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赤字だった塗装工場を黒字化させるまでの道のり①

それは1本の電話から始まった


その話は、1本の電話から始まった。
当時私は、中国の東莞市の工場にいました。当時の日本と中国の社長どうしの話し合いで自分が技術者として派遣されていました。やっていたのは同時中国の工場で生産していた携帯電話部品の立ち上げ支援です。そんな仕事もそろそろ1年が過ぎ終わろうとしていました。
11月も後半になり、熱帯地域も少しは涼しくなり、真夏はいなかった蚊が飛び始めており、蚊取り線香が無いと寝る事も出来ない季節でした。
そんな時にこの電話がかかってきたのでした。
相手は日本の会社の上司 井上部長でした。
「そろそろ帰ってこい。もうそっちの仕事は終了だろ、日本の工場がやばいんだ」
終了報告はまだしていなかったのですが、情報は通っていたようだ
「帰れと言われても社長どうしで決めた事ですから、そちらで何とかして下さい」自分はそう答えた。
(日本の工場に問題があるか・・・)
実際メールでは、関係者から連絡が入っていたので、状況は何となく判っていた。トラブルが発生しており、混乱しているような事は伝わっていた。また、関係者から時折相談毎が入っていたので、それに対するアドバイスをしていました。どちらにしても現物が見れないため、状況が良く判らないものの方が多かった、そんな中の電話であった。
それから、数日が経ち日本への帰還命令が出て、はれて中国の工場の日々が終わりを告げました。
1年ほどの滞在でしたが、気分は5~6年はいたような感じでした。そして日本への帰路につくのでした。

いざ静岡工場へ

日本に帰ってきてから、滞在時の精算や業務報告書の作成など雑務をこなしました。
そんな中、中国に旅発つ前に引き渡した仕事が何かトラブルが発生していると報告を受け、量産工場の出向く事になりました。
量産工場では、不良が多発して困っているとの事で、生産条件を確認した。そうしたら、試作時に利用していた機械とは別の機械を利用しており、それが原因だと判明、もとの機械にもどしただけでトラブルは1日で解決した。生産工場は同型の機械であったが最新の機械が良いと思い、そちらで量産を開始したとの事であった。生産条件の微妙な違いが問題発生の原因となっていたようです。実際自分が出る必要は無かったのではと当時思っていました。
そして、日本に到着して約2週間が経ちいよいよ本丸の静岡の工場に出向く事になりました。
(ああ1年ぶりか)
中国へ旅発つ前に、工場に来たのが最後でしたので本当に久しぶりでした。
工場の入口を開けて、驚いたのは人が大勢いた事でした。
人・人・ひと・・・
圧倒される位の人の数
後で知りましたが、当時の社員数は200人を超えていたようです。
もともと中国へ行く前は30人ほどしかいない工場でしたのでかなりビックリしました。
現場をひとまわりすると
何人か知った顔が
「小島さん 帰ってきたんですか~」
「おっ もう帰って来ないと思っていた」
と好き放題の声がかかった。
現場を見るとニッパを片手でなにやら、作業をやっている人が大勢いたりと
工場の中を30分ほどかけて見学をして、2階にある事務所に上がった。
すぐに会議室に通されて現状を知る事になった。

驚きの事実が判明

工場の中を一通り見た事もあり、製品トラブルが発生している事は判っていたのもあり、何を聞いても驚かないだろうとその時までは思っていました。だが、その後の報告を聞くと、本当の事ですかと聞き返したくなるよう内容でした。
訪問時は、既に12月に入っており、あの電話から既に2週間経過していました。
そのため最初に聞いたのが、工場の決算報告でした。
12月に入っていた事もあり、11月の決算報告が出ていたのです。
11月の決算報告を見てあいた口が塞がらないとはこの事ではと思いました。
売上げ規模は、携帯電話事業が好調なのもあり、2億円ほどでしたが、その一方で、損益がマイナス5000万円と異常としか思えない状況だったのです。
先ほど現場を観察しましたが、納得するような結果かもしれません。

その後のさらに驚くべき話として、当時の工場長が失踪したとの事でした。
この問題の多い中で、何で総責任者がいなくなるんだとは思いましたが、
当時は、他人ごと、自分の責任の範疇でもありません。
とりあえず、自分のミッションを熟さなくてはと、直ぐに頭を切り換えました。

現実の問題

次に工場で作られていた製品毎の総益計算書を見せられました。
当時、工場で生産をしていた商品数は50部品を超えていました、その商品毎に損益計算書がつくられており、見やすかったのはありますが、すべての商品が赤字部品でした。

また、すべて外観製品でしたので、検査データーを見ても惨憺(さんたん)たる状況となっており、商品によっては30%程度しか良品が取れないような状態となっていました。
本音から言えば、もう辞めたらと言いたい状態でした。
この金額の対策は並大抵では出来ないと思ったからです。

再び現場へ

その後、再度工場見学をする事になりました。
今度は、当時の副工場である安本氏の案内で、現状の問題説明を聞きながらの見学です。
先ほどは 軽く工場の中を見ていましたが、説明を聞けば聞くほどに、頭が痛くなるような感じでした。
つい2週間前にいた中国工場よりもかなり、レベルの低い状態だったからです。
一通り、工場の中の見学を行い再度、会議室にもどって来て、一言、私は発しました。
「それでは何を行えば良いのでしたょうか」
それを横で聞いていた、上司の井上部長から
「全部」
それを聞いた自分は、さらに頭が重くなりました。




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