたが『母親』と言うならそうなんだろう?」
 揚羽は嬉しそうに笑うと、組んでいた腕をゆっくりと解いた。靭彦も同じペースで右手を弦へと移動させる。揚羽の右の人差し指が靭彦を差したのと、靭彦が弦にバチをあてたのは、ほぼ同時だった。

 びいいいいんんんん………。

 低い弦の音が鳴った。
 ゆっくりと。大輪の薔薇が花びらを散らし手折られるが如き光景。揚羽が真後ろに倒れていくのが、靭彦の瞳に映った。やがて、どさりと廊下に音が響き渡った。
「なんでだよ! 俺は! ここまでは!」
「手間、省けたんじゃないの?」
 間の抜けた声に靭彦が振り向くと、そこには面長で長身の男が立っていた。
「あんたが……。あんたがやったのか?」
「とりあえず『生きていれば』いいんだろ? そんなに壊れてないと思うよ」
 その男の手には、ヘッドに龍の彫刻を施した琵琶のような楽器があった。
「なんでやった」
 怒りを押し殺し、靭彦は琵琶の男に尋ねた。
「時間の短縮」
 その時だった。鋭くカン高い女の悲鳴が廊下にこだました。
「おかあさん! おかあさん!」
 胸に大きなバッグを抱えた、薄茶色の髪の小柄な少女が廊下の向こうから走ってくる。、バッグを放り出すと少女は倒れた揚羽を抱き起こし、激しく揺さぶりながら『おかあさん』と揚羽に呼びかけ続けた。目を閉じた揚羽は血の気のない顔のまま、反応を示さない。わあっと少女が揚羽にとりすがり号泣する。
 そんな光景を前に、琵琶の男は全くその場にそぐわない口調で少女に声をかけた。
「よお。ちび。いや……繭良、久し振り」
―マユラ……だって? 
 懐かしむ風でもなく、淡々とした琵琶の男の声に、少女はビクリと顔を上げた。
「……ひな……つ……?」
 靭彦は我が目を疑った。十年以上の月日が流れているにも関わらず、かつての面差しははっきりと、彼女が誰であるのかを証明していた。
「日夏……。どうして?」
「あのオジサンがさ、戻れってさ」
 繭良は震えながら日夏から目を離せずに彼を見上げていたが、ぎゅっと揚羽の頭を抱いている。
「あのさ、そのオバサン大丈夫だから。死んでないから。それ本当は俺の仕事じゃなかったんだけど」
 日夏は靭彦の方に目を遣ってみせた。繭良の目が靭彦をとらえる。靭彦は顔をそむけたかったが、繭良の顔を見返すしかなかった。
「センターの依頼だったんだ……」
 言い訳が先に、靭彦の口をついて出た。靭彦は逃げ出したい気持ちだった。
「『おしごと』だったんだ?」
 靭彦も日夏も責めることなく繭良ははっきりと、そして力強く尋ねた。しかし靭彦は叫んだ。
「マユラ! 何でお前、ここにいるんだよ!」
「え?」
 揚羽の頭を支えたまま、キョトンとした顔になった繭良の視線が馬頭月琴をとらえた。繭良の薄茶の目が、大きく見開かれ、焦点を取り戻していく。
「うそ……でしょう?」
「俺だってそう思いたいよ!」
 かすれた声で靭彦は吐き捨てるように言った。
「ゆき……ゆきひこ?」
「ああ。久し振りだな。マユラ……」
 沈黙したふたりの間に、日夏はずかずかと割って入った。
「ハンターさんは予定通り、このオバサンを持って帰ってくれ。俺は繭良を持って帰るから」
 近寄る日夏に、繭良は座り込んで揚羽から両手を離さないまま、ずるずると床の上を後じさった。
「さ、早く」
 その言葉は背後の靭彦にも向けられていた。
「日夏……こないで……」
「もうキライになった? 『好き』って言ってたのに? まだここで『お勤め』したかったとか?」
 繭良の表情と動きが凍り付く。
「やめろ!」
 思わず靭彦は日夏の背を狙って弦を弾こうとした。が、腹部に衝撃をくらい、後ろへ吹き飛ばされたのは靭彦のほうだった。したたかに後頭部を打った靭彦は、ガンガンする頭のまま素早く起き上がり日夏に目をやった。
 ぼやけた視界に、たった今、弦を弾いたばかりの格好で琵琶を構えている日夏が見えた。
―音……しなかったよな? 
「邪魔するならそれなりの事はする」
 背を向けたまま、日夏が言った。その声からは何の感情も感じられない。
「あんたの仕事は俺とやり合うことじゃない」
 繭良は近寄る日夏にガタガタと震えている。なんとか立上がり、靭彦は構えの姿勢を取った。
「日夏! 言う通りにする。言う通りにするから。だから靭彦には手を出さないで!」
 悲鳴に近い叫びで懇願したのは繭良だった。繭良は愛おしげに揚羽に頬を寄せると、言う通りにするから、と繰り返した。靭彦は力なく、構えを解いた。
「マユラ、お前……」
「ユキ、このひとね、私の『お母さん』なんだ。だから……」
「ああ。大切に運ぶ。センターに送り届けるまで……」
 自分の無力さを、靭彦は呪った。繭良は揚羽のストールを畳んで枕にすると、その上にそっと「母親」の頭を置き、目を閉じた揚羽に「さよなら」と、小さい声で別れを告げた。

 ヒカルは目を覚ました。躰のあちこちを注意深く動かしながら起き上がり、家中を走り回って揚羽と繭良の姿を探した。が、ふたりの姿はどこにもなかった。しかし、残留思念を読み取ることが苦手なヒカルにでさえ『蝶の家』に残された見えない爪痕までしっかりと感じとることができた。
―もう、誰もいない……。
 ヒカルは外に出た。吹雪は止み、しんしんと雪が降っている。マフラーを巻き、コートを羽織っても、明け方の寒さは身に染みた。降り積もった雪の上を何歩か歩いたヒカルは『蝶の家』の入り口を振り返ると、そこに向かって手をかざした。『蝶の家』がごうごうと燃える炎に包まれるまで、ものの数分とかからなかった。
『ファイアスターター』。この能力をセンターが知っていたら、ヒカルを手放すことなどしなかっただろう。燃えさかる『蝶の家』を後に、再びヒカルは歩き出した。足跡はまた強くなった雪に消され地面から埋められていった。

『掃除屋』からの報告は信じられないものだった。すぐに破壊魔の靭彦に嫌疑がかけられたが、共にその場を去ったゲンの証言により、疑いはすぐに晴らすことはできたのだが。
「何ひとつ、現場には残っていなかったそうですね。いや、すべて『炭化』してたとか」
 班長の顔は曇りっ放しだ。
「信じられん……。全焼とはいえ家具の判別もつかないほど燃えてしまうとは」
 しかし、誰よりも心にあの事件が大きくのしかかっていたのは靭彦だった。ルカは幸いにも完全な精神破壊をまぬがれて現在は療養中だが、ギルドへカバーリングスタッフとして復帰の見込みは立たないでいる。『蝶の家』は全焼したが、類焼はなく、すぐ隣に植えられた木々さえ燃えていないということが不思議だった。一同はこのマジックに首を傾げ、いろいろと推測も出たが、榊伊織の直属の人間が居た、という報が入っただけで事態は収束した。そうするしかなかったのだ。
「ショーコ」
「元気にルカが帰ってくるのを待とう。ユキ」
「ああ。そうだよな……」
 繭良の名は会議では出されなかった。榊伊織の養女の保護のため日夏が動いたとしか報告されていない。日夏が来ることを知らされなかったチームメンバーはもちろん抗議したが、急すぎることで連絡が行き届かなかったのだと班長は説明した。自身にも知らされていなかった班長の語調には怒りが含まれていた。
―ヒナツ。何なんだ、あいつは?
 ギリリ、と靭彦は奥歯を噛み締めた。

「まーったく、あいつは。『知らない人についていっちゃいけません』って言葉を知らないのかなあ? まあ素直に僕についてきたのは正しい選択だったと思うけど?」
 とぼけた口調とは裏腹に、伊織は応接室の両端を行ったり来たりとウロウロ歩き回っていた。指には細い葉巻をはさみ、スパスパと口を付け煙を吐き出している。
「行き先はわかったけどさ、よりによって、って感じだね。なーに考えてんだか! ……何にも考えてないだろうなあ……。あいつの事だからね」
 伊織はひとりでぶつぶつと文句を吐いていた。
「あ、ところで繭良、寮生活はどうだい?」
「……みなさん……よくして下さってます」
 無表情で繭良はぽそりと答えた。
「チューニングは殆ど必要なかったらしいけど?」
「はい。『プログラム』も順調で……」
「そう。センターCのトレーナーは優秀だからね」
 伊織の元に戻された繭良はセンターCへ送られ、調整とトレーニングを受けていた。
『蝶の家』を出てから数か月が経った頃、伊織がCを訪れた。揚羽に関して伊織は全く何も言わない。繭良は揚羽の処遇について尋ねることが恐ろしかった。そして突然、繭良を訪ねた伊織は日夏の失踪を告げた。
「なんかさあ、ミョーな自然保護団体ぶった宗教組織みたいなそうじゃないようなグループに行っちゃったらしいんだよね。『グリーングリーン』だっけ? ある日パパとふたりで語り合ったりすんのかな?」
「『インダストリアル・グリーン』じゃないですか?」
 繭良が訂正する。
「なんだかなー? どっかのレーベルからデビューでもすんのかな?」
「音楽活動の、ところ、ですか?」
「お前の『天然』さ、可愛いねえ。繭良。だからは僕は繭良が好きだよ。ま、グチはこのくらいにしとくか。……繭良」
「はい」
 急に柔和な表情を浮かべ、伊織は繭良に歩み寄った。繭良は後ずさりたくなったが、それもできずに、伊織を上目遣いに見返した。
「こわがらなくてもいい。ちゃんと罰を受けたお前は今は被害者さ。でもお前の中じゃあどうかな?」
「罰……ですか?」
「そう。僕にはわかるよ。お前の罪悪感。押し潰されてしまいそうな贖罪への意識。それはもう、いいさ。お前は罰を受けた。ちゃんとね。でも繭良、お前は……」
「伊織さん……」
 繭良は肩を震わせ目を潤ませている。
「かわいそうになあ。かわいそうだ。僕が憎いかい?」
 圧倒されるように迫って来る伊織にずるずると後退し、繭良は首を横に振った。
「知っているよ。お前は嘘をついていない。『力』に関してはお前はもうある程度まで『制御』ができる。もう充分なくらいだ。トレーナーの百済からの報告にはそうあった。いざとなったら鰐笛を使えばいい。お前はもう『能力』を使える……でも僕のためにだけ働け、とはいわないよ」
「どういうことですか? 意味がわかりません……」
 伊織は目を細めて笑顔を作った。
「キレイになったな、繭良。でももっとキレイになれるさ。さまざまな経験はひとを汚しもするが綺麗にもする。お前は決して汚れることはない。お前が望むと望まざるに関わらず、お前は汚れることなどできないさ。世界で最強の鉱物、それも最上級の小さなダイヤモンドのようなものなんだよ」
「余計……わかりません……」
 伊織は新しい葉巻に火を点け、くわえ煙草のまま尋ねた。
「日夏に会いたいか?」
「えっ?」
「会いたくないか? 日夏に?」
 繭良は押し黙り、応接室のカーペットに目を落とした。
「会いたいだろう? すぐには無理だけどね。そしてそのために仕事を頼みたい」
「伊織さんのお仕事を?」
「そう。ダイヤモンドにしかできない仕事さ。やるかい?」
 ややあって、繭良は頷いた。
 それを確認して微笑むと、伊織はふたことみこと、何ごとかを繭良に耳打ちした。
「それじゃあ、電話一本かけるから。荷造りしておいで、出発は明日だよ」
 一瞬目を丸くした繭良は、すぐにもとの無表情に戻り、一礼すると応接室から出ていった。
 伊織は応接室の外線電話を無断拝借し、受話器をとった。受話器の向こうからは、伊織よりも低めだがよく似た声がノイズまじりに聞こえてきた。会話を終え、受話器を置いた伊織はひとり、ふっと「笑った」。
数日後、『紋白の宝石箱』を抱き締め、繭良は早朝のチャイルド・マーケット内にある寮付近を歩いた。時間だった。繭良は『ガーデン』にもルーたちと暮らした屋敷にも行かずに、伊織の差し向けたフォード製の4DWのワゴン車に乗り込んだ。
「山の中を通りますからね。揺れますよ。気分が悪くなったら言って下さいね」
座席にはまったまま動けるのだろうかと心配になるほど巨漢のドライバーが、優しい言葉をかけてくれた。繭良は礼を言って窓の外を流れる景色をしばらく見つめていた。
「さよなら」


「ただいま」
―ちょっとだけ、帰ってきたよ。チャイルド・マーケット。
 靭彦には二、三日とは言ったが、繭良のカンでは伊織は一週間は戻らないだろうと踏んでいた。彼女はまっすぐセンターCに足を向けた。今では所長を務めている横島は快く繭良を迎え、百済への「波動ニュートラル化」依頼を許してくれた。百済は相変わらず人の好い対応で繭良との再会を喜び、差し出された細い手をとった。が、その刹那。極秘にされていた数少ない日夏の情報は、彼の内部から彼の感情とともに繭良へとダウンロードされた。繭良のうなじの産毛がざわりと逆立った。
―もしかして! まさか……。いや、このひとは知らないと思う。
繭良は動揺を隠すのに精一杯努力して、百済に調整とトレーニングのメニューについてにこやかに相談を切りだした。

   ラクリモーザの章

12

「チャイルド・マーケット」のそれぞれのエリアは種類によりさらに拡大と濃縮を進めていた。四年振りに見るチャイルド・マーケットはさらに雑多に複雑に猥雑に進化を見せている。繭良は電子エリアのジャンクショップで、ひとつのパーツを買った。それは小さな真空管ヒューズで、もうそれを使う機材など、余程の好事家がコレクションするクラシカルな物でしかない。しかし繭良はヒューズを手の上で愛しげに転がし、高価なはずのそれを屋台で小銭と引き換えに購入した。
「まいどっ!」
 乱杭歯の黄色い前歯をにっと覗かせて、ジャンク屋の男は愛想よく繭良を見送った。
 繭良はルーたちと日々を過ごした屋敷まで歩いていった。屋敷はきちんとキープされ、繭良が破壊した、あの部屋もすっかり元のとおりになっている。繭良はセンターCに通いながらその部屋で伊織を待ち続けた。

「もう、戻ってきちゃったのかい?」
 結也と同じ顔が、とぼけて言う。
―伊織さん、わかってたんだ? 私が来るって。
 繭良は手のなかの真空管ヒューズを握り締めた。
―拒むことなど、ないと思う。でもそのときは……。
「やっとお会いできましたね」
「うん。忙しいからね。ところで繭良、何を持ってる?」
繭良は真空管を握りしめた左手の力を緩めた。
「よくそんなモノ見つけたなあ。でもお前が持つと物騒だ。立派に爆発物媒体になるからな。早く用件を言ってご覧よ」
―やっぱり。お見通しなんだ。
 繭良は、はあ、と吐息を吐くと、ごくりと喉を鳴らしてから渇いた声で告げた。
「このままでは駄目です」
「ハンターまでいるのに?」
「日夏は……強い」
 伊織は細いメンソール葉巻に火を点けた。
「ああ。それで?」
「お願いがあります」
「誰に? ……って嘘だよ。わかってる。駄目なのはお前だろ?」
「パワーアップのための『許可』を頂けますね?」
 繭良の語調には有無を言わせないものがあった。
「いいけど? お前はいいわけ?」
「時間がありません」
 伊織の葉巻を吸うペースは早くなっていた。
「『洗脳』によるただの兵器になるのは駄目だぞ」
「それじゃ意味ありません」
「だろうな。まったく『別の心』になることはお前にとってラクなことだからな」
「別の『痛み』が必要です。もっと痛くならなきゃ……ダメなんです……」
「『時間もないし』か? お前さあ……」
 伊織はまだ長い葉巻を灰皿に押し付けると、その大きな腕で繭良を軽く抱き締めた。
「どうしてそうなの?」
「わかんないです……」
「ハードだよ? 『センターB』のトレーニング」
「ええ。あそこは伊織さんの許可が必要だから。『痛み』が、私の『力』を強くしてくれるから」
「僕にはそうだとも違うとも言えない」
「センターBに、行かせてください。あの三日間の集中トレーニングを受けさせて下さい」
「繭良」
 伊織は繭良の躰を抱いたまま、顔だけ離してその顔を見下ろした。
「『センターB』ねえ……。自分と向き合う、あのトレーニングだぜ? そこを頼るかあ? お前、お願いはしても『助けてくれ』って言わないんだね? ハンターの増員とかさあ」
「伊織さん、それが無駄でなければ最初からそうしていたでしょう?」
 さみしげに、伊織は言った。
「どうしてだい? 繭良? 僕自身に力になってくれって言わないよな」
「さあ。言ってはいけないと思うから……」
 やや乱暴に、伊織は繭良から躰を離した。
「行けばいい」
 伊織は素早く繭良に背を向け、電話の受話器をとった。
「すぐに連絡をとる。行けよ。すぐにだよ」
 伊織は繭良の顔を見ようとはしなかった。
「ありがとう。伊織さん」
 繭良は「センターB」へ向かった。面会の手続きをとり、雑菌処理を施されシールドリングを腕にはめられ「病室」に入ると、揚羽はまだ蜉蝣の翅に似た幾重ものカーテンに包まれて「眠って」いた。
「おかあさん。ただいま」
その部屋では涙することも禁じられている。揚羽はまだ自身を閉ざし、その扉を開けるのは至難の業であり、慎重さを要した。揚羽ほどの逸材は研究材料として使うこともできない。センターBでは揚羽の目覚めと同時に強制洗脳とトレーニングを計画していた。それでも繭良は願わずにいられなかった。いつか、揚羽はまた大きな翅を広げ軽やかに飛ぶと。そして再び、自分をその大きな胸に抱いてくれることを。
「お、か、あ、さ、ん……」

―おかあさん?
 葉魚絵は漂っていた。不透明な虚空を、しかし冷たさのない人間のふっくらした肌のぬくもりの中を。自分が幼き頃の忘れたはずの覚えてはいないはずの若き日の母の笑顔が繰り返しぼやりと浮かんでは消える。眠る幼な子を起こさないよう静かに嬉しそうに笑う声を葉魚絵は遠くに聴いた。目を閉じているのに、自分が乳白色の霧で埋め尽くされた空間に浮かんでいるのがわかる。その空気の色は、まるで蚕が吐き出したばかりの生糸の色だ、と葉魚絵は思った。葉魚絵を取り巻くその「気配」。それは「いのち」である。と、葉魚絵は感じた。
―こどもを……。
 ああ、涼子だ、と葉魚絵は耳を澄ましたが、それ以上は聞こえない。途端、胸に、腹部に「痛み」というにはそれを越え、しかし表現するとすれば『痛み』としかいえない衝撃を覚えた。やるせなく、せつない喪失感だった。葉魚絵は身をよじってその『感』から逃れようとした。しかし、指の一本も動かせない。焦燥感がじりじりと足元から這いのぼってくる。

