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獅子の心臓

 目次

 まるで別れを惜しむかのように、水面に映る光が震えている。少年はその揺らめく光の中に、星の輝きを見つけ出した。
 少年――ニケ・ヘイダルはこんにち、太陽が砂の海に顔を出すと共に故郷であるこのオアシスを旅立つ。彼が生まれたヘイダル家は代々商いにて生を紡いできた家系であり、ヘイダル家に生まれ落ちた男は、或る一定の年齢――十二だ――になると、故郷のオアシスを出て行商人として旅に出る。ニケはまだ夜に塗れた空を仰いで、そこでひときわ赤く輝く一つの星を見つめた。
(――獅子の心臓……。両親から受け継いだ、おれの星……)
 このオアシスでは、親が生まれてきた子どもにへと星を授けるという風習がある。それはヘイダル家でも変わらず、ヘイダル家では男の子に〈獅子の心臓〉という名の星を、女の子に〈砂漠のばら〉という名の星を代々子どもに授け、受け継いできた。ニケは己の星を見つめ、砂漠の夜の張り詰めた空気を大きく吸い込む。旅立ちへの期待や不安が混ぜこぜになった、言葉にし難い心の内が、彼の鼓動を速め心臓を打ち付けている。
(何処へ往くのだろう、おれは……何処かへ、往けるのだろうか……)
 しきたりとはいえ、両親はまだ幼い少年である息子を、これから砂の海に一人で放り出すと言っても過言ではないのだ。行商人として各地をまわって生きていきたいのなら、故郷へは戻らずに旅を続ければいい。故郷の地で商人として生きたいのなら、いつかは故郷へ戻ってくればいい。何処かで腰を落ち着けて商いをしたいのなら、それもいいだろう。商いをする、という前提だが――ヘイダル家の男は大抵、己が商人として生きていくことを疑わずに育つ――自由だった。そう、自由と言えば聞こえはいいかもしれない。だが、ヘイダル家が代々受け継いでいるこのしきたりは、さながら獅子が子を谷に落とすかのようだった。
(三日だ……三日で砂漠を越えられなければ、死ぬ……)
 オアシスから砂の海を越えて小さな街に辿り着くまで三日以上かかり、それでも街に辿り着かないのならば、それは砂の海に呑まれたも同然、とニケは父から聞かされていた。砂漠に呑まれれば、行こうと戻ろうと何処にも辿り着くことはできない。つまりは、死ぬのだ。ニケは地平線を眺め、一つ息を吐いた。砂の海は、果てのないもののように思える。しかし、だからといって悪い方へと考えても仕方ない、一度家に戻ろうか、そう踵を返したところで、ニケは光のさざめきのように柔らかく幼い声に呼び止められた。
「お兄ちゃん……」
「――フォス?」
 その声の主は、ニケの二つ下の妹のフォスだった。フォスはニケと同じ黄金色の髪を夜風に揺らし、片手で杖を地面に突き突き、息を上げながらこちらへとやってこようとしていた。それを見たニケは慌ててフォスの元に駆け寄り、その身体を支えてやった。
「だ――だめだろう、無理をしたら。フォス……外は冷えるよ、戻ろう? おれも戻るから」
「待って……。だって、もう……お兄ちゃん、往くのでしょう。帰ってこないかも、しれないのでしょう。わたしなら、少しくらい冷えたってだいじょうぶよ」
 そう言うとフォスは自分の足元を一瞥し、それからすぐに顔を上げニケの顔を見て小さな蕾がひっそりと咲くように笑った。ニケは内心、妹が今にも倒れるのではないかと気が気ではなかったが、何とか自分を納得させようと努力した。
 フォスは生まれつき、両脚が上手く動かない、砂漠のこの地では不治と云われる病に侵されている。オアシスの人々はそれを受け入れて、他の人と変わらないようにフォスと付き合ってくれるが、やはりそこには何か見えない壁のようなものがあるとニケは感じ取っていた。フォスは、それを自分よりももっとずっと強く感じているのだろう。フォス・ヘイダルは厄介者だ――生まれてからずっと妹はそういう目で見られ続けているのだ。それはひどく遠回しに、しかしごく自然に伝わる空気、そう、ほんの少しの悪意が込められた空気。その空気をフォスは、この小さな妹は吸って生きてきたのだ。ニケは屈んでフォスの目を見た。自分の黄色を帯びた橙の瞳よりも少しばかり淡い色をした彼女の瞳は、それでも澄みきった光を湛えている。気が付けばニケは思わず、祈りにも似た言葉を発していた。
