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ネクタイの“ゲシュタルト崩壊”

 テレビ局というところは昔からスーツ・ネクタイがあまり多くない会社。私も報道局で外取材をしていた時期を除き「基本的に毎日スーツ」なしでいい会社人生だった。

 それはいまの部署も同じ。しかし、月に1、2回の頻度で「行事・会合に出る」「偉い人に会う」などのタイミングがあるために着用しなければいけない場面がやってくる。そんな日にうっかり“平服”で家を出ては取り返しがつかないので、あらかじめスマホのカレンダーアプリに「スーツ着用」と書き込んで出発1時間前にアラームを鳴らすことまでしている。

 きょうも会合があってスーツだった。ところがネクタイを締めようと自宅の鏡の前に立ったところで「なんとなく」ネクタイの剣先が右か左か、わからなくなってしまったのである。

 「いつも無意識にやっている」のに、ふと考え込んでしまうとさっぱりわからなくなることがある。鏡の前で右と左を入れ替えながら、しばし呻吟してしまった。私はマフラー着用の際は左を短くして巻き始める。今のシーズンは毎日やってるから、手がそちらを覚えていることもあるようだ(ネクタイは右を短くするのが私の流儀でした)。

 「これって何かに似ているなあ」と考えて思いついたのが「ゲシュタルト崩壊」だ。使い慣れているひらがなや漢字を改めてじーっと見つめていると“文字としてのカタマリ”の認識ができなくなってしまう、あの感覚である。学術的に言うとこの2つは全くイコールではないのかもしれないが、そんなことは知らない。

 逆に言えば。

 日常生活でひとつひとつの行動を意識しないままに処理してしまっている日本人のなんと多いことか(「チコちゃん」のナレーション風に)。こうしたあれこれをマインドフルに行わないとボーっと生きたまま人生を終えてしまうのではないか。それはかなり恐ろしいことだ。

 「朝のネクタイ」から話が大きくなってしまった。
(24/1/18)

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