僕の好きな詩について 第九回 茨木のり子

好きな詩について好きなことを書くシリーズ、第九回は、皆大好き茨木のり子さんです。
茨木さんは本シリーズ第三回に登場した山之口貘さんについても本を書いてらっしゃいますね。

ではどうぞ。
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「わたしが一番きれいだったとき」茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

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最後の「ね」は詩を書くものには本当に強い言葉で、誰かが使えば一発でパクりかオマージュだとバレてしまう恐ろしい締め方ですね。

僕は色川武大(阿佐田哲也)や野坂昭如などの戦後すぐを描写した文学が好きで、混沌と復興への本能的な渇望のない交ぜになった表現を「格好良い」と思ってしまいます。
この詩の中にもあるように「くらくら」するような時代の雰囲気が戦争の恐怖、理不尽さ、それが過ぎ去った後の安堵にもならないようなあっけなさが紙に焼き付けられていて、生き意地を張らなくなりつつある僕たちに根元的な何かを教えてくれるような気がするのです。

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