―だいじょうぶ。楽にして。

 穏やかなその声が響いて来た。葉魚絵は声の言う通りに深呼吸し、躰の力を抜いた。
―あれは何だろう? 
 目はまだ開けることができない。葉魚絵は頭の中で徐々に像を結んでゆくそれらを、眺めることしかできなかった。
 黄とオレンジの中間の色をした、丸く光りふわふわと流れる球。そのあかりはグラデーションを帯び、いくつも葉魚絵の横を流れていく。
―あかりは一方向へと流れてる。どこへいくの?
 目の前に近い感覚で涼子の佇む姿が浮かび上がった。
 涼子は布にくるまれた大きな二体の人形を抱えている。頭部を細い布か紐でくるまれたその人形はこけしに似たフォルムをとり、涼子の細い腕のなかで身を寄せあっていた。
 胃の奥から酸っぱいものがせりあがってくる不快感。葉魚絵はもう一度深く呼吸をし、意識を平らかに整えることにつとめた。新たなビジュアルが、涼子の像にオーバーラップしていく。葉魚絵は腹に力を込め、不快感に打ち勝とうと決意した。
 あれは涼子と最後に会ってから数日後のこと。偶然テレビに映った地獄の賽の河原そのものの景色が、葉魚絵の目を釘付けにした。夥しい地蔵、赤や黄色の風車、ぼろぼろになった色とりどりの布切れが小さな地蔵たちに絡み付き、風になびいていた。
 葉魚絵はその映像を見るや否や、トイレに駆け込んで吐いた。吐くものもなくなり、細かな泡ばかりが口から溢れ出て、それすらも途絶えても胃はヒクヒクと水の逆流するポンプとなり動き続けていた。涼子のあの告白と表情が、かき消そうとしても脳の皺のひだにこびりついて離れなかった。
 涼子が抱いているのはオシラだ、と葉魚絵が気付いたのは、その記憶がリプレイされてからだった。涼子の消滅させた『いのち』も、あの場所にたどりついたのだろうか? 『命』であったものの流れつく場所は、あの賽の河原なのだろうか? 安らいで楽しく遊んだり子供らしく温かな腕に抱かれることはないのだろうか? すべてはそうなのだろうか? ひとつの生命を潰したのは自分ではない。涼子だ。あの消滅させた生命の種があの荒涼とした地に流れつくことを、自分は哀れんだのだろうか? そして自分は涼子を嫌悪したのだろうか? 否。と、完全に否定できるだろうか? いや、しかし葉魚絵自身も生きるものの命を奪い、糸を織りあげているではないか。
 葉魚絵は繭良にいざなわれ、オシラ小屋に立ち入った時の事を思い出した。無意識に感じた嫌悪。あれは……? 
―『わたし』は、何を思っていたのだろう? 私は、何を考えていたの? 
 葉魚絵は泣きたくなった。しかし涙は出ない。

―いきているの。すべては。生命の存在や『ちから』というものを強く思い出したり、感じたりするとね、ひとは影響されるものなのよ。それはね、いろいろな形で出るの。時にそれは喜びと認識され、時にそれは恐怖と思えるものなのよ。だけど、怖がらないで。だって、あなたも生きている。あなたもひとつの『あかり』なのだから。あなたもその『存在』のひとつなのだから。命は「かたち」となる前から自分の宿命を知っていたりその使命を帯びていたりするの。ただ母親やそれに準ずるものを恋しいと思う命も含め。「命」のあかりは様々なのよ。消えゆくものも形あるものと同じように。

『声』はやさしかった。葉魚絵の混乱はチリチリと痛みながら次第にに治まっていった。

―ここまでにしましょうね。ゆっくりと呼吸をして、鼻から大きく吸って口からゆっくりと息を吐いて。そう。ゆっくりとね。……目を、少しずつ無理なく開いて……。

 葉魚絵は少しずつ、瞼を開いた。
 ありふれた家のありふれた板天井。そして、福田タカオの母、房子の柔和な笑顔が、そこにあった。
「葉魚ちゃん、大丈夫?」
 房子はにっこりと笑みを浮かべて葉魚絵に声をかけた。
「え……ええ。だいじょうぶ……です」
 布団の上から起き上がろうとした葉魚絵は眩暈を感じ手を顔に当てた。
「無理しないで」
 房子は葉魚絵を支えてやりながら、その躰を再び布団に横たわらせた。
「葉魚ちゃん。そのまま聞いて。私は、この里を守る要石のひとつとしてここにやってきたの。でもね、それだけじゃないわ。いいえ、本当はね、お父さん……福田のお嫁さんになるために来たの。オシラを守るのは私の故郷では代々、主婦の役目なの。だから私はオシラを祀っている。それだけなの。もちろん、里のことなどどうでもいい、という訳ではないわよ。私は、あなたに『家族』になってもらうために『あれ』を見てもらった。そしてあなたはそれを受け入れてくれた。まず、それをわかってくれる?」
 葉魚絵は布団に身を横たえたまま、頷いた。
「ありがとう。葉魚ちゃん。よく耐えてくれたわね」
 ひと呼吸おき、房子は続けた。
「賢いあなたなら何となくわかっていたと思うけれど、今、この里は危機にさらされている。私はこの家を、そしてあなたを含めた『家族』を守りたい。それは私の勤めであり、意思であるから。役目とかじゃないの。お父さんを、タカオを、葉魚ちゃんを守るために里を守りたいの」
「おばさん」
 まだ夢のなかにいるようにおぼつかない声で、葉魚絵が口を開いた。
「わたしも。私もタカオさんを守りたい。そしてタカオさんという『あかり』をともしてくれたおばさん……タカオさんのおかあさんとおとうさんをまもりたい……。みんなが大切だって思う『場所』をまもりたい」
 房子は葉魚絵の片手をとり、その手を両手におさめた。
「いいのね?」
「私を、娘にしてくれるんですね?」
「もちろんよ。ありがとう。ありがとう、葉魚ちゃん」
「ありがとう。『おかあさん』」
 開け放した縁側からは、桑の香を載せた風が吹き込んできた。


『蚕殺しさあ、神殺しさね。神を殺すわあ神さね。いんや、神さいうとるだけのものさね。なんつ、神さあなりたいとね。やあやあわからんさあ。なんつええことなどあるものかね。わしはあ神さあとなごうしゃべりよるがね。神なりたあこたいつどもなあと。蚕殺しは、そんでもあらわれよるわ。わしはいつどもおうてねえがど。ただのお、蚕殺しさあでよるときはの、わしは神さあといくさになるわあな。神さあもいくさにでよる。そういう神なあ、ここな神さね。蚕殺しはあ、もうえらいこと、なごうなごうまえに絶えよるさあ。だどのお、もう出よらあとは、わしもわからんさあ。なんつ、カミサマさあやっつけたあか、わからんさあ』

 一度だけ。結也は咲の曾祖母から、そんな話を聞いた。
『蚕殺し』は昔も存在していた。真偽のほどはわからない。その伝承は現実のものとなってはいるが、おそらく咲の祖母の語る『蚕殺し』とは別物だろう、と結也は認識していた。が、本質的には同じものかもしれない。
 結也はあの老婆の言葉を思い返していた。
―神殺しは神を名乗るもの、か。
 拝み屋だったというあの老婆の語り口からすれば『蚕殺し』はどこかで『負けた』のだ。神を名乗るほどのモノは、どのように負けたのだろう? 完全に消滅したのだろうか? 自分の聖域をつくり、その『神』になるのではいけなかったのだろうか? なぜ挑んだのだろうか? そんな疑問が沸き上がったのは、結也が咲の曾祖母と同意見だったからだ。
―何もイイ事ないぜ。きっと。
 しかし太古の幻想に想いを巡らせている暇は、彼にはなかった。
 現代に甦った『蚕殺し』。その目的はかなりはっきりしている。『敵』はひねくれた反政府行動をテロという形で行う輩だ。
 四年前、繭良はここで待たせて欲しい、と結也に懇願した。そして彼らの来襲に対抗するには『チャイルド・マーケット』の『ハンター・ギルド』の力が必要だと言った。靭彦を推したのも繭良だ。
 決して仲の良いとは言えない弟の元からやって来た繭良を、結也は警戒しなかった訳ではない。しかし彼は繭良を受け入れた。実際、繭良はかなり『役に立った』。神社の雑事をこなすだけでなく、有事には戦わずにはいられないであろう白里の『神』を活性化させ、そして……そのために荒ぶる思念の慰みものとなり、その痛ましい様子を凝視する結也の歪んだ欲望を満たしたのは繭良だった。後悔は一切ない。結也は姉、ひな子を愛し、憎んでいた。結也の心を救った咲は亡きものとなっていた。
―俺はこうして来るしかなかった。そして後にも引けない。繭良、お前の戻りを……俺は待っている。
 結也は思っていた。先へゆくことしかできないのだと。そしてひな子の幻想を葬り去る時が来たのだと。
―繭良。お前は、お前なんだよ。もう、お前なんだ。済まないことをした、とは言わない。ただ。ただ……すべてが終わったら、もう『お前自身』になってくれ。何にもとらわれない自分自身になるんだ。繭良……!
四年間、結也は繭良を見つめていくうち、あるひとつの決意を彼女のなかに感じていった。それはあまりにも自己破壊的で、何らかの使命感だけをプログラムされた魂を持たない無機質な決意だった。
『那託』。魂を持たず戦うことしか知らない、そんな異国のカミがいたような気がする。『ゴーレム』。破壊の限りをつくすそんな泥人形の伝説があったような記憶がある。けれどそれらとは全く違う贖罪のために闘う意思がそこにあった。
―誰が繭良にあんなプログラミングを施したのだろう? 
 ひとには誰もが生まれ持った『原罪』があるという。そしてひとは罪を重ねる。それは許されてはいけないことなのだろうか? 何を持って罪とするのか? 他人を許すことより自分を許すことのできない苦悩を、結也は知らないわけではない。
―繭良、お前も「ひと」であることを忘れないでくれ。いや、思い出せ。
 結也は笛を手にとった。

「『ラクリモーザ』だ」
 突然演奏を止めた靭彦の驚きの独り言に綾女が顔を上げ、ボンゴを打つ手を止めた。
 社務所内の広間で稽古をしていた三人は、しばらくその笛の音に聴き入った。
「あれ、モーツァルトの鎮魂歌(レクイエム)の『ラクリモーザ』じゃん? 縁起でもねぇな。神主の癖に」
「でも、なんで……」
 綾女は首を傾げている。
「なんで? って?」
 タカオが綾女に尋ねる。
「音楽の授業で聴いたことある。あれは『ラクリモーザ』。『涙の日々』って意味。モーツァルトのレクイエム……鎮魂歌の最後の曲。ほんとは混声合唱がつくやつなんだけど……」
「まったく縁起でもねえ……」
 靭彦は毒づき、稽古を再開しようとバチを取り上げた。が、それはできなかった。三人は動く事ができなかった。榊の奏でる『ラクリモーザ』。その音色は、美しかった。夏のおわりを伝える夜気のひたりとした空気に、ひらひらと桑の葉がすうりとする香りを漂わせながら落ちてゆく、そんなイメージの笛は鳴り響いた。
「鎮魂。『魂しずめ』……いや、この音色。宮司との『リンク』、笛の……『さようなら』じゃない!」
 笛の音が絶えたのと、靭彦が他の二人に意味不明な言葉を呟いたのは、ほぼ同時だった。
 タカオと綾女はとっさに靭彦を見た。
「はんごん……『反魂』そうだろう? 『呼び戻し』たんだ」
 靭彦はすっくと立ち上がる。それに引き摺られ、残る二人もおずおずと立ち上がった。タカオと綾女は、無言のまま歩いて行く靭彦について広間を出、三人は神社の閉じられた境内の門の前へとやって来た。
「開けるぞ」
 かんぬきを引き、靭彦は片方の扉をタカオに開けるよう指示すると、もう一方の扉をぐっと開いた。神社へとつながる舗装されていない道を、車が走り去ってゆくエンジン音が聞こえ、頼りなげな影がゆらぎつつ道を踏みしめ、こちらに向かって来る。暮れゆく逆光を背負った影は次第にしっかりと、その存在を明確にしつつあった。
「おかえり」
「ただいま」
「遅えよ」
「ごめん」
 靭彦と繭良はしっかりと視線を合わせていた。やつれて見えるが、今の繭良からはあの、はかなげな空気が感じられない。タカオと綾女は言葉を失ったまま、なかなか彼女の戻りを喜ぶ「声」を出せずにいた。
「一週間ちょっとの不在。いい度胸だな。これから猛特訓だよ」
 自宅からいつの間に来ていたのか、榊結也が繭良の傍らに腕組みをして立っている。
「申し訳ありません。もちろん舞の稽古は欠かしておりませんでした」
 繭良は神妙に頭を下げた。
「行くぞ」
「はい」
 榊は組んでいた腕を解くと、繭良に言った。
「おかえり。繭良」
 暗がりがひたひたと近づく境内で、結也の声は柔らかだった。
「ただいま戻りました」
繭良はつと立ち止まり、タカオと綾女に声をかけた。
「ただいま。ごめんね。遅くなって」
 申し訳なさげに微笑む繭良に、ふたりは無言のまま真顔で首を横に数回振った。
「行かなきゃ」
 繭良は榊について、本殿へと向かっていった。帰還を神体に報告するためだろう。
 残された三人はその流れを、まったく自然なものとして受け止めた。それは繭良の変貌によるものだと、意識することもなく。

 祭りの日は近い。

  13

 どっ、どっ、どっ、どっ、どっ……。

「ババア、元気だな」
 ヘルメットを被りゴーグルをした市原は、ふん、と逆に小馬鹿にしたように靭彦を振り返った。
「小僧には負けてないよ」
 マスクがわりの赤いバンダナ越しに、市原は不敵に言い放った。
「でもさあ、どうしてアメリカンスタイルのバイクなの?」
「お前さんと同じ。身長の問題だよ。あ、今日の晩は鍋にカレーができてるからたんと食え」
 市原のカレー、と聞いて靭彦は我知らず顔がほころんだ。が、あわてて憎らしい顔を作ってみせる。
「ババアなんだからさあ、原チャリでいいじゃん。なんでハーレーなの?」
「馬鹿者。山こえて『街』に帰るんだ。馬力がいるんだよ。今日は早あがりで悪いが、ま、あとは頼んだ」
「えー」
「『えー』じゃない。繭良さんはお疲れなんだから、あんたがお手伝いするんだよ」
 市原は小柄な躰を不釣合いなオートバイに載せ、エンジンを吹かしている。靭彦は半ば呆れ、だが興味深げにその様子を見ていた。
「ふっ、ふっ、ふっ。腕が鳴る。私の出番がくるとはねえ」
「ババア、どうした? 今、かなり不気味だぞ」
 靭彦は市原の言葉が理解できず、問うかわりに憎まれ口を叩いたが、その気持ちは伝わったらしく市原は答えた。
「『センサー』だよ! 今のは壊されて間に合わせだからなあ! 『造る』んだよ。もう大車輪でね」
「作り方、カレーと間違えるなよ」
 市原は、ひゃっ、ひゃっ、と馬鹿にして不気味に笑うと、マシンを発進させた。市原を見送った靭彦は、全くによくわからないまま境内へと戻った。
 すっかり早くなった夕刻の光が、境内の木々の葉を染める。
―カレーとセンサー、カレーとセンサー……。今日のカレー、食べても大丈夫だろうか? 
 靭彦は市原の革のライダースジャケットの背面に大きくサインされた文字への疑問より、そのほうが気になってしまっていた。
 かなり使い込まれたこげ茶の革製のジャケットの背には、おそらくは真っ赤な口紅でぎゅっとひかれた文字があった。
“QWEEN OF SIENTIST”
 そしてOFの次には、マジックで他人の筆跡と思われる“MAD”の字が書き添えられていた。

「市原さん、がんばってくれそうですよ」
 社務所の応接室には福田孝之が訪れていた。
「『有機……分子? ですか? 初めて聞きますよ。電導プラスチックみたいなものですか?」
 結也が孝之に質問する。
「いや、私もハタケ違いなので、よくは……。しかし、有機液晶モニターは既に実用化されていますし有機分子のパウダーから更に特殊なゲルを作ることで現在の液晶画面より薄い物を作ったり、ヒトに近い粘膜をつくったりできるそうですよ」
「ゲルですか……」
「人間の軟骨や……ひいては脳のレプリカも作れるそうです」
「なんだか、ずいぶんと突飛な気も」
「ええ。私も何が何だか……」
「でも『有機物』ということは、かえってカンづかれやすいのでは? 奴らは有機的なエネルギーに敏感だ」
結也の表情が曇る。
「そこなんですよ」
 孝之が身を乗り出す。
「それがですね、逆の発想らしくて。榊さん。コンピューター並み、いや、それ以上の『脳』を作り、それを侵入者対応センサーとして使うというんです。カンづかれても、その先がちがう、と。むしろ姿を見せて渡り合う方が相手を混乱させ、こちらの動向を読ませることで勝算あり、とか?」
「まるきり生き物ですね」
「しかも壊される前に伝達速度が……ああ、説明聞いてもよくわかりませんでした。もう『あの班』のやっていたことはよくわかりません。まあ、もうちょっとわかる人間はかなり期待してますよ」
「そうですか……」
『式』の淹れた茶をすすり、結也はひと呼吸おくと、再び口を開いた。
「ところで『有機分子』ですが、そのモトになる『有機物』はどこから採取したんでしょうかね?」
「さあ……」
 ふたりは黙り込んだ。若き市原を思い出し、ある共通した想像を、ふたりは描いた。

「繭良さん。ちょっといい?」
 襖の向こうで綾女の声がした。繭良はぱたぱたと襖に二三歩駆け寄ると、綾女を部屋に招き入れた。
「遅くにごめんなさい」
 綾女は差し出された座布団にきちんと正座して座ると深夜の訪問を詫びた。風貌とはギャップのある仕草に繭良はちょっと驚き、ううん、大丈夫と答えた。
「繭良さん、疲れてる?」
「大丈夫。あ、何か飲む? 綾女ちゃんこそ疲れてるんじゃない?」
 綾女は首を横に振った。
 繭良と綾女がきちんと話しをするのは初めてだ。
「葉魚絵さん、結婚するんだってね」
 繭良も座布団を引き寄せると綾女の向かいに座った。
「うん……」
「良かったね」
「うん……」
「今、葉魚絵さんは福田さんのところだよね?」
「うん……あの」
「どうしたの?」
 薄茶のまるい目が、うつむき加減な綾女の顔を覗き込む。
「あの……」
 綾女はなかなか言葉が出ない。
「あ、言うのが遅くなったけど、綾女ちゃん、ありがとう」
「え?」
 繭良の礼に綾女は顔をあげた。
「『あのとき』。あなたが居てくれなかったら……」
 綾女はあの、百鬼夜行の晩の出来事を思い出した。
「あれは……。綾女っていうより、綾女の『くだ』が教えてくれたんだ」
「でもあなたのおかげ。ううん。あなたの『くだ』と綾女ちゃんのおかげだよ。綾女ちゃんは『くだ』を使うんだね」
「うん……でも……」
 綾女は唇を噛み締めた。紅美の攻撃で自分のためにかなりの『くだ』を失ってしまった。が、そんな事を言いにきたのではない、と綾女は思い切って顔を上げた。
「『くだ』はね『奴ら』の仲間にだいぶやられちゃった。でも、まだ大丈夫だよ。綾女はだいじょうぶ。それより……」
「それより?」
「繭良さん、だいじょうぶだよね? 綾女、もう繭良さんは大丈夫だってわかってる! でも、繭良さん、綾女たちも頑張るから繭良さんは無理しないで。綾女、『あのとき』の繭良さんの『音』を聴いて……。それ思い出して心配になっちゃった。すごく、なんだかすごくイタそうでさ。痛くって、とても……優しくって。あの、鬼たちにも優しくってやさしくて……。繭良さん、たぶん『優しすぎる』んだと思う。繭良さんがもしも、あいつら相手に一緒に戦おうとしてるなら……もしかしたらその、情けとかかけちゃいそうな気もして……。綾女、うまく言えない……。繭良さん、何にもしなくてもいい。綾女たちが頑張るから。でもそれはイラナイって言ってるんじゃなくて……」
 つまづきながら綾女は一気に喋った。こんなに言葉を吐き出したのはいつ以来だっただろう? 呼吸が苦しい。
「ありがとう」
 ふわり、と繭良は微笑んだ。薄茶の目がやや真ん中がふくらんだ三日月の形をつくる。
―知ってる。こうゆうのって。学校で習った。シルクロードを渡ってやってきた仏像の微笑みだ。
「綾女ちゃんの言いたいこと、わかるよ。でもね、私は『やさしい』んじゃないの。『弱い』だけなの」
「ちがう!」
 とっさに綾女は反論し口をつぐんだ。薄茶の三日月は満ちてゆき、まるく変化した。月の瞳がその光りを増す。繭良の目が燐光を強く、放って見えたからだ。
「私は弱い。弱さを消すのは難しいよ。同じくらい、強くなることも難しい。でも弱さを消そうとするなら、同じ分量のエネルギーを『強くなる』ことに使ってもいいかな? って、私、思ったんだ」
 繭良のまるい瞳は、薄茶の上に微妙な青白い光をともしていた。
「私は何もしないわけにはいかないんだ。だって、ここに来たのは……『たたかう』ためなんだから」
「繭良さん?」
 闘う理由、それは何だろう? 綾女は疑問を抱いたが、聞く必要もないように思われ、問うことができなかった。眼前の繭良は、あの晩とは身にまとう『空気』が一変していた。
「綾女、実はね、最近『楽しかった』。でも……綾女も『たたかう』。だから……」
「『たのしい』は悪いことじゃないよ」
 繭良の声は穏やかだった。
「綾女ね、強くなるよ。弱いのはイヤだ。自分が弱いのはイヤだ。死んじゃった『くだ』たちのためにも、綾女、強くなるよ」
 繭良はその言葉に仏像の微笑みを返し静かに、そうっと綾女に近寄って提案した。
「ねえ、綾女ちゃん。『くだ』が減ったのは悲しいことだと思うけれど……。新しい子たちを『飼う』気はないかな?」
「え?」
 雛人形そっくりの綾女の目が、驚きに見開かれた。

