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作り替えてきた【Chim↑Pom ナラッキー 感想】


同行者を募る

突然夕方の3時間ほどが空いた。
そういうことはたまにある。仕事の都合が急になくなったり、家事の予定が急に変わったり。

行きたかった展示、期間中に行けないと諦めていたのだけれど、唐突に時間が空いたものだから迷ったけれど行ってみることにした。

向かったのは新宿歌舞伎町、王城ビル。
9月あたまから10月1日までの展示だったのだけれど、場所柄もあって、国立西洋美術館に行く予定みたいに、家族共有のスケジュールアプリに堂々と書き込めるものでもなかった。半ば諦めていたら、15日までの会期延長がアナウンスされたので行ってきた。

Chim↑Pom のことはうっすら認識はしていて、あの歌舞伎町の新しいビルのオブジェとしてゴミの塊みたいなものを設置した前衛芸術家集団、ポップでキャッチーでお金が取れる感じの展示が多いみたい、というくらい。空間、インスタレーションを見るのがあまり得意ではない。どちらかといえば、自分より小さいものを、限界まで近づいて、とっくりと眺めるのが習い性。そんなわけで、積極的に追ってはこなかった。

この度行きたいと思ったのは場所が歌舞伎町、王城ビルだったからに他ならない。体調を崩してほとんど家から出られなかった一年あまり前、横たわりながら、廃墟や謎の施設をあつめたサイトを眺めていた。こんなに行きやすいところに変な建物があるのかと記憶に残ったのが王城ビルだ。車なんか運転できないから、サイトに掲載されたほとんどの建物は私にとってはまさしく異界。その中で王城ビルは、かのナルニア物語における自宅のクローゼットのように、身近な場所に入り口を開いていた。かのサイトによれば昭和40年代にはそこにあり、むかしは名曲喫茶だったという。灰色の雑居ビルの最中の、オレンジのお城。

とはいえ元気になってからはすっかり忘れて、そのすぐ近く、新宿近辺で遊び回っていた。この度東京を離れることが決まったのもあって、再び思い出したのだった。人間、雪の国に繋がるクローゼットのある家に住み続けられるとは限らない。

予約不要で良かった。観に行きたい、今日行けるかもとSNSで騒いでいたら同行者が見つかり、ビルの前で待ち合わせる。

「暗殺者みたいな恰好でいきます」

そう書き送ってきたその人の黒ずくめの服が、妙にビルの古びたオレンジ色に合っていて、誘ったのは私なのに主導権を取られたような。一人ではあまりこういった展示に来ないという同行者。「お祭りが苦手」というその人が苦手なのは、人込みなのか、それともお客さんという立場で参加することなのか、ふと気にかかる。

観覧料を支払うと、簡単な地図を見せられる。このビルの隣には神社があって、ルートに入っている。言われるまま参拝に行き、小銭を投げ込んで手を合わせる。祭神は弁財天。彼女がつかさどる様々なもの、芸術、財運、学問……雑多な欲望の集まる街を象徴するみたいだ。私が願ったのは「芸術を手放さないですみますように」、もしかしたらもう手放しているのかもしれない遅すぎる願いだ。隣を盗み見ると、同行者はわたしより先に目を開けていた。何か祈ったのだろうか。


歌舞伎町のど真ん中

ビルの裏口らしき場所から狭い階段を上って、展示スペースに入る。解体しかけのような鉄骨が、所々であらわになっている。目の高さの鉄骨に恐る恐る触れると、大まかな尖りはとれている。触っていいよ、撮っていいよ、ということらしい。何というお客様向けの、親切な。

ところで、歌舞伎町と聞いてイメージすることは何だろう。ドラァグクイーン、LGBT、メイク、キャバクラ・ホストなど夜の街のイメージ、大久保公園と立ちんぼとおじさんたち、きれいなラブホテル群、それよりもっとずっと廃ビルみたいなラブホテル群。

おそらく同じ街を目にした時に、それぞれに理解できるものごとの深さの違いがある。

わたしと歌舞伎町との心理的距離は遠い。物理的には近くて遊びには行くんだけど、あくまでも遊びに行く場所に過ぎないし、なんなら「悪所だから近づくべきではない」と家族に言い含められてさえいる。同じ遊びに来るのでもホストに通う人や行きつけのバーのある人なんかと違って、常時いるわけでもない。働いているわけでもない。どちらかっていうと「新宿紀伊国屋までしか行った事ありません」みたいな顔で、日頃生きている。

