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エッセイのようなもの(愛)

 わたしは恋をしません。幸いにも修学旅行の班はいつも「恋バナ」をしないメンバーと一緒でしたから、そんな話をしたというような甘酸っぱい思い出もありません。


 「恋をしない」というのは、人を好きにならないという意味ではなく。人のことは好きになりますけれど、「好きになる」という言葉の定義すら世間とは違うのです。
 これまでわたしはわたしの言う「好き」と世間一般の「好き」のずれに悩んでいました。恋愛感情を抜きにした、純粋な好意と好奇心のまぜこぜになった気持ちをどう表現すべきか考えた結果が、「好ましさ」という単語です。
 わたしは友愛と恋愛の区別をつけません。わたしにあるのはただ一つ、「相手がどれだけ自分にとって好ましいか」という基準だけです。その一本の物差しの上に皆さんは立っています。いわゆる「推し」も例外ではありません。だから、好ましさが高じた相手は総じて恋愛対象ではなく信仰対象になります。「この人のためなら殉じてもいい」という意識は「恋」と言えますか? 少なくともわたしはこの問いに首をひねりました。
 恥を恐れず言うならわたしの「好き」は「愛」です。ただただ相手を精神で好きになるのです。
 今この世に三人だけ、殉じてもいいと思える、信仰対象に近い存在の相手が居ます。わたしが能動的に身を挺したいと思う人たちです。決してわたしに守られるような弱い人たちではありませんが、それでも彼らの辿る道に苦難がないように願ってしまうのです。仲のいい友人たちはどうなのかと言われれば、やはり自己犠牲を為してでも守りたいと思っています。その動機が信仰でないというだけです。
 さて、話を戻します。三人には、時期こそバラバラですが、面と向かって「あなたはわたしにとって好ましい存在である」ということを伝えました。それを受け入れられたとき、三回ともわたしは深く安堵しました。行く先に恋愛の待ち受けていない関係を言外に肯定されたような気がしました。
 「好きな人、いる?」と聞かれればわたしは「たくさんいるよ」と答えるでしょう。性別や年齢を問わず好ましい相手はたくさんいますから。それに関してわたしは幸せの中に生きていると言えましょう。
 色恋沙汰に理解が及ばぬなら、結婚に考えが及ばぬのも摂理かもしれません。人生のパートナーが居たらきっと幸せでしょうし、生涯を誰かと添い遂げるのも甘美ではありますが、それが必ずしも結婚に結び付く必要があるのかと思ってしまうのです。
 その理由の一つがわたしの性自認です。わたしはノンバイナリー。性別の枠にとらわれずに、自分として生きたいと思っています。そしてわたしが男性でも女性でもない以上、好きになる相手を「異性」や「同性」と考えることもありませんから、自然と人間愛のようなことを言い出すのです。カレカノも夫婦も親子わたしの人生にはありません。
 わたしの愛は一方通行です。相手が何かレスポンスをくれればそれは至上の喜びとなるでしょうが、わたしはそれを期待していません。勝手に人を信じて、勝手に「裏切られた」なんてわたしが言うのは白々しいことでしょう。
 自己満足で、充分幸せなのです。

楽しいことに使います