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フラワーアンドドラゴン

 目次

 倒れゆく竜の、その風に攫われていく命のともし火を目の前にしていた。
 静かに後ずさりをしながら、サラは自身の何倍もの体躯をもつ竜の首が力なくこちらへと倒れてくるさまを見つめている。
 轟音を立てて地面へと崩れるその竜の瞳と一瞬だけだが目が合い、サラはその哀しき目の光にきつく首を絞められるような感覚に陥りながらも、しかし目を逸らさずに、命の灯が消え入ろうとしているのにも関わらず美しい竜の瞳を黙って見つめていた。
 竜の体は四肢も尾も首も頭もすべて地面へと倒れ、辺りは一瞬不安になるほどに静かになる。サラは未だ呼吸を張り詰め、最早瞑られてしまった竜の瞳へと視線を送り続けていた。
 すると、竜はゆっくりと頭をもたげはじめ、微かにその目を開いたようだった。サラは手にしている巨大なハンマーに掛ける指の力を強め、ゆっくりと開かれていくその瞳を緊張の糸をぴんと張り詰めてはねめつけている。しかし、竜は何か一つ、歌うように或いは何かを呼ぶように長い息で鳴き声を発したばかりでこちらには視線すら向けず、今度こそ力なくその頭を地面へと下ろしていった。
 サラは指に込めていた力を少しばかり抜くと、詰めていた息を思い出したように吐き出して、息絶えた竜の二度と開かれることはない瞼を見つめる。
(……逝った、か……ぼくはまた、生き残ることができたみたいだ)
 息を吐いて振り返ると、此処に立っているのが自分のみということに気が付いてサラは内心驚いた。後ろに付いていたはずの者たちは一体いつの間に逃げたのか。
 彼女は、ヘッドの先が鋭利な爪のようになっている、自身の得物であるハンマーのその〝爪〟の部分を地面へと突き刺し、長く長く息を吐く。それから、竜との戦いによって傷付いた自分の肌から滴り落ちる血の一粒が大地に一つ滲みをつくるのを見つめ、自身の微かに震える手のひらと早鐘のような己の鼓動を感じていた。
 サラの狩りの腕前が目を見張る速度で上達すると同時に、彼女へと回される仕事が小さな獣を狩るものではなく、巨大な獣や或いは人とも獣とも呼べない異形の魔物を相手にするものが驚くほどに増えてきた。
 サラはドグスの勧めで各地を転々としている狩猟団に所属しており、しかしサラは基本的に単独で狩りを行うために一人で回された仕事を全うする場合が多い。
 だが今回小さな狩猟団が、罠を張るなどの援護をするから勉強のために竜狩りに連れていってほしいと、サラ含む狩猟団の猟師たちを取り囲んで離れなかったので、うんざりした団の棟梁が、いいじゃねえか連れてってやれよ、お命の責任をこっちは持たねえけどな、などとつい軽口を叩いてしまったのだった。言質を取ったと大喜びの最近結成されたばかりで若手ばかりの小さな狩猟団はもちろん狩りに出るサラの後ろをくっ付いてきた。
(逃げてもらえてよかったな。今回のジェムカローラは普通より気性が荒かった……)
 口の中だけで呟いて彼女は目の前に横たわる、一般的に〝ジェムカローラ〟と呼ばれているこの竜の亡骸を自分の古銅輝石にも似た瞳で見つめた。
 陽光を反射して煌めき巨躯を覆うその鱗は、さながら遊色する蛋白石の如くに美しく、鱗と鱗の微かな隙間からは色とりどりの宝石のように輝く手のひらほどの花が咲き誇って、蛋白石の周りで輝く花々が咲き乱れるさまはたとえるならば水面に浮かぶ睡蓮のようである。美しい花の竜。
 ただ、どんなに美しい見目をしていたとしても鱗を剥いで肉を斬れば血が流れるものであり、鎚で骨を砕けば身の毛もよだつ叫び声を上げるものである。サラは地面に散っている血の跡を振り返った。
(誰だって怖いに決まってるよね……狩られる覚悟があったって怖い)
