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noteは誰から誰への文章なのか

文章を書くときは読み手のことを考えて書くと良い。分かってはいるけれど、noteで不特定多数の人に読んでもらうとなるとなかなか難しい。

例えば、クッキーの作り方の記事だったらクッキーを作りたい人が読むのだろうし、眠れない夜についての散文なら同じような夜を抱えた人が共感を求めて読むのだろう。或いは、作者のことが好きで読んでいるのかもしれない。
しかし、noteに投稿する僕のエッセイは?
僕のnoteの投稿は匿名で書いているし、他のSNSで宣伝もしていない。読んでくれているのは面識のない人だと思う。

読者が不定だとどのような文章・内容が求められているか分からない。暗闇に当てずっぽうで投げているような感覚がある。暗中模索というか五里霧中というか(この状態を表すのにぴたりとハマる言葉がありそうなのに、思いつかなかった)
海に手紙を書いた小瓶を投げる感覚というよりも、分からないことの不安感が大きいように思う。


また、エッセイを書いていて、”自分がどの立場で書くのか”が明確になっていることも重要なのかもしれないと思った。
前回投稿した「住む街」に関するエッセイは、書いているときに、どの方向にも話を広げられると感じた。例えば、”これから就活をする人”としてやりたい仕事のことを詳しく書いたり、”大学進学で上京した人”として初めてした一人暮らしのことを書いたり。地元のことを詳しく書いても良いし、大学の専攻と絡めても良かっただろう。
そこが明確でないまま書き始めたので、何度か段落ごと文章を削ることになった(削った部分は、他で使うかもしれないのでメモ帳に貼り付けてある)

結局、”卒業後の進路を考えている大学生”として広く浅い文章を書いた。


今までは書き手としての自分の立場をあまり意識したことがなかった。

レポートを書くときは、題材が自由なときでも、書き手が”学生”で読み手が”教授(または、相互に読み合う学生)”という、誰から誰への文章かが明確になっている。それを暗黙の了解として、意識せずに書けていた。

小説を書くときは、”自分が何者か”は意識していないし、読むとき(研究や批評のためでなく日常として)も誰が書いたか意識していないように感じる。(「その作家の本だから買う」がある以上、作者は重要なのかもしれない。それは、面白さやジャンルの担保としてかもしれないし、展開の予想のためかもしれない)

エッセイを書き始めて、書き手としての立場を、自分が何者なのかを考えている。

僕の書くエッセイは、誰から誰へのものなのだろうか。
それを模索しながら書いている。


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