同行者はまっすぐ立って、壁に張り付けられた胡乱な柄のシールを見ている。このひとは少し違う。遊び場として使い慣れている。メインのテリトリーでないにせよ、職業の場として選んでいる。わたしよりずっと、この街の夜に慣れている。

展示のテーマは「奈落」。一回に入るとすぐに、地下から天井をぶち抜いた細長い空間に差し伸べられた、桟橋みたいな場所に通される。ここが舞台の高さなら、吹き抜けの地下分、ここより下が奈落なのだろうか。

設置されたサーチライトが真上を向いている。うわあ最後に希望とか与えてきそうだな、いやだな、と、斜めな見方が顔を出す。

展示順に沿って進む。いたるところで投影されている、映像、音声、写真、画像などが、祭りの後の様相をみせる。むき出しの鉄骨が、解体されかかった盆踊りのやぐらに見えてくる。

このビル内で行われたパフォーマーによるパフォーマンスを記録し、その模様を流しているもの。歌舞伎町の街の中で行われたパフォーマンスを流すもの。歌舞伎町について語られたことを流すもの。そこで確かに、パフォーマンスがあったんだよっていう、そこに確かに彼らが生きてたんだよ、というような、痕跡をたどらされる。

展示はあくまでも一過性の「お祭りのあと」、外から見た歌舞伎町のイメージとしてわたしには捉えられた。見て回る観客たち、椅子に座って映像を眺める観客たちの体はどこか所在無さげである。額に入っていない美術を見るとき、人はだいたい、ちょっと斜めになる。こちらを「お客さま」として、見せものとして寄り添ってくる展示に対して、どこから切り取るか攻めあぐねているみたいに。

同行者はまっすぐ立って投影された映像を見ている。この人の身体、ここに存在をしている、とぼんやり思う。


番号表示

作品の一つ一つが見世物として成立しており、観客に妙に寄り添ってくるな、と思いながら巡る。

ある一角には、「デコ電」のような空間が出現していた。きらきらのラインストーンで、平成ギャルのケータイのごとく家電がデコってある。天井からキラキラビーズのネックレスのようなものが何本も垂れ下がる。ギャルの友人の部屋の入り口に下がっていたのれんの親戚っぽい。ケータイと違って、持ち運べないことがたぶん大事なところ。この場所にかければかならずこの場所で電話が鳴るのだ。廃墟だから鳴るだけ、留守電メッセージが流れるだけなのだけど、かければ必ず鳴る電話番号がこの世界にいくつ持てるかがにんげんのつよさなのではないか、なんて気もしてくる。電話番号が書いてあるギラギラしたシールが、その場にめちゃめちゃ、ちょっと尋常じゃなく貼ってある。かけて、かけて、かけて。

おずおずと電話をかけると、繋がる。

自分のスマホのまったく見慣れた番号が、異様にデコられた画面に表示された時に、このデコラティブな世界に入ってしまった!というような、いうなれば「プリキュアなりきりセット」を着用した瞬間みたいな感動がある。「ここにいるよ」という甲高い女の声のメッセージが、自分のスマホからも展示されている家電(スピーカー設定最大音量と言った風情だ)からもけたたましく流れる。

すごい、寄り添ってくるじゃない。この街の人じゃないんだけどわたしは、と、その許容っぷりにたじろぐ。それはそれで楽しかったんだけど、ある種の「外部だからこそ受け入れられている」というか、観光客向けのウェルカムジャパン!に近いものを感じて、抱きしめられているのにこちらを見ていない女とうっかり抱き合ってしまったような。

受付で渡された資料を手繰れば、「もしもしチューリップ」と名付けられたこの作品は、歌舞伎町の街で不特定多数に王城ビルの電話番号を拡散しているらしい。「待ち受ける留守電までを含めたパフォーマンスである」と解説があった。ギラギラしたシールは確かに、電柱や雑居ビルの壁に無造作に貼られているそれと近いデザインで、意識されているのは往年のテレクラの案内だろうか、それとも丸められた歌舞伎町的なるもののイメージなんだろうか。


