これまで暗い話ばかり書いてきたので、今回は前向きなものを書こうと思う。
あの夏の日に壊れてしまった私が人間に戻る話だ。


 人間というのは、1度壊れてしまえば壊れる前に戻る状態は不可能なのだと聞く。私はそれを事実だと体感している。
ゆで玉子が生卵に戻れないのと同じだと思ってもらえばわかるだろうか。人によってはゆで玉子ではなく炒り卵になったり、果ては生卵のまま固い地面に落ちてしまうようにもなる。
 私の場合は炒り卵だった。
両親好みの味付けに整えられ、適切で正確な火加減でなければ捨てられる。そして始めからやり直しなり、完璧に成功するまで繰り返し捨てられる。
『捨てられる』というのは、何も言葉の綾というわけでもない。文字通り、親に子供ではないと見放される、拒絶される、存在そのものも否定される。
 それでも懸命に作り直すのは、一重にそこ以外の居場所がなかったからだろう。ここがなくなればもう後はない、毎朝目覚める度にそう思っていた。

 当時の事を考えると、あの時の担任が休みがちになった私にこう言ってきたのを思い出す。
「ここを卒業出来なきゃ社会でやっていけない」
「そんなツラい事でもないでしょ」
まるで私の事情を熟知したと過信しているような目を向けて語る言葉に、私は何の価値もないと判断した。
口は悪いが、内心こう思っていた。

「お前は私の何を知っている」

 実際に口には出さなかった当時の私は偉いと思う。
頭痛が酷く、言葉を発するのも疲弊する時にかけられた言葉。元気な今なら反論の一つでもしているところだ。
 それからあの担任は言いたい事だけ一方的に語り、満足気に私の前から立ち去った。帰宅した私は頭痛を堪えながら夕食を作り、家族に出してから泥のように寝た。

次に担任と会った時は留年か中退を提案してきて、少しにやけながらこう言っていたのを覚えている。
「私は中退するのをおすすめしますけどねぇ」
はぁ、そうですか。それなら辞めてやろうと思い、それから1週間もしないうちに書類を提出して学校を去った。当時の数少ない学友や部活の先輩方には迷惑をかけたことだろう、ここで謝罪を述べたい。ごめんなさい。
 さて、学校に必要書類を提出しに行ったのはやや不機嫌な母だったのだが、そんな母に担任はこう言ってきたらしい。
「本当は辞めてほしくなかったんですがねぇ」
母は憤慨して帰ってきて、口汚く元担任を罵っていた。やや愉快な気持ちにはなれたが、母の高い声は頭痛に響いて満足に動けなかった。

 その頃は学校入学時を比べ体重が十kgほど減少し、半月ほど水とアイスとゼリーを飲食し食事を作るだけの機械になっていた。幸か不幸か、頭痛以外の体調不良はなかったので問題はないが、真似はしないでほしい。
たまたま、奇跡的にも、短い期間であったから生きているだけであって、これ以上長く続いていれば確実に死んでいただろうからだ。
 時を学校を辞める前に遡る。その頃から私は寝て起きて食事を作ってまた眠るを繰り返していた。
そして、いつまでもそんな私を見ていられなくなった母は、私を心療内科に連れていくことにした。
まずは母の知人から勧められた2つの心療内科から行ってみようということで、まずは1つ目の小綺麗な心療内科へ行ってみた。
 待合室ではヒーリング効果の押し付けのような音楽とアロマで頭痛は酷くなり、診察室では高圧的な態度の医師から一方的に質問を浴びせられた。
ここに通える気がしない、と母に帰りの車の中で打ち明けると、母は「医師の顔が嫌だ」と言って賛同してくれた。その理由はどうかと思うが、ここに通わされるよりはマシだと思い黙った。
 2つ目の心療内科は大きな病院の中にあった。受付で名前を言い、近くの椅子に座って名前を呼ばれるまで待つ。
テレビの声が少し賑やかだが、そこで待っていた人々は穏やかな様子で待っていた。しばらくして、初老の医師から名前を呼ばれ診察室へ。
 向かい合った医師の顔を見てとても驚いた。亡くなったばかりの大好きな祖父にそっくりであったからだ。
思わず泣き出してしまう私に少し困惑した医師だが、母からの説明を受けて快く納得してくれた。
 私が落ち着きを取り戻し、まず始めに行われたのは口頭での検診だ。どれほど精神面に傷を負ったか、体調にどの程度影響が出ているかなどである。
当然、頭痛の事を告げると目の前の医師は私の方を見て称賛の言葉をかけた。
「よく頑張ってるね」
「私にはとても無理だ」
その言葉を聞き、一番喜んだのは母だったのは言うまでもない。
それから和やかにカウンセリングも済み、母はここに毎週通うように言った。私もここなら大丈夫そうだと思い、精神を通常に戻せるように努めることにしたのである。
 医師は私と同じような趣味を持っており、中でもサクラ大戦の話は盛り上がった。私はすみれ様が大好きで、医師は帝国花組の箱推しだと語っていた。
 何か夢中になれること、感動することを見聞きするのはとても良いことだと言って、サクラ大戦の帝国歌劇団の舞台DVDを焼き増ししてくれたのをよく覚えている。今でもそれは大切に持っており、観る度にやはりすみれ様がトップスタァだと染々と思う。

