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彩りを語るひと

目次

 旅のはじまりは、一冊の手記だった。
 その少女は、とうもろこし色の髪に、空を映したような天色の瞳をもっている。彼女の髪の色は父から、瞳の色は母から譲られたものだった。
 数か月前、少女の父は病気のために他界した。そしてその数日後、少女は父の書斎で父の若かりし頃の手記を見付ける。それは、父が世界中を旅していたときの記録だった。
 ――少女は父に憧れていた。
 父は何でも知っているように思えた。父はいろいろな物語を聞かせてくれ、そして少女の聞くことすべてに答えられた。父の瞼の裏に映る風景を見てみたい。少女は十五年間生きてきて、ずっとそんな風に思ってきた。
 そして手記を開いた瞬間、父の足跡を追おう、彼女はそう決めた。
 たった十五の子どもが旅など、母は反対するだろうか。少女はそう心配したが、驚くべきことにそれは杞憂に終わった。
 母は、はじめから分かっている、そんな風な顔で、
「――言うと思った。あなたはあの人の子、だものねえ」
 そう言って笑うだけだった。
 旅立ちに向けて少女が纏ったのは、母のおさがりの白い生地に柔らかい色のラインが入ったワンピース、橙色のカーディガン。そして茶色い革のポシェットを肩から下げ、その中には父の手記、とうもろこし色の髪にはタンポポの髪飾りを。
 ……かくして、まだ見ぬ景色を求める少女の旅ははじまった。


