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エフェメラル

 目次

 水のせせらぎと香る葉をその身で想いながら、静かな生命たちを称える歌を口ずさむ。森の湖の水に足首を浸し、傍らの四十七弦琴の弦を風に弾かせているままにしていると、まるで呼吸をするかのように水面が揺らめいた。風の流れが微かに変わったのを肌で感じ、ソルは腰を湖の前に下ろしたままで後ろを振り返る。瞬間、風が強く吹いた。
 振り返ったソルの黒き両目に映るのは、風に吹かれてはためく白い布。ただの布かと思ったそれは、幾つかの瞬きをした後に、目の前の女性が身に纏っている長めのワンピースだということにソルは気が付いた。視線を上へ向けると、どこか曇り空のような灰色の瞳――雨が去った後の穏やかな空の雲に似ている――と目が合った。その灰の瞳が細められ、風は穏やかな香りを纏って去っていく。口元も目に似た形に弧を描き、やがてそこから穏やかな潮風のような声を発した。
「あら――歌い手さん、ね?」
「そう、だけど……あなたは……?」
 ソルがやり場に困った手で四十七弦琴の弦を弾く。白いワンピースの女性は、海の深いところの色を宿した短い髪を揺らして少しばかり笑った。
「あたし?……そうねえ。少しだけ旅をしようと思って、何となくこの辺りを歩いてるだけの女――ですよ」
「旅人と名乗るほどでもないってわけかい?」
「ええ。……名前はお聞きにならないのね」
 そう言うと、女性はソルが足を浸している湖の近くに在る切り株の上に腰を下ろして、片手で己の頬を包んだ。ソルはそれを横目で見ると、視線を揺れる水面に移し答えを返した。
「名前は聞かないことにしてるんだ、別れるときに寂しくなるだろ? 僕の方は名乗ってもいいけどね、ほんとうの名前じゃないから、さ……」
 その言葉は哀しみのような、また憧憬のような、どこか彼の歌にも似た色をちらつかせていた。
「じゃあ、聞かせてちょうだい。あなたの名前は何と仰るの?」
「……ソル。ソル、だよ」
「ソル、ね。ソルくん、あたしはクコ。ふふ……ほんとうの名前じゃありませんけれど」
「クコ――それは、誰かにもらった名前?」
 クコは微かに笑い、首をゆっくり左右に振った。それを見たソルは少し恥ずかしそうな顔で笑い声を漏らし、クコの灰色の瞳からつい、と目を逸らして再び透明な水の上へと視線を滑らせた。しかし恐らく、彼の目にきらきらと光っているこの美しい水面は映っていないのだろう。
「……ソル、というのは……誰かにもらった名前なのね」
「どうだったかな、忘れたよ。人は忘れる生き物だろ?」
「それはどうかしら。同じように、人は忘れることのできない生き物ではなくて?」
 ソルは傍らの四十七弦琴を膝の上に置き、その透明に輝く弦を一つ指の先で弾いた。弦よりも透き色の音色が湖の上を踊り、そして風と共に去っていく。
「――憧れていたんだ、旅人っていうものに。旅の想い出の一つになりたかったのかな……分からないけど、僕は旅人に出会う度、彼らにあだ名を付けてたんだ。それで、時にはあだ名を付けてもらったりもした。僕のあだ名はたくさんあるよ、ニゲルとか――エレとか――あ、これは黒って意味らしいんだけどね。ノックスっていうのも面白かったな、闇とかそんな風な意味らしくてさ」
「それでも、ソルという名を名乗っているのですね」
「……そうなりたかったのかもしれない。なりたいのかもな、太陽みたいに……。この名前をくれた旅人はね、重たいものはまだいらないって言って僕のところから走り去っていったよ、どこか楽しそうだった。僕はどうしてか……そういうのに憧れる。だからこの名前を――名乗っているのかも」
 ソルの黒い瞳が水面の光を映して白く輝いている。それでも青い夜が彼の星空を覆っているように見えるのは何故か。眉と眉の間に生まれた皺を一層深くして、ソルはその瞼を閉じた。