手を加える

さきほど「祭りの後」の感じがする、と書いたが、特に「痕跡」であるということを感じられた作品がある。

「顔拓」。魚拓みたいなかたちで、ドラァグクイーンの化粧を透明のテープで写し取ったもの。楽屋の張り紙や公演関係の書類の裏紙に張り付けられたそれらは、人に見せる予定もなく、取っておかれていたものらしい。まずそれをそんなにたくさん続けられていることに一つの強いこだわりを感じる。顔・顔・顔の痕跡が狭い部屋の中に、ジブリ映画に出てくる洗濯もののごとくたくさんつるされていて、圧迫感がすごい。

個人的に、あまり化粧が得意ではない。つけまつげ、と言われて思い出すのはきゃりーぱみゅぱみゅである、くらい。つけまつけまつけまつげ。

顔のご本人による、なぜこれをやっているのかのメモがあって、同行者が熱心に眺めていた。魚拓における魚側の脳みそを捌いて見せてもらう気分。それでいうと、釣ったのも本人なんだけれど。

同行者の横からのぞき込む。

「自分が、自分になるために、役割を果たすためにどれだけ手を加えたのか?そこにうつるのは覚悟」。

うわぁ、わからない。わたしには自らを作り替えるのにひどく苦手意識がある。書いてあることでかろうじてわかったのは「つけまつげが魔法」、ってことくらい。作り変えないといけないくらい現状がしんどかったのか、と横から眺めることしかできない。

同行者がしみじみ頷いている。手を加えないと、変わらないと生きて来られなかったという切実さ。ぎゅ、と詰まった厚みのようなものを感じる。

本当にわからなかったので、この展示に入って初めて、突き放されたような気持ちがした。ちょっと清々しいような、わからないことをわからないでしょって出されるのって、ちょっとさわやか。無理に「わかるよ」って言わなきゃいけない、相手に「わかるよ」って言わせちゃう、みたいなのって疲れるものだから。寄り添わなければいけない、人の仕事の愚痴にうなずかなければいけない瞬間にこの風を吹かせたい。

少なくともこの場の、この狭い「顔拓」の展示室の中の主人公はいま、わたしじゃなくてこの人だなぁ。

それがちょっとうれしかったし、同時にちょっと怖かった。


受け入れ不可能

作品から作品をたどり、階段を上る。奈落をのぞく1階のあたりからスタートして
階段を上っていく。余談だが、廃ビルは整備されているとはいえ薄暗く、おっちょこちょいのわたしはだいぶ転びそうだった。

だいぶ上の階に、1フロアを使ったカラオケボックスがある。ボックス?バー?足を踏み入れたときは、YOASOBIの「アイドル」が流れていた。ちょっとかわいい女の子が歌っているのが廊下から見えた。歌うのが、見世物になるのが観客、というのはだからもう、究極の受け入れ、許容、だと思う。展示の側からの。だって、参加できちゃうんだもの。

ただ、その受け入れを、我々は受け入れられなかった。迂回しようか?できないね?みたいな相談をした。わたし、見ることは得意だけど、聞くのはあまり得意ではない。大音量に耐えられないタイプ。ぎゃんぎゃんに音が割れた、フル音量の、あんまりうまくない声で歌う一般女性の歌声……だいぶきつかった。部屋内のディテールを見られないまま早々に抜けた、座ってみるとかできなくて、こんなに受け入れられる場所が用意されているのに、と、「自分が向いていないこと」への罪悪感すら感じた。座って聞いて楽しんでいる人も、歌っている人すらいるのに。

夜のネオン街に遊びに繰り出すのが得意ではないことと、繋がるような、繋がらないような。持ち帰った資料によるとどうも、観客はここで「歌い放題」だったようである。


映えてたまるか

カラオケにやられてしおしおとしたまま、屋上に出る。

奈落の底で真上を向いていたサーチライトの光の続きが、ぶち抜かれた屋上を通過し、曇り空にまっすぐ突き刺さっている。ビルに入ったのが夕方だったから、景色はもうすっかり夜で、「歌舞伎町って言ったらこれ」と十人に十人がうなずきそうな雑多なネオンの景色の中に、サーチライトがまっすぐ空へ……みたいな。

ここにきて、奈落と対比して用意された「舞台」の高さは屋上だったのか、と気づく。ここより下はすべて奈落。全て準備、アンダー、代理、痕跡、そういうようなもの。

感動させてこよう、みたいなものを感じてしまう。それまでも撮影OKだったはずなのに、なんかそれまでとちがう。みんな、そこで展示を撮るのではなく、自分たちを入れた記念撮影なんかをしている。