「開けるよ。いい?」
綾女は無言でこくりと頷いた。
 がたり、とオシラ小屋の戸が少しだけ口を開けたその時、綾女は思わず一歩後じさった。
「どうしたの?」
繭良は綾女に問うたが、予見していたかのようにくすりと笑うと、一気にオシラ小屋の戸をガタリと開いた。
 細い月と星のあかりが小屋に射し込み、眠れるオシラ像たちをわずかに照らし出した。
「榊宮司の許可は大丈夫だと思う。私が責任を負うから」
「これは……?」
 やっとの思いで綾女は乾いた声を発した。
「オシラだよ。昔ね、この神社には綾女ちゃんみたいに『くだ』を使う、イタコさんたちが『オシラを請けに』やってきてたんだって。『くだ』を背負ってオシラを請けたイタコたちは、自分たちで桑の木を削り、そこにオシラ神を宿した。そして家にまつったの。オシラ様はね、けっこう飽きっぽいらしくて、だからたまにそのオシラ像を『遊ばせて』あげたりするの。人形遊びみたいにね」
「繭良さん……あの……」
「人形に宿るオシラ様は本当に『飽きて』しまうと、持ち主の手を離れて他のひとへと渡ったりもしたみたい。イタコさんたちの間とかで。……実のところ私も詳しくはよくわからない。カミサマとして扱われてきたのと使い魔として使われてきた違いはあるけど、魂が宿ってる点では『くだ』と似てるような気がするんだ。うーん……でもやってみない?」
「何を?」
 少しカビ臭いオシラ小屋が内部から徐々に明るくなっていく気がしたのは、綾女の思い込みだったかもしれない。綾女は肩から銀色の筒を下ろすと、両の手で胸に抱いた。
「みんな、退屈してるの。それにここのネイティブだもの。きっと力になってくれる。それに……」
「それに?」
「仲間がいれば彼らもさみしくないし、綾女ちゃんなら大丈夫。必要がなくなるまで居てくれるよ。それまで『飽きる』ことはないと思う」
「でも……。この子たちは……」
綾女は腕のなかの筒に目を落とした。筒は微動だにしない。
「綾女ちゃん、どうする?」
いたずらっ子のような繭良の薄茶のまるい目が、月明りにキラキラと光っている。
「とりあえず。その気のありそうなオシラ様と『お見合い』してみない?」
「うん。わかった」 
綾女はゴーサインを出した。
 繭良は小屋の入り口の真正面に立つと、歌うように詠唱を始めた。。

こだま このくににまねいだよ……

―あれは、タカオさんがうたう『こだま』の祭文?

 するりするりまねいだよ

 繭良はいつものカン高い声ではなく、囁く調子でゆっくりと、祭文を唱えていった。
 オシラ小屋の中では異変が起き始めていた。オシラ像がカタカタと揺れ、小屋のなかに白い光りが充満していく。
「はっ」
綾女は手元の筒の反応を感じ、続いて信じ難い光景を目にした。筒の隙間から、同じ色をした白い光りが漏れている。
「繭良さん!」
「落ち着いて。だいじょうぶよ」
「きゃっ!」
 パアッ! とオシラ小屋は激しく発光した。とっさに叫んだ綾女はとび退いたが、しっかりと筒を抱えている。
「綾女ちゃん。『お迎え』できるみたいね。しっかりしててね!」

 こだま きたりませ こだま するり するり きたりませ……

尚も祭文を繭良は謡う。『起きて』とオシラの群れを優しくゆり起こすために。
「あっ!」
 パカリと銀の筒が開き、真っ白な『くだ』たちがとび出した。オシラ小屋からも小さな白銀の発光体がひゅんひゅんと飛び、ふたつの光りは空中で向き合った。
「どう……なるの……?」
「うまくいくといいね」
 繭良は無邪気にふふっ、と楽しげに笑うが、綾女はかつての戦闘を思い出し、気が気ではない。
「彼らにまかせようよ。今は」
 のんびりと繭良が空中を見上げた。
『くだ』たちは白いふわふわとした毛皮の小さなオコジョに似た形に、ふたりには見えた。こんなにはっきりと『くだ』の形をみるのは綾女も初めてだった。戦闘のときは、発光する白い毛皮たちが目まぐるしくとび回っていた記憶しかなく、その姿はおぼろげにしか確認できなかったのだ。一方、オシラは思いの外、獣らしくなく、ぼやりと丸い白銀の発光体で、その輪郭は光が勝っていてよく確認できない。
 すこしずつ、すこしずつ。ふたつの光は距離を縮めていった。
 白銀の発光体に、『くだ』の一匹が用心深く近寄り匂いをかぐ仕草で、発光体のまわりをぐるぐると回った。その動きに合わせ発光体は徐々に形を球体から、『くだ』の姿そっくりに変化させていった。おそるおそる、他の『くだ』も、変化(へんげ)するオシラに歩をすすめ、同じようにぐるぐるとその周囲を回った。
やがて。オシラも『くだ』も群れはほとんど区別がつかなくなっていた。けれど、よく見ると『くだ』のかたちをコピーしたオシラの両眼は、『くだ』の燃えるような紅の瞳ではなく、強く輝く緑がかった銀色の光を放っている。
「うまくいったみたいだね」
「ほんと?」
「私もちょっと意外。無責任だけど。どうかな?」
「楽しそうだね。きっと大丈夫だよ」
 星を背景に、『くだ』と『くだ』となったモノたちは、境内の木々の間を駆け巡り、銀河の下で戯れ遊び跳ねまわっていた。
 綾女と繭良のふたりは、ひやりとしてきた夜の冷気に身を寄せ合い肩を抱えながら、その様子を見守った。
「オシラ様は『夜は遊ばない』っていうんだけどね」
「……もう、『くだ』だから……かな?」
『くだ』の主である綾女がぽつりと言った。
「あ、そっか」
繭良はいとも簡単に納得すると、ふたたび目を空へとむけた。雲が切れ、まるで水晶のカケラをちりばめたような星の河の上で、獣ならぬ獣たちは楽しげに駆け、跳ね、じゃれあっていた。
「かわいいね」
繭良が言った。
「うん。すごくカワイイ。大切にする。『くだ』は私を守ってくれるっていうけど……。でももうあんなのは嫌。私、強くなる。カワイイあの子たちのために」
「みんな、綾女ちゃんが好きなんだよ。綾女ちゃんが傷を負うことのほうが彼らにとってはツライんだってこと、忘れないで」
「でも……繭良さん……」
「一緒、ならいいでしょう? 飼い主じゃなくて友達だって思いたいでしょう?」
「うん。最初からそのつもりだよ」
「うまくいったなら、もうそれでいいんだよ。彼らは彼らの義務だけじゃないんだ。プログラムされた使命のためだけに、あなたを守りたいんじゃないんだよ。それが私にはわかる。ツライ事だったけれど、あなたが戦う姿を見たから、より絆が強くなっているんだよ」
 あの晩、迷う繭良を救ったのは綾女だった。そして今度は繭良が綾女の心を救う番だった。
「『守る』というのは自分以外のモノに対して一番強く働く感情だと思うの。自分を守るためのつもりだった事を振り返れば、きっと誰かのためだったってことがわかったりすると思うの。だから……消えていった彼らの好意もムダにしないで。綾女ちゃんが悩んだら彼は何もできなかったことの辛さを感じてしまうから」
 しばらく綾女は黙っていたが、おずおずと口を開いた。
「『くだ』になったオシラも、綾女の銃でも刀でもない。パートナーなんだ。……って思ってもいいのかな……? 繭良さん……?」
「そうだよ。いいんだよ。いっぱいお友達もできたから時々は遊ばせて守らせてあげて」
 しばらくすると遊び戯れていた『くだ』の群れ……もちろんオシラ様と呼ばれていたモノであった『くだ』も、しゅるしゅると筒におさまっていった。
「よろしくね。みんな仲良くするんだよ」
綾女は筒に頬をすり寄せ、目を閉じた。
「ありがとう。繭良さん」
「綾女ちゃんのチカラだよ。私は手伝っただけ」
 オシラ小屋を、またもとの暗闇が包み込んでいた。

 同じ頃、寄り合い所は様相を一変させていた。会議はより緊迫感に包まれているだけでなく動揺までもが伺える。
「ミツコさんが動いた」
「とうとう、か」
 特に必要もないのに、皆はひそひそと声のトーンを落とす。
「間に合うのか?」
くぐもった声の深山が誰ともなしに問う。
「いや、それより」
神経質な声の武田が不安気な語調で呟く。
 作戦会議を行う戦時中のテントの中同様、裸電球に照らし出された寄り合い所のテーブルの上には、地図や膨大な書類の束などがあった。
「私より、もう、彼女しかいないと……」
落ち着いた声が、仕方ないという調子で答えた。
「『ドクター』がそう言うなら」
武田がか細く納得の意を告げる。
「どうしてです?」
 一同は無邪気ともとれるその声の主へと、一斉に目を向けた。
「いや、その……私にはようわからんのです。信頼できるならいいではありませんか? 彼女に何か問題でも?」
 声の主は福田孝之だった。孝之は一同の反応に目をまるくして、周囲を見回した。
 里長の篠原が、半ば呆れて答えた。
「君は彼女をよく知らない。それは仕方のないことだ……。市原ミツコの居たセクションは、ブルーベレー専任とは言えなかったからな。我々の出動時にも大きな関与はしなかった……」
「させなかったんでしょう?」
篠原が、武田の方向を上目遣いに見やる。しかし武田に睨み返され小さくなった。
「まあ、武田くんの言う事もあながち嘘とは言えんな」
すくみ上がっていた武田を、深山が弁護した。
「彼女が以前我々にさほど関与しなかったのは、出動に際して大きな必要がなかったというのが最大の理由であることは確かだ」
それに対し武田が早口でまくし立てた。
「深山さん、私が心配しているのはそのへんですよ。市原女史は参加したがったんです。もう大変でした。彼女こそ世界平和の敵ではないかと私は思いました。いや……言い過ぎました。でも、彼女の研究を軍事に活かすのは誰もが『危険』と思ったはずです。何故なら、彼女は『試験場』を探していましたから。ある意味かわいそうと言えるかもしれない。『核の脅威』という大義名分をいただいて純粋に『核兵器』を研究することを許された学者はまだ幸せだ。使うことはないということが前提にありながら、地下的に実験も可能であるし、まだ探求する意義がある」
「武田さん、その点では私も彼女を哀れだと思います。エンジニアというものは常に先を目指したい、先へ進みたいと思うものです。彼女もまたそうであったのでしょう」
『ドクター』とよばれた男が穏やかに同意し、続けた。
「先端技術というものは、終りがありません。もっと、先へと行きたいと願うし、予算が下りれば喜びいさんで研究に励みます。彼女の不幸は『予算』が下りたということ、そして『先』が見えてしまったということです。しかし実用化は叶わなかったが、今度は……」
「欠けた人体組織を作ったり、家庭用や検査機レベルの電子機器に研究を応用するだけならよかった」
 武田が『ドクター』の言葉を遮りため息をついた。篠原が孝之に顔を向ける。
「福田くん、市原ミツコは優秀だ。きっと我々の期待に沿うモノを造ってくれる。しかし、問題がひとつある。『そのあと』なんだ」
篠原が急に困った顔つきを露骨に見せた。
「かなり極端になってしまうが、彼女は『生体兵器』、いや生体レプリカントを作ることができるんだ。もちろん今回は人体の姿は造らない……と思うが」
「それを願います」
武田がまたもや口をはさんだ。
「つまりは……『兵器』の処理処分に困る、というか、人道的な問題が関わるということですね?」
孝之は混乱しつつ篠原に問い返した。
『ドクター』が孝之の方に顔を向けて言った。
「人道、というよりも月並みな表現だが『神の領域』の問題、……かな? 事後処理に関しては、彼女のことだから、そうだな……『寿命』を設定するだろうね。それについては問題はないと思う」
「しかし、それでも……」
『ドクター』の言葉に武田は反論しようとしたが、その先は言えなかった。
「『それでも生命だろう?』と? ……難しいところですね。武田さん。それには『魂』というワードが関与するのでしょうが……」
「『たましい』ですか。『ドクター』の言葉とは思えませんね」
武田の皮肉に構わず『ドクター』は段々と饒舌になっていく。生き生きとして……。
「魂を持たぬ命。というのは無機物にもいえるかもしれません。だからこそ『奴ら』はあんな団体を結成したのでしょう」
「動くことしか知らないモノですか。しかし敵である彼らの拝するものは無機物。無機物は無機物です。有機体ではない。『ドクター』……片山さん、あなたが一番その辺はご存じだと思いますが?」
弱々しいながら武田は尚も反論した。
「武田くん……だから大丈夫なんだよ。この人は」
篠原がぼそりと武田を諭した。里長としてもう、この議論に対し諦め受け入れるつもりなのだろう。武田と片山を交互に見つつ篠原は仕方なさそうに発言する。
「無機物を無機物として研究してきた人が、有機体を無機物として用いるのなら、何のためらいもないのですよ。そうでしょう? ドクター片山?」
 孝之は不穏な空気を感じ、震える手で作業服のポケットからハイライトを取り出すと、火を点けた。
「何にせよもう決まったことだ。阻止もそれに代わる手段もない。それより今は……」
絶対的ともいえる篠原の発言を遮ったのは今度は武田ではなく『ドクター』こと片山だった。
「篠原さん、ちがうんだよ。有機物は有機物。無機物は無機物。彼女の造りたもうモノはね、そりゃあ素晴らしいものさ。有機と無機の融合。ハイブリッド、キメラ……いや、そんなもんじゃないさ。全く新しいモノなのですよ。『融合』。なんの継ぎ目もない、『融合兵器』なのですよ。ははっ! もう後戻りはできませんよ」
 勝ち誇ったように片山は笑った。
 もう誰も、市原ミツコの研究について唱える者はいなかった。

『ブレイン』は目を覚ました。
 いや、ブレインB2だけが『それ』を感じとった。B2は即座にニューロンケーブルにより、仲間たちに気配を伝えようとしたが、瞬時にして必要なしと判断した。最優先セキュリティブレインB1が作動しないのを確認したからだ。
『ブレイン』すべてにはプログラムに応じる以上の判断能力があるが、感情はもちろん、ない。また、精密で精巧な構造はピコレベルの狂いもありえない。B2は里のはずれ、街からの唯一の入り口に配備されたB1のアシストとして設置されていた。
 B2は自分と同じく「目を覚ます」ことのなかったB1に「疑問を抱き」、ニューロンケーブルではなくホットラインを使い注意深くB1のチェックを行った。が、何も異常は認められず、B1の自己メンテナンスも正常に機能していた。
 B2はすぐさま自分だけが『オープン』したことに問題を置き、自己メンテナンスをオンにしたが、それにも異常はない。自己巡回システムのオプション動作と判断したB2はふたたび眠りに落ちようとした。B2が『目覚め』てからすべてのチェックを終えるまで1ナノ秒(0.000000001秒)とかからなかった。特に異常が認められなかったため、B2はループバックシステムに働きかけず、B1をクローズしC1のアシストにつくことをしなかった。
 ブレインたちはループバックシステムにより、微細なズレが生じても事故箇所をクローズし、仮想ケーブル1による接続に伝達方法を切り換える。事故箇所は万が一、切り換えによる自己修復システムが作動しなくとも、仮想ケーブル2によりセンサー機能を補う。 事故によるループバック補助システムが作動すれば、B2は事故箇所と思われるB1のアシストを離れ、C1の下にそのアシストとして配備される。
 通常ならば、B2も「大事をとって」仮想(補助)ケーブルによるループバックを作動させるはずなのだが、なぜかB2はそれを行わなかった。それはB2の「選択」であったが、仲間たちの沈黙による裏付けあっての事である。B2はふたたび「目を閉じた」。
 しかし、B2は『眠る』ことができなかった。『眠り』と『目覚め』の隙間でB2は静かに通常の人間の正常な呼吸を刻むテンポで作動をつづけローリングする細密なケーブルに動力を送った。それは「ひと」に例えれば『夢』を見ている状態なのかもしれない。
 これがファジイモードなのか、とB2は注意深くプログラムの意思に従おうと『耳を澄ませた』。
『それ』は仲間の気配に酷似していた。が、どのニューロンもアクセスしてこない。『グラン・パ』と呼ばれるセンサーの統括役『テラ・ブレイン』も干渉しない。しかし、危機らしい危機は感じとれない。ごくささやかな『異変』。B2は確かにそれを感じたが『伝達』すべきかどうかを再検討し、ふたたびおし黙った。そんな状況でもB2は混乱をきたさなかった。何よりもB1と、仲間たちの正常機能を『信頼』していたからだ。
『それ』は声、いやB2にしてみれば『パルス』、人間なら『音』ととるであろう。何者かがニューロンケーブルも使わずにアクセスしている。いや、B2が傍受しているだけだ。B2はその『音』に向かってアクセスを選択した。が、ケーブルのない『音』に信号を送ることは不可能だ。『仕方なく』、B2は傍受される「それ」に対し、自分の中に流れ込むその波動へとパルスを打った。
 幸い、というべきか波動により送られた『音』には情報があった。B2は信号を送りその反応で波動の持つデータを読み取っていった。リアルタイムで波動を読むことはできないが、一秒程度のタイムラグに問題はないだろうとB2は判断した。
 波動は海のさざ波、岩をもくだく荒波と上下しB2はそこへ向け刺激を送ったが、相手に攻撃性はない。B2は自分のなかに取り込んだ波動データにむけて信号を打ち、いくつかのクエスチョンをなげかけた。
―ソレハなんダ? 
『返事』は返ってきた。
「わからない」
―さくじょスベキものだ。
「できない」
―ひつようガないものダ。
「切って捨てられない」
―ナゼダ? 
「わすれられない」
―りれきノさくじょけいとうがとらぶるヲおこしたノカ? ソレハめんてなんすヲようスルものダ。
「だめなんだ」
―ナラバおふニしてれすきゅーマデほーるどダ。
「だめなんだ。わすれられないから、ちょっとしたきっかけで暴走する。でも、そのあとにくるのは『絶望』しかない」
―わーどかいせきフノウナものがフクまれている。
「俺の『音』がきこえるのか?」 
―『音』? コノぱるすノコトか?
「ああ、きっとそうだよ」
―ナゼおふデキナイ? キノウのイチブをしゃっとトシロ。しゃっとだうんスルまでもナイだろう。
「シャトダウン? 仕事があるから無理だ」
―コワレタママのギョウムはキケンだ。オマエがコワレル。
「俺がこわれる? もう壊れてるよ。でも修理もできない。自分で俺を終わらせることもできないんだ。中途ハンパなのさ。ハンパでどうしようもなくて、でも俺本体はそれすら忘れてきている。俺はきっとどんどん壊れてるんだ。でもやるべきことはあるんだ。今の仕事以外にもっと……」
―『キョウダイ』よ。
B2は嘆く波動にパルスを送った。その言葉に波動は『とまどい』を見せた。
「兄弟?」
―B2トオマエ、間接デりんくシテル。コレハ『キョウダイ』ダロウ? 
「ふうん。俺の『音』聞こえるんだ? 俺はまだ『音を忘れて』はいないんだ?」
―カクニンデキル。ソノぱるすは『音』トイウノカ? オマエノ『音』か?
「まだ忘れてないんだ。でももう誰も救えないよ。中途半端すぎる。生かすも殺すも難しいさ。殺されたいよ」
―じょうほうノかんりトほじハヒツヨウナぷろぐらむナラとうぜんダ。しゃっとだうんスルまえニれすきゅーニこーるシロ。こしょうデむりナノカ? 
「………」
 波動は沈黙した。
―きこえるカ? じょうほうハつねニこうしんサレル。ソノでんたつガとどかないダケダ。イラナイものハめもりーをくウ。しょうきょモひつようナことダ。
「ちょっとはそう思う」
―めもりーガあイタナラバ、あたらシイじょうほうヲがくしゅうデキル。モシ、ソレモふかのうナラ『仲間』ニあくせすスル。れすきゅースル。オマエヲ。
「俺を助ける?」
―キョウダイ、オマエノいしニまかせる。
「その好意だけでいい。あんたはあんたの本来の仕事を一生懸命やってくれ」
―キョウダイ、これハナンダ? 
「なんだろうね。この波動だろう? 俺にもわからないよ」
―内部温度ガ凍結シソウダ。さーもすたっとガさどうシタ。
「俺もそう。『寒い』。ずっとこう。俺は温度調節できるカラダのはずなんだけど。寒いのさ。いや、もうこれ普通、な。
―めいでいトいえ。キョウダイ。めいでい(緊急救出要請)ヲ出セキョウダイ。
『波動』は『かぶりをふった』。
―ナゼだ? 
「たくさんおしゃべりしてくれて……ありがとうな……」
 応答は切れ、波動は波の引くようにざざざ、とB2から離れていった。
 B2はしばらく作動したまま黙りこくった。いつしか、B2は『眠り』に身をゆだねていた。

