見出し画像

デザートローズ・キャラバン・ソング

 目次

 ラクダの背に乗った旅荷物と、街へ卸すつもりの品物が入った幾つかの布袋がラクダが歩を進めるたびに揺れては、おおよそ軽快とは言い難いが穏やかな音を立てている。楽の音にも聴こえるそれに耳を傾けながら、ニケは頬を伝った汗を拭いとった。
 時折吹き付ける砂の混じった風に目を細めながら、彼は着実に砂漠越えの道のりを進んでいた。遥か前方には――それは下手をすると蜃気楼にも思えるが――確かに大きな街が見えている。旅を始めて今は二日目だ。明日が終わるまでにどうにか辿り着けるだろうか。期待と不安ではほとんど不安が勝り、それはニケの心で陽炎のように揺らめいていたが、ともかく今は前だ。前に進むしかなかった。
 そう心で思い一歩二歩、ラクダと共に前へと進んでいると、今度こそ蜃気楼だろうか、前方から人が歩いてくるのが見えた。連れの人間もラクダもなく、ただの一人だ。その歩の運びはまるで滑るよう――風のようと言った方が聴こえはいいだろうが、それよりもほとんど滑るようにこちらへ迫ってくるのだ。砂漠を歩くことにひどく慣れた人間だった。ニケは向こうがこちらへ歩を進めるのと同じように前へ前へと進んでいたが、相手の顔が判別できるくらいのところまで近付くと、はた、と動きを止めてしまった。相手の姿には、見覚えがあったのだ。頭も、鼻から口元にかけても布でぐるぐる巻きにされた格好をしているが、目元を見れば分かった。オアシスを歩けばひときわ目を惹く赤い瞳――。
「――正直、もうここまで来てるとは思わなかったな」
 その赤に戸惑い、立ち止まって押し黙っていれば、まるで昨日会ったばかりだというように相手が口を開いた。そんな相手にニケはやや肩透かしを食らったような気持ちで、半ば呟くように言った。
「……ジヨン兄さん?」
「ああ、そうだよ。ちびネコ」
 何でもないことのようにジヨンと呼ばれた男は答える。そんな男の態度を見て、更にニケは戸惑いに戸惑った。
「戻って――?……どうして?」
「何だよ、オレが戻ってきたら悪かったか」
「そういうことが言いたいんじゃなくて……!」
 混乱した頭で何とか言葉を紡ごうと必死になるニケを見て、ジヨンが面白そうに笑った。それを見たニケは心底驚いた、という気持ちを隠すことができずに目を少しばかり見開いたままその場で固まってしまった。
「分かってる、分かってる。オマエが何を言いたいのかはさ」
 ――ジヨン・アサド。ジヨンは二年前に故郷のオアシスを飛び出した一人の青年である。ニケも、幼い頃からジヨンと一緒に遊んだり面倒を見てもらったりしていた。兄と呼んで慕う彼が突然飛び出し、その後生きているのかも死んでいるかも分からない状況が今の今までずっと続いてきたのだ。そんな彼が突然、砂漠の蜃気楼の中から現れるなんて、こちらの頭がおかしくなったのかと思ってしまっても不思議ではない。ニケが未だ状況を飲み込めずにいるところへ、ジヨンは更に言葉を重ねた。
「アサド家っていうのは、オマエのヘイダル家の遠い血縁っていうのは知っているだろう。アサドはヘイダルの商い一筋とは違って何でもかんでもよろずやるような家だが――なのに、オアシスからは出ようとしない……これがアサドのつまらないところだ――こうしてこっそり……オレより前まではこっそりしていたと思うよ、ヘイダルの男が無事街へ辿り着くのを見届ける役も買ってるんだ。知らなかったか?……知っているものだと思っていたが。だから、一度帰ってきたんだよ。かわいい弟分の旅立ちだ、故郷と一緒に置き去りにした俺の星、〈夜のたてがみ〉も少しくらいは許してくれるだろうと思ってね。……親父には殴られたけど……まぁ、誰かに殴られるとは思っていたよ」
 ニケは大きく息を吸い込んだ。そしてまた、呟くように言葉を発する。