 サラはこうした、狩るのに膨大な時間と危険な命のやり取りをしなければならない巨大な獲物を相手にするときには必ず、自分の名前を声高に叫んで獲物の前に出ていく。ぼくはサラ・クラーラだ、おまえを狩りに来た、と。それが彼女の鬨の声。
 サラに気が付いた相手が何をも応えずに逃げ去れば、彼女はその相手を深追いせずに別の獲物を探す――が、相手が咆哮や視線の動きで彼女に応えたのならばそれが相手の鬨の声となる。そのようにして一人と一匹は壮絶な命のやり取りを始めることとなるのだった。
 彼女のこうした行動は命を重んじ命に敬意を払うが故だったが、しかし危険ではある。不意討ちを狙えるのならば狙うのが猟師の常であり、罠を張り巡らせられるのであれば張り巡らせるのもまた猟師の常であるのだから、彼女のように一対一で面と向かって獲物に突っ込んでいくのは、向こう見ずで死に急いでいると思われても仕方のないことだろう。
 別の猟団から皮肉られて〝噛ませ犬〟やら〝狂犬〟などと時折呼ばれていることを知らないサラではなかったが、しかしどうしても想い出されるのであった。息を吸って吐く間に、その短い時間で何を発するわけでもなく狩られていったあの一匹の、はじまりの狼を。
(彼はぼく。ぼくは彼……)
 いとも容易く命と共に尊厳も誇りも、言葉すら奪われていった一匹の狼。自分が獣の血を身体に引く者であるからか、そのあまりにも短すぎる命と命の対話に自分はどうやら哀しみを覚えたらしかった。ドグスは目を逸らすなと言った。そうだ、目を逸らしたくない。生きていくために狩らねばならない命とも、この哀しみとも。逸らさないために、逃げないために自分はいつも名乗りを上げるのだ。そうして自ら逃げ道を失くすように。
 それに、家に逃げ帰ればかわいいかわいい桃色の狼にこっぴどく叱られるに違いない。そう、王子は騎士は、常に守るべき姫の前に立っていなければならないのだ。それでいい、それがいい。そう在りたい。たいせつなものを守れるように。
 再び竜の方へと向き直ったサラが短く指笛を吹くと、何もなかった空間から虹色の羽をもつ小鳥が現れて彼女の肩に留まった。サラは少し微笑んで、小鳥の足に紐で括られてくっ付いている円筒に紙切れを丸めて挿し入れる。狩りが無事に終わった旨が簡素な字体で短く綴られた書き付けである。
「ラナンキュラス、できるだけ急いでくれると助かるな。素材を剥ぐには手が足りなくなっちゃったし……しかも相手はドラコだ、元より運ぶにも剥ぐにも人手がいる。それはみんな分かってて、こういう狩り方をするぼくに敢えて任せたんだろうし……近くにいるよね、みんなは? うん、任せたよ、ラーナ」
 ラナンキュラスと呼ばれたこの小さな虹の鳥は、サラの書き付けを足の円筒に飛び去っていった。まるでラナンキュラスにだけ見える扉へと飛び込んでいくかのように彼女はあっという間に空気に溶け消え、後にはきらきらと輝きを放つ光の粒子が残されるばかり。このようにして遠い距離を一息に飛ぶことができるラナンキュラスは古くから狩猟団で飼われているらしい伝書鳥である。
 とりあえずはとほっと息を吐くサラの背後で、か細い鳴き声のようなものが震えを伴って彼女の耳まで流れてきた。サラが反射的に音のした方に振り返ると、其処に在るのは一匹の大蜥蜴のような生き物。サラの頭一つ分くらいの大きさのそれは、最早息絶えた竜の前で何かを呼びかけるかのように声を上げていた。
 その姿を目にしてサラはこの生き物が一体誰の子どもで、今一体何をしているのかを理解し、強くハンマーで頭を殴られたような気分になった。彼女は途端に苦しくなった肺から何とか空気を吐き出し吐き出し、この蜥蜴にしては大きすぎる生き物の前に膝を突いて喘ぐように問いかけた。いいや、答えを知っているその言葉は問いかけですらなかったかもしれない。
「おまえ、このドラコの仔か……」
 竜の仔は返事の代わりに絞ったような声で自分の母へと呼びかけている。サラはこの子どもが母と呼びかけるたびに胸がきつく締め付けられ、そして灼けるような気分になった。
