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講評会 嫌い 理由

 誰かに評価されるのとか、してもらうのとかって、評価がどうくるとわかっているものであれ怖いことである。ライブで演奏後、目の前で貶されるわけないのに、来てくれた人を前に立ち尽くしてしまうあの感じとか。全部を褒められるわけないのに、期待してしまう部活の講評会とか。評価されることに対して良い思い出をもったことがほとんどない。

 貶すのは簡単で、人間は、だめなところをすごく容易く見つけるいきものだから、ただ講評するってなったら悪いところばかり見つかる。だから講評会っていうのは全部が後出しジャンケンになる(言葉お借りします)。ここはもうちょっとこうした方がよかったねって、言うだけなら簡単で。じゃあ作り直しますか?ってならないことを前提に講評を行う。
 でも褒めるのはもっと簡単で、もっともっと無責任なことだ。どんな世界中の言葉を集めても、褒め言葉が貶し言葉のレパートリーを超えることはないだろうし、とりあえず「良かった」と言えば感想になる。幸せになるには褒める言葉、ポジティブな言葉が必要なはずなのに、その能力の方が低い人類、非常に不器用で愛おしい。

 その上、人と人との結託は、ネガティブな言葉から生まれることも多い。褒め合う関係って、浅いって感じたりするでしょ。私は決して、貶しあう関係が良いとは思わない。でも、貶す対象が同じ人って、簡単に絆が深まりやすいし、なぜか感覚が合うことが多い。

 だから私は、明るいキラキラした言葉よりも負の言葉の力を信じている。多分普通に私が性格悪くて、そう思っちゃうからなんだけど。まあそうだとしても、そういう人がいることは、私で証明されてるわけで。仲良くなりたての人とは、そこの距離が非常に難しい。これからどうしよう。

 他人に何かを評価されるほど、何かに集中して取り組んでこなかった幼少期なので、余計に評価されることに対しての苦手意識が強い。中学の時に写真で賞取ったのも、先生が選んだ写真だったし。確かに撮ったけど、好きじゃなかったしな、あの写真。だからどれだけあれが褒められても、実感とかなかった。

 なぜか高校入ってから、なんかちょっとすごそうな人みたいな立ち位置に跨ってしまった。言葉だけで聞いたら、映像と音楽やってる人ってかっこいいけど、実力伴ってなきゃ意味ないなと思う日々を過ごした。自らを俯瞰で見て、上と比較して、って姿勢を崩さなかったら、褒められても素直に喜べなくなっていた。
 どれだけ映像の知識がない人に、すごいと言われても、顧問にはコテンパンに言われてしまうのなら、褒め言葉なんて言われてなかったも同然だった。なんならマイナス。大損。一個作品作るたびに怪我。大怪我。ガチ病み。って感じ。

 だからいつまで経っても自分の言葉、作品、全てに自信が持てない。自分の行うこと全てに匿名性を持たせようとしてしまう。もし貶されても、隠れることのできるように。という保身の状態、これやばいな。直したい。直すっていうか、変わりたい。変えたい。

 そりゃー自信満々に見せたら褒められますわな。だれも貶さないよ。貶されないことも不安に思ってしまうのよこっちは。全てを褒められるって、おかしいことだから。アンチっているべくしているんだと思うよ(度を超えた発言はいらないと思うけど)。自分ができないこととか、見透かされちゃうこととか、ちゃんと言ってくれる人いないと、間違った状態で走り続けてしまうような気がして。走り続けて着いた先が崖っぷちでも、そこまで来たら勢いが止められなくなっちゃったり。

 自分で気がつけない部分を見つけるための評価なのだから、もちろん言い訳をせずに自分の全力をぶつけなければいけないし、あくまでも自分の中で最高な作品を作り上げなければいけない。だけど私は、作って満足いかないと言い訳するようになってしまう。まあここはああだったから、とか、そこは自分でも気付いてたし、とか。最悪だなー。そんなこと言うくらいなら初めからそうしろよな、まじで。

 人間、分かってて出来ないことが1番苦しい気がする。俺でなきゃ見逃しちゃうね、の人も体食われまくってたのに死ねてないの、苦しそうだったし。そういうジレンマみたいなのが、1番人を苦しめる。
 言いたくても言えない。泣きたくても泣けない。寝たくても寝れない。全部辛い。苦しみたくても苦しみきれない。

 多分、自分で自分を認めてないから、誰かに認められることも、認められないことも同時に恐怖を感じるんだと思う。誰かが自分の代わりに認めてくれる安心感と、自分でさえ認められてないのに認められるという恐怖は同時に存在するし。自分で自分を認められない上に、誰も自分を認めてくれないという恐怖もある。

まずは自分を褒めてあげてください。可哀想な子なので。

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