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アイヌの歴史13『奈良時代の蝦夷』


平城京

 710年、元明天皇が飛鳥の藤原京から、奈良に平城京を建設し都を移し、その直後に朝廷は、朝廷の元で安定してきた太平洋側の陸奥国の方の蝦夷の族長達に向けて、キミの姓(カバネ)、すなわち領主の称号を授け、編戸、つまり戸籍登録が行われ、口分田という農地が与えられ、租庸調などの税や労役を担うという他の日本人達と同じ扱いが行われた。

 その三年後には陸奥国領内の大崎平野に丹取郡、志太郡、黒川郡、色麻郡が設置され、その後、拡大し過ぎた陸奥国は分割され、石城・標葉・行方・宇多・亘理・菊田を石城国、白川・石背・会津・安積・信夫を石背国、柴田・名取・伊具・宮城・黒川・色麻・志太・丹取を新しく発足した陸奥国とした。

大崎盆地の涌谷城

 この陸奥国の分割は反発を買い、今まで平和だった大崎平野で国司、つまり知事の行政を監督した按察使あぜちの上毛野広人(かみつけのひろひと)が殺害される反乱が発生、朝廷により多治比縣守(たじひのあがたもり)、下毛野石代(しもつけのいわしろ)、阿倍駿河などが派遣され鎮圧を行い、大崎平野を含む新しく作られた陸奥国の領域内では租庸調の取り立てが廃止され、蝦夷への給付金のようなものが出るようになった。

 その後すぐに、石背国と石城国が陸奥国と併合され、陸奥国は元の広大なものに戻り、軍事を司る役所 鎮守府が反乱の抑制のために各地に配置され、現在の関東地方出身で、それ専用の兵隊である鎮守府将軍率いる鎮兵達が派遣された。

 そんな中の724年、陸奥国の海岸一帯で、どういった経緯かは不明だが、陸奥海道の蝦夷の反乱で国司の佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)が殺害され、藤原宇合(ふじわらのうまかいら)が鎮圧にあたった。

多賀城
大野東人

 その数十年後の762年、按察使(あぜち)と鎮守府将軍を兼任していた大野東人(おおののあずまびと)により、新たな陸奥の支配の拠点として多賀城が建設され、国府や鎮守府として機能し始め、その支配はより盤石なものとなり、それから半世紀に渡って蝦夷と朝廷の衝突は全く起こらなくなった。

秋田城

 また、734年には出羽国の拠点となっていた庄内平野の出羽柵(秋田城)が、港町として朝廷と蝦夷を繋いでいた秋田へと移設され、秋田と多賀城を結ぶための道路が藤原麻呂らによって建設され、藤原麻呂らが拠点の城柵の警備を行うと、大野東人は東北全体に道路を建設した。

 しかし、当時の日本と新羅では天平の疫病大流行という豌豆瘡(わんずかさ)、つまり天然痘のパンデミックが起こっており、特に当時の主要都市が存在した西日本は壊滅的な被害を受け、100万人以上が死亡、政権を担っていた藤原不比等の息子達、藤原四兄弟が全滅し政治が崩壊、農民が多く死んだ事で食料が足りなくなり飢饉が発生するなど国は半ば壊滅状態となったため、工事は中断された。

 藤原四兄弟死亡後、橘諸兄政権により行われた復興の中で、軍団が廃止されるが、東北では城柵の警備のため軍団や鎮兵の制度が残り、大野東人の後任である百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が陸奥国を主導した。

 軍団の廃止が行われていた全国で、再び軍団制度が戻されると、陸奥国では更なる軍の増強が行われ、その後には百済王が小田郡という小さな地域で金の採掘を行い九百両、正確にはわからないが数十キログラム単位で朝廷に献上、数年間、陸奥国の税は免除された。

東大寺盧舎那仏像

 当時、天然痘のパンデミックや、大陸からの防衛拠点である太宰府で藤原広嗣の乱が発生するなどの社会不安のため、首都の奈良で東大寺盧舎那仏像、所謂奈良の大仏が作られ始めており、多賀城よりも北の地域では金が税として取り立てられるようになり、この金は大仏が出来上がった後も納められ続け、疫病で崩壊した経済の立て直しや海外との交易に用いられることとなる。

伊治城跡

 759年、辺境の防衛強化の影響で、陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城が建設され、その中で1690人の服属し俘囚となっていなかった蝦夷が朝廷の支配下に自らやってきたと記録があり、これらの城の建設により朝廷との関係についてなど、蝦夷達の中で何らかの揉め事が発生したと考えられる。

 767年には栗原郡に異例な速度で伊治城が建設され、おそらくこれは遠くの朝廷が建設を行なったのではなく、現地の蝦夷達が建造したためであると考えられ、軍事についても蝦夷達の保持する武力が常備軍として機能していた可能性が高いとされる。

 また、同じ時期には陸奥国の税が朝廷に送られる布などから、蝦夷への給付に当てられる狭布や穀物といった物や、蝦夷の生産する昆布、砂金、馬、鷹などへと変わっていた。また、この頃には朝廷領内の蝦夷を表す俘囚という身分はほぼ無いような状態になっていた。

 3920人の北東北の俘囚が今は俘囚として扱われているが元々は日本人だったなどと訴え、これにより3920人全員が公民、つまり日本国民として承認され、おそらくこの時訴えにやってきた人々は各家庭や村の代表者であるため、実際には万単位で北東北の俘囚が他の日本国民と同じとされた事になるという事も発生している。

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