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イエス・ノー

目次

 ――いつか誰かが言っていた。
「アベル・メリアスは悪人か?」
 と。


 青の中を悠々と泳ぐ飛空艇の甲板に、一人の若い男が深い緑の上掛けを風に遊ばせて立っている。
 彼の白群色の髪はどこか冬の寒空を思い出させ、時々赤みを帯びて見える茶色の瞳はまるで赤虎眼石の如く――しかし、短く横に引かれたその瞳孔は虎というより羊の瞳のようだった。と言ってもその一見変わった瞳孔は彼の目をよく覗き込んで見ないと気付かない程度のものであり、彼のそのいでだちは普通の人間と何ら変わりなく見える。だが、彼のその額にそびえる鋭い角は、彼が人間に比べて獰猛な気質と云われる鬼族であることの何よりの証である。
 しかし、見る者によっては恐ろしくも感じる鬼族の角も、彼の額には一本のみ。彼の角が元々一対であったものだということは、厚い前髪に隠れた片方のそれが根元から欠けているところを見れば一目瞭然であり、彼の角がそうなっているのを見れば大抵の者は恐怖心を何処かへ捨て置くこととなる。
 そうして、彼の角は何故そうなってしまったのかを追究しようとするのだ。
「人は人の秘密を覗き見ることをやめられないのさ。真っ当な方法で知れないものこそ、知りたくなるもんだろ?」
 そう言う彼は笑っていた。
 いつでも不敵に笑ってみせるその男の名前は、アベル・メリアス。
 その正体は空賊団〈ムートン・ヴォルゲ〉を率いる、いわゆる頭領であるが、普段は飄々とした立ち振る舞いでその頭角を現さずにいる。それが故意であるのか、はたまた無意識の代物なのかは、誰にも分かりはしないのだが。
 彼が貴族の出身だとか、齢は二十三歳だとか、大酒呑みで特に麦酒がお気に入りだとか、好物がチョコレートミントだとか、偽名がアルベルト・メリヤスなのだとか、そういった話は一先ず後回しにしてそろそろ本題に入ろうと思う。
「アベル・メリアスは悪人か、否か」
 である。


「――何だこりゃあ」
 アベルは机に載っている、インクで薄汚れた原稿を捲っていた手を一旦止め、皿にのったトーストを一口齧っては呆れたように呟いた。
 トーストは、食パンの上にスライスチーズとハーブをのせ、オーブンでこんがり焼いたものである。これはアベルの好物なのだった。じんわり広がるバターの風味と鼻から抜ける微かなハーブの香りが心地好い。熱くとろけたチーズで舌を焦がすのもまた一興である。
 彼が呆れて呟いたその声を耳で拾った〈ムートン・ヴォルゲ〉の団員の一人が、珈琲を運びながらアベルに声をかけた。
「何って、ボス。それは昨日……一昨日だっけ? 新聞社に盗みに入ったときに盗ってきた原稿じゃないですか」
「いや……そりゃ分かるさ、きょうだい。内容、内容のことだっての」
「内容?……ああ、ボスのことが書いてあるんですよね。何かの新聞とか、雑誌とかにちょこっとでも載っちゃったら〝変装が面倒になる〟って騒いでたじゃないですか。だから盗ってきたんでしょう」
「ああ、それもそうなんだけどな……何かなぁ、これ、俺が悪人なのかそうじゃないのかどっちなんだ、みたいな内容でさ」
 指先にくっ付いてしまったパンのくずを両手を叩いて払い除けると、アベルは机の上の原稿を持ち上げて〝きょうだい〟の前でひらひらと振って見せた。それを見た団員は顎先に親指を当てて、からかうように薄く笑う。
「ボスが悪人?……へえ……まあ、あなたは空賊ですしねえ。俺もだけど」
「まぁな。何だかんだ言って悪いことするのが好きだしなあ、俺。善人ではないと思うぜ。つか、見ろよこの文章? ちょっとばかし脚色し過ぎじゃねえ? ファンか何かかね。俺の台詞も全部コイツの妄想だぜ」
「空賊にファンも何もあったもんじゃないと思いますけどね。たぶん書き手がロマンチストなんですよ、ボスみたいに」
「はは、違いねえや」
「ああ、でも――」
「うん? どうかしたか、きょうだい」
「……いえ」


