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迷いに星火

 目次

 青紫の空に、小さな光が一粒瞬いた。
 じきに夜がくるのだろう、少女は森の真ん中を裂いた石畳の街道で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回した。
(……迷った、かなあ)
 予定では、今日の昼の内に次の街へ着いているはずなのだ。だが、どうだろう。空はもう夜を迎えようとしている。少女は小さく呻った。
 次の街のすぐ近くに、途方もなく大きな図書館があるのだ、と父の手記には記されている。目の裏に浮かぶ、壁を覆い尽くすたくさんの本、本、本! 是非とも、少女はその図書館に行ってやるのだと息巻いていたが、どうやら道に迷ったらしい。街の光も進む方角を間違えたのか、ちかりとも見えてこないままだ。今夜はこの辺りで野営をすることになるだろうか。それならば、先へ進むのをそろそろやめておくべきだろう。少女は野営ができそうな場所を首を動かして探した。
 視線をやった先に、何か――おそらく人影だろう――を少女は見付けた。この辺りに住んでいる人かもしれない、と少女はその人影の近くまで歩を進める。
 歩を進める内に少女は、はた、として一瞬だけ動きを止めた。
 夜の色と森の影に隠れて、近付いてみるまでよく分からなかったが、その人影は地面に座っているらしいことが分かった。そう、座っているのだ、墓石を背にして。暗がりに目を凝らすと、人影がどうやら黒い服を着た男で、その後ろには墓石がずらりと並んでいることが見えてきた。少女は森の墓地へ迷い込んでしまったらしい。黒い服を着て、墓石を背に座っている男。その姿はさながら――、
(死神……?)
 その死神にも見える男の瞳が迫る闇の中で閃き、こちらの姿を捉えた。そのことに少女は驚きで肩を震わせながらも、不思議と恐怖は感じずに、男の方へ歩み寄った。近付いてみると、男の髪が夜の色に塗れていても燃えるように赤く、瞳は白く閃く銀を湛えていることが少女の思考を宙に浮かせた。
 死神、というよりは王様の衛兵のようだ。たとえば、炎の国の王様、彼はその王の近衛。そう、そんな感じだ。ほら、今も手に持ったカンテラに炎を入れている。男が少女の方へ掲げたカンテラの光に、少女の浮かんだ思考は地面に戻された。
「――まさか、君は俺を死神か何かと勘違いしてはいないだろうな」
 その低い声に、地面に着地した思考で少女は曖昧に笑って頬を掻いた。
「俺はここら一帯の墓守りだよ。君は……見たところ迷子のようだが」
「迷子……そうかも。あの、この辺に大きな図書館ってありませんか?」
「図書館……? ああ、あの馬鹿でかいやつか。あるにはあるが、君、道を間違えているな」
 やっぱり、と少女は溜め息混じりに唸る。墓守りが掲げていたカンテラを自身の隣に置き、その方向へ顎をしゃくった。
「道があっても此処は森の中だからな、今日はこれ以上進めないだろう。どうだ、俺の話し相手にでもならないか? 朝になったら図書館近くの街まで送ろう。――俺には君くらいの妹がいるんだ」
 少女は頷き、礼を告げて墓守りの隣へ座った。夜の闇がどんどん深くなり、森を包んでいくのを肌で感じながら。
「それにしても君は……怖くないのか。君くらいの子は、これだけの墓を見れば怖がってもおかしくはないと思うが」
「ううん……あんまり。独りで森の中にいる方が怖いかも」
「はは、違いないな」
 少女は振り返って並んだ墓石を眺めてみた。時折聴こえる、揺れる葉の音と梟の声。墓地を照らすのは柔らかな月の光のみ。此処は静かだ。心地の好い静けさに包まれている。此処ならば、きっとよく眠れるだろう。少女は墓守りの銀の瞳へ視線を向けた。
「墓守り……って?」
「そのまま、墓を守る人だ。そうだな、墓荒しや野犬なんかから墓を守っている。まあ――基本的には……暇、だな」
「暇、かあ……」
 カンテラの中の炎が小さな音を立てて爆ぜるのが聴こえる。墓守りが少しだけ笑って、少女に問い掛けた。
「こんな不気味で暇な仕事なんて、と思うか」
「……どうかなあ、やってみないと分からないよ。少なくとも今は、此処もあなたも不気味だとは思わない、です」
 梟がホウ、と鳴き、墓守りがその声がした方へ振り返る。それからすぐに向き直り、炎が爆ぜているカンテラの光を見つめて言った。
「好きでやっているわけではないんだ、この仕事は。他に誰もできないから、俺がやっているだけで」
「誰も?」
「気味が悪いだろう、この仕事は。――こういうものはな、できるやつがやればいいんだ。できないやつは、他の、自分にできることをすればいい。それはきっと、俺にはできないことだから」
 自分にできることを。少女は口の中で墓守りの言葉を反芻する。墓守りは夜に塗れている空を見上げた。
「まあ、これも悪い仕事じゃあない。此処から見る星は綺麗だ。――夜の闇に一度身を浸せ、そうして再び目を開いたとき、おまえは夜の光の煌めきを知るだろう。そう本の一節にもあった。少し目を閉じてから、空を見てみるといい。きっといつもより綺麗に見える」
 言われた通りに、少女は目を瞑った。聴こえるのは、細い風に揺れる木の葉の小さな調べ、炎が爆ぜて踊る音、近くで響く梟の歌。ずっと遠くで月に向かって吠える狼の声も聴こえてきた。
 少女は目を開き、空を見上げる。天上の星が、白く、青く、時折赤や黄に煌めいて、少女の瞳を鋭く刺した。月は近く、星は無数に各々好きなように踊ったり喋ったりしている。少女の天色の瞳にもまた、白い星が舞い降りたことに彼女は気が付いただろうか。星自身も気付かぬそれに気が付いたのは、おそらく隣に座る銀の瞳だけ。星が弾けたように顔を墓守りの方へやった少女は、いつもよりも少しばかり大きい声を発した。
「――私、このお仕事、好き!……お兄さん、此処が静かで、たいせつなものがよく聴こえるのも、此処でみんなが安心して眠れるのも、此処で見る星がこんなに綺麗なのも、墓守りのお兄さんのおかげなんだね。うん、お兄さんのお仕事は素敵だよ」
「……そうだろう、ああ、俺もそう思ってた。――たまに君みたいなお客も来るし、な」
 月を見上げながら墓守りは小さく笑い、それから少女の髪を優しく撫でた。つられて見上げた空はやはり無数の光を湛えて、さながら海に住む小さな生き物たちの命の光のようだった。少女は星の海を称える歌を、小さな声で歌う。その声はカンテラの炎と柔らかい月の光を浴びて、空に瞬く星の一つを歓ばせた。夜が明けるそのときまで、少女と墓守りは他愛のない話をして過ごし、遠のいていく星の光に少しの寂しさを感じながらも、新たな朝を迎え、自身らも歩き出した。役目を終えたカンテラの炎は、次なる夜の星となって輝くときを待っている。


20160317 
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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