「……無事、に……」
「そうだ。砂漠で行き倒れて死んだヘイダルの男なんて、聞いたことがないだろう?」
 ニケは頷き、しかしどこか悲しそうに一瞬だけ睫毛を伏せた。それから目の前にいる相手に対して、少年はいつもと何ら変わらぬ声色で問いかけた。
「――自分の代わりはいるのに?」
「……何で、そっちは知ってるかな……」
 ジヨンは額を押さえて、目の前の、他の人が聞けば引っくり返るようなことを言った少年をやれやれといった様子で眺めた。ニケはもう、そんなジヨンを見て笑い声を上げられるようになるくらいには混乱が解けはじめていた。
「砂漠越えで死んだヘイダルの男を聞いたことがないのと同じくらいに、後継ぎがいなくて困ったというヘイダルも聞いたことがないのです。……ヘイダルにも、ジヨン兄さんみたいに飛び出すやつがいたっておかしくない。それに、外へ旅立ったら戻ってこない者も多いのでしょう――おれだってそうかもしれないよ。なのに、こんな簡単に長男を砂漠に放り出すとは……やはりいるのですね、おれの代わり。たぶん、父さんの血が……おれと似たように交じった、おれくらいの子が、何人か」
「確信なく言ってたのか?」
「ああ――そうです。はは、あんまり信じたくなかっただけかも……でも、いいんだ、ほんとうは。代わりにヘイダルの商いを取り仕切ってくれるやつがいるなら、おれは助かる。たぶん、おれはオアシスで商いをするより、こうして歩いていくのが好きだから。……フォスの兄っていう場所までは、死んでもやらないつもりだけど。それ以外なら〈獅子の心臓〉だってやってもいい。それで父さんと母さんが喜ぶのなら」
 ジヨンは参ったというように両手を上げて、かぶりを振った。
「ニケ、オレが此処に来るだろうってこと、ほんとうは知っていただろう」
「いや、知らなかったよ……まだびっくりしてるんだ」
 おおよそ十二の少年とは思えない物言いにジヨンは内心舌を巻きながらも、しかしまだ十二なのだと思い直して街まで同行することに決めた。ジヨンは軽くニケの背を叩き、先に進むように促す。
 しばらく黙々と歩を進めていた二人だったが、ニケはジヨンが初め浮かべた笑顔のことを思い出し、何となく言葉を口元に乗せた。
「ジヨン兄さん――少し、変わった?」
 それを聞いたジヨンはこちらへは視線を向けずに、それでも少しだけ笑った。
「どうかな……でも、オアシスを出て面白いものには出会ったんだ。オマエを街まで送り届けたらまた、そこへ戻るよ」
「面白い……?」
「ああ。……やっぱりオレは変わったと思う。この土地は――水も、命すらも涸れるところだと思っていたんだ、ずっと。でも、きっと……それだけではないんだな。ニケ、オマエはそれを知っているんだろう」
 ニケは少しの間目を閉じて、旅立ちの日の朝を想い返していた。無数に輝く星が、それより熱い光に溶けていく――信じられないほどに美しい、信じられないからこそ美しい、あの星を、太陽を。夜を、朝を、空を。
「――空が美しいですね、此処は」
「ああ、オマエが言うならそうなんだろうな。どうやらオレはそういうのを見る目がないらしくてね。空の星より金ぴかの宝物の方が好きだ――昔語りはお宝と言えば砂漠、といったところなのにこの辺りはまったくだめだな……昔っから出てくるのはがらくたばかりだった。オマエはそれすら綺麗だと言うのだろうが」
 どこか遠い土地の訛りが混じって、少しばかり角ばって聞こえるジヨンの言葉を聞きながら、ニケはずっと心の底で思っていたことを口にした。これを口にするのにニケは大変悩んだものだったが、ついには躊躇いがちに口にしたのだった。
「……ジヨン兄さんが変わったのは……〈ばら〉を見付けたから?」
「〈ばら〉……?……懐かしい響きだな、それ」
