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3/27(水) 粥

分かりやすい文章は好きだ。しかし、分かりやすい詩は好きではない。

詩を書こうと思ったら、論理の余白というものが絶対的に重要になってくる。唯物的に言葉で全て説明しきるのではなく、その奥を読者に感じさせる。目に見える形よりも大切なのは香り立つ余韻であり、これがなければ詩として成立しない。

私が好まないのは、この論理の余白があからさま過ぎる場合だ。
ペーパーテストの解答欄のように、「ここにこれを書き入れてください」と言わんばかりの区画されたスペース。これも余白であることには違いないが、解釈の一切の揺らぎも許さない頑なで強情な筆者の姿勢が見て取れる。
もしくは筆者の意図が明白過ぎて興が冷めるケースもある。読みやすくしたいからと言って、文章を病人食のようにドロドロに煮込む必要はない。少しくらい固くても、読者がよく噛めば食べられるはずだ。柔らか過ぎる文章を噛みしめて読むことはできないだろう。こんなものばかり食べていると歯や顎が退化してしまう。

私の詩を書く姿勢は大雑把なものだ。余白など、一文字分でも千文字分でも構わないと思っている。
私の詩は、全体的によく分からない。何せ、自分でもよく分かっていない。理解はできなくとも、言葉の雰囲気を味わって読んでもらえると大変嬉しい。
ただ、まどろみのように流れていく言葉の中に、ほんの一、二行程度、鋭利な言葉を忍ばせているつもりだ。「詩はよくわからないけど、この言葉だけ良いと思った」なんて言われてみたい。

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