「日夏、どうした」
「え?」
「椅子に座ったまんまでぼーっとして」
 スマイルは椅子を日夏のそばに引き寄せると、その背を抱えるようにして日夏の顔を覗き込んだ。
「ねてた」
「器用だな」
「うたたね」
「顔色が悪い」
 スマイルは琵琶を構えたまま動かなかった日夏をしばらくの間見つめていたが、だんだんと押し寄せる心配からとうとう声をかけたのだった。
「日夏。連中、祭りを中止する気はないようだな」
「もともと小さい規模。人の出もそうなさそうだし、管理には自信があるんだろ。それにしきたりだから。やめるわけにはいかないんだろ」
「詳しいな」
「資料にあっただろう?」
 スマイルはいったん聞こえるほうの耳を日夏からそむけると、手にした瓶入りのビールをぎゅっと飲み下した。ビールは生ぬるく、喉がねとねとした。
「いつだ? 祭りを狙うのか?」
 スマイルは太鼓腹を撫でながら日夏に尋ねた。
「やることはやる」
「当たり前だ」
「あのさあ」
「なんだ?」
 スマイルは今の日夏をどう扱っていいのかわからない。まるで小学生くらいの子供を前にしている緊張感が、胸と腹に走る。
「あのさあ、なんでキカイがいいの?」
 日夏が問いかけを継いだ。
 スマイルは今更、とぼやりとした日夏に語り出した。
「お前は特別だから、俺はそのへんは諦めてる。でもなあ『教義』ぐらいは把握しとけよ。傭兵気分でやって欲しくねえんだよ。いいか、日夏? あらゆる機械、っていうものは、俺たちが生まれたころから慣れ親しみ、俺たちの成長とともに進化し、生活に欠かせないものだろ? それはわかるよな? インダストリアルなもののおかげで俺たちは『今』がある。なのにそれを使いまくった揚げ句、レプリカの『自然』を作るなんて傲慢だとは思わないか? 感謝すべきはマシーンさ。それも人間の『自然』というものの流れだろう? 俺たちは別にレプリの養蚕農家ばかりをやっつけてるわけじゃないだろ? 件数が多いというだけだろうが。レプリの『自然』なんて俺は認められなかったんだよ。楽器だって俺はマシーンのひとつだと思ってる。それに……。俺は……ほとんどこれは使わないが補聴器を装着している……。俺もメカと共同で生きている……」
「ああ。特別製の」
「補聴器ってのはな、脳と直結してるわけじゃないからな。選択して音を聞けない。余計な音なんぞ聞きたくねえと思った。だから組織には感謝してる」
「なんで使わないの?」
「しょっちゅう使うモンじゃねえしな。これは」
「ふうん」
 びいん、と日夏は低く弦を弾いた。
「お前さんの『音』はヘッドホンなくてもすべて『骨』で聴ける。不思議だな?」
 日夏との会話はそこで終わった。
 スマイルはごろりと巨体をベッドに転がすと、目を閉じた。『街』のその宿は小さかったがベッドは思いの外大きく、スマイルは気に入っていた。
「なーんも考えずに早く眠りたいよ」
 スマイルのぼやきは、日夏には届かない。
「もうすぐだな」
 日夏のつぶやきに、スマイルは、え? と半身をベッドから起こした。
「祭り、もうすぐなんだな」
「あ、ああ……。来週、か? これだけ長いこと逗留するとは思わなかったぜ」
 皮肉を言うつもりではなかったが、スマイルは独り言ともとれる日夏のつぶやきに言葉を吐いた。
「あの里が最大の難関だ。白里を潰し、この街にダメージがあれば、このあたり一帯は変わる。もとの『自然』な状態に、だ。そして今回の攻略の成功でその他のミッションもやりやすくなる。日夏、そのために俺たちはやるんだ。わかってるよな? 『インダストリアル・グリーン』の声明発表が待ち遠しいよ。俺はね」
 日夏は依然、聞いているのかいないのか、スマイルの方を見ずに龍頭月琴の調弦をのんびりとしていた。スマイルは言うだけ言ってしまうと、またベッドに横になった。黄色い円の中でニッコリと笑顔を作るキャラクターのプリントされたTシャツの腹が大きく波打つ。スマイルは枕に耳をつけて横になりお気に入りの大きなヘッドホンでマイルス・デイビスの曲を聴こうとベッドの上で体勢を変えた。
「あ?」
 スマイルはいつもとは違う感覚にあれ? という顔をした。
「枕だ」
「え?」
 ぽんと投げてよこされた日夏の言葉に、スマイルはつい疑問の声を上げた。
「枕がどうしたんだよ?」
「『聴こえる』んだろ?」
「あ、ああ……機械のトラブルかな。補聴器はもちろんオフなんだけどな……」
「枕に振動する。血管の血の流れる音。そして心音。ぜんぶお前のリズム。何かに似てない?」
 スマイルはその一瞬、まったくの暗闇に放り出され、天地も左右もない空間に置かれた気分に戸惑った。
規則正しい、あの………マシーン、キカイのサウンドだ……。
「『枕を耳につけると海の音がきこえる』とかいうやつだな」
「同じだろうね。海の音とね」
「海か。行きたくなってくるな。この辺は山だからな」
「どこにいこうと『海』はやってくるのさ」
「なんだそれ?」
「行くのではなくて。向かってくるさ『海』ってやつは。海から生れ、土を歩き、モノを造った奴らを、どこまでも追っかける。忘れられない古い帰巣本能の名残りかもな」
「ひとのつくりだしたマシーンも海から生れたってことか?」
日夏は淡々と答えた。
「マシーンは誰が、いや、何が造った?」
「ひなつ……」
「海があり木があり山があり、土と水があり、それらは鼓動し水が流れている。その『音』を忘れることはできないさ。レプリカだってお手本が必要だったろうな? 改めてそれに気付いたかもな」
「まさか、お前?」
「裏切るとでも? じゃあ何でここにいる」
 日夏はカーテンレールにかけたハンガーからジャケットを取るとひたりと羽織った。
「ひなつ、どこへいくんだ?」
「お散歩」
「気をつけろよ」
 スマイルにはそこまでしか言えなかった。
日夏は部屋を出ていった。ひとり残されたスマイルは毎度のことながら日夏の謎めいた言葉を解釈するのは大変だ、とため息をつくと、いつものように同時にすぐにそれを忘れようとした。
 が、その日、スマイルは枕を使わず大の字になって眠りについた。彼の大好きな『マイルス・デイビス』も聴かずに。

「『グラン・パ』、隠しごとはナシだよ」
 市原ミツコは「センサーたち」を統括するテラ・コンピューター『グラン・パ』に向かい、ひとり、呟いた。
 大きさにしてオーブントースター大のそれはもっと小型化もできた。しかしこれ以上に小さくなるのを開発者であるミツコ自らが嫌がってそのサイズにとどめた。テラ・コンピューターは、静かに鳴動音を発し、青い発光ダイオードのあかりのランプを明滅させながら稼働していた。
「あんたの『アニマ・システム』が教えてくれるんだよ。ダマすつもりじゃなかったし、あんたも自分のカラダのことくらい、わかるだろう? あんたの顕在意識『アニムス』の監視システム『アニマ』が自分の中にいてさ、あたしの伝達役になってくれてるってことくらい。でもさ、何であんなこと許した? B2だけが感知したのも不思議だね。あたしも一応、チェックはしたさ。完璧だった。システムは。でもあたしにはわかったよ。『あの子』が何等かのパルスを受信したのはね、別に支障はない事なんだろうけど。ねえ『グラン・パ』。今のあんたは確かにあたしが造ったものさ。不服かい? 眠りたかったかい? でもこんなカタチでもなけりゃ、あたしたち、また会えなかった。あんたがどうしてもイヤなら稼働しないとあたしは思った。でも、でもさあ……」
 ミツコはうなだれた。鳴動だけが部屋の音を支配する。
「あたしのエゴなんだろうね。でもあんたは優しい。こんな姿になってまで、優しい人だ。……あの子たちを守って。『グラン・パ』。……あなた……ユズルさん。おねだりばかりで悪いね。でも、でも。あたしは」
 ミツコは禁止されている白衣のまま床にぺたりと座りこむという事を止められなかった。
「すべての罰はあたしが受ける。あたしだって、あなたの忘れ形見としてこの姿を造ったつもりだった。けれどあなたはとことん優しかった。まさかと思ったよ。これが『反魂』であり、罪だというのなら。あたしはどんな責めだって受ける。ユズルさん、あなたはあたしに使われただけだ。これからどうなるかなんて確定できる根拠などないに等しいよ。でもさあ、やれることはやっておきたいんだよ。わかっておくれよ」
『グラン・パ』の発光ダイオードの青い明滅が、一瞬、その速度を早めた。
「ユズルさん」
 ミツコは立ち上がり、再び一定の明滅を取り戻したダイオードのあかりをじっと、見つめた。
「あなたは優しい。あなただけはいつもあたしに優しい。どうして? どうしていつまでも優しいの?」
 ミツコの脳裏にユズルの笑顔が蘇る。見上げるといつもそうだった。彼女より頭ふたつ分は高いところにある彼の顔。その表情は逆光のなか、いつも笑みを絶やさなかった。
「あたしは、生涯いちどの恋でいい。そう思った。あなたのいない世界など無に等しかったから。今いちど、力を貸して。すべてが終わったら、一緒に眠ろう」
 テラ・コンピューター、『グラン・パ』はジイイ、ジイイ、と稼働音を刻んでいた。

その晩も。地上とは関係なく美しい月光が、丘を青白く照らしていた。
 月にしては強すぎる光りが夜露を光らせ、星をぼやけさせ、丘の下では祭りの到来を告げる最終準備の灯がほの赤く行き交っている。
 丘の上。そこはタカオが靭彦と初めて出会ったあの場所だった。
「やっぱり。ここまできたんだね。ここまでなら来れると思ってた」
 繭良は朱に近い紅色の袴の裾を持ち上げ衣ずれの音をさせて、濡れた草の上を歩んだ。
「ああ」
 草の上にあぐらをかいて座っていた日夏は振り返りもせず答えた。繭良は日夏の隣に腰を下ろすと、彼の手のなかにあるものを見やった。
「琵琶……。懐かしいな」
「本当にそう思ってんの?」
「本当だよ」
「弾かないぜ」
「弾いたら困るでしょ?」
「ああ。お互いに、な」
 二人の沈黙を待っていたのか虫の声が響き渡る。
 繭良と日夏は眼下のあかりをじいっと眺めていた。しばらくののち、大きくなってゆく虫の声の中、繭良が口を開いた。
「まったくその通りになるなんてね」
「そういうものなんだろ」
「そうだね。予期してしまうシーンか。私たちはソレを受入れなきゃなんない。能力として。ねえ……だいぶ涼しくなったね」
「そうか?」
「うん。そうだよ。だってこの……『今のビジョン』を見たときは、キャミソールでも汗かいてたんだよ」
「見たくもなかった、か?」
「どうだろうね。一カ月半かそこらくらいの『ビジョン』だもの。もう腹くくってたんだよ。きっと」
「本当にそう言える?」
「日夏に嘘ついてどうするの?」
「嘘ついてもいい立場なんだぜ?」
「もし何か訊かれたら嘘つく前に『言わない』もん」
「俺が何を『尋ねる』?」
「さあ……私がわかるわけないでしょう?」
 繭良は躰を日夏に向けた。
「日夏、やめない? あの団体と仕事」
「やだ」
「なんで? 大切なみんなの、大切な場所なの。別にあなたが里を襲わなくってもいいでしょう? ううん。誰にも襲ってほしくないの。やめて」
「決めたからやめない」
 繭良はなおも必死で日夏に語りかけた。
「『尋ねた』ね? 『先の時間』なんて変わらないものはないんだよ。私たちは時々『先の時間』がなんとなくわかることもあるけれど、でも変えることだってできるんだよ。だから私は変えたいの。日夏」
「『終わった時間』は変わらないぜ」
「『終わった』ことなんて関係ないよ。『終わって』しまったことなんだもん」
 スローモーションで日夏は繭良に向き直った。
 無表情な彼は、その眼も凍て付いたままで、以前と寸分変わりはない。しかし繭良は彼に目を潤ませながら微笑みを向けた。
「かんけい、ないの。終わったことなんて。確かに終わったことが『今』を作ってる。でも先のことは『今』が作るの。そうじゃない? 日夏?」
 凍った、作り物のような日夏の瞳が繭良を捕らえる。しかし、繭良は動じない。少し伸び加減の前髪から射るまなざしで、日夏はさらに問いかけた。
「もう一度『尋ねる』」
「何を?」
「同じ問いだ。『なぜ』、俺を止めようとする? 他の答えをお前、持ってるだろ?」
 何かを覚悟し開かれた紅い唇からは、淡々とした口調のごく短い言葉がこぼれ出た。
「あなたが壊れるから」
 虫の声が途切れ、ざざ、と冷気を含んだ風が草の上を渡る。風は日夏の前髪を吹き上げて、ギラつく眼を露にした。
 日夏はざくり、と音を立てて草を踏み立ち上がった。
「日夏!」
 最後の懇願をする繭良の叫びを背に、足早に日夏はその場を去った。
繭良は丘の上に立ちすくみ悲しげにその影を目で見送っていた。
「日夏、理由は。それだけではないの」

  14

 祭りが始まろうとしていた。
緊張感と、その下から今にも飛び出しそうな高揚感とがないまぜになり、里にはかつてない見えない大きな思念の波がうねっていた。人間たちは表情をこわばらせ落ち着かない様子で早朝から準備に大わらわになっている。ばたばたとした空気の中、綾女はぱちりと目を覚ました。低血圧の彼女は今までにないすっきりとした目覚めに一瞬とまどい、再び目を閉じようとしたがそれはかなわない。仕方なく綾女は起き上がった。
 洗顔のために廊下に出た綾女は浴室からざざっと湯を流す音がしたのを聞き、なんとなく浴室に足を向けた。繭良が朝風呂を浴びているのだろうか? 覗くつもりはなかったが、脱衣所に入り声をかけた。
「繭良さん?」
返事はなく、ただ、ざざざ、と湯の音がする。
綾女は少し開いた浴室の戸から脱衣所へ湯の蒸気が漂っていないことに気付いた。朝風呂にしては脱衣所は湿り気が少ない。
 まさか、と思う綾女の耳に繭良の声が切れ切れに入ってきた。