 しかし、癒されるものが増えても現実の悲惨は変わりはしない。何もかもが変わらず、そしてそれらは今も続いている。
ただ、あらゆるものを受け流せるようになったことは大きな一歩だと思う。他人に対して極端に無関心になったとも言うが、私にはこちら方が良いらしい。
 大切な人間だけを丁寧に深く接し、それ以外の人間は必要最低限で済ませるという考え方だ。加えて、大切だと思っていた人間でも失望すればそれの扱いは赤の他人と同じになり、1週間もしない内に声も顔も忘れるようになった。
 おかげで、余計なことを考えずに済み、これまで以上に創作にのめり込みことが出来た。

 アイス以外も口に出来るようになった頃、小学生からの友人から久しぶりに連絡が来た。中学3年の時の担任から私を連れて学校に来てほしいというものだった。
正直、なぜ教員から二人とも呼び出されたのか理解出来なかったが、その友人が言うには「私はaの保護者だから!」という事らしい。この言葉に私は友人を失望した。
 私にとっての保護者というのはこれまで書いてきた通りの人間たちの事であり、それらと『友人』だと思っていた人間が同類であると宣言したのだから。
 そうして内心の心変わりを押し潰して共に母校へ行き、呼び出した教員から言われたのは以下の事柄だ。
「なぜ辞めたのか」
「学校に何か問題があったのか」
というものだった。疑問に思った私は訊ねた。
「なぜそれを聞くのですか?」
「今年の受験生に助言する為だ」
相変わらずの上から目線で告げる教員に対し、私はこう答える。
「何もありませんよ」
怪訝な顔をされたが、すぐに納得したような顔をした。恐らく中学時代の成績を思い出していたのだろう。
的外れな結論をした教員は次にこう訊ねてきた。
「これからどうする」
当然ながら、私はまだ炒り卵を作り続けているような精神状態だ。そんな人間が自分の将来を決められる筈もない。
「1年療養します」
それだけ答えて帰った。目の前の教員と友人には私の精神状態や頭痛に関しては全く言わなかった為、少し滑稽に思われたことだろう。
私は性格が悪い人間なので、自分にとってどうでも良い人間に語る気はない。きっとこれからもないだろう。

 それからしばらくして、固形物を食べれるようになった頃。母は私を連れ回すようになった。
要するに、人形とお茶会ごっこをする子供と同じである。
元気を取り戻しつつあった私は、出掛ける時に皮肉を込めて母にこう言っていた。
「私をこういう風に連れ出せるのはあなただけ」
それを聞くと母はいつも嬉しそうに笑う。頭に花が咲き誇る人間には皮肉など通用しないのだ。



こうして炒り卵は身を寄せあって黄金色の脳みそのようになったのである。

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