歌舞伎町への、また、これらの作品群への理解度を問わない、共有できるカタルシス。用意された快感がそこにあった。

「どうですか」

同行者に問われて、

「映えてたまるか、と思う、んですよねぇ」

へらへらと返して、写真を撮らずに屋上を後にしてしまった。ここでまでお客さんになってたまるか、と思ってしまった。お客さん、なんだけどね。あくまでも来訪者、そとのひと、よその人。

まぁたぶん、横で口数少なく作品を見ているこのひとの仲間になりたかったんだろうなぁ、その時は。「変わらないと生きていけない」というようなことを顔拓の展示の時に言われていたので、そしてそれがわからなかったので、このひとがすごく強いものとして見えていて。だから、お客さん向けのギミックに媚びてるところを見られるのが、少し恥ずかしかったんだと思う。

わたしたちは階段を下りて行った。いちど屋上まで行ったからもう終わりだろう、みたいに、油断していたのは認める。階段を降り切ると、地下に降りられるようだった。


DJと捕食

最後に奈落の一番下を通って来いよ、というのがおそらく運営側の意図であろう。地下にはレストランとイベントスペースが備えられてあり、そういえばビルの前にもイベントの案内が貼られていた。

その日はクラブみたいな感じで、ドリンクが販売され、だだっぴろいぶち抜きのフロアにDJが音楽を流していた。また大きい音だよと思ったけれど、耳がいっぱいになるだけでプロの流す音は意外と不快でなく、足を踏み入れることができる。気持ちは多少いっぱいいっぱいになりつつも、美しいものは美しいので、中の展示は見ることができそうだ。

いまはDJブース以外照明もなく暗くてただ広いこの空間はきっと、本来何部屋にも分かれていたものだろう。大きな柱がそこここにあり、わんわんと複雑に音が反響する。反響に脳がやられて、考えられることが減る。

この光の差さない部屋の奥、いま我々の立っている目の前に、ドクターフィッシュの水槽がある。ドクターフィッシュに角質を食べさせて、さらに併設のレストランでそのドクターフィッシュを食べる、ということができるらしい。捕食、にんげんとさかなという群体で見れば、なにか相互性のある捕食。

水槽に手を突っ込む余裕はなかったことを、少し後悔している。


現実、さらに現実

レストランの横にキッズスペースがあった。

作品なのか実際に子供連れで使ってよいものかわからなかったけれど、このビル全体の足元の悪さを鑑みると子連れで回れるとは思えないし、やはり意図の強くある作品なのだろう。ここに連れてこられるだろうか、抱っこひもじゃちょっと上り下りがしんどいし、抱っこひものいらない歳の子がおとなしく見るとは思えないな、などと思案を巡らせる。あ、それに、「子どもが描いたのではない、明らかに怖すぎる子どもっぽい落書き」みたいなものもおいてあったし。なんでああいうのって嘘っぽくなるんでしょうね。

絵本や書籍の置いてある中に「発達障害の子供の育て方」みたいな内容のものがあって、それまで現実を忘れて美術の世界になんだかんだいたのに、急に現実の問題に直面させられたような。ちょっと目が白黒した。


一通り見終わって、王城ビルを出る。空気がつめたい、くたびれた。

「ちょっとお茶、飲んでいいですか」

ビルに入る前にコンビニで買っていたルイボスティーのペットボトルを、神社の前であける。一口ちょうだい、と同行者が寄ってきて、足を軽く踏まれてびっくりした。

このひとは自分を作り込んで強く生きてるんだな、という印象を、展示の中ですさまじく思い知らされていたので。あ、でも、くたびれてしまうと足、踏むんだ。人の足を踏みかねないからだをもつ人が作り込んできたのが、今のこの人なのか。

薄赤いルイボスティーを飲む喉がこくり、と動く。人の生活や人生の重なりはただ美しくて、たじろぐことしかできないのだった。


展示情報

ナラッキー Na-Lucky ChimPom from Smappa!Group

会期:2023年9月2日(土)〜10月15日(日)火曜日休館
会場:王城ビル(歌舞伎町1132)
企画:歌舞伎町アートセンター構想委員会、Chim↑Pom from Smappa!Group
主催:大星商事株式会社、Chim↑Pom from Smappa!Group、Smappa!Group
共催:ANOMALY
協賛:東急歌舞伎町タワー 、元気キッズ
エイベックス・クリエイター・エージェンシー株式会社

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