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四国遍路のご報告 (2008年)

思いがけず時間が取れることになったので、10月に主に徳島(1番から23番)を9日間、11月に主に高知(24番から40番)を17日間回りました。10月の高野山・結縁潅頂の際にはそんな時間が取れるとは想像もしていなかったのに「あれよあれよ」の展開で、「お大師さまとのご縁が熟した」ということであれば、大変ありがたいことであったと思います。またT師のご指導により、先祖の墓参り、川崎大師と高野山東京別院の参拝もしてから出発いたしました。

歩き遍路は「積年の念願」だった

思えばかねてより「漂泊への思い」がどこかにありました。吉川英治「宮本武蔵」の沢庵和尚、泉鏡花「高野聖」、山頭火、そしてフーテンの寅さんに憧れる気持ちと、霊場めぐりが融合したお遍路は「積年の念願」でした。ただし、お遍路はあらかじめ宿を決めておくことになるので(野宿は一切考えませんでした)、「風まかせの気ままな旅」とは違い、「目標めざしてまっしぐら」に近いものになります。

全行程を徒歩で通すことと、期間中の断酒を課しました。それくらいはしないと「白衣を着た観光客」になってしまうような気がしていました。ですので「区切り」の場合も、再開の際は同じ地点まで電車で来てそこから歩き始め、民宿の車の送迎をいただいた際にも、翌日は同じ場所まで送っていただき、そこから歩きました。カッコいい物言いになってしまいますが、「歩くことでしか見えないものを見たい」と思いました。断酒についてはT師より「決して強制ではないが、酒は断つようにするべきだ」という温かい(?)ご指導をいただいておりました。

徳島で起きた「不思議なこと」

徳島で不思議なことが二つありました。ルート上のある番外札所を通りがかった際のことです。スタートしたばかりだったので、つい次の札所へ急ぐことばかりを考えてここへのお参りは閑却しようとしておりましたところ、そこにさしかかる直前に雨がザーっと降り出し、思いがけず雨宿りのような形で参拝したところ、すぐに雨が上がりました。お大師さまが参拝を促してくださったような気がしました。また、ある山道での出来事。フト靴を見ると爪先のあたりがベットリと泥で汚れていることがありました。「宿に着いたら泥を落とさないといけないなあ」と思った矢先、誰もいない山道の湧水におあつらえむきのブラシが転がっていて、汚れを落とすことができたのです。その際は「ラッキーだったな」程度にしか思わなかったのですが、思い返すとそこは農道でもなく、お遍路さん以外は足を踏み入れないような本当の山道で、ブラシが「置いてあった」のが本当に不思議な場所でした。

「修行の道場」高知県

お遍路が楽しくて仕方がなく無我夢中で歩いた徳島と違い、さすがに「修行の道場」とされる高知は、肉体的にも精神的にも長いものでした。4日目には行程をわずか10キロにして「休養日」を入れたのですが、かえって翌日に張り切りすぎて股関節を痛めるという事態があり、まともに歩けなくなりました。この時は思わず帰京の便を調べてしまうほどの大ピンチで、「急いでいるばかりでは東京と変わらない。休養するのも大切だ」などという小賢しい考えを大いに戒められたような気がしました。民宿のおやじさんが「そういう時はお大師さまがゆっくり行けとおっしゃっているんだ」と教えてくださいました。また、11月中旬に真冬並みの寒波が西日本を襲った際も、一日中氷雨に見舞われて凍える思いをしたり、長い河原沿いの道で冷たい逆風(しかも台風並みに強い!)にさらされたり、これもつらい日々でした。

遍路の魅力とは

お遍路は「信仰」「健康」「観光」の「三コウ」、と言われます。これはまさに「言い得て妙」、確かにこの3つの言葉に魅力が凝縮されていると思います。私は札所以外でも、たとえば道端でお地蔵さまを見かければ手を合わせてるようにして、「拝みに来た」ということを忘れないように意識しました。「健康」では、帰宅時の体重は2回とも出発前とほぼ変わらなかったのですが(なにしろ食欲旺盛、モリモリと食べていました)、この5~6年間は18~19%で変動がなかった体脂肪率が14~15%にまで激減していて、驚きました。

四国の自然、ほかの歩き遍路さんとの連帯感、民宿の方とのふれあいも心に残るものでした。民宿については、建物がかなり年代モノであったりするケースも多くありましたが、女将さん(たいていはおばあちゃん)がいい人であればそんなことはまったく苦になりませんでした。逆に、いくら設備が立派でも冷たい対応に終始された宿にはいい思い出がありません。やはり「ファシリティ」より「ホスピタリティ」です。さらに東京育ちの自分には四国の現状を垣間見るという社会見学にもなりました。車の多くは「紅葉マーク」、ある民宿の女将さんは「今朝出発したお遍路さんが乗ったバスに女子学生が乗っていたんだけど、彼女がこの集落の最後の子どもなんだよ」と言っていました。このまま過疎化が進んでおばあちゃんたちが支えている民宿がバタバタと廃業すれば、残るのは札所と宿坊と大きな町のビジネスホテルだけ、ということにもなりかねません。そうなるとお遍路も車やバスしでしか成立しないことになり、歩き遍路を中心とする「お遍路文化」は大きな曲がり角を迎えることになります。T師は「(遍路では)日本が空虚な都市と純朴な村、空しいエリート層と堅実な庶民層の二極に分かれてきたことがわかる」とおっしゃっていますが、その通りかもしれません。

自己と向き合う日々

お遍路の究極の姿はやはり「祈りと修行」だと思います。重い荷物を背負って何日も何日もひとりで歩いていると、必然的にいろいろなことを考えさせられます。肉体的にもタフな日々です。ここまで徹底的に自己と向き合うのは坐禅修行以上かもしれません。「区切り」を迎えて電車に乗ると、何日間もかけて歩いてきた道をあっけないほどの短い時間で走破してしまい、文明の「ありがたさ」、そして「粗暴なまでの力強さ」を感じます。こうした文明をわざわざ「拒否」して何日間も苦しむことでようやく見えてくる自己に向かい合う、まさに貴重な日々でした。出発前にT師は「量より質が大切だとこころがけて回るように」とおっしゃってくださいました。何日もかかりましたが、今では身体感覚としてこの言葉の大切さを少し実感できているようです。お遍路は決してスタンプラリーではないのです。

帰京後は墓参りや川崎大師参拝に赴き、これまでの道中の無事に感謝する「お礼参り」をしてきました。続きをいつ始められるかはまったくわからず、結願も何年後になることやらさっぱりですが、もしお大師さまが呼んでくださることがあれば、すぐにまた四国へ行こうと思っています。ご指導いただいたT師、長期間家を空けることを了承して、励まし続けてくれた家族に感謝しています。南無大師遍照金剛。

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