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星月の音を奏でる

 目次

 下りる夜の帳に、去る太陽のにおいを感じた。
 そういえば、あの日の夜もこんなにおいをしていたな、と四十七弦琴を背負った青年は小さな町の前で立ち止まる。
 生まれ育ったオレンジ畑を十七のときに旅立ってから、二年と少しの時が経った。するすると物語を語っていたあの声は、もう随分と低くなって、最早自分が以前どういう声を出していたかも思い出せない。
 旅をしながら、歌うたいとして各地を回っているこの青年は、町の入り口近くにある、ほとんど正方形の見た目をした大きめの石の上へ腰掛け、己の背負っている四十七弦琴を膝の上に乗せて一息ついた。弦の一つを指で弾くと、旅に出た日の記憶が淡い輪郭を保って蘇り、彼は少しばかり苦い笑みを零した。

 旅に出たのは、空が憎たらしいほど青い日だった。
 自身が店主代理を務めていた〈泥の花〉というカフェで、幼馴染のアギン――海辺の柔らかい砂の色をした髪と目をもった少女だ――と暇つぶしに駄弁っていたとき、唐突に思い立った。いいや、思い立った、というよりも来るべき日が来た、という感覚に近かったかもしれない。旅に出るよ、そう言ったときの自分を見るアギンのあの目は、今でも時々想い出す。
「旅――? 旅には出ないって、チャハヤ、前に言ってたじゃない」
「あれは十五のときだろ。二年経てば旅にも出たくなるよ」
「おじさんとおばさんが何て言うか……」
「いや、父さんと母さんはむしろ、ちょっとくらい世界を見てみるべきだ、ってうるさいんだよ」
 アギンの砂色の目が、波に沈んで少しばかり陰って見えたのは、今思えば思い違いではなかったのだろう。
「……帰って来るんでしょ? すぐ?」
「うん、そりゃもちろん――たぶん……」
「たぶん?」
「分からないよ。明日帰るかもしれないし、明後日……一か月、一年、もしかしたら十年後かも」
 一年、という言葉を口にした辺りからアギンの砂が怒りの風に吹かれて舞い上がっていることにチャハヤは気付いていたが、まさか十年後、と言ったすぐその後に彼女からの平手打ちが飛んでくるとは思いもしなかった。頬が千切れるのでは、というほどにアギンの容赦のない平手打ちは痛んだ。痛みにちかちかする目で、椅子から立ち上がっているアギンを見上げれば、あの鋭い一撃とは裏腹に、どこか泣き出しそうな顔でこちらを睨み付けている。その表情の意味を、チャハヤは旅に出た今もよくは分からないままでいた。
「こんなところで旅人とばっかり話しているからそんな風になるんだわ。十年も経ったらあんたも私もしわしわよ」
「しわしわ、って……大げさだな、アギンは」
「――どうやって食べていくつもり?」
 そう問われたチャハヤは視線をカフェの物置の方へ向けた。
「歌を歌おうかな。父さんの買うだけ買って使ってない琴をちょろまかすよ」
 アギンが未だ納得のいかないというような表情を浮かべ、溜め息を吐いて椅子に座った。それから机に肘をつき、呆れたように少しだけ笑う。
「……そ……。チャハヤ、そういう才能はあるもんね。よおく知っておりますとも。さっさと往って帰って来れば? まあ、あんたがどっかでかわいい女の子と出会って一生帰って来なかったとしても、私は構わないけど!」
「どうかな。ないと思うけどね」
「……あんたのそういうとこ、ほんとにむかつく」
 口の中でぶつぶつ言っているアギンを尻目に、カフェの物置から父の四十七弦琴を手に取り、家で旅支度をしようとカフェの扉に手を掛ける。その様子を見たアギンが、驚きと焦りの混じったような声でチャハヤを呼び止めた。
「ちょっと、ほんとうにもう往くの?」
「早く往けって言ったのはおまえだろ、アギン」
 アギンが立ち上がってチャハヤの腕を取る。五本の指すべてに力の入ったそれは、先の平手打ちほどではないにしろ、チャハヤが苦笑いをするほどには痛みを連れてくるものだった。
 振り返ってアギンの目を見てみれば、感情に揺さぶられていた砂の色は何処へやら、今となってはアギンの目は吹けば飛ぶ砂を湛えてはおらず、その瞳、それはそう、春の大地の色によく似ていた。その揺れぬ瞳でアギンは言う。
「早く帰って来ないと、おじさんのオレンジ畑も! この〈泥の花〉も! あんたが貰うはずのもの、ぜんぶ私が貰っちゃうから! ぜんぶ!」
「……いいよ、アギンになら」
「――あんたは……何処に往こうが、何をしてようが、何と名乗っていようが、チャハヤ、あんたはチャハヤなんだからね、忘れないで! 忘れないで、此処にみんながいること、忘れないで! 人は忘れるものだってあんたは言うけど、私はアギンで、あんたはチャハヤ!……忘れないで」
 それを吐き出すと同時に、力の入っていたアギンの指がチャハヤの腕から離れていく。チャハヤはアギンの言葉に何も言わず、扉を開いて外へ出ていった。あのとき、振り返らなかったのは何故だろう。振り返ってアギンの顔を見たら――彼女がどんな表情をしているかも分からないのに――すべてが変わってしまうような心地がしたのだ。今、振り返ったら、自分は何処へも往けなくなる。そんな心地が。
 見上げた空は、憎たらしいほどに青かった。それが己の旅のはじまりだった。