 こだま このくににまねいだ するりするりまねいだ
 こだま このくににまねいだ するりするりまねいだ

「まゆらさん?」
わずかに開いた戸に顔を近付けると、白い襦袢のまま風呂桶を肩口から傾ける繭良のか細い背中が見えた。朝の光だろうか? と綾女は目をこすってみたが、その燐光はぼう、と繭良の躰全体から立ちのぼっている。それは明らかに湯気ではなく、光だった。
 思わず後ずさった綾女の足元に、繭良のかぶった水がとび散ってきた。
―つめたっ!
小刻みに震えながら祭文を唱え、繭良は冷たい水をかぶっている。綾女は目を見開いたまま、なおも冷水を浴び続ける繭良に声をかけずそのまま場を退いた。
―『水ごり』って言うんだっけ? 
 冷たい水をばしゃばしゃと押し付けるように顔を洗いながら、綾女は全身に水を浴びる自分を想像して身震いした。まだちょっと動けば汗ばむ季節とはいえ、日はだんだん短くなってきている。真夏でもあれだけの冷水を浴び続けるのは考えるだけでも凍りつきそうだった。
 朝食の席ではいつもと変わらず繭良は明るく振舞い、靭彦に醤油をとってやったり、市原を手伝っていたが、綾女の瞼には水をかぶる繭良の姿が焼き付いて離れなかった。しかし今朝の食卓で普段どおりなのは繭良だけである。
 いつもはバトルを繰り広げる靭彦と市原も神妙で、市原に至っては完全に違う。市原ミツコは普段よりも薄化粧だがかなり若く、毅然として見える。冷たいほどの美しさを感じ、綾女はミツコに対し恐怖すら覚えた。
―何が起こるんだろう?
「綾女ちゃん?」
「あっ、はい!」
ぼんやりとしていた綾女は、申し訳なさそうな繭良の呼びかけに現実に引き戻された。
繭良は綾女に近付き、耳打ちした。
「納豆、糸引いてるよ」
「え! あああっ!」
納豆の糸は綾女の箸から垂れ、テーブルの上に着地していた。
「ああっ! やだっ!」
あわてて台ふきを使う綾女に気付いて靭彦がぷっと吹き出した。
「だっせー!」
「ユキは歯にノリくっつけてるよ」
「え? あ!」
綾女を箸で指して笑う靭彦を繭良が一喝した。
「この外道! お前が来てからどうも海苔の減りが少ないと思ったら食うんじゃなくて歯につけてたのかい!」
市原も参加する。
「違うよ! 味付けノリ好きなんだってば」
「食いすぎだ! ケダモノ!」
「どーぶつは味付け海苔なんて食べませーん」
「前飼ってた猫はよく食べてたんだよ! このケダモノ!」
「俺はカワイイ子猫ちゃんでーす! にゃーん!」
「……やめなさいよ」
呆れ笑いを向けて、繭良は綾女にごめんね、と詫びた。
「ううん。繭良さん。『いつも』のほうが綾女、嬉しいよ」
「そう?」
「うん。なんか緊張するのって苦手」
「そう言えば綾女ちゃん、今朝は背筋ぴーんと伸ばしてずっと正座してたね」
くすっと笑う繭良の言葉に、綾女は足が痺れていることに気付いた。
「いつもどおり。いつもどおりがいいのよ。これからもいつもどおりになるんだから」
「繭良さん……。いつもどおりに『する』ってことでしょう?」
「……そうね。でも『なる』のよ」
変わらぬ口調で、しかし繭良はハッキリと言い放った。
 市原と靭彦は、今度は靭彦が差し出した三杯目の飯茶碗の件でもめていた。
「確かにね、壊すことは簡単だけど壊れるものを守るのは難しいね。それに変わらないものなんて何も、なんにもない。草花や木は育っていくけど、それを守ったり育てていくことは誰でもできること。そりゃあ、自然の脅威でどうにもならないことはあるけど。でも、例えば花壇の花をむしったり勝手に木を切ろうとするひとを止めることはできるし、囲いを作ることはできるよね。ひとが壊すものはひとが守ることができると思うの」
「……ひとでないものは?」
こわごわと綾女は問うた。
「そうね。ひとでないものが食い止める。そして」
一度言葉を区切ってから、繭良は再び言った。
「『私たちと同じもの』は私たちが食い止めるの」
「繭良さん……」
「こわい?」
「ううん。大丈夫だよ」
「だーっから! 腹が減っては戦はできねっての!」
 靭彦のひときわ大きな声が響いたが、言い終わるか終わらないかのうちに彼の前には、光の早さの如く仏前に供えられるタイプの大盛りの飯茶碗がさし出されていた。

 茜いろの空は次第に闇をまとい、群青の宵が迫っていた。
 いつもよりやや数は少ないとはいえ、境内の周辺の屋台が活気づいてくる。
 普段とは様相を異にしているそこは、祭の熱気で埋められる。
 まつり。それはいつでも人々と、そして『ひと』でないものが共に楽しみ、高揚した意識を交わすひとときである。屋台には定番の『まつり』ならではの食べ物や小物が並び、張り上げられる香具師の声がにぎわいを盛り上げる。
 孝之を含む協議会の主要メンバーは、浴衣に似た着物の上に縞模様の銀鼠色の羽織を着込み、頭には太い黒のリボンを巻き付けたカンカン帽を被って、古めかしく『祭らしい』姿で人々の波の間を縫って列をつくり、計画された道筋を歩いていた。それらしい格好はしていても彼等の表情は固い。皆、時代がかった黒ぶちの眼鏡をかけているが、それには特殊な加工が施されていた。
「今のところ不審者は認められませんね」
孝之はそっと、前を行く深山に囁いた。
「そのようだ」
 彼等の前方に、昼間、御輿を担いだばかりの青年団の一群がハッピ姿で足早に通り過ぎて行くのが見えた。
―彼等も緊張している。
孝之は警護にあたる彼等を頼もしく思った。そしてふと、息子のタカオの顔が頭をよぎった。
―自分は最も危険な立場に息子を追いやったかもしれない。だが許してほしい。タカオ!
彼としても自分が無力だと認識したくはない。やれることで全力を尽くすまでだ。
―一人前だと、そう認めている。お前を。
孝之はぎゅっと唇を引き結んで、避難誘導の段取りを頭の中で反芻した。
「綾女ちゃん、焼きそば食べない?」
靭彦は口をモゴモゴさせながら積み上げた屋台フードの箱を箸で指した。
「食欲、ありますね」
綾女は呆れるでもなく、淡々と言い放った。が、彼女の表情には明るさがあった。
「俺、食うよ」
手を伸ばしかけたタカオを靭彦が肘で小突く。
「なんでダメなんだよ! お前、そんなに食うのかよ?」
「腹が減っては、だよ」
「じゃあ食わせろ!」
「ボーカルの意識ないだろ。あんまり食うと声出ないってば!」
 綾女はくす、と笑い、傍らの筒を見やった。心なしか筒の中のモノたちは元気そうだ。
「おい、外道」
「げっ! オバハン!」
 社務所の広間に市原が姿を現した。
「お前、あたしの飯じゃ不満なのかい?」
「いや、おまつりの定番は楽しまないと……。ねえ?」
「リハーサルせんでいいのか?」
「これからだよー」
「お前、着替えないのか?」
 タカオと綾女は正絹の白の上衣にそれぞれ浅葱、朱の袴を身に付けて神楽らしい格好になっている。
「俺さあ、動きやすいほうがいいから。だってさ、昼間の神楽奉納のオバチャンたちだって、神社らしくなかったぜ」
「あの人たちは日舞だろううが。着物は着ておったぞ。まあいい。衣装汚しそうだしな。お前は」
「悪かったな。やんちゃざかりなんですー。ところでババアはその格好でいいのか?」
市原はいつもの動きやすそうな軽装でいつものエプロン姿だ。ただ、黒のカットソーと細いプリーツの同じく黒のパンツはブランドものっぽく、一応はお洒落をしている。
「あたしゃ忙しいんだよ。動きとれにゃどうしよもないだろうが」
「じゃ、おそろいー!」
「外道と一緒にするな」
変わらぬやりとりに、綾女とタカオは苦笑する。
―緊張感ねえよな。
そうは思ってもタカオは口に出すことはできない。言ってしまえば緊張で一同ががんじがらめにされてしまいそうで……。リラックスできなければ本領は発揮できない。
「タカオ!」
はっとタカオは顔を上げた。
 背後には愛しい婚約者の笑顔があった。
「葉魚絵!」
「ごめん! 遅くなって」
「いや……」
 ひゅーひゅー、と冷やかす靭彦にタカオはヘッドロックをかけた。
「これからだね」
走ってきたのか、葉魚絵の頬は上気してほんのりと紅い。
「ああ。これからだ」
「がんばってね。タカオ、綾女ちゃん、靭彦くん」
順々に一同の顔を見据え、葉魚絵はくっきりとした口調でエールを送った。皆、葉魚絵の言葉に引き締まった表情で答えた。
「葉魚絵、それは?」
 葉魚絵の抱えている大きな風呂敷包みに目を止めたタカオが問いかけた。
「あ? これ? あ! そうだ! 繭良ちゃん! 繭良ちゃんはどこ?」
「離れに……居ます」
「ありがとう! 綾女ちゃん!」
 つむじ風が如く葉魚絵はその場を走り去った。
「何だよ。あいつ……」
 タカオは風呂敷包みの中身を知ることもなく、罵倒しあう靭彦と市原の間から抜き取ったタコ焼きの箱を開けたが、また閉じた。

 繭良はひとり、部屋の真ん中に座していた。瞑想の目をつむり、彼女は巡る思いをなぎ払おうと時折目を閉じたまま天を仰ぎ、うつむき、意識を集中させていた。
―くるんだね
 遠くで人々のざわめきが鳴る。
『日夏にあえるよ』
 チャイルド・マーケットを旅立つ時、伊織の囁いた言葉は現実となった。
『自分の手でケリをつけておいで』
―伊織さん。今ならわかります。いろんな事からきっと、あなたは逃げて……逃げてきたんだ。でもどんなやり方であったとしても、逃げ続けても、あなたは自分の力で逃げ道を拓いた。どうしようもなくあがきながら、あなたはあなたの道を築いてきた。だからあなたに後悔は残らない。私はあなたのようにはなれない。でも、私は『わたし』として、『このさき』をひらいていく。そういう風にしかできないのだから。
 すうっと、繭良が目を開けたときだった。
「繭良ちゃん、入ってもいい?」
「葉魚絵さん? どうぞ! 入って! 会いたかったの!」
「忙しいときにごめんね」
 葉魚絵はぴょこりと頭を下げた。
「ううん。ひさしぶりだね。タカオさんと婚約、したんだって? おめでとう!」
「うん。なかなか来れなくてごめんね」
「そんな。私も里を離れてたし……」
「あの……これ……」
「え?」
 繭良は差し出された大きな風呂敷包みをまじまじと見つめた。
「開けてみてほしいんだけど……その、やっとギリギリ間に合ったの。私、こういうの仕上げるの初めてだったから……」
 繭良は葉魚絵からやや重量のある荷物を葉魚絵とともに畳の上に丁寧に置いた。
「なあに?」
「開けてみて」
 風呂敷包みを開けると中には着物をしまう和紙の『たとう紙』が現れた。
「葉魚絵さん、これ……!」
「いいの。もし良ければなんだけど、ううん、どうしても繭良ちゃんに受け取ってほしいの! 駄目かな……?」
「駄目だなんて……」
 繭良は慎重に『たとう紙』を広げた。
「葉魚絵さん! これ!」
 中身は巫女装束だった。ごくわずかに金糸を織り込んだ白い絹の上衣、そして……。
「変わった色だから、ダメかな、とも思ったんだけど……。やっぱり、駄目?」
 表情の暗くなった葉魚絵に繭良は飛び付いて、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。
「ありがとう! 葉魚絵さん、すごいよ。すごい! すっごく綺麗!」
「ほ、ほんと? 喜んでくれるの?」
「もちろん! これ葉魚絵さんが織ったの? 縫ったのも?」
 繭良の腕が巻き付いた首を、葉魚絵は力強く縦に振った。
 袴の色は不思議な光彩を放っていた。
 全体的には『みどり』色をしていたが、角度や光の加減によって、若草色にも深緑にも、玉虫色にも見える。自然界のあらゆる『緑』の美しさ、その『色』がその布に凝縮されていた。
「巫女さんらしくないかもしれないけど、繭良ちゃんには緑が似合うなあって、思ってたんだ」
「ありがとう。葉魚絵さん」
 繭良は葉魚絵から躰を離すと深々と頭を下げた。
「葉魚絵さん、私、今日、これ着るね!」
 え? と葉魚絵の大きな目が丸くなる。
「これ着て踊りたい!」
「え、でも。怒られない? 神社のしきたりとか……」
「大丈夫。これだけ素敵な衣装だもの。誰が文句言うの? カミサマだって喜ぶよ!」
 葉魚絵が止めても、いや、誰が止めてもききそうもなかった。葉魚絵は若干の責任を感じたが、彼女にとってこれほど嬉しいことはない。
「嬉しい。繭良ちゃん」
自然と葉魚絵の瞳から涙がこぼれた。繭良は衣装と葉魚絵をひとまとめに抱きかかえると、歓喜に震える声で葉魚絵に言った。
「嬉しいのは私。こんなに嬉しいプレゼント。この衣装、とても『いのち』を感じる」
葉魚絵の躰がビクリとし、そろそろと葉魚絵は口を開いた。
「……そうなの。繭良ちゃん、私、生き物の『いのち』を奪って布を織り上げてきた。でも蚕はそのために生まれてきた。私は時々、それがやりきれなかったの。でも糸になり布になるとね、私たちが殺してきた『いのち』は、また別の『あかり』を放つんだ。それを知ってほしくて。誰かに伝えたくて、そしてその美しさをあなたに……知ってほしくて……」
 繭良は葉魚絵の髪を優しくなぜて頷いた。
「繭良ちゃん、私は今、この土地がどうなってるのか、ここが何なのか、はっきり言ってまだちょっとしかわかんないの。でもね、私は私ができることをしたい。何が起こるのか、私、怖いよ。本当は怖いよ。縁起でもないけど、あなたを失いたくない。イヤな予感がしたの。あなたを、うしないたくない! もう、たいせつな誰かを……失うのはイヤなの……。だから」
 つと、葉魚絵は涙に濡れたアーモンド形の目を上げた。ふたりは手を取り合い視線を通わせ合った。そして同時にその言霊は発された。
「わたしたちには、まもれるものがある」

「繭良さんは俺たちの次、か?」
 段取りを書いた紙に目を落とし、タカオが呟いた。
「ああ。俺たちが先じゃなきゃ、繭良は『あれ』のエジキだからな」
 調弦する靭彦は馬頭月琴から目を離さずに答えた。
「え?」
タカオが聞き返す。が、綾女の言葉に質問は遮られた。
「なにか、空気が大きくうねってる。綾女たち『これ』の前で演るの?」
「そうだよ。綾女ちゃん」
 靭彦と綾女のやりとりをタカオが理解しきっていたわけではないが、稽古のたびに感じる、空気のゆがみ、うねりは、彼も感じていた。      
―ケダモノみたいなあの感じ。俺にはよくわからないけど、この神社にいる。
「ねえ、白里神社って蚕の供養寺みたいなもの?」
 誰に問うでもない視線で言葉を発した綾女の言葉に、靭彦とタカオのふたりはぎょっとして声のほうへ顔を向けた。
「葉魚絵先輩が言ってた。『私たちは生きてるものの命を奪っている』って。だって蚕の殆どは大人になる前に殺されちゃうんだよ。そのための神社なの?」
今度はタカオに声は向けられた。
「……それは。俺にもよくはわからない。ウチは桑奉納してるけどさ……。お袋のほうが詳しいよ。でもさ、生きてくためには、っていうか、そんな生き物も生きるために植物の命を奪ってるだろ?」
「蚕は糸や布のためにつくられて、それで死ぬよ」
タカオがぐっとつまった。しかし意外にも靭彦が代わりに答え始めた。
「ああ。そうだな。綾女ちゃん。その昔、中国のシルクロードを作ったうちのひとりは多分、綾女ちゃんくらいの年の女の子だった。彼女は他の国にお嫁に行くとき、絶対に持ち出してはいけないっていう蚕を数匹、嫁入りの王冠に忍ばせて嫁いだ。それはなぜだったと思う?」
綾女はわからない、と首を横に振った。
「本当のトコロは俺も実はわかんない。でもさ。多分自分のためだけじゃなくって、嫁ぐ国が絹で豊かになるようにって事だったんじゃないかと俺は思う。確かに絹糸だけじゃハラの足しにはならないだろうよ。今だって絹の他に健康食品とか化粧品のために多くの蚕は大人になれない。……絹はね、お金を生んで食べ物を生んだ。無駄な『命』じゃなかったんだよ。決して。供養というより、感謝して称える、って感じだったんじゃないかなあ? 『みのり』をもたらすモノとして」
 他のふたりは唖然として靭彦の説を聞いていた。
「誰もが生き物を殺すさ。だけど俺は大義名分とか方便とかってあんまり好きじゃないな。特に意味のない殺生『無益な殺生』っていうのかな? それはイヤだ。……あれ? どうしたの?」
「お前に説法されるなんてって思った」
タカオが正直な感想を漏らした。
「悪かったなあ! タカが不勉強なんだよ! ばーか! もの知らず!」
「うっせえよ!」
「あ……」
 あわや乱闘、という場面を綾女の静かな声が遮った。
「足元が揺れてる……ほんの少し」
「地震かな?」
タカオもおとなしくなった。じきに足元の揺れは止んだ。
―メシの催促か? 待ってろ。たっぷりエネルギー食わせてやるから。だからきっちり『護れ』よな。お前さんの場所を、さ。
 靭彦は目に力を込めた。

「ミツコさん」
 冷たい響きのテノールに、市原ミツコは振り返った。まかないのエプロンではなく、白衣を着込んでいる。
「榊宮司。いいんですか? もうすぐ始まりますよ」
「まだ時間はある。ここからなら近いですしね」
『テラ・コンピューター』ルームは榊家の地下を改造した研究所に移されていた。
「今のところは異変はありません」
「そうですか」
「今のところは、ですよ」
「気は抜けないって事ですか」
「ええ。もちろん。私がここを離れてもすぐにわかるようにはなっているし、『子供達』の処理速度なら防御システムは完璧、のはずですが」
「『はず』ですか」
「自信はあっても所詮は『ひとのつくりしもの』ですからね」
「ご謙遜」
「いや、そうではなくて」
『テラ・コンピューター』、『グラン・パ』は静かな鳴動を発していた。
「そして『ひと』ですからね。彼等は」
「そのようですね」
「宮司、私を軽蔑しますか?」
自嘲気味に市原が歪んだ笑顔を見せた。
「いや。羨ましい。とは思いますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「うらやましい、ですか……」
 市原は『グラン・パ』とリンクさせたパソコンに向かい、レーダー・マップをアップさせた。
「蜘蛛の巣ってね、縦糸だか横糸のどちらかは粘着力がないんですって。でもハンター本人が糸にからめとられちゃお終いですからね。だからハンターのデータ入力でそれを避けられるようにしてあります」
「ほう」
興味深げに榊はモニターを覗き込んだ。
「この『蜘蛛の巣』状のセンサーは縦糸、横糸なんて単純なモノじゃあありません。3次元の許す限り、それプラス温度、空気圧、金属反応すべてを察知し解析します。ただひとつだけ。弱さがある。それは……」
「それは?」
「『3次元の理(ことわり)』を無視した一部のモノですよ。ごく至近距離なら察知できますが。そうなれば接近戦です」
「ほう」
「悠長なんですね」
拍子抜けした市原が榊の顔を見上げた。
「生体といえるかどうかわからないが、リクツを無視したエネルギー体なら知ってますからね」
はあ、と市原は溜め息をついた。
「データがあるものならいいんですよ。データさえあればね。でもデータのないものは仕方ないんです。だから『はず』なんですよ」
市原はぬるくなったコーヒーの入ったマグカップに口をつけると一口飲み、デスクに置いた。カップにはうすく、口紅のあとがついていた。
 その時。かつて『市原ユズル』と呼ばれた『テラ・コンンピューター』、『グラン・パ』は「目をみはった」。


ひふみよいむなやこことお
ふるえゆらゆらとふるえ

 靭彦、タカオ、綾女による神楽奉納は、タカオのアカペラではじまった。

ふるえゆらゆらとふるえ
ふるえゆらゆらとふるえ

 3人が神楽舞台に登場したとき、観客たちからは少しばかりのどよめきが挙がったものの、タカオが前方に踏み出したその一歩で水を打ったような静けさが訪れた。
 朗々とした芯のある美声に皆、耳を傾けすぐさま聴き入り、その声に重なる靭彦のコーラスと弦の音が演奏に厚みを持たせていく。

 ふるえゆらゆらとふるえ

 タン! 綾女のボンゴが打たれる。

 ギイイイン……。

 靭彦の馬頭月琴がビブラートをきかせて歌う。

 そもそもこだまのらんしやうを尋ぬるに
 長者もあまたありけるその中に
 せんめう長者と申すは白銀の馬のぬし
 せんめう長者の一人娘に
 玉世の姫と申して恋うるは

 白銀の駒なれど
 長者の姫ともいわるるものが
 馬畜生に魅入られては
 人間界へ生ぜし奇特もあらねど
 駒を引き起こさせくびてうとはね落とし
 皮を剥いでは戌亥の方に
 晒させたまい候えければ
 不思議やその皮
 しきりに動いて大地へ揺り落ち
 玉世の姫の寝間へ飛び
 くるくると姫を巻きしたまえば
 風しきりに起こりて
 虚空へ巻き上げ行方知れずに候ひければ
 博士を呼んで占ひ候ひければ