「――おれが見付けてくるから……フォスの脚、治す方法」
 フォスは目を瞬かせた。
「どうして? お兄ちゃんは、お兄ちゃんのしたいことをして」
「フォスの脚を治すことが、おれのしたくないことだと思う?」
「わたし、そういうことを言いたいんじゃないのよ……ちがう、ちがうの」
 ニケはまるで分からないというように首を傾げたが、フォスはどこか懇願するような目でニケを見た。
「お兄ちゃんと、わたしは……ちがう人間なの、家族でも、ちがうの。お兄ちゃんはお兄ちゃんの、わたしにはわたしの――やりたいことが――夢が、あるはず……。だから、お兄ちゃん……お兄ちゃんの人生をわたしにかけないで」
 細い眉を少し苦しげに歪めたフォスの柔らかな頬に、ニケはそっと手のひらを置いた。それから妹の淡い黄朽葉色の瞳を覗き込む。
「ねえ……それでも、探さずにはいられないよ。だってフォス、おまえはおれの妹なんだ……」
「そんなの……なら、わたしは――」
「妹じゃなかったら良かったなんて言わないでくれよ、フォス。おれは今日が出発の日なんだ。……おれはね、フォスの兄で良かった。こんなにかわいい妹は、他にはいないよ」
 フォスの丸い瞳から、大粒の涙が一粒零れ落ちる。震える声でフォスは言葉を紡いだ。
「……な――なんで、お兄ちゃんは往ってしまうの……! 砂漠を越えた先に何があるっていうの、死んじゃうかもしれないのに! どうしてお兄ちゃん、ヘイダルの家になんて生まれたの! わたしは――わたしは、お兄ちゃんがしたいことをしてほしいのに、でも、なんで、旅なんてしなくちゃならないの……! おかしい、おかしい! 簡単に往かせるお父さんも、それを止めないお母さんも! 分からない、いらない、しないで! 死んじゃうかもしれないことなんて、しないで……! わたしの脚なんてどうでもいいから、ねえ、お兄ちゃん、往かないで……」
 ニケは小さく震える妹を強く抱き締めた。誰か、誰でもいいからこんな自分を殴ってほしかった。だって、もう、夜は薄らいはじめたから。もう、朝がやってきてしまうから。
「――ごめん、フォス」
「なにが……?」
「往きたくないって、旅に出たくないって、思ったことがないんだ。ずっと、この日を待っていたんだよ――旅に出るってことは、おまえを置いていくってことなのに……でも、待ってたんだ、ずっと、待ってた……」
「知ってる……だってわたし、お兄ちゃんの妹だもの」
「――だから、往きます。商いをすることも、フォスの脚を治す方法を探すことも、ぜんぶおれのやりたいことなんだ。だから、それをするためには……自分は、砂漠を越えなくてはなりません。……そうでしょう、父さん、母さん」
 その言葉にフォスが顔を上げ、ニケの目線が向いている方へと振り返った。するとそこには彼らの両親が立っており、母は朝の光を受けて穏やかに微笑んでいる。そして父はただ、ニケの言葉に頷いてみせただけだった。しかし、それでもう、ニケの決意は揺らがぬものになった。そうだ、往かなくては。おれは、砂漠を越えなくてはならないのだ。誰のためか。そうだ、他ならぬ自分のために。ニケは立ち上がり、背筋を伸ばした。彼の瞳には獅子の心臓が宿り、それは静かに、だが確かに彼の鼓動を強くしていた。
「――では、往って参ります」
 そう言ってニケは己の家族に背を向け、砂漠を越えるまで共に歩むラクダの背を優しく撫でた。一歩を踏み出した彼の瞳に映るものは、夜の空に輝く小さな星ではなく、砂漠の果てから命を打ち鳴らしている、強くまた熱く燃える、獅子の心臓にも似た赤き太陽だった。


20160606 
シリーズ:『仔犬日記』〈砂漠の獅子〉

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