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エッセイのようなもの(夢)

 わたしと夢の関係についてつらつらと書き連ねたいと思います。乱文になるかも。

 そもそも、わたしは直近まで夢というものを重くとらえずに生きてきました。たまに悪夢を見て怯えながら起きたり、面白い夢を見て笑い声で起きたり、その程度。しかし、昨年の冬くらいから夢を書き留めるようになりました。場所は主に登校中の電車の中。きっかけは覚えていません。多分、昔読んだフロイトの思想を解説するマンガのことを思い出し、流れでフロイト自身をWikipediaか何かで調べたのではないかと思います。あと去年はALTER EGOというゲームもしていたのでそこからまた深層意識とか自我だとかの分野に興味を持ったんじゃないかと推測。
 話は別に逸れていません。
 夢は抑圧された意識が昇華される場所、とかなんとか聞いたものですから、面白くなったのです。実際何か分析できた訳ではありませんでしたが、それでも夢を集めるのは楽しかった。いつの間にか夢を集めること自体が主目的になっていました。
 しかし、起きたその瞬間、「現実」で呼吸するその瞬間から、夢は風の前の塵のように散っていきます。それを通学中の電車の中で記録しようとするのは無謀なものでした。
 今年の始め、年が明けて一週間、わたしは無印良品のメモパッドを買いました。めっちゃ安かった。二百枚とかあった。それと一本のボールペンを枕元に置いて、夢を見て起きる度に明け方の薄明かりの中で必死に書き付ける生活が始まりました。
 さかしまなわたしは、ここでもう一つの目的を見出だしました。創作のネタにしようと思ったのです。
 わたしは絵と小説をかきます。小説を書いていて行き詰まったとき、今までそれを打破するものはありませんでした。アイデアが浮かぶまで待つか、強行突破するしかなかった。そこに夢というマジックアイテムを入れようとしたのです。
 結局のところ、そちらはあまり成功していません。この間、いまいちだった素案に夢を二つ混ぜて短編を書きましたがその程度です。そもそも、二つ飛ばしで進んでいく夢のロジックを現実の明瞭な思考に適用しようというのが無謀なこと。なんとも描写しようのない景色に出会うことだってありますし。
 話が逸れました。失敬。
 この辺りから段々、わたしと夢の関係が変わっていきます。今までは断片的な映像でしかなかった夢が、徐に実体を持って立ち上がるように感じました。夢の中のわたしが、もう一人の自分であるかのように思われ始めました。
 今、これまでの夢メモをざっと読み返してみました。面白いです。流石に思い出せないものもありますが大半は記された文章化あるいはキーワードから導くことが出来ました。
電車の中で尊敬する劇作家に未発表の作品を見せてもらったり、雪降る夜に村に閉じ込められたり、テロに巻き込まれながら別の世界線に逃げ込めたのにうっかり警告を発してしまい時空が繋がって皆殺しになったり、かといえば誰かに一生愛してもらえたり、わたしを庇って大好きな先生が死んだり、ショッピングモールで迷った挙げ句学校の駐車場に出たり、……。
 波瀾万丈ですね。自分だったら絶対やだなあ。(笑うところです)
 夢の中の自分の言動が気になり始めたのは、どうやら現実のわたしとは異なったバックグラウンドを持っているらしい、または、向こうでも現実を意識しているらしいと分かってからのことです。そして、「夢の中の自分が現実のわたしと違う経験を持ち始めているのが怖い」と思うようになりました。
 例えば、わたしは夢の中で同じ場に居たひとびとに「夢から覚めても覚えてられるよね」と話し掛けました。例えば、わたしはだだっ広い灰色の道路を走るバスの中で「違う記憶を持っていることがつらい」と吐露しました。
 率直に言って「ふざけるな」という気持ちでした。夢の中のわたしが何を経験しようとも、現にこの世界で記録として残り続けているのはわたしです。奴ではない。
 何より癪に障ったのは、奴がたびたびわたしより幸せなシチュエーションに置かれることでした。家族のしがらみも、学校での煩わしい人付き合いも、世間からの向かい風もなく、好きな人と好きな景色と満ち足りた気持ちと共に生きる、そんなわたしをしばしば夢の中に発見しました。とにかくこれが癪でした。あまつさえ、先日見た夢の中でわたしは、快適で機能的な住まいで、好きな勉強だけして、友達に向かって「最近は幸せだよ」と笑ってさえ見せたのです。
 当て付けなんでしょうか。わたしがもがき、苦しみ、こどもながらに思慮を積み上げていることに対する、反撃なのでしょうか。
 眠りは小さな死だ、と聞いたことがあります。それならば、夢を見るわたしは死後の世界を垣間見ているようなものなのでしょうか。そうすれば、夢を見るわたしは生きていて、夢の中のわたしは死んでいるということになる。
 今分かりました。わたしは死人に羨望を燃やし、現実の肉体を浪費しようとしていたのかもしれない。ナンセンスなことです。どうぞ鼻で笑ってください。
 宗教に縛られない死後の世界があるとしたら、それはどういうものなのでしょうか。その在り方は天国に近いのか、はたまた地獄に近いのか、それとも現実を鏡写しにしたようなものなのか。
 そこが、連続性に欠け、幸福と辛酸を交互に味わい、曖昧な道を歩いていく、わたしの夢のような場所なんだとしたら。
 わたしは現実を選びましょう。現実で生きましょう。今日は昨日から引き継がれ、今日のあとには明日が待ち構え、一月が、一年が巡り、精神の地層が積み重なる、確固たる世界でわたしは歩いて行きましょう。
 わたしは夢の中の自分を妬みながらそのくせ夢を見るのを楽しみにする、そんな一貫性の無いような人間です。そこにいる間は甘美に浸れる死後の世界行きの切符、今日は切ってもらえるんでしょうか。

楽しいことに使います