 〈ばら〉という言葉の意味を知っているのは、この広い世界の中であのオアシスに生まれ育った者だけだった。ジヨンは少しばかり困ったように笑ってから、小さくかぶりを振った。
「〝自分にとってたった一人のかわいい女の子〟――だったっけか。……違うよ、オレが見付けたのは〈ばら〉じゃない。仲間とか友人とか……そういう風に言う類のやつだ」
 そう言ったジヨンを見て、ニケもまた困ったように笑った。
「フォスが……ジヨン兄さんが飛び出していったのはきっと〈ばら〉を見付けたからよ、とずっと言ってて……でも、そうではないのですね。でもまぁ……恋をする兄さんはあまり想像できないけど」
「うるさいな。それはお互いさまだろう」
 ジヨンは心底不服だというような顔をした。
「何だよ、おれだって恋くらいしますよ」
「ならオレだってするさ――そういえば、〈ばら〉のことを歌った歌があったな。あれ、オマエ好きだったろう」
「好きだったのはフォスだよ。だから、おれがよく歌わされてた」
「あの歌、男が歌うものなのに高くて歌いにくいんだよな、ええと、どういう歌詞だったか。……〝歌っておくれ、小さなばら〟――あ、ほら、ぜんぜん出ない」
「そうかな。おれは歌えるよ」
 そう言ってから、ニケはまだ声変わりに追い付かれていない伸びやかな声で〈ばら〉の歌の数節を歌い上げてみせた。砂漠を吹く、砂の混じった風は少年の声も纏わせて、遠い街へと翔けていった。ジヨンは半ば呆れ顔で片手をひらひらと振る。
「オマエにもその内分かるよ……これをオレたちが歌うのがどんなに大変かってことがな。まあ、今は歌っておけよ、少年。自由に歌える内にさ。オレもオマエの、お世辞にも上手いとも下手とも言えない歌は嫌いじゃないからな、歌え歌え」
「……褒めてる?」
「いいや、まったく?」
 ラクダの背で奏でられる楽の音に、今度は少年の伸びやかな歌が加わると、太陽は彼らの真上に昇り、今日も強い光を放った。それを受けた少年の黄金色の髪や睫毛、青年の赤い瞳、その彼の顔に巻かれた鮮やかな色をした布、ラクダのこぶ、歌いながら笑い合う二人の声すらも輝いて、街への足取りを先のものより軽くした。そして二人は、ほとんど確信をしたのだった――この土地は、涸れるばかりの土地ではない、ということを。
 街に着くと、赤い瞳をした青年はやってきたときと同じく滑るようにして何処かへ去っていったが、少年はそのことに少しの寂しさはあれど悲しみは抱かなかった。何故ならば、生きているから。生きているのだ、彼も、自分も。生きてさえいれば、また何処かで会えるだろう、今日のように。きっと、思いがけないところで。
 少年はラクダの背から荷を下ろし、それを解くと、透き色をした小さな石を取り出した。太陽の光を受けて、それは星のように、あるいは魔法のようにきらきらと輝く。少年は人が入り乱れる街で、自分にしか聴こえないほど小さな声で歌を歌った。赤い目の青年が別れ際に残した言葉、それが少年の中でこれから歩む旅路への光となり、少年の手の中に在る透き色の石と同じくらいに輝いている。少年は目を瞑って想った。――今日の空も、きっと美しいのだろう、と。
「――なあ、砂漠を越えたら本物のばらを見てみろよ」
「本物の……あの、赤い?」
「赤だけじゃあない、あれはほんとうにいろんな色があるんだ。オレが見ても綺麗だって思うんだから、オマエが見たら引っくり返っちまうかもな」
「はは……もしかしたら、手が出てしまうかも」
「出してみるといい。きっと痛いから」
「ええ、そう聞きます。きっと――だから、手を伸ばしたくなるのでしょう」


20160620 
シリーズ:『仔犬日記』〈砂漠の獅子〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?