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境界線の定義

 カレーの定義って知ってますか。カレー食べてて思ったんですけど、カレーって、どこからどこまでがカレーなんですかね。まあよくあるじゃないですか、なんか右を言葉だけで説明してください、みたいなやつ。あのノリで、どうか、カレーの定義を教えてくださいな。

 カレー有識者によると、カレー好き界隈でも難しい問題らしい。麻婆豆腐をカレーとする人もいるとか。やばいよねー。スパイス効きすぎてるよねー。けどさ、カレーっていろんな味や種類があるのに、全部カレーだってわかるのやばくない?カレー好きがそのゾーンまでいくのもほな納得ですわ。

 そんな感じに、結構この世界の曖昧さってあるなって思って。私が1番謎に思ってるのは、魚の種類って、なにでわけてるの?なんとかアジとなんとかアジは一緒で、サバが違うのってどこなのよ。その間に存在する魚もいたりするじゃん?それに新しく名前を付ける人間の細かさよ。素晴らしいね。

 私は曖昧を愛したいと思いつつ、定義をつけることが好きで。初めてテクスト論に出会ったときは、感動で読む手が止まらなかった。私の思っていた、漠然としていた気持ちに名前がつくことの安心感。
 これ、なんかあれに似てるよね。病名がつくことで安心する気持ち。あなたは鬱病ですって言われて、悲しむ人もいるかもしれないけど、基本は納得と安堵が大きいんじゃないかな。自分のせいにしたくないっていう気持ちの表れなんだろうね。ここから、転嫁を抜いたら、私の気持ちになれるよう。

 同時に、自分の気持ちが一言に表されることへの、悔しさみたいなのも感じた。長い間考えていたことは、やっぱり過去に考えてる人はいるもんで。しかもそれが自分より頭がいい人なもんで。超えることはないし、私の考え超えてくるし。私はこの経験から哲学を学ぶことを決心しました。

 実体のあるものには必ず境界線があって、人の目は優れているからそれを離れていても見分けることができます。しかし、映像の中に入れてしまうとまあびっくり。たちまち境界線の実体は存在しなくなります。触れることはもちろん、本当に存在しないのかを確認することもできません。それが、本来の世界なんじゃないでしょうか。というかちょっと皮肉めいてるけど、実体の境界線をなくすことで、ものの境界線がないことを表すっていう。わかるかな、未来にこれ読む自分。わかってほしいな、結構私は納得してるから!これやった方がいいよ!

 やっぱこれめっちゃ面白いな。実体のあるものに境界線があるってのは、文句ないしその通りなんだけど。本来、ものに境界線って存在しないと思っていて。それこそ、カレーもそうだけど、人間がグループ分けしたものって、そこに他のものとのわかりやすい境界線を引かれてしまうけど、そんなの決めたやつが考えただけで、まあ実際に近いものは必ずあるけれど、絶対に同じものはない。この世に、全く同じものは二つないって信じてる。同じ性格の人なんていないし、同じ感覚を持つ人もいない。不思議ですよね、こんなに人間は増えるのに、全くおんなじ人間は生まれないって。
 前に私、私が捌ききれないものは全て無限と呼ぶって言ったかもしれないんですけど、ここだけは撤回。人間は有限でした。

 カレーの定義が何であれ、どこからどこまでがアジであれ、なにより大事なのは、それを曖昧なままにしておくことだと、私は思う。だって全部わかっちゃったら面白くないからね。どんな物語にでてくるIQの高い人間たちも、皆つまらなそうにしているでしょう。宇宙が面白いのは、わからないからって、よく言われてるし。人間が面白いのも同様の理由だと思うし。知ればいいってわけじゃないんだよ。

うまくできているんだこの世界は。

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