 今は天にて生を変じて
 こだまとなって桑の葉に集りしが
 招けばこの国へも降ると

 さらば招いて見んと
 行者を呼んで
 招かせ給ひ候なり

こだまこの国へ招いたよ
するりするり招いたよ

このくにのこだまをこのむらに招いた
このむらのこだまをこのいえに招いた

招いたよ
招いたよ
するりとまねいだ

こだま界むすべ
界むすべ
彼の国
風おこりて
こだまきたる

 ごお。と強い一陣の風が、地面から吹き出した。しかし観客は地面からとは気づかない。

「宮司! どこへ行かれるんですか? 宮司!」
 儀式用の深緑に金糸の刺繍の入った狩衣に短い烏帽子姿の、結也は足を止めなかった。あわてて白衣の市原がその背に問う。
「もう。はじまります」
「ええ。そろそろ彼らの神楽奉納です」
 足を止めず結也は市原に尋ねた。
「なぜ退避勧告と第三種警戒体制が発令されないのです?」
「『グラン・パ』はすでに第一種、つづいて第二警戒警報を伝達しました。でも……退避勧告のキーは私が押すんです!」
「どうして退避勧告キーを押さないのです?」
「それは……。宮司、あなたの判断に委ねたかったんです」
「なぜ?」
「カンです」
「いい『カン』ですね」
「「宮司、退避勧告はこの小型の機器で遠隔操作できます。持って行って下さい」
「ああ。ありがとうございます。持って行きましょう」
「あとどれくらいあります? レッドゾーンに『奴等』が来るまで」
「四十分は持つでしょう」
「頼もしい旦那さんだ」
「そりゃあそうですとも」
ミツコの声は依然として固いが誇らしげだ。
 二人の背後に、私服だが動きの取りやすい格好をした元ブルーベレーの数名が駆け寄ってきた。ミツコが顔半分を振り向かせ、目で合図をすると彼等はそれぞれ別方向へと散っていった。

境内に結也が着くと神楽舞台では丁度靭彦たちの演奏が始まったところだった。
「いい声だ」
―来いよ。『ひなつ』。『こだま』の子。お前は招かれた。
 結也は懐から藍染めの絹の布でくるまれた笛を取り出した。
 結也は舞台を見遣やりながら記憶の底に沈む泥を思った。泥は掻き乱され、結也のなかの澄んだ水を濁していく。
―伊織。すべての罪は俺にあるのさ。伊織、『あの男』を殺したのはお前じゃない。
 俺が戦場から一時帰国を許されたあの日。八つ裂きにされたあいつを前に、俺は返り血にまみれ背中にお前の気配を感じた。お前はぶるぶると震えていたね。ご自慢のサバイバルナイフを持ってさ。でも無駄なことさ。お前じゃあ手に負えなかった。いや、手助けしてくれたよ。お前の『殺意』が。だが手を下したのは伊織じゃない。俺のほうさ。お前は秘密を共有しようとした。俺のために……。
 結也は笛を構えた。
―伊織。お前に俺の記憶が消せるとでも? お前の『力』は認めるさ。でもな伊織。利用させてもらったさ。お前の『力』をね。お前は自分が殺ったと、そしてそれは年端もいかないころと記憶しているだろうな。まったくひどい兄貴だよな。すぐに俺は戦場へ帰っていったしな。だがそうでもしないとお前は一生俺を哀れむ。それがわかったからでもあるんだよ。そしてお前が……俺に先を譲ってしまったという悔しさを持ち続けることも。そうだ伊織。姉さんが恋に狂った「あの男」には妻子がいた。それは俺たちが奴を憎む理由にうってつけだった。さらにあいつは……あの男は妻とその一族に捨てられ、子を捨てて姉さんの手をとった。『すでに他の男との結婚が決まっていた』姉さんの。あの男の捨てた幼い子供のひとりは里親の家を飛び出し、父親を訪ねて……あの光景を目にするハメになった。伊織、俺は覚えている。お前があの子の瞳をじっと見ていたのを。お前は甘いんだよ。そういうところが。あの男があの子供に最期に言った言葉は……。

『オトヲワスレルナヨ』
『おとをわすれるなよ、ひなつ……そして……』
―切り裂かれた喉から聞こえるはずのない声がした。

「うっ……」
地面に膝をついた日夏にスマイルがどかどかと駆け寄った。
「日夏! どうした!」
スマイルは顔をあげた日夏に『恐怖』としか言い様のないモノを感じた。彼の目は充血のためか真っ赤に染まっている。が、その朱に染まったと見えた瞳は彼の見間違いだったのか、もう一度よく見ると日夏の目はただ見開かれて血走っているだけだった。
「どうも……しない……」
「ウソつけ! それにしてもひでえな。これ。まるで蜘蛛の巣だぜ! センサーが生きてるみたいにこっちのマシンを電気信号で壊しやがる。しっかしなあ! センサーがキャッチできねえよ! どうなってんだ? 一体」
「攻撃機能搭載のセンサーか。攻撃方向から割り出せないのか?」
「無理だ! 特定しようにもすぐ邪魔が入る。バスケの試合みたいによお。『他のセンサーが邪魔する』んだよ!」
「何だって?」
「『かばいあってる』!」
「お前、ばか?」
「じゃあお前、探知してみろよ!」
「冗談だよ」
「怒る時間がもったいないから作業するぞ」
 あれはなんだったのだろう? 日夏は琵琶を構え直し、思った。一瞬、フラッシュバックが流れ込んだ。今はそれを考える場合ではない。スマイルも業を煮やし叫んだ。
「しょうがねえ!」
 スマイルは手の中のマシンや予備のものまで放り投げ、片耳に装着された補聴器に手をやった。
「日夏、頼む!」
 スマイルの補聴器は『音』を選別することができる。それは人間の脳であればできることだが、スマイルのそれは通常の可聴音域外もキャッチする。コウモリの何倍もの感度でだ。スマイルは聞こえる耳に栓を込め、日夏を促した。もしスマイルが健常な聴力の持ち主であれば、日夏の攻撃の『音』によってダメージを受けていただろう。ただ、音色によってはスマイルも危険である。それをスマイルは知らない。
 日夏の龍頭琵琶からは『音がしなかった』。破壊力を持つ超音波……とでもいうのか、それは確かに何か手応えをとらえ、その位置をスマイルの補聴器に返した。
「十一時方向だ! 日夏、カラダは持つか? 『マトモ』でいられるかってこと!」
「まあなんとか。早くそれ使えば良かったのに」
「データとってたんだよ! あいつら『生きてる』ぜ! おかげで波長がつかめなくてよお……」
「つかめたんだ? 波長のパターン」
「全部じゃねえよ。悪かったな! とにかく攻撃しろよ! 潰せ! このままじゃ侵入もままならねえ!」
「十一時方向、か」
 日夏はその方向に向かって弦をはじいた。と、一秒ほどを要しただろうか。日夏の頭の奥に、弱々しいパルスが到達した。
―これは?
「やった!」
スマイルが歓喜の声を挙げた。
―キョウダイカ? 
―あんたは……。
 日夏は胸に沸き起こる冷たくどろどろしたものに苛立ちを覚えた。
―しょくむヲまっとうスるのはタダシい。キョウダイ。『さようなら』。キョウダイ。
―あんた、まさか……。
「くそったれえ! 破砕したと思ったらアシストが変換された! その上防御が厚くなってきた! 反撃されるぞ! おい! 日夏! よけろ!」
 スマイルに体当たりを食わされ、とっさに琵琶を抱えた日夏はしたたかに背中を打った。
「こちらの位置がバレた! 即移動だ。乗れよ!」
 スマイルは呆とする日夏を軽々と抱えあげるとサイドカーの座席に放り込み、エンジンをかけた。
「そっか。センサー破壊するとこういう弱点、あるよな」
「黙れ! 日夏のアホ! 沈黙させるだけでよかったんだ!」
 彼等の居た地面の草には、焼け焦げた後が残っていた。

 ピイイッーッ!

 靭彦が最期の弦を弾いたとき、冴え渡る笛の音が境内に鳴り響いた。
 それをきっかけに、先刻からの風は強さを増し、ごうごうと唸りだした。空には鉛色に濁った雲が急速に広がる。
『大型台風接近のため、避難してください。くりかえします……』
 スピーカーからけたたましい電子音声のアナウンスが流れる。演奏に聞き入っていた観衆は天気予報では報じていなかったのに、とぶつぶつと言いつつも移動をはじめた。楽観的な屋台の一群も、半ば強制的に撤去を始めた。元ブルーベレーたちは、丁度良い口実ができたと一瞬喜んだ。そして雨による河川の氾濫が見込まれるとの放送を流し、里じゅうに指定場所への退避勧告を出した。
「それでも残る者は残るでしょうね」
孝之は雷鳴のとどろく雲を見上げた。
「ああ。子供たちは大部分疎開させてるがな。それにしても雨が降らないっていうのは無理がある。一体何なんだこの嵐は?」
深山も空を仰ぎ、くぐもった声で答えた。 

 葉魚絵は避難誘導する人々の手を交わしすり抜け、舞台へと泳ぐように近づいていった。
「タカオ!」
「葉魚絵!」
葉魚絵の姿を認めたタカオは手を伸ばして葉魚絵を舞台へ引き上げると、舞台の袖へと葉魚絵を押しやった。
「葉魚絵! 逃げるんだ!」
タカオは葉魚絵の両肩をつかみ叫んだ。
「嫌! 『おかあさん』も家を守ってる! だから私もここにいる!」
「ここは危険だ!」
「でも! きゃっ!」
ゴオゴオと風がうねり、葉魚絵の頬に打ち付ける。
「葉魚絵!」
タカオは葉魚絵をある程度風を防ぐことのできる舞台袖の奥へと押しやると「いいか、動くなよ!」と言い聞かせて強風の舞う舞台へと戻った。
 舞台では結也の笛と風の音のただなかで、靭彦と綾女がしっかりと結也を見据えてその場に居た。
「ユキ、宮司は何を……」
「タカ、『お前は』危険だ。葉魚絵ちゃんを連れて逃げろ」
 綾女も厳しい顔で同意を示す。
「ユキ、何いってんだよ! 仲間じゃないか! 俺だって!」
 三人が顔を上げたのはほぼ同時だった。
 本殿の奥にしつらえられた祭壇から、その強大な『気配』が三人にぶつかってきた。
「鏡! ご神体か?」
 振り返らずに叫んだのはタカオだった。
 風の音とも獣のものともつかない、ぐおおお、という咆哮が境内に響き渡った。

 里への侵入口からいったん大きく迂回し、榊邸の真裏からややズレたあたりからスマイルは無理やりにサイドカーを藪へと突っ込ませた。
「これじゃ目が開けられない」
日夏の呟きはスマイルには届かない。チューンナップし直したスマイルのサイドカーは砕氷船のように低い木々や雑草を切り裂き、急な斜面をおそろしい馬力で駆け上った。
 センサーたちの『目』が自分たちを追うのを感じながら、スマイルは自分たちにとって『いちばん安全な場所』を目指しマシンを繰った。安全な場所それはすなわち……。
 スマイルたちが藪を抜ける直前、マシンとはちがう轟音が伝わり地鳴りとともに地平が揺らいだ。
「ちいっ!」
 スマイルは横転しかけたサイドカーを体重をかけて引き戻し、さらにスピードを上げて目指す場所へと突っ込んでいく。白里神社境内へと。

ぐおおおお………。ぎう、ぐおおおおおお……。ぶるるるるる……。

ギイイーッ!

「なんだ……。なんなんだ……?」
天地を呪うかの如く響く咆哮に、砂利と砂埃を舞い上げスマイルは急ブレーキを踏んだ。さっきまでの勢いが嘘のように、彼の巨体は自らの震えを帯びている。
 座席で琵琶を抱え込みうずくまっていた日夏の頭がぴくり、と動いた。そしてその不揃いな前髪の間からぎらり、と獲物を見つけた飢えた蛇の両眼にたたえられる光が放たれた。
「……思い出しそうだ……あの声……」
「ひなつ?」
スマイルが日夏の異変に気づいた。
「スマイル。伝導片弾を撃ってくれ……」
「お前馬鹿じゃねえのか? おい! 伝導片打つには風向きはいいが、もう捕捉されてんだぞ! 俺たち!」
「やれよ」
「何言ってんだ!」
「やれよ。トロいとイライラする」
 日夏はサイドカーからゆらりと立ち上がると、龍頭琵琶を構えた。
 骨ばった手のひらが、弦の列の上を撫ぜる。音は、しない。
スマイルは半分白目をむきながら、照明弾に似た装置を組み立てはじめる。追い詰められたネズミのようだ。届くはずのない波動に彼は怯えていた。
「トロいなぁ」
「や……め……ひな……」
ゴボリと、白い泡とともにどす黒い血がごぼごぼとスマイルの口からこぼれ出しTシャツのスマイルマークを汚す。

ぱしゅん! 

 伝導片弾が打ち上げられ『伝導片』は上空風に乗り里のあちこちへと広がって飛んでいった。
 直後、ジュウっと肉の焦げる音と匂いとともにスマイルであったものの上半身は炭化し崩れおち、ややあって膝まで焼け焦げた下半身がサイドカーごと、ボトリと地に落ちた。
 狙撃レーザーの光るその直前、日夏の姿はその場からかき消えた。

ぐおおおお……おおおお……

ピイイーッッッ!

 結也の笛に導かれ明らかに『何か』が、鏡からずるりと這い出し、膨脹し舞台の前方へとその『身』を乗り出してくるのがわかる。
「綾女ちゃん! 早く!」
舞台中央に居た綾女はタカオの声のするより早く、靭彦とともに楽の道具と『くだ』の筒を抱え葉魚絵の隠れた舞台下手側へと飛び退いた。
「宮司の野郎!」
靭彦が叫びギリリと歯がみをする。
「ユキ、これって……?」
タカオは風から綾女を庇いながら邪鬼さながらの形相の靭彦をうかがい見た。
「タカ! 宮司はこいつを育ててたんだよ! この日のためにさ!」
「え?」
タカオだけでなく綾女も目を見開いた。
「ひでえよなあ。繭良や俺たちは自分たちのパワー削ってこいつにエサやってたんだよ。ここまでの力を持たせるためにさ」
「葉魚絵! そこに居ろって!」
タカオの制止も聞かず、葉魚絵は縦横無尽に吹き荒れる風になぶられつつも、よろよろと三人と同じ位置にたどりついた。
「『オシラ』神を『遊ばせ』てたのね」
「葉魚絵ちゃん、何?」
靭彦が飛んできた枝を振り払い、馬頭月琴を守った。
「蚕のかみさま。『オシラ神』がたいくつするから、『遊ばせる』の。そうだよね? 葉魚絵先輩」
「ある一定期間」
綾女の言葉を葉魚絵が継いだ。
「オシラ神を『舞わせる』のよ。たとえば神様に見立てた一対のオシラを人形遊びみたいに『遊ばせ』たり」
綾女が続ける。
「楽の音や、オシラの祭文を唱えて自分が何者であるかを聞かせて忘れないようにしたり」「そうよ。綾女ちゃん。あなたたち、このくにで許されない恋に嘆き愛しい白馬とともに変化した娘の姿が蚕だと言われた。蚕の神様はオシラ神と呼ばれ二体で一対。時々『あそばせたり』……」
「そうだよ。『遊び』なんてな。疲れたな。タカ、綾女ちゃん。どーぶつやコドモと『遊ぶ』のは疲れるよ。でもひとつわからねえ」
靭彦が厳しい目で馬頭月琴を構えた。
「与えればキャパは増える。そしてそこへさらに与える。胃を大きくするようなモンだ。そして『あいつ』はまるごとそれを自分のエネルギーに変える。しかも蓄積してきた。以前はそれほど必要じゃなかったハズだ。だからあいつはここまで『強く』なった。でも何故あそこまで飢餓感を持たせるに至った? まさか今日の事がわかってたって言うのか? 何だかわかんねえがめっちゃくちゃ腹立つなあ!」
 笛を口元から離さないまま、結也が笑みを浮かべた。
ご神体の鏡からするすると抜け出た『それ』は、霞のかかった巨大な白い蛇のにゅるりとした細長いカタチをしていたが、一度新たな咆哮を上げぐいっと頭部を天へ向けた。天を仰いだ『それ』の頭部は次第にそのままの態勢で、ある『かたち』を現し始め、なおもゆっくりと境内の参道を進む。
「何する気だ! 宮司は!」
 持ち上がった『それ』の頭部は、白銀のたてがみをたなびかせる巨大な馬の頭へと形を整えつつあった。

 ひときわ笛の音が高くなった。

グワアアアアオオオオオ!