「何かに憧れて、その姿になりたいと思うからその名を名乗る……というのは、そんなにいけないことかしら」
「いけないこと……というよりは……自分が何なのか、分からなくなる。僕は誰、なんだ?……クコも、それはほんとうの名前じゃないんだろ? 自分が誰だか分からなくは、ならないかい」
 ソルが顔をクコの方へ向けると、切り株の上に座っていた彼女の隣にいつの間にだか大きな鹿が寄り添っていた。その顎から首にかけてを撫でていたクコはソルの視線に気が付いて、その瞳をソルの黒色に重ねる。初めて、目が合った。ソルはそう感じると同時に、その穏やかな瞳の奥に閃く強い光に一瞬どきりとする。それはどこか、生きることにしがみつく、そのことへ恥も迷いもない獣の瞳に似ていた。ふっと逸らした目を、今度は寄り添う鹿の真黒に煌めく双眼に捉えられる。彼女から目を逸らしていたのは自分の方だ、とソルは情けなくなりながら思う。そうだ、おれは怖かったのだろう、彼女の強い瞳と目を合わせるのが?
「あたしはクコよ、違う名前ももっているけれど、それもあたし。あたしは、あたし」
 アギンみたいなことを言う人だな、と思いながらソルはその砂色の髪や瞳を想い出し、それを振り払うかのように首を振って答えた。
「……僕は、分からない」
「なら、きっと考えなくてもいいことなのだわ」
「え――」
 ソルの黒い瞳が丸くなる。クコはゆったり微笑んで、湖の水面を眩しそうに見つめた。
「もちろん、考え続けてもいい――それであなたが疲れないのなら、ですけれど。でも少し、お疲れではなくて? 分からないままでもいいこと、考えなくてもいいこと、そういうものは確かに在るとあたしは思いますよ。それにソルくん、あなた、歌うたいで旅人、でしょう? そんな簡単に答えが見付かってしまっていいのかしら、あまり簡単だとつまらないのではないかしら?……人より名前が多くて何かと便利。それくらいの気持ちでいたらいいんじゃない、とりあえずは?」
 心に張り詰めていた弦の一つが弾け、高く澄んだ音色を奏でた。湖の水面が静かに揺らめく。それは穏やかな風のせいではなく、ソルの片目から零れ落ちた一粒の涙のせいだった。クコは傍らの大きな鹿の方を向き、その誇らしげな一対の角を愛おしげに撫でている。ソルは可笑しくて仕様がないというように、大きな声を上げて笑った。先の涙とは別の涙が、彼の目尻を濡らす。前かがみになりながら、未だ治まらない笑いを抱えてソルは言った。
「人より名前が多くて何かと便利!――はは、そりゃそうだ!……ああ、クコ、あなたはすごいね」
「あらあら、そうかしら。あなたの楽の音には負けますわ、〈星の歌い手〉さん」
 それを聞いたソルは、参った、というように肩をすくめて苦笑いをした。
「知っていたんだ?……まったく、ひどい人だなあ」
「女、というのはそういうものよ、ソルくん。さあ、歌って。歌うでしょう?」
「ああ――もちろん。僕は名前が幾つもあって便利な男。そして〈星の歌い手〉ソル、だからね」
 弦を弾き、ソルは森の奥まで響き渡るようにと歌を歌った。光の色を纏うその歌声、その音色に湖の水面は再び揺らめき踊る。その煌めく水の姿は今度こそソルの瞳に映り、彼の黒を光の瞬きで満たした。クコが切り株の上から草の上へ降り立つ。彼女はソルの奏でる歌に合わせて踊り、その白い布と深海色をした髪を揺らした。夢見がちな少女が今の二人を見たらこう言うに違いない――吟遊詩人と森の精霊が音の光と戯れている!――と。ソルの楽の音に驚き去る獣、また誘われる蝶や鳥。ソルは時間を忘れ、森の木々が橙に染まるそのときまで弦を弾き、今日のすべてを愛おしむかのように歌を歌い続けた。ソルが気が付いたときにはもう、クコの姿は湖の何処にも見当たらなかったが、残された大きな鹿は木洩れ日を受けて、その角をやさしい光で輝かせていたのだった。


20160429
シリーズ:『仔犬日記』〈泥の花〉

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