エッセイ(大人になったかもしれない)

 大人になったのかもしれない。

 最近、そう思うようになった。もちろんこれは年齢の話ではなくて、お酒が飲めて煙草が吸えて車に乗れて年齢制限コンテンツにアクセスできてたくさんの面倒な手続きに追われるようになったということでもなくて(関係ない話だけどぼくは煙草にも車にも縁はない)、生き方というか振舞いの話だ。

 ぼくは割と、幼い頃から「大人っぽい」と言われることが多かった。特に、思考や喋り方についてそう評された。単純な話で、末っ子として生まれた上に家族とも結構歳が離れているためにロールモデルが豊富だっただけだ。つまり、ぼくは「なんとなくそれっぽい」雰囲気を出すことで「大人っぽい」という印象を与えていたといえる。

 ぼくは基本的に世話を焼きたがるタイプである。といってもお節介焼きというよりは有り体に言えば困っている人を見過ごせない性質で、小学生の頃はクラスの子に算数を教えていたし、中高時代も教室の掃除をしたり黒板を綺麗にしたり気紛れにお菓子を配ったり、係決めがなかなか終わらないときにさっさと引き受けてしまったり、周りの人の悩みを聞いたりしていた。
 でもこれはぼくが「大人」だからじゃなくて、ただ手助けをする基準がガバガバだっただけだ。上述の「困っている人を見過ごせない性質」も他人からの好意的な評であってぼく個人の認識は違う。ぼくは合理的に、「そのほうがよくね?」のただ一点ですべてを行ってきたと言っても過言ではない。
 困ったままよりは困っていないほうがよくね?
 汚いよりは綺麗なほうが自分にとってもクラスメイトにとっても教員にとってもよくね?
 ぼくは道徳的に正しいことをしようと思っていたわけではなくて、自分に得を生む行動をして、結果的にそれが道徳的に正しくて周りにも利益が発生して自分の評価も上がるものになればいいと思っていただけだ。大学に入って履修した授業で功利主義の存在を知ってめちゃくちゃ頷いたのは別の話。

 つまり何が言いたいかというと、この頃のぼくはまだまだ子どもだったということだ。確かに周りよりちょっと精神年齢が高くてちょっと賢くてちょっと視野が広くて思慮深かったかもしれないが(これくらいの驕りは許してほしい)、誰かが回してくれる社会にフリーライドしていた。この「誰か」という考えがポイントで、社会に対してその構成員であり責任を持つという当事者意識はまだ育っていなかった。両親はぼくの学校生活を経済的に支えて勉強ややりたいことに集中させてくれたし、学校の先生は学習相談や進路の悩みに寄り添ってくれた。何かをしてくれる、あるいは何とかしてくれる大人の存在があった。

 一人暮らしを始めて、今年で二年目になる。身の回りのことを本当に自分でやらないといけないから大変だけど、自由でいい。今も夜更かしをしながらベッドでこれをタイプしている。一人の時間が増えると自然と内省的になってあれこれ考えるようになるが、この「大人とは何か」という自分なりの分析もそういう時間にまとまった。

 「大人になる」という瞬間はないと思っている。でもその代わり、「大人になった」という実感はあるかもしれない。あるかもしれないというのは、ぼくが「大人」というものを年齢によって切り替わるライフステージの一つというよりも精神的な成長の一環であると捉えているためだ。
 大人というのは、単なる成人ではなくて、思慮深い言動や、周囲への気配りや、子ども(あるいは自分よりも幾分か若い人たち)を考えたことを自然と出来るようになった、精神的に余裕のある状態・振舞い・もしくは現象のことだとぼくは定義している。

 ぼくは大学に入ってからずっと教育系のアルバイトをやっている。下は年中、上は高校生までという幅広い年齢層の生徒と接して、初めは子どもの視点で共感を持ちながら働いていたが、最近ふと「自分が子どもの頃だったらこうだったなあ」止まりではなく「だからこそ今ぼくの立場から声を掛けるとしたら何だろうか」と考えるようになっていることに気づいた。最早ぼくは子どもというライフステージの延長線上に居残る者ではなく、子どもだったことのある者となったのだ。

 ぼくは今、子どもたちに対して「この人たちの将来がいいものであるように」と願っている。

 それはそうと、趣味嗜好が変化したのもまた事実である。胡椒やハーブは大好きだし、出汁たっぷりのものも粉チーズも好きだし、苦い食べ物も「食べられる」から「好き」になったし、椎名林檎や東京事変の曲で沁みるものが増えた。
 ぼくが「大人になったな」と実感する一番の変化は上記の精神面のことではあるけれど、こういう細々としたところも変わりましたよという、追記。

楽しいことに使います