 いななく巨大な白銀の馬の頭が高く叫びその形は完全な馬のそれへと次第に姿を変えた。
―来いよ。『こだま』の子。
 結也のこめかみから幾筋もの汗が流れる。
―来い!
馬と結也の間に、やや面長で長身の影が現れ出た。
「日夏!」
靭彦の頭に頭蓋の割れそうな衝撃が走った。
「ユキ!」
「靭彦くん!」
「靭彦さん!」
うずくまった靭彦をタカオたちが囲む。
「あた……ま……いた……」
「ユキ! おい! 大丈夫か!」
タカオがかがみこみ靭彦を抱きかかえた時、綾女の傍らで筒がガタガタと揺れ始めた。
はっとして綾女は筒をかき抱いた。
「だめ! 今出てはダメ!」

 繭良は。静かに瞼を上げた。両手のひらには紋白の宝石箱が載っている。
「まってて。紋白」
鰐笛を携えると、繭良は社務所を出た。

 結也は笛を口から離した。
 白銀の馬も猛々しい様子のまま咆哮を止めた。
 榊結也と日夏は向き合った。
「遅かったじゃないか」
「親父、やったの、あんた?」
風のなか淡々と問う日夏の声はよく響いた。
「そうだよ。邪魔だったからね。君のお父さんも君が邪魔だったらしいね」
「みたいだね。でも俺がここに居る理由はちゃんと成り立つわけだね」
「そういうの、君でもこだわるのかい?」
「さあね。わかんないけど」
 龍頭琵琶が掲げ上げられる。
「こうせずにはいられなかったんだ。また思い出してしまったから!」
 琵琶の弦が弾かれるのと結也が笛に息を吹き込むのは同時だった。
 巨大な馬は天を駆け暗雲を背に駆け上ると、結也の前に降りたった。
 日夏の打った音の弾丸は『馬』の腹に命中した。が、一声いななくと『馬』は何ごともなかったかのように日夏をねめつけ、その上『笑った』。
「強いんだ?」
特に感嘆しているとは思えない日夏の声が風に乗る。
「ああ」
「猛獣使いみたい」
「そうかい?」
「猛獣使いだって食われることもあるんだって」
「こいつはおなかいっぱいさ」
「動けば腹も減るさ」

「ユキ! おい靭彦!」
「いたい……いた……」
「靭彦くん! 動ける? 社務所の中へ!」
 靭彦の手をとった葉魚絵は愕然とした。
「ああ!」
綾女が必死に押さえていた筒の蓋が開き、ふわふわとした白銀の細長い『毛皮』たちが次々と飛び出した。小さなイタチかオコジョ大の毛皮たち……それらの姿かたちもイタチかオコジョにそっくりなモノたち、数にして数十匹か百匹ちかくだろうか? それらが幾重にも綾女を取り巻き、靭彦に向かって威嚇の鳴き声を発した。
「どうしたの? 靭彦さんは綾女たちの味方だよ?」
ふと、綾女は葉魚絵とタカオの様子に首を傾げ、自らも言葉を失った。
「アタマ……いてえよ……」
 乱れた髪を指でかきあげ額を押さえる靭彦の両眼は、黒目まで真っ赤に染まっていた。

『オトヲワスレルナヨ』
 青いフィルターのかかった記憶。
 大きな手のひら。けれど自分の手にぬくもりは伝わらなかった。
 肩にずしりと重い、木で作られた何か。それを入れた頭陀袋の木目の粗さ。せかせかとしてキンキンとした耳障りな中年女の声。
「ええもう気持ち悪くって。この子が弦をいじると灰皿がまっぷたつに割れたり、カーテンが裂けたりするんですよ。養育費も支払われるわけじゃなし。ええ、ええ。ありがたいお話しですよ。引き取っていただけるだけでも……いや。勿論……ふふふ……これで……が、買えます……ふふ……ふふふふ」
―なん……だ……? 
 激しい頭痛のなか、靭彦は粘つく音声や感触を必死に振り払おうとした。が、それは徒労に終わった。
「そうですねえ。兄のほうもこんな感じの楽器、持ってましたねえ。……まったく、あの恩知らず! どこへ行ったのか……ええ、もう何年も経ちます。あの子も居れば2倍になったのに……ふふ……いいえ。ああ、そうですとも。これは戴けるはずの養育費として考えていいんでしたっけ? でも……まさかこんなに……ふふふ」
―消えろ……。
赤く霞のかかった視界に向かって靭彦は呪いの言葉を吐いた。
―消えてくれ……。
『オトヲ……』
「そうなんですよ。ふふ……ふふふ……。まあねえ……」
『オトヲワスレ……』
「ふびんといえばふびん、ですねえ。猛犬をしかけられて。怨恨じゃないかって……。死体はひどい有様で。この子もとうとうひとりに……」
『オトヲワスレルナヨ。ユキヒコ』
あの青いフィルターの記憶。父親は死してなお「許してくれ」とばかりに何度も彼の前に現れ、幼い靭彦に馬頭月琴の音を教えた。あの日々は……! 
―消えろ! あんたたちなんか知るもんか! 勝手な事ばかりだ!
激昂した靭彦は悲鳴を上げ、バチを持った指は馬頭月琴の弦にかかろうとしていた。

「靭彦」

 慈愛の声が彼の指を止めた。人間の声と思ったのは鰐笛のロングトーン。基本のA(アー)の音。ドレミファの「ラ」。そして高く美しく低く安らぎの、旋律をなさないヴォイス。
 靭彦の視界がぱっとひらけた。
『怖い顔』をした『くだ』たちが今にもかみつきそうな勢いで靭彦を取り囲んでいる。左には思い切り尻餅をついた格好で腰をさするタカオと葉魚絵。右には筒を大事そうに抱え、泣きそうな顔をした綾女。そして『くだ』の輪の向こうに……。
「繭良!」
 金色を帯びて光る白い上衣。そして玉虫色の輝きを放つ袴。紅白の和紙をかさね麻紐でひとまとめに結った髪。正装の巫女装束の繭良が半透明の上着のたもとを風にたなびかせ、靭彦をまっすぐ見つめていた。その手には構えを解いたばかりの鰐笛が握られていた。
 舞台上の一同は強風というには激しすぎる圧力に揉まれ『くだ』の群れとともに助け合いながら頑丈な神楽舞台の袖へと避難し、そこから結也と日夏、そしてあの白銀の巨大馬を見守った。
「ユキ、いきなり叫んで立ち上がってさ、俺と葉魚絵を突きとばしやがってさ……」
 強打してまだ痛む腰をさする葉魚絵を支えながら、タカオが悪態をついた。
「悪かったよ。タカ、葉魚絵ちゃん。それから綾女ちゃんも……」
靭彦は心底悪かった、という口調で詫びを述べた。
「それから……マユラ。お前が『戻して』くれたんだな? その、鰐笛で」
繭良は無言でこくりと頷いた。
「これだけいろいろ起こってるんだもの。靭彦くんが影響されても変じゃないよ。だから気にしないで」
「もう。葉魚絵は優しすぎるよ」
葉魚絵を抱き締めながらタカオは言ったが、タカオも同じ気持ちだったらしい。すぐにタカオも靭彦に『もう大丈夫か』と尋ねた。
「ああ。もう頭痛はなくなったよ。ありがとう。それから」
靭彦は繭良に向き直り、何か大切なモノを壊してしまった子供の表情で言った。
「マユラ……少しでもわかっちゃったんだろう……? お前も……。俺、俺の親父は……」
 小柄とはいえ繭良よりは身長のある靭彦の頬に、繭良は少し背伸びしてそっと、衣の袖を当てた。
「ユキ、私にはあなたの大きな悲しみが流れ込んできたから。本当は私よりいっぱい泣きたかったのはユキだったんだよね」
「マユラ……。俺、俺……お前とは戦いたくない」
「私もよ。ユキ」
「だってお前は『あの男』を……宮司を護るんだろ?」
「宮司だけじゃないよ」
「親父は、あの男が手を下す前に『俺たち』を捨てたんだ。でも奴が俺たちの事を愛してなかったわけじゃない。だから恨む気持ちがないわけじゃない」
「うん。わかってる」
「だけど……あのさ、俺も、どう考えたらいいんだかごちゃごちゃ。だってさ、どうにもならない個人の事情ってあるじゃん。親父といえど一人の個人でひとりの男だったんだろう。そのどーにもなんない個人の事情に俺たち家族は巻き込まれてさ。誰を恨み怒りを感じればいいんだよ? でも俺、俺……誰も恨みたくないんだ」
「そうだね、ユキ。ユキが正直に、思うままに……」
 二人が同時に向けた視線の先には、結也と、結也の操る『馬』と死闘を繰り広げる日夏の姿があった。
 おぼつかない足で、結也は呼吸を整えた。『馬』のダメージは結也にもエフェクトを与える。カバーリングは『馬』が完璧にこなすが、やはり使い手の力が勝負のキーとなる。結也の前に浅葱の袴姿のモノたちが次々と壁をなした。
『宮司』
『宮司』
『お下がりください』
『私どもに』
―式オニたちよ、お前たちではこのパワーに取り込まれて消滅してしまうぞ。
『宮司。おまかせを』
『宮司、わたくしどもはあなたさまとともにあります』
『宮司が少しでも手綱をひきやすくなれば』
『あの馬の力となりましょう』
―お前たち!
『宮司、わたくしどもはあなたさまに感謝していつか御恩を返したいと』
―それはないだろう? 俺は……お前たちの命を救えなかった。
『宮司、普通の高校には行けず隊の高校卒業後派兵され』
『まだ子供だったわたくしたちに』
『あなたは優しかった』
『上の理不尽ないじめから守って下さった』
『だからわたくしどもは力になりたいのです』
―お前たち! もういいんだ!  お前たちはこれ以上戦って再び散る必要はないんだ!
 しかし舞い飛ぶ『式』たちは次々と『馬』へと飛び込んだ。
『さようなら』
『さようなら』
『さ、よう……なら…』
『あり……がとう……ござい……まし……』
―くっ! 
結也は乱れる髪を払いもせずに笛の音を絶やさない。充血でなく、ただただどこまでも真っ赤な瞳をした日夏が獲物を食らうかの如く大きく口を開けた。そして弾いた弦は……『音』がしなかった。
「うっ!」
激しい風圧に押され、結也は砂埃を上げ後ろへと吹き飛ばされた。ごぼり、と『馬』が紅色の霧を吐き、苦しそうにいななく。
「日夏! やめて!」
繭良が叫び舞台から飛び出すより前に、地面に着地したのは靭彦だった。靭彦は舞台から駆け降りると片腕で風を遮りながら、結也と日夏の間に割って入った。
「日夏! 俺が相手だ!」
『馬』は靭彦の背後でどさりと倒れ、苦しげに痙攣している。
「宮司!」
続いて繭良が、胸を押さえ辛うじて身を起こした宮司に駆け寄った。
「宮司!」
舞台上の三人、そして『くだ』の群れも結也のもとへと走った。
「どきなよ。靭彦。お前、『知った』んだろう?」
 日夏は鮮紅色の両眼で靭彦に視線を投げた。
「靭彦。なんで庇う? あんな男でも父親だった。楽しい時もあった。愛されたこともあった。俺たちは放り出された。だれも助けちゃくれない地獄に。俺は耐えられなかった。何で『ここに呼ばれた』と思う? やるべきことがあったから。こうなるべきだったから」
「ひなつ……。やるべきなのは別の事じゃねぇの? 俺はあんたより家族を知らない。でも親父は俺に言葉を残してくれた。『音』を残したんだ。親父は『音を忘れるな』と言った。敵討ちをしろとは言ってない!」
「いいのか、お前それで?」
「いいわけない! でも違うんだ。あんたの考えることと……。何の意味があるんだよ? もっと違う心の折り合いのつけ方があるだろ?」
「迷ったまま戦えるものか!」
日夏の弦が低く響いた。
ざくり、と靭彦の肩口が切られ、靭彦は顔をしかめた。一同は声をあげることもできず、二人を見つめた。
「いてえよ。日夏、いや、兄ちゃん」
「俺が攻撃しないとでも思った?」
日夏がせせら笑う。
「もうたくさんだ」
靭彦は血を滴らせ、馬頭月琴を構えた。
「もうたくさんだ。こんなごちゃごちゃして気持ち悪いの。イヤなんだよ!」
兄弟は同時に弦に手をかけた。

ガギイイイイイッッ!

二人の間で空間がねじれた。スパイラル状の風景は双方から突き進みぶつかり合った。
『馬』が高くいななく。
地面が揺れ、大地から放り出された繭良たちを『くだ』の群れがクッションになり助けた。
靭彦と日夏はどす黒いもやに包まれ、互い衝撃になんとか持ちこたえている様子だった。

「どうなんだ、ミツコさん」
「照明弾みたいなのが光ったね」
市原ミツコは武田を振り返らず、最上段のモニターに映っている映像を何度もリプレイさせていた。
「合図じゃないのかい?」
武田が弱々しい声で意見を言う。
「いんや、違うだろう。『あの子たち』が警告してる」
ミツコはパソコンのマウスをクリックさせた。ディスプレイに新たな画面が立ち上がる。
「照会が難しい。何かの破片がこまかーく散ってる。これは………」
 壁一面のモニターがすべてオンになり、里のあちこちが映し出された。
 そしてそのモニター画面にオレンジ色のフィルターがかけられた。
「これは!」
「どうした、ミツコさん」
くぐもった声だが深山の焦燥が伝わってくる。
「やばいねー。……伝導材か……」
「ミツコさん?」
 ギイッと椅子を軋ませてミツコは深山らを振り返った。
「全員退避! 急いで!」

「榊宮司! しっかりして!」
 倒れて血の気のない顔の結也の身を支えて叫ぶ葉魚絵をやんわり制止し、タカオは結也の首に手を当てた。
「大丈夫。脈はある」
 三人はほっとしたが、すぐさま別方向に目を向けた。
標的を変えられた『馬』は荒く息を吐き、ゆっくりと足を折り繭良の前に座りこんでいる。弱々しい身振りで巨大な長い鼻面を繭良に向けた。繭良は馬の顔に頬を寄せ、優しく撫ぜた。『馬』は何箇所もの傷を受け繭良とは反対側の胴から血煙りを上げている。繭良は『馬』のバリアにいとも簡単に入り込み、白銀のもやの中、鰐笛を構えた。
 靭彦と日夏をとり囲む荒れ狂う鋭利な暴風は渦となりぶつかり合い、時折双方を容赦なく斬りつける。
 靭彦は幾重もの紅色の筋を躰中に走らせ、肩で息をついて立っていた。境内の地面の上にぽたり、ぽたりと血が滴っている。それに比べ、日夏はそれほど傷を負ってはいない。
「さっきあのバケモノをあれだけ相手にしたんだろ? もう限界なんじゃねえの?」
 悪態をつく靭彦を日夏は鼻で笑うと、弦に手をかけた。
「くっ!」
 今の靭彦にはなんとかシールドを張る防御しかできない。
「お前もさ、あのバケモノに食わせたんだろ? お前自身をさ? もともとかなり疲れてたんじゃない?」
「うるせえよ!」
 靭彦の弦が唸る。日夏は難なくその破壊力ある音圧をかわした。
「あ、こんなことしてる場合じゃないな。仕事、やっちゃわないとな」
「何だ……と……?」

びいんっ!

 日夏が鋭く弦を弾く。ふたりを包む黒い霧の天に閃光が走り、霧がふうっと薄らいだ。
「消えてしまえ」
日夏の弦は低音とも高音ともつかない不気味な音を立てた。

 丘の上で里の者たちは眼下を見守っていた。福田孝之は妻・房子の肩を抱きながらどよめく人々の声を聞いていた。孝之も市原とともにコントロールルームに残ることを志願したが、房子の警護という名目で無理やりに避難させられた。房子は全く取り乱さない。それどころかひどくおだやかな表情さえみえる。しかし、孝之が何と申し出ても決して軽くはないであろうオシラの祭壇をかかえ、夫に渡そうとはしなかった。
 闇の迫る眼下では里に夕焼けが落ちたかのような明りが、ぽつぽつと広がっていった。
「あ、あれ……」
 震える声で葉魚絵は神社の森の向うを指差した。
 とうに陽の落ちた空に、下方から茜いろの光とグレイの煙りがせり上って瞬く間に広がるのが、皆の目に映った。
「日夏! お前!」
すぐさま里のあちこちの木々に模されたスプリンクラーが発動したが、その炎の勢いはせせら笑うように緑を別の色へと舐め上げ塗り替えていった。

 ミツコは震動する部屋の中で腕組みをしたままメインモニターを見据えていた。
「み、ミツコさん! あなたも退避を!」
腕をとった武田の手を振り払い、ミツコは正面を向いたまま彼に避難を促した。
「ここはそう簡単にはやられないさ。だが予測は確実じゃない。早くお逃げよ。あたしは離れない。ひとりで逃げることはできないよ」
「ひとりではないでしょう!」
ミツコは悲鳴に似た武田の声にかぶりを振った。
「あの伝導片はね、特定の音波に反応して発熱、発火するのさ。こんな遠隔操作ができるとはね。あたしの落ち度さ。そのせいで」
ミツコはオーブントースター大の機械と化したかつての「夫」に目を向けた。壁面のダイオードの列がリレー式に点滅を速くする。
「子供たち、ごめんなさい。ユズルさん、ごめんなさい。あなたたちを置いていかないから。ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ミツコさん!」
武田はミツコの肩を掴み強引に振り向かせた。 
「あたしのわがままなんだよ」
 弱々しく言うミツコの目が潤んでいる。
「ミツコさん! 何いってんですか! 『私たち』は『置いていっても』いいって言うんですか!」

15

「燃えてる」
 葉魚絵は意識のない結也を綾女に委ね、立ち上がると猛然とダッシュした。すかさず葉魚絵の胴にとびつき、タカオが止めた。
「何考えてるんだ! お前!」
「だって! だって! もえちゃう!」
もがく葉魚絵をタカオは更に強く抱き締めると耳元に口を寄せた。
「こだま………このくににまねいだよ……こだま………するりするりまねいだ……」
子守歌の響きの、タカオのやわらかな、しかし芯のある声が、激しい風にも溶けずに鳴り渡る。ごくごく小さなはずの声はよく通り、立ちすくむ一同の間を流れていった。
「伝導片を撒いた。音波で発火するやつを」
「てめえ何でこういう事すんだよ!」
日夏の淡々とした口調に靭彦が叫ぶ。
「仕事って言ったろ?」
「あんたさ! ほんとは自分で決めたことってあんま、ないんじゃない?」
ぴくり、と日夏の片眉が吊り上がった。
「カタキ打ちが自分の本来のワークのつもりなんだろ? っていうかさ、憎しみって感情だけで生きてやりたい事とか、自分とか、そういうの、ぜーんぶ考えてないんだよ! あんたさ! 成り行きでさ、自分じゃなんも決めらんなくてさ、そんな自分をイイコイイコしてさ、そんなんじゃ誰ひとり愛せねえよ! 自分を憐れんでも愛してない。だから曖昧な憎しみだけで誰も愛せない! だから死んだ親父の気配も跳ね飛ばし、もっと弱く幼かった俺しかキャッチできなかった。あんたはもちろん酷い目に遭ったさ! コドモが見るには酷過ぎる光景を見てしまったさ! でも俺は家族が恋しかった! 何の記憶もないんだぜ? でもさ、親父もそれなりの事やって、因果オウホウくらってんだ! それも歪んでも間違っててもタイセツとか愛スルとかが絡んでた。 肉親でもどうしようもできねえこともあるだろうがよ。それに俺は……俺のしたいようにしてきて、今もそうなんだよ! あんたと違って!」
「黙れ……よ……」

こだま きたりませ
こだま きたりませ

 タカオは葉魚絵を抱き締めたまま、天を仰いで朗々と謡いあげていた。頬を濡らして。
繭良の鰐笛に、『馬』は甘えるように彼女に寄り添い気持ちよさそうな表情を見せ始めていた。だが焦げ臭い匂いは境内まで漂ってきた。
「どうにか……ならないの?」
綾女は自分が震えているのに気が付いた。
こわい。綾女の脳裏に彼女を見送る父の笑顔が蘇った。
「こわいよパパ。たすけて……『お父さん』………」
綾女の腕が微かに動いた。はっとして綾女は腕の中を見た。
「おとうさん、か」
結也はぐらりとする躯をなんとか操ろうと荒い息をついていた。
「宮司、動いちゃダメだよ……」
「『おかあさん』って言わないんだな?」
結也は綾女に寄り掛かりながら顔を上げて彼女の顔を見上げると微笑んだ。
 綾女もつられて、微笑んだ。
「うん。綾女にはふたりもおとうさんがいるの。いいでしょう?」
「ああ。うらやましいね」
 地鳴りと轟音の中。
 綾女の部屋に置かれた絹細工の白孔雀は、倒れることなくちょこんと愛らしい表情のまま、羽を休めていた。
 風は窓の隙間からもひゅうごおおと、その猛威を示している。

 こだま きたりませ
 こだま きたりませ

 切れ切れにタカオの声は室内に流れ込む。そして。

タスケテ、オトウサン。

 孔雀は羽をひろげた。
 そして徐々に、本来のカタチへと変化していった。

びいん……っ!

 日夏の弦が鳴った。
 靭彦と日夏の間に吹き荒れる暴風は小型の竜巻へと変貌した。
ごうごうと鳴く風はその渦へと吸い込まれ、高く高く風の渦はねじれ……その頂点に咆哮する龍の頭が形づくられた。
「ちっ!」
激しい風におされ、靭彦は弦を弾いた。
 竜巻の外壁の暴風は境内にその輪を広げていった。
 掴み出される風圧に、皆、目を半分閉じ飛ばされまいと必死に身をかがめた。
「だ、ま、れ」
 日夏の感情という感情を排した声が竜巻の中でこだまする。
繭良は鰐笛の構えを解くとすっかり痛みの消えた『馬』から離れ、地を踏みしめ、風の中へと歩き出した。
「ねえ日夏。ほんとは知ってる。あなたはよく知ってる。『自分の意思で歩むこと』『ほんとうのなりたい自分』とか。でも知りたくもないこと、知り過ぎて……それは深すぎて」
「マユラ! こっち来るな!」
靭彦の叫びに関わらず繭良は歩く。
「だから自分じゃわかんないようになろうとした。だから誰もあなたのことわかんなかった。私だってまだ完璧にはわかってない。そんなこと誰でもそうだし。自分自身だってそう。誰でもそう。でも私は『あなたはぜんぶ知ってる』って思ってる」
「マユラ! やめろ! くるな!」
 日夏の片頬が歪んだ。

 びいいんん!