「お兄さん、歌い手?」
 問いかける無垢な声に、彼の意識が地面に降り立つ。声のした方に目をやれば、そこには小さな少女が、石に座っている自分の方を見上げていた。
「ああ、そうだよ。僕はソルっていうんだ」
「ソル?……あの、〈星の歌い手〉?」
「……そうかもね」
 少女の顔が喜色を湛えた。ソルの持っている四十七弦琴を指差して飛び跳ねる。
「歌って!」
 ソルは頷いて、一つ弦を弾き、高い音を出した。月が彼の琴を照らす。低くも透き色を纏った心地の好い歌声を響かせて、ソルは楽を奏でた。彼の指に揺らされる四十七の弦も白い光に照らされ、さながら星月の光をそのまま弦にしたかのよう。
 ――私はアギンで、あんたはチャハヤ!
 アギンはアギンだ。彼女は揺らがない。生まれてから死ぬまでずっと、アギンはアギンなのだろう。しかし、自分はどうだ。未だ、ソルという太陽の名に呪われたままの自分は。今、この楽を奏でているのは確かに自分だ。だが、この楽を奏でているのはチャハヤなのか。それとも、或る旅人にもらったソルという名に呪われたままの、あの日と何も変われないでいる、見た目だけ大きくなってしまった少年なのか。
 旅を続ければ続けるほど、自分が分からなくなる。ソルは弦を弾き、低い音を出した。いいや、旅というものはそういったものを見付けるためのものだ。歩き続けていれば、いつかは何かを見付けられよう。それまでは、この名を。ソルの名を。ほんとうにたいせつな人を見付け、その人の前で、自分はチャハヤだと胸を張って言えるようになるまでは、このソルという名前に呪われていよう。
 夜の髪、闇の瞳、歌うたいソルは四十七弦琴を背に往く。北から南へ、西から東へ。歌い歌い、彼は往く。彼が歌うのは遠い昔のことか、それとも昨日会った旅人のことか。歌い歌い、彼は往く。多くの人は彼をこう呼ぶ、<星の歌い手>ソル。彼が弦を弾けば、彼の夜を湛えた髪は月の光に淡く揺れる。彼が歌を歌えば、彼の夜を湛えた瞳は星の光を宿して煌めく。彼の音は見えないものを見るかのよう。彼の楽は物語を紐解くよう。〈星の歌い手〉ソルは歌う。それは遠い昔のことか、それとも昨日会った旅人のことか。彼のほんとうの名を知る者は、此処にはいない。


20160309 
シリーズ:『仔犬日記』〈泥の花〉

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