おばあちゃんの日記
おばあちゃんと最後に会ってから6年が経っていた。
久しぶりに会ったおばあちゃんに、僕は手を合わせ拝んだ。慣れていないスーツを着て、黒いネクタイを締め、オルゴールアレンジのJ-POPが流れる部屋で。
2024年4月18日の朝、おばあちゃんが息を引き取った。
僕が24歳の時におじいちゃんが亡くなり、その葬式の為に帰省した数日以来、おばあちゃんには一度も会っていなかった。電話で声を聞くこともなく、手紙を書くこともなく。
おばあちゃんは父方の祖母にあたり、18年間一緒に暮らしていた。
共働きの両親に代わり、毎日料理を作ってくれていた。勉強を見てもらうだとか何かを伝授してくれるだとかの教育・しつけ、みたいなそういうことはなかった。僕が遊ぶのを穏やかな表情で見守っていてくれ、つたない僕の話を最後まで聞いてくれる、例えるなら、日本昔話で最後に救われるタイプのおばあちゃん、のような人だった。
おばあちゃんの昔話(僕が生まれる前の、おばあちゃん本人についての昔話)は聞いたことがない。若い時の話、おじいちゃんとの馴れ初め、父がどんな人だったかについても質問したことがない。僕は心も体も子どもだったし、毎日自分のことに夢中だったからだろう。
大人の体になってからも聞くことはなかった。毎日自分のことに夢中(いっぱいいっぱい)だったからだ。唯一してもらった昔話と言えば、天狗が出てくる怖い話だけ。おどろおどろしい体験談かのような語りに、子どもの僕は病みつき。暇な夜はその話をしてもらいに、おばあちゃんの部屋に通っていた。
聞いてなくても本人以外の人間がおばあちゃんの話をしてくることがあった。「あなたのおばあちゃんは本当に器量が良くて気立ても良いね」「あなたのおばあちゃんは若い時に苦労したんだよ」そんなことを言われたら余計に聞けなくなるじゃないか。「本当に踊りが好きでね、上手で、自分で振り付け考えてるのよ」うん、それは知ってる。見たことはないけれど。
子どもの僕は、おばあちゃんが褒められること、が好きだった。その度、得意げになっていた。家族紹介みたいな作文の授業では、ひたすらおばあちゃんを褒めたたえる文章を書いた。それを本人に伝えることは無かったけれど。
愛され甘やかされて育った僕は、おばあちゃんの怒った顔を見たことがない。常に表情が穏やかで、ウエディングドレス姿の姉の手を握る時も、おじいちゃんのお葬式でも穏やかな表情をしていた。悲しんでいる顔も見たことがない。というより、喜怒哀楽が読めない人だった。
おばあちゃん子の僕は、みごとにその特性を引継ぎ、意中の人から「何考えてるか分かんない」と言われ、告白していないのにフラれるような男にまで成長した。
僕は決して無感情な人間なのではない。嬉しいことがあれば家で一人踊り、悲しい事があれば家で一人泣く。表に出さないだけでとても感情豊かな人間なのだ。だとすると、おばあちゃんも一人の時にこっそり、泣き笑いしていたのかもしれない。
喜怒哀楽を内に秘め、18歳にまでなった僕は、大学進学を機に東京での一人暮らしを始めた。
必然としておばあちゃんと過ごす時間は減っていった。一年に一度は帰っていたけれど、おばあちゃんとする会話は「ただいま」と「ありがとう」(東京へ戻る日、おばあちゃんは僕の手に一万円を握らせる。おこづかいはいつだって嬉しい。こんなに受け取れないよ、と言えるような大人ではないから、ありがとうと言って受け取る)、そして「いい人がいるのか」に対して「うん、いるよ」の返事くらい。(その時いい人がいなくたって、いるよと
返していた。喜ぶだろうと思ってついた嘘は何個もある)
おじいちゃんの葬式を最後に、おばあちゃんと会うことはなかった。その日から5年間、一度も実家に帰ることがなかったからだ。大学卒業後は就職せず、やりたいことをやって過ごしていたけれど、思っていたように人生は上手くいかず、何にも変わっていない僕を、おばあちゃんに見せるのが恥ずかしかった。だから一度も帰らなかった。父はおばあちゃんに、「ひろ(僕)は東京で就職して頑張っている」と嘘をついていてくれたらしい。
5年経って帰省したのが去年の夏のこと。実家で飼っていた猫が亡くなったことが帰るきっかけだった。愛猫の訃報を知らせる電話は、涙声の母からで、僕は慰めるように優しく応えた。電話を切ってから死ぬほど泣いた。
そのころ既におばあちゃんは介護施設に入っていた。コロナの余韻もあり、面会には予約が必要だったので、急遽帰った僕は、会うことはなかった。それに、おばあちゃんは認知症が進んでいて、人格は14歳の頃に戻っていたり、名前や顔を憶えていなかったりしていると父から聞かされていた。
僕は怖くて会えなかった。いざ目の前で「誰だ」なんて言われたら、いや、思われただけでも僕はきっと「おばあちゃんの中の僕は死んでしまった」のだと哀しくなってしまうから。忘れられるというのはそういうことだと思う。Dr.ヒルルクもそう言ってたし。
2024年4月18日の朝7時、報せの電話は父からだった。携帯の振動で目が覚め、表示される父の名前を見ながら、目一杯の息を吸って吐いた。電話に出る前からなんとなく分かっていた。事前に僕は、おばあちゃんの余命は2か月、と医者から聞かされた父から聞かされていたから、この電話はきっと、おばあちゃんの事なんだろうって。
電話を切ってからシャワーを浴びて外に出た。人が多いところに行って、おばあちゃんのことは深く考えないよう思い出さないようにした。思い出を振り返ると泣いてしまうし、泣いても良かったんだけど、なんとなく笑顔で送りたかった。(後ろめたさのようなものを消し去りたかったのだろう) その日の夜、黒ラベルでおばあちゃんに向け献げた。何を食べたかは覚えていない。ただおばあちゃんの顔だけを思い浮かべた。
ほろ酔いのなか、一人にならないよう流すYouTubeを耳にしながらこんなことを考えた。もしかしたら、おばあちゃんが霊体となって僕の住むこのアパートまで来ているかもしれない。でも、住所を知らないなら無理か、なんてことを。
通夜の前日に実家に戻り、両親と去年ぶりの時間を過ごした。互いにお酒を注ぎ合い、「おばあちゃんに」と僕が音頭を取って、テレビに向かって喋る父を見たり、虹色の変な部屋着の母を見たり、いつもの実家での過ごし方をした。
次の日、通夜で久しぶりに会ったおばあちゃんは、少し乾燥していて骨ばっていて、栄養が足りなくなっているんだなという感じの体で、色白で、白い布団に横たわっていて、当たり前なんだけれど、おばあちゃんの顔をしていた。
体を拭いてもらい、死化粧をしてもらった姿は、目が閉じられていて肌つやがあって、唇も明るく、思い出の中にいるいつもの穏やかな表情をしていた。
そこからの時間はあっという間に過ぎていった。
死装束を手伝って紐を縦結びして、納棺して思い出の写真(ウエディングドレス姿の姉とおばあちゃんが一緒に写る写真を見てぶわっときた。意気込んでなきゃ、くしゃくしゃに泣いてしまっていただろう)とおばあちゃんのタンスにあった黄色のドレスを入れて、蓋を閉め、叔父さんがハンカチで涙を抑えているのが分かって、気付かないふりをして、覚えていない親戚に愛想笑って、香典を受け取って、袱紗ごと受け取りそうになって、お互いに綱引き大会みたいになって、会場の係りの人に焼香のやり方を教わって、でも抹香を炭の上にくべることは知らずに周りにぱらぱらと塩みたいに、仕上げのバジルみたいにふりかけて、二人体制のお経を聞いて、住職の四苦八苦の説法を聞いて、叔父さんは会場に備えつけの部屋に泊まって、父は「なんかあれば車出せるから」と言い、叔父さんは「いやいいよ。できるかぎり母ちゃんと一緒にいるから」と答え、僕は外に出て、空に見える雲が龍みたいに見えて、夜「おばあちゃんに」と両親と刺身を食べてお酒を飲んで、常夜灯をつけて眠って、葬儀がはじまって、焼香を成功させて、昨日より長くお経を聞いて、最後のお別れですと言われて、ひとりひとり花をたむけて、残りの写真も全部入れて、本当にたくさんの花を敷き詰めて、僕は最後に一本の薔薇を胸元に置いて、おばあちゃんの優しい顔に笑顔を見せた。
火葬場には僕と叔父さんが残った。二人きりで何話すんだと思ったけど、そこはまあ人見知りながらも成長した僕と、父よりも10歳若いこともあり、話はちょっと弾んだ。(叔父さんは)阿佐ヶ谷姉妹が好きとか、地元にある山とか高尾山とか整体の話とか、ちょっとスピリチュアルな話とか、好きなキャラクターの話とか。
たまに二人してお茶すすりながら、外の田舎の風景を静かに眺める時間があった。おばあちゃんが骨になるまでの間にだいぶ打ち解けたのだけれど、まだ深い話を持ちかけることは出来なかった。それはつまり、おばあちゃんの話。結局何も聞けないまま、お互いのうちに秘めた思い出を、それぞれが思い返しているうちにお骨拾いの時間になった。
斎場に戻る車の中で、僕は大事に骨壺を抱えていたのだけれども、目の前の箱の中におばあちゃんがいるようには思えなかった。遺影に合掌したけれど、その写真の中にもおばあちゃんはいなかった。
貰ってきた花束をバケツの水につけて、祭壇を飾り付けた。
スーツを脱いで、使う予定はないので両親のとまとめてクリーニングに出してもらった。
葬儀での父の喪主挨拶を振り返った。「父からは厳しく育てられたのですが、母は決して怒ったことがない」「人の良い面だけを見ている。難しい事なのですが、それを自然体で行なっていた」「見習って生きていこうと思います」
帰りの車の中での父の話も思い返した。「ばあちゃんは幸せだったと思うよ。『子供にも孫にも恵まれて』とよく言っていたからね」
それから僕は家のなかのおばあちゃんを探した。思い出が残る場所を。玄関の靴箱、台所の棚、居間のテーブル、そうして最後におばあちゃんが使っていた部屋へと入った。
急角度な階段を、はしごのように登るとある部屋は、長いこと手つかずだったようで埃っぽかった。埃くさい空気のなかに、かすかにおばあちゃんのにおいがした。畳を踏むと、ぎしりと音がする。久しぶりだ。何度かそれを繰り返したあと、僕はなんだか考古学者にでもなったような気分で、発掘調査を始めた。
鏡台、箪笥、足踏みミシン、ガラス戸のついた棚。ひとつひとつ確かめながら、おばあちゃんの部屋を歩いた。棚の中には写真のアルバムが何冊かあった。引っ張り出し、埃を払うことなくページをめくる。
白黒の写真が一枚だけあった。それは、たぶんおばあちゃんの兄妹との集合写真で、もしかしたら結婚式の写真なのかもしれないけれど(おばあちゃんだけが着物を着ている)、今の僕と同い年にみえた。それ以外の写真は、僕が生まれてからのものだけで、僕の知ってるおばあちゃんの姿が写っていた。
それから、日記をみつけた。表紙に「2004」という数字が印字されている。
おじいちゃんは生前、日記を書くのを日課にしていた。見覚えのある黒い日記帳だったから、おじいちゃんが書いたものだと思った。中をめくってみると、それはおばあちゃんの日記だった。
書かれてる字はお世辞にも上手とはいえない。でも、どうにか読むことはできる。僕はこれから一文字も逃さず読んでみることにする。
一冊の中に2年分の日記が書かれている。日付と共に曜日の記載もあったことで、何年に書かれたものかが判明した。2012年と2013年(と2014年最初の二日間)。僕が高校を卒業して、東京で一人暮らしを始める年に書き始められた日記だ。日記はこの一冊しか見当たらなかった。きっとおじいちゃんに勧められ、書かされていたものなのだろう。全ての文章が新鮮なのだが、特に気になった日のものを、書き起こす。
ここでおばあちゃんの日記は終わり。
僕は今になって涙が止まらない。
もうこの世にいない悲しみと、おばあちゃんの人生を振り返った時の物語が一気に流れてきて過ぎていくような、記憶と思い出を一緒に振り返るような、共感するものを感じつつ、心に深く刻まれたものを知り、また新しい涙があふれてくるばかりだ。
押さえる目が鼓動しているのがわかる。もしかしたら目にも心があって、目で見たものに感動するのはそのせいかもしれない。
人の瞳の奥には不思議な力があるのだろう。そんなふうに思えば、目と心に記録されてた記憶は消えることのないものなのかもしれないという考えが、僕自身を慰めると同時に後悔という辛い思いにもさせる。
もし忘れられていたとしても会いに行けばよかった。
この日記が分からせてくれたのは、僕がおばあちゃんから本当にいろいろなことを教えてもらったのだという実感。そんな優しさも、苦しさも幸せさも全てが詰まった大切な記録であり、これからも色あせることのない記憶だ。
僕がいまここに書いてる時と同じ気持ちのまま、忘れることなく読み続ける。読み返してはまた、かけがえのない思い出を再発見するだろう。とても愛しい日記だ。
見てもらいたい今の僕を。
昔から何も変わらない、おばあちゃん子の僕を。
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