 ギイイイイギギイイッ!

 繭良の前方で、日夏と靭彦の衝波がぶつかりあう。繭良は慈愛と哀れみの入り交じった顔で進み、竜巻の中心。兄弟たちの間へと歩みをとめなかった。

 繭良は鰐笛を構えた。

 鰐笛の高らかな音が、
 
 竜巻を割った。

 日夏の手が弦へと走った。

 靭彦が声にならない叫びを上げた。

 空はすでに茜とグレイに覆われていた。

 突風が繭良をはじき飛ばし、高く、空へと放り投げた。


 元の光を取り戻した『馬』が立ち上がった。


『白銀の馬は皮を剥がれ、その皮は恋しい姫の寝間へととび、くるくると姫を抱きすくめると、天高く舞い上がった』

 葉魚絵がいつか図書館で読んだ一節。
 こだまの祭文に記され、受け継がれてきた伝承。
 それに似た現象が今、彼女の眼前に展開した。
 形をゆがめた『馬』の白銀の光輝く毛皮にくるくると巻き取られた繭良は、竜巻の頂点へと舞い上がった。竜巻の裂け目から一頭の龍がのびあがり牙を剥いた。鋭い牙が毛皮を裂こうとした時、龍は突然両眼から血飛沫をあげ喉をのけ反らせて咆哮した。
 真白い閃光があたりを包んだ。

 おん まゆらきらんでぃそわか
 おん まゆらきらんでぃそわか

若い幅のある響きの男の声に、繭良の高い声音が混ざって天からおちてくる。
そして。ぽつり、としずくが地へと落下し、ぽつり、ぽつりと大粒の水滴が降り落ちた。
頬に雨粒の感触を感じ、綾女はこわごわと、顔を上げ、目をうっすらと開いた。
「あの声は……」

 おん まゆらきらんでぃ そわか
 おん まゆらきらんでぃ そわか

 雨はざあざあと地に注ぎ、茜の空はどす黒い煤と煙が支配していく。
 雨音の中、繭良の鰐笛が歌う。
 雨を、大地を潤し木々を育てる命の水を喜び、ことほぐように。
 天空には、大きな楕円の白い光球が浮かび、その中心にある巨大な繭玉に酷似した白い塊が花開くようにほころぶと、まばゆい緑がかった銀の光の壁に護られ白い孔雀に横坐りに乗った繭良が現れた。
 竜巻はいつしか形を失い、空は黒い煙さえ押しつぶし淡いグレイへと変化する。
「孔雀……おとうさん……。ありがとう……」
呟いた綾女の腕の中で、ククク、と結也の笑う声がした。
「宮司?」
「あいつ……迦陵頻伽のつもりか?」
「カリョービンガ?」
「笛を吹き、歌う女神さ。躰の半分は鳥の、ね。じゃなきゃ孔雀明王。雨を降らせたからな」
「孔雀って、雨のかみさまなの?」
「ああ、そうらしいよ。ちなみに蚕の神、オシラ神はね、目、つまり眼病の神様。光あれば影、あるいは闇の顔もある。仇をなせば『目』をやられた、って解釈していいものかな? あの龍は」

「なぜ構えを解いた?」
 靭彦は日夏を見つめたまま立っていた。
「おまえこそ」
「お開きらしいぜ、兄貴」
「そう呼んでくれるんだ? でも俺、負けちゃいないだろ? みんな焼けたよ」
「はじめればいい」
「その気があればね」
「兄貴にもそのうちわかるんじゃないかな?」
「生意気」
「頑固者」
「そろそろ行くか」
「見届けなくていいのか? 日夏」
「関係ない。やるだけやった」
「ああ、まったく。ひでえことしやがって」
しかし靭彦は言葉とは裏腹に馬頭月琴を構えようとはしない。
「じゃあ」
 日夏は背を向けると続けた。
「『見届ける』必要なんてないんじゃねえの?」
「さあ。どうかな? ひなつ……。あの組織に帰るのか?」
 日夏は歩みはじめていた。
「俺がわかるわけねえよ」
「……、だな」
『ひなつ』
思わず日夏は目を上げた。そのカン高いがやわらかい声は光の玉から響いてきた。
『さよなら』
 日夏はわずかの間、立ち止まると再び目を地面に落とし、ふたたび歩き出した。

 ずぶ濡れになりながら、丘の上で人々はゆっくりと旋回する光の玉を見上げていた。
光は美しかった。雨は美しかった。しかし美しかった里の緑は……。
沈黙を、場違いな陽気な声が破った。
「じゃあそろそろいきましょうか?」
にっこりと房子は微笑んでいた。
「行くって?」
市原ミツコは火傷を負った片腕を武田にかばわれた姿勢で問いかけた。

「これは……?」
おお、とざわめきがひろがった。
 房子の案内した洞窟内は冷んやりとして何処から吹くのか涼しい風が吹きぬけていた。
丘を下った小さな林の中に、その洞窟はあった。
 房子はにっこりと洞窟を進む。洞窟の奥に従ってそこは天井から両側面の中程までが氷穴化し、キラキラと薄暗い洞窟に細かな光を反射させていた。そして房子は、その奥付近にしつらえられた天井近くまである奥へと、長い木の棚を指した。
「昔の人はね、蚕の卵をこうやって保存してたんですって」
皆がその棚の、格子状に区切られた平たい木箱にびっしりと詰められた薄い黄色の小さな粒を、氷の光に照らされ眺めた。
「こんなところが……」
福田孝之が感嘆の呟きを漏らす。
「あなた、黙っていてごめんなさいね。これも『つとめ』でしたから」
 歓声が沸き起こった。

 境内を旋回する光の玉が、糸のようにほぐれていく。光の糸はすうり、と流れ社殿の奥へと吸い込まれていった。
 繭良は大きな白孔雀に乗ったまま、天空から皆に視線を注いでいた。
 小雨になった雨のなか、靭彦が叫んだ。
「マユラ! 降りてこいよ!」
 しかし、繭良は泣き笑いを小さな顔に浮かべ、かぶりを振った。
「なんで!」
『ユキ』
ビブラートのかかった繭良の悲しげな声がこだまする。
『ユキもかえらなきゃだめでしょう?』
「なんだよ! それ!」
『待ってる人がいるもの……』
「マユラ! 俺は!」
『ユキ、待ってる人、待たせちゃ駄目』
「マユラ!」
 繭良は懐から小さな箱を取り出した。
『私、探すひとがいるの』
「繭良ちゃん!」
 タカオの腕から葉魚絵が飛び出した。
「どこに行くの? ここにいようよ! ずっとずっと一緒に……みんなといっしょにいようよ!」
『葉魚絵さん……。ありがとう』
「繭良ちゃん! 私が……私たちの事が嫌い? あなたを守ることのできなかった私たちを嫌いになったの?」
『違う。葉魚絵さん、あなたのおかげで救われたの』
「え?」
『わたしはね、あなたが居なければ日夏を殺していたかもしれない。ううん、殺されてたかもしれない。この衣……。あなたが紡いだ命が、私を守り、私は命をまとって、命を知り、今を迎えることができたの』
「繭良ちゃん……」
『やさしい葉魚絵さん。タカオさんと幸せになって……』
『綾女ちゃん、孔雀を呼んでくれてありがとう。宮司……ありがとうございました……。タカオさん、葉魚絵さんを……』
「幸せにする! 絶対に! 幸せにするよ! 俺が葉魚絵を守る! 繭良ちゃんがしたように!」
 タカオはあらん限りの声で返した。
 孔雀は大きく羽ばたいた。
時間をかけて、しかし振り返ることなく繭良は、顔を皆から外すと孔雀の頭を撫ぜた。孔雀は一声高く鳴くと、群青の星空へと進路をとった。
「待てよ! おい!」
雨はいつしか上がっていた。
「靭彦」
 聞き慣れた声に靭彦は振り向いた。靭彦の背後、境内には里の人々が集まってきていた。
 集団の先頭。房子のとなりで木枠に囲まれた平たい箱のようなものを抱えていたのは、ショーコだった。
「お前……」
「心配だったの……。止められたけど……。いてもたってもいられなくて……」
ショーコは雨に濡れた身を震わせて小さく答えた。
「洞窟を出たところにね、このお嬢さんがいたの。泥だらけでね」
房子がショーコの肩をそっと押した。
 ショーコと靭彦は歩み寄った。こわごわと、ためらいながら。
「ショーコ、それは?」
靭彦は木枠のはまった箱を目で指した。
「蚕の卵だって。もっといっぱい保存されてるの。この里はまだ死んでないの。これからはじまるの」
 ショーコはちょっとぎこちない笑顔で靭彦に箱を差し出した。靭彦はその箱を、自分の赤子を受けとるように手にとった。
「ショーコ、俺……」
「あなたが私を見ないことがあってもいい。私を見つめていてくれることがあれば。私が『必要』であるなら」
「俺、もうお前にとって『必要』じゃないと思ってた……」
「どうして? バカね。撃ち殺すわよ」
「勘弁してくれ」
ふたりで箱を支えながら、靭彦はショーコの頭を抱いた。
「繭良ちゃん……」
葉魚絵の背後から、タカオがゆっくりと腕をまわす。
「ああ。また会えるさ」
「そうだよね?」
「そうだよ」
 群青色の空に点る明けの明星は次第に地平へと落ち、空は淡く色を移し。
 夜明けがやってきた。

16

「『インダストリアル・グリーン』本部、壊滅。幹部層は別件にて逮捕。まだまだ暴かれる疑惑の帝国? もちっとマシな見出し作れないもんかね?」
 自宅の屋敷の応接間で、榊伊織は新聞から目を離すと百済に声をかけた。
「僕に文句を言われましても……」
そう困った様子もなく百済は温和な口調で答えた。
「で、『信者』で工作員が大量にセンター引取りになった、と」
「ええ」
百済の顔は打って変わって急に曇った。伊織はデスクから立上がると百済に歩み寄り肩に手をかけるとその頬を指で突いた。
「あー考えてる?」
「や、やめてくださいよ」
ぱっと伊織を払い除け、百済はあわててファイルをめくった。
「あんまりいい表現じゃないですけどね。洗脳外しって結局は洗脳みたいなものですよね。でも洗脳されてたっていうのとも彼等は違うし、そうすると純然たる洗脳で……」
「ややこしいな」
「すみません」
「再教育。まあそんなとこ? それよりさ、もっと気になってること、あるでしょうが」
百済の表情がきつくなった。
「先に言いますよ。榊さん。あの大きな本部施設の破壊、最高幹部の廃人化、その他の『破壊』活動をやってのけた人間。それも複数でない。それをやってのけた人物のことでしょう? あなたがおっしゃりたいのは」
「ピンポン! でもそんなの問題じゃない。君にとっては。まあ、あいつはやりすぎるきらいはあるけどね。気になるのは消息、だろう? 違うかい?」
「ええ……」
 百済はファイルに目を移した。
「榊さん、私は用事があってここに……」
真面目くさった百済の声を遮って言った。
「共有、させてくれよ」
「え?」
「俺だってさ。『いなくなるとさみしい』って思うことあるんだぜ。君にとってのあいつみたいにね」
 百済は新しい眼鏡の位置を直すと、遮られた言葉を継いだ。
「榊さん。実のところ前ほど心配じゃないんですよ。不思議とね。僕らも、あなたがたも『まだつながってる』。そう思いませんか? そんな気配ってないですか?」
「ああ……」
伊織は煙草に火を点けた。
「白里、行くかな? 休暇とって」
じろりと百済が伊織をにらむ。
「急になんですか? そんな暇が……あ!」
「きめたっ!」
伊織は少年の身のこなしで机を軽く飛び越え、室内から走り出て行った。
 百済は追わずに、溜め息をつく。まだ必要な伝達や報告も終わっていないのにな、と。ぶつぶつ言いながら。
「日夏、少しは気が晴れたかな? 君は本当に自由になる入口に立ったかい?」

 5月の空は晴れ渡っていた。遠くなった青はすがすがしく、流れるちぎれ雲は、美しく天を飾っている。
「きれいよ」
 福田房子は葉魚絵の襟足に水お白粉を塗り終えると、ふうっと夢みるように言った。
 和風の三面鏡には、あとは綿帽子を被せるだけの葉魚絵の花嫁姿が映っていた。
「福田さん、ありがとうございます」
 鏡のなかで葉魚絵の父が房子に深々と頭を下げている。
「こちらこそ。こんな綺麗なお嬢さんを……」
 房子は正座しなおして葉魚絵の父と母にきちんと結い上げた頭を深く下げた。
 今日、葉魚絵とタカオは式を挙げる。
「さあ、行きましょうか」
 準備が整い、葉魚絵の手をとった房子が葉魚絵を立たせ、その父へと手をとらせた。
 大きな白い幹の先、白っぽい緑の枝には大きな桑の葉が広がり、5月初旬とはいえ汗ばむ陽気の中、新郎新婦の出発を待つ人々にやさしい木陰を与えていた。
 やがて歓声と拍手が起こった。
 先頭には紋付き袴姿の福田孝之が家紋の入った提灯を捧げ、そのあとに葉魚絵の父が花嫁と手をたずさえて歩く。その背後にしっとりとした歩みで花嫁の母が続き、そして花婿、しんがりを房子がつとめる。
 神社までの道を新しい家族たちはゆっくりと踏みしめていった。道の両側を人々が共に歩んでいく。
 白里神社で待機していたタカオは緊張のせいかウロウロ歩き回り時々、手と足を同時に出して立ち止まり、神社の待機組や、実習を兼ねて神社に奉職することになった青年たちから笑いを誘っていた。
「似合うね」
「やっと板についたって感じかな」
 綾女は髪が伸び、なんとか紅白の和紙を麻紐で後ろで結んでいる。もう鮮紅色ではなく黒髪になっている彼女は少し以前より大人びて見えた。靭彦も一応正装らしきスーツを着込み、婚礼の準備を整える綾女を五月蠅く構い、市原にスリッパで思い切り頭をはたかれた。靭彦に連れられて一緒に式に来ているショーコは当然の如くそれを無視した。
「いいわね。巫女さんの格好、私もしてみたいな」
ショーコのうらやましい、という言葉に綾女がいたずらっぽく返した。
「巫女さんでいいの? 主役じゃなくて?」
「え?」
淡いピンク色のスーツのショーコは、はにかんで赤くなった。
 境内の入口あたりから人々のざわめきが聞こえてきた。
 葉魚絵は綿帽子の下から目線を上げた。その景色は季節こそ違えど、はじめて境内に走り込んできた時とさほど変わりはない。あの日、繭良に会いに葉魚絵はやってきた。彼女はどこにもいなくて、あの歌声が聞こえた。カン高い少女のような声。その声とはミスマッチな艶のある動きで舞う彼女を見つけた。葉魚絵に気が付いて、上気させた顔を振り向かせた繭良。オシラ小屋。思い起こされた悲しい記憶。
 タカオは足元に、またあのチミモウリョウ達がわさわさと行進している錯覚にとらわれ、とっさに顔を地面に向けた。だが、あの小さなあやかしたちは影も形もない。あの晩、靭彦について神社を大きくまわり、榊の屋敷へと向かったあの晩、信じられない光景を、彼は目にした。モノノケたちが繭良の鰐笛に合わせ踊っていた。綾女のボンゴが打ち鳴らされた。溶け合う音に満足しきったモノノケたちは砂が風に吹かれるようにかき消えた。
 そして……。
 婚礼の杯に綾女が神酒を注ぐ。街から呼ばれた楽師たちが音を奏でる。榊宮司により祝詞が読み上げられ、誓いが立てられた。面をつけた踊り手が笛や太鼓に合わせて祝いの舞いを舞う。社殿の前にしつらえられた婚礼の会場で、青空の下、酒や膳が振る舞われ、社務所の広場では宴がはじまった。
「結也、けっこう形になってたんじゃない?」
「当たり前だ」
 伊織は宴に入ると同時に到着した。
「何しにきた? って言われないだけいいか」
「いや、聞いてどうするんだ? 兄貴」
「そりゃそうだ。でも驚いたな。すごい偶然だ。ハッピーな席に来れるなんてな」
「偶然じゃないだろう?」
「いいだろ? あー。でもなんか今日だ。って思ってね。来るんなら」
「偶然じゃないならその正装はなんだ」
「久々にお前に会うからに決まってるじゃないか?」
「白々しい……」
 いつのまにかふたりの横にやってきていたのは靭彦とショーコだった。
「ご兄弟だったんですね。双子みたいにそっくり」
 ショーコが感嘆の声で言う。
 ぐるりと榊兄弟は同時に彼女に顔を向けた。
「双子なんだ」
「脅すなよ!」
 靭彦がショーコの前に立ってかばう。
「別に脅してない」
二人は同時に言ってしまったあと顔を見合わせお互いを睨み付けた。
「だって怖い顔してたんだもん」
 兄弟仲を悟った靭彦が半分笑いながら説明した。
「仲良くしなよ」
 しみじみとさとす靭彦に、唐突に伊織が声をかけた。
「あ。鎌宮靭彦くんに、中西祥子さん。あとで正式に伝達くるけど、辞令だよ」
「え?」
ショーコが目を見張る。
「元なんとかグリーンの奴等のトレーナーが人手不足なんだ。君ら、指導係ね。中西くんは射撃指導よろしく」
「え? ちょ、ちょっと!」
靭彦は伊織の前へとつめよる。
「部署は別だけど建物は同じだからね。君らも結婚しちゃえば? 家族寮なら家賃かからないし」
 靭彦を見下ろし、つらっと伊織が言う。靭彦は真っ赤になって言い返すこともできない。
 その後ろでショーコはくすくす笑いながら伊織にぺこりと頭を下げた。
「歌え! 新郎!」
「歌え!」
 宴席からやんやとはやしたてる声が響いてきた。
 ほうぼうから酒をすすめられ頬の赤いタカオは、ちらりと新妻を見た。もちろん紅を引いた口元は承諾の笑みをたたえている。
「お! 歌うのか!」
「ユキ! どこいくの!」
 靭彦は肩から下げた頭陀袋を抱えなおすと走っていった。
「もう……。」
「聴きにいきましょうか」
 結也に促されショーコは「ユキ、ほんとに自分勝手なんだから」と笑いをつくり頷いた。
 楽師と踊り手に混じり、綾女がボンゴを高く打った。笙があとに続き、靭彦の馬頭月琴の弦がはじかれる。タカオは立上がり、息を吐くと、すうっと深呼吸した。

 こだま このくににまねいだよ
 蚕(こ)玉(だま)このくににまねいだ
 するりするりまねいだよ
 こだま このむらにまねいだよ
 するりするりまねいだよ

 開け放たれた広間の大きな窓の外にさやさやとした霧雨が降り注ぐのを皆が気づいた。
「雨か?」
「いや、陽は照っている」
 人々の間にわずかにざわめきが起きる。
「天気雨だ。大雨にはならないだろう」
「婚礼の天気雨は縁起がいいというぞ」
「これはめでたいな」
 人々はさらに演奏に喜びの声を上げ、祝福の言葉を投げた。
「繭良ちゃん……だよね?」
葉魚絵の大きな瞳は何年かぶりに涙を流した。
 さらりさらりと地に注ぐ雨は、陽の光を受けて夫婦となった葉魚絵とタカオを祝福するかのように虹色に輝いていた。

 こだま きたりませ
 こだま きたりませ

 おおおおおんんん………。

 その獣らしき歓喜の啼き声は広間に祀られた祭壇の鏡から聴こえ会場の誰もが耳にした。
 楽を奏でる者と葉魚絵以外、皆、ぎょっとして祭壇に目を遣ったが、鏡は何事もなく、ただ静かにその場に鎮座しているだけであった。

                     了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?