 そうか。このジェムカローラ――彼女が最期にあんな哀しげな瞳をしていたのは、彼女が力を振り絞って首を持ち上げたのは、そして最後に一声鳴いたのは、すべて自分の子どもを想ってのことだったのか。すべてそうだったのか。彼女は守るために戦ったのか。彼女も、守るために戦ったのか。サラはきつく自身の瞼を瞑った。
 目を逸らすなとドグスの声がする。それからミラの姿が瞼の闇に浮かんでは消えた。そう、もし自分が逃げ出したりしたら彼女は怒るだろう。目を、と声がした。目を開けと、はじまりの狼の声が。
 サラは唇を噛んで目を開き、それからベルトに下げている小刀を革の鞘から抜くと、大股で土を踏みしめて竜の亡骸へと近付いていく。そしてその巨大な躰から小刀を使って一枚、美しく遊色する鱗を剥ぎ取ると、今度は未だ母へと呼びかけている仔の方へと近付いていってはその鼻先に母の鱗を突き付けた。
「分かっているんだろう。おまえの母は死んだんだ。このぼく、サラ・クラーラが狩った。ぼくがおまえの母さんを殺した」
 こちらの言っていることが分かっているのか、母の剥ぎ取られた鱗を目にした仔は怒り狂った様子でサラの腕にその、まだ子どもでありながらも鋭く閃く牙を立てようとした。噛み付かれる前にサラは腕を引っ込め、獣特有の身のこなしで素早く後退すると地面に先を突き刺してあった自身の得物であるハンマーを手に取り、それを仔の牙よりも鋭く閃かせて彼の眼前に振るった。
 それはサラにとってはただの牽制のつもりだったのだが、母が死んだことを自覚したのか、竜の仔の瞳からは段々と生気が消え失せていく。ジェムカローラは血族想いの竜だ。つがいの片方が逝けば残された片割れも自ら舌を噛み千切ることさえあると聞く。
 サラは地に伏し息を吹き返すことは二度とない竜が最期に見せた母の瞳、聴かせた母の声、その切ない力を感じていた。竜の母の躰を覆う鱗は未だ陽光に照らされて透き通るように美しく、その間から咲く花は枯れることなく命の輝きを歌っている。
 だがこの竜の心臓は二度と鳴らない、翼が羽ばたくこともない、瞼は開かない、声が聴こえることもない。昨日まで当たり前に在ったそれらを彼女と、彼女の仔から奪ったのはこの自分だ。目を逸らすな、彼女が守ろうとしたものから。目を開けて見ろ、彼女が守ろうとしたものから……
 サラは自分の手のひらよりも大きい竜の鱗を握り締め、もう一度竜の仔の鼻先にそれを、その輝きを突き付けた。見ろ!
「ぼくを憎め! 今のおまえじゃぼくを殺すことはできないぞ。ぼくを憎め、そしていつかぼくを殺しに来い。母さんの仇を取りに来い! そのときには返り討ちにしてやる。ぼくがおまえを狩ってやる! だからぼくを、狩りに来い! だから生きろ! おまえの母さんは最期におまえの名を呼んでいたんだろう! それは生きろってことだ! さあ、往け!」
 サラが大声でそう叫ぶと、竜の仔は慟哭にも怒号にも聴こえる声で叫び返し、母親ほどではないが大きな翼を羽ばたかせて大空へと去っていった。しかし、仔の姿が雲の合間に消える直前、震える風のような声が遠い空から降りてきてはサラの呼吸を苦しいものにした。彼女は鱗を持つ手に力を込めると、血が滲むほどに唇を噛む。聴こえてきたそれは確かに、竜の仔の泣き声だった。
 彼女は全身に力を込めたまま空を見上げ、それから竜の亡骸をその、奥に赤い覚悟の燃える、しかし優しげな茶の瞳に映す。サラは今にも涙が零れ落ちそうな目で、吹き消えた命のともし火を目の前にしていた。
 けれどもその日、彼女は泣かなかった。
 それは、目を逸らさないために。それは、目を開けているために。

20170301
シリーズ:『貴石奇譚』〈花まもりの狼或いは名もなき化け物〉

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