 私は途方に暮れていた。
 驚くべきことに、家――もとい住み込みで働いている小さな新聞社を空けていた数時間に、その何倍も時間をかけてやっと書き上げた原稿と、そのために集めた資料を根こそぎ盗まれてしまったのだ。
 ――しかも、その犯人は私が原稿に纏め上げた人物、アベル・メリアスときたではないか!
 いいやそれ自体がおかしい。扉も窓もきちんと施錠したはずだ、此処には子鼠一匹入る隙間すらないずなのに! 社内には窓を割られた形跡や何か荒らされた様子もない。ただ窓だけがまるで羊が柵を飛び越えるのを歓迎するかの如くに大きく開いていた。おかしい。私の方がうっかりしていたのだろうか。いやまさか。命より原稿を尊ぶこの私が自ら原稿を危険に晒すような真似はしない。
 いくら原稿を尊ぶと言ったところで、また原稿を一から書き直す時間も気力も私には残っていない。時間というものはこちらを構うことなく大急ぎで心を追い越し、身体というものは中々どうして心に追い付いてこないものなのだ。己の目線の先ではただ指先で遊ぶ鵞ペンの先から滴るインクが、真っ白な原稿の上に黒い染みを作っていくばかりである。これほど虚しいことはない。
 そうしてぼうっと部屋の天井を見つめていると、窓の方から硝子を叩くような音が聞こえてくる。反射的にそちら側へ身体を回せば、先ほど鍵を閉めたはずの窓がすんなりと開いて、あっという間に深い緑色の布が己の視界を支配した。
 あまりの驚きに音を立てて椅子から立ち上がった拍子に、その緑色が侵入者の羽織る上掛けということを自覚して見開いた目を更に見開く。緑色の上掛け……
「ア――アベル・メリアス?」
「……いいえ。ボスの上着を借りて、それを着ているだけの下っ端ですよ。残念でしたね」
「はあ……? そ……それで、一体何をしに? もう私から盗むものなどないのでは?」
「仕事をしにきたんじゃありませんよ。ちょっと思うことがあってね。あの聞き方、良くないなあって」
「聞き方?」
「〝アベル・メリアスは悪人か?〟――あれじゃあだめですよ。あれじゃあね、いつまで経っても答えには辿り着けません。だってボスが悪人かどうかなんてそんなの、人それぞれですからね」
 下っ端と名乗ったまだ青年期を抜け出せていないように見える男は、アベル・メリアスがよくするように――実際見たことはないが――手のひらをひらひらと揺らして捲し立てた。あれじゃあだめですよ。それを聞いた途端に私の混乱した頭は冷静さを取り戻したらしい。つまりはこの男、私が魂を込めて書いた記事への文句を言うために、わざわざ舞い戻ってくださったというわけだ!
 眉根を寄せて、アベル・メリアスの上着を羽織った男を見る。
「――つまり、何が言いたいと?」
「次からはこう聞くといい。〝アベル・メリアスは盗賊か?〟……ってね。誰だって答えるだろうよ、彼は盗賊だって。何故なら彼は盗賊だから。――そう、彼は紛れもない盗賊だ」
 ああ、なんて夜だ!


 ――翌日私は、黒い染みだらけの原稿を目いっぱいの力でぐしゃぐしゃに丸め、部屋の隅のくずかごの中に放り込んだ。
 回らない頭で珈琲を喉へ流し込み、窓の外を眺めて今日も空が何処までも高く高く、澄み渡っていることを確認する。当たり前だがしばらくは空など見たくもなかったので、私は社内のカーテンをすべて閉め切り、深い海の世界に思いを馳せることにした。社員に白い目で見られているが最早構う余地はない。白目を剥きたいのはこちらの方である。
 これはのちの話となるのだが、海の世界に思いを馳せるあまり空賊だけでは飽き足らず、海賊の尻尾を追いかけ回し、今度は原稿だけでなく命まで危険に晒すことになるのだが、それは最早性分なのでどうすることもできないらしい。貪欲な好奇心を心に飼う私はそれを未だ飼い慣らすことができずにいるのだった。
 まぁ、その話はまた、別の機会に語るとしよう。
 そして私はこの話の終わりに、敢えてこの質問を叩き付けようと思う。
「アベル・メリアスは悪人か?」
 ――悪人だ、悪人に決まっている!


20151023 
シリーズ:『貴石奇譚』〈ブラックシープの愛し方〉

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