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配達されない新聞

 毎朝、玄関の朝刊を取り込む。しかし、きのうは見当たらなかった。

 「あ、休刊日だったか」と思う。しかし休刊日はいちいちスマホカレンダーに記載するほど意識しているので、すぐに違うと気づく。がっかりである。

 まだ5時半だったので「ちょっと遅れているのかな」と善意に解釈してさらに待つが、6時半になっても届かないので販売店に電話する。

 「家族がまだ寝ているから、ピンポンはしないで置いていってください」と2回も念押しする。しかし、10分後には懸念どおりにピンポンが鳴る。1階エントランスのインターホンである。

 「どこに置けばいいですか?」「いつものところに」「集合ポストですか?」「・・・じゃ、それでいいですよ」。

 仕方なく上着を羽織って廊下に出る。お隣さんの玄関には同じ新聞がしっかり届けられていることに気づく。

 エレベーターへ歩いていくと、さきほどインターホンに映っていたお兄さんがウロウロと各部屋番号を確認しながら歩いてくる。「うちでしょ?集合ポストでいいって言ったのに。それに、なぜピンポンするの?」「すみません、すみません」というやりとりになる。まったく不毛である。

 数年前には雨でシワシワになった紙面が届いたこともあった。そんな状態になってしまった“商品”をしれっと客に届けるという神経がさっぱりわからない。

 ニュースだけでなく、テレビ欄も折込広告もスマホで見られる時代だ。「こんなことなら、いっそのこと、新聞なんてやめちゃってもいいのかな」という考えが頭をよぎる。それでも、30年以上も報道関係でメシを食ってきただけに、本当に停止することはない。

 そして、けさ。

 玄関を開けたら、きのうときょうの新聞が重なるように置いてあった。1日遅れれば、それはもう“新聞紙”でしかない。

 それをしれっと届けるという神経が、やっぱりさっぱりわからないのである。
(22/11/5)


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