見出し画像

「天上のアイスクリーム」~ 宮沢賢治 考 ~(無料公開版-全文-)

 文学フリマ等で頒布した宮沢賢治作品考察同人誌の内容を抜粋して最後まで無料公開します。(とはいえ主人による具体的な作品考察の部分をごっそり省いてしまいましたが……。もし希望者が複数出るようでしたら完全版の有料記事販売を検討します)

※本記事は宮沢賢治作品の読み解きが本旨であり、特定の宗派や団体を推奨・否定する意図はございません。また著者は特定の宗教に入信することもございません。ご理解いただけた方のみ先へおすすみください。