(……あ――暑い、なあ……)
 旅をはじめた少女が最初に訪れたのは、海を跨いだ先に在る常夏の地だった。
 そして今、少女の目の前に広がるのは一面のオレンジ畑。少女はその広大さに目を奪われていた。
(暑いけど、すごく綺麗な景色……父さんも、此処へ来たんだよね)
 漂う柑橘の香りを吸い込めば、少しばかり暑さを忘れられるような気がする。父はこの一面の橙の美しさと、この地のオレンジの旨さに心底感動したらしい。手記にもそう書いてあるが、その話は父から直接聞いたことがあった。
 少女はオレンジ畑沿いの田舎道を歩きながら、とりあえず、此処からもう少し東へ行ったところにある街とやらを目指してみよう、そう思った。
 一人旅などしたことはないが、まあ、何とかなるだろう。
 少女は若さ故の楽観と、生まれつきの行動力を武器に歩を進めた。
 しばらく行くと一軒の家が目に留まった。扉の上に大きな看板がかかっているところを見ると、十中八九何らかの店なのだろう。少女は額の汗を拭って、看板の文字をまじまじと見つめた。
(カフェ〈泥の花〉……? 変わった名前のお店だなあ)
 何となく冷たいものでも飲みたい、そう思った少女は〈泥の花〉という店の扉を開いた。
 扉を開けばそこから珈琲の香りが漂ってくるのを想像していた少女は、扉を開いたときに何やら肩透かしを食らった気分になった。何故なら店内に香るのは先ほどまで肺に吸い込んでいたものと同じ、オレンジの香りだったからだ。
 店内に客の姿はなく、扉を開いた少女の目には自分と同じくらいの少年が暇そうに頬杖をついている姿が映るのみ。
 少年は扉についているベルが軽やかに鳴ったことに気が付くと、頬杖をつくのを止めて少女を視界に捉える。その瞬間彼の顔に喜色が浮かび、羽が生えたような足取りで少女の方へ近付いてきた。
「――ようこそ、旅人さん!」
 そう言った少年の髪と瞳の黒いこと! そのことに少女は驚いた。彼の跳ねるような髪は、毛の先まで夜の色を宿し、またその瞳も何処までも深い黒を湛えている。そして少年の浅黒く日に焼けた肌も、少女には新鮮だった。少女は驚きでいっぱいになりながらも、少年が自分を旅人と呼んだことに些か疑問を感じ、首を傾げながら少年に問いかけた。
「何で私が旅をしてるって知ってるの?」
 少年は夜の色をした瞳を細めて笑う。
「誰だって分かるよ。その肌の色もだけど……あんた、此処の暑さに慣れてないんだろ、見たら分かるって」
「あ、それも……そっか。あの、何か飲みたいんだけど、飲み物、ある?」
 そう尋ねれば、少年は頷き腰に手を当てて言った。
「水か、オレンジジュース、どっちかしかないよ」
「じゃあ、オレンジジュースがいいなあ」
 少女は少年に勧められた椅子に腰を下ろし、少年もまた、二人分のオレンジジュースを運びながら自らも少女の向かいの椅子に座った。
「改めてようこそ、〈泥の花〉へ。此処は旅人たちが立ち寄る場所。久しぶりに客が来てくれて嬉しいよ。退屈してたんだ、僕」
「旅人が立ち寄る――?」
 言いながら、少女は少年が持ってきてくれたオレンジジュースを口に運ぶ。それは、渇いた喉にとって、とてつもない甘露だった。あまりにも美味しいものだから、少女はそれを半分ほど一気に飲んだ。その様子を見て、少年が年相応の笑顔を浮かべて笑う。
「……此処での飲み物のお代にね、旅の話を聞かせてもらってるんだ。たとえば――」
 少年はまるで絵本の朗読でもするかのように話しはじめた。
 ――或る旅人が、北の地で氷の中に眠る炎を見た話を。或る旅人が、崖で足を滑らせ、その先でこの世のものとは信じ難いほど美しい女性に助けられた話を。或る旅人が、山奥の洞くつで、光輝く鉱石の大群を見付けた話を。
 そのほかにも、精霊や竜、動物を飲み込む植物など、少年の語る話には少女の知らないものが山のように登場して、少女はオレンジジュースに入っている氷が溶けるのにも気が付かず、夢中で彼の話を聴いた。
 少女の空を宿した瞳がきらきらと輝いている。それを見た少年は面白そうに笑った。
「あんた……信じるんだ、この話?」
「えっ?――嘘なの?」
「さあね。此処に寄った旅人たちから聞いた話だから」
 少女は考えるように少しだけ唸って、それから自分が思った率直な感想を述べた。
「もし嘘でも――いいかな。聴いててすごく楽しかったもの。きみって、何だか一冊の本みたいだね。私、本って大好きなんだ」
 少年はそれを聞いて、しばらく押し黙っていたが、やがて堪え切れなくなったかのように大声で笑い出した。少年の黒髪が忙しなく揺れ、目尻には涙が溜まっている。笑いで震える両手はがたがたと机を揺らし、グラスが倒れないか、と少女を少し不安にさせた。
 少年が目尻を拭いながら言う。
「――うん、いいな。僕も本は好きだよ。……僕にとっては旅人――あんたも本だけどね。まだ、目を通していない……さ。ほら、次はあんただよ。聞かせて、あんたの物語」
「分かった。えっと……そういえば、名前を聞いてなかったね」
 少年は机に頬杖をつき、ひらひらと余った方の手を振った。
「どうせすぐ別れるんだ、名前は言わないし、聞かないことにしてるんだよ。でもま、やりにくいから大雑把にあだ名をつけることもあるけど。……あんたのこと、ダンデって呼ぶけどそれでいい?」
「――ダンデ?」
 聞き返すと、少年は己のこめかみ辺りを指で叩いた。それが、自分の髪につけているタンポポの髪飾りを指していることに少女が気が付くまで、そう時間はかからなかった。
「ダンデ。旅人の良いところはさ、好きに名乗れることだと思うんだよね」
 なるほど、とダンデの名で呼ばれた少女は思った。旅の間は自分のことをダンデ、と名乗ろうかな。太陽に愛され日に焼けた、少年の頬を眺めながら少女はそんな風に思った。
「……私も、きみにあだ名をつけてもいい?」
「ああ、どうぞ」
 少女はこの、よく笑う、黒色にたくさんの光を宿した少年の瞳を見つめた。そして、彼の出したオレンジジュースと、少年の暮らすこの地の、陽光の近さを想った。
「――ソル、と呼んでも?」
 その言葉に、少年は驚いたようだった。瞬きを繰り返した後、彼はまた、楽しそうに目を細めて笑った。
「ソル――太陽って? 僕を? それは……初めて呼ばれる名前だなあ。大抵の旅人には、夜とか黒の意味をもった名前で呼ばれるからさ」
「ぴったりだと思うんだけどなあ、きみに太陽っていう言葉は。そう自分で思わない、ソル?」
「思うよ。今気付いたけどね。何で今まで誰も、だあれも気が付かなかったんだか!」
 やれやれ、といった仕草をするソルに笑みを深めながら、少女はすっかり氷の溶けたオレンジジュースを口に含んだ。それはあまり美味しいとは言えない甘いをもって喉の奥を通り過ぎていったが、さして気にはならなかった。
「ソル。名前を聞かないのは、すぐ別れるからってだけ? だったら、あだ名をつける必要もないよね。何で人の名前を聞かないの?」
 ダンデの問いに、ソルが呆れたように笑った。
「あんた、鈍いね。ほんとうの名前を聞いちゃうと、寂しくなるだろ。だからだよ」
「……ほんとうに?」
 訝しげなダンデの表情に、ソルも今度は溜め息を吐いた。
「鈍いって言ったの、取り消すよ。案外そうじゃないかもしれない。――名前を教えない方が何となく、気になるだろ? つまりさ、僕を忘れないでいてほしいんだ。だから僕のつけるあだ名は、呪いだよ、ダンデ。まあ、僕も呪われたことになるけどね、あんたに」
 ダンデは首を傾げて、よく解らないといった顔をした。ソルが笑う。
「やっぱり鈍いな。……あのさ、僕はあんたを忘れないよ、ソルの名をもらったから。あんたも僕を忘れないだろ?――ダンデの名をあげたから」
「解る、ような……解らないような……? きみのこと、忘れない、と思うけどなあ。ダンデって名前をもらわなくても」
「人ってのは忘れる生き物なんだよ。……まあ、いいや。とにかく聞かせてよ、あんたの物語をさ、ダンデ」

 それからダンデは、旅に出た理由や此処までやってきた経緯をソルに話して聞かせた。彼は時折目を瞑って、話を噛み締めるようにダンデの話を聴いていた。
 ダンデは話しながら、次この場所にやってきた旅人に、ソルはどういった語り口で自分のこの話を聞かせるのだろう、と思った。きっとあの絵本を読むかのような語り口で彼はこの話をしてくれるのだろう、とも。それが何となく楽しみで、少しだけ、哀しかった。
 そう、この店を出たら夜の色を纏った、しかし太陽のように笑うこの少年に出会うことは二度とない。少女の奥にあるその思いは、ほとんど確信に近かった。
 ダンデがソルにすべてを話し終わる頃には、窓の外の青かった空はもう、紫黒の色に溶けかけていた。心なしか店内も夜の色に染まりはじめたように感じる。
 ソルが店の入り口に視線を向けて言った。
「ダンデ、そろそろ行きなよ。今からなら夜が更ける前に街に着く。宿はいつもすっからかんだからさ、泊まる場所には困らないよ」
 ダンデは立ち上がって、店と外の境界線の前に歩を進めた。扉の前で、ソルを振り返る。目が合うと、ソルの夜色がちかりと怪しく光った。
「外に出たら振り返るなよ。それこそ、寂しくなるだろ? それともダンデ、あんたは寂しくなりたい?――僕のために」
 ダンデは声を上げて笑った。彼女は自分の血が全身を駆け巡るのを感じたが、それはもう気が付かなかったことにした。
「――そういう気持ち、旅をするには邪魔だから……まだ、いらない!」
 そう言ってダンデは扉を開き、外へ走り出した。その背を、ソルの声が追いかける。
「さよなら、旅人! よい旅を!」
 少女は迫る夜に追い付かれないよう、全力で走った。いらないと言い切った感情に追い付かれないよう、全力で。
 もうすぐ、夜がくる。
 空がすべて彼の色になる前に眠らなければ。そして、太陽が昇る前に次の場所へ向かおう。ただ、速く、速く、夜の色に染まらぬように少女は走るばかりだ。
 夜の色も昇る太陽も、揺れる己の髪飾りも、今、それらはまったく呪いだった。だが、少女の顔には笑みが浮かんでいる。それが何故なのか、彼女は自分でも分からなかった。
 ただ、自分の旅なのだ、と思った。父の足跡を追っているとしても、これはわたしの旅なのだ、と。
 風が吹けばいい。転んでしまいそうなほど、強い追い風が吹けばいい。彼女はとにかく、もっと速く走りたかった。
 少女の旅ははじまったばかり。
 それを知らせるかのように、彼女の頭上を白い鳥の大群が飛び去っていく。そして彼女もまた、それに対抗するかのように自らの歩を拾う速さを上げて、遠くに見える灯りを目指し、ひたすらに走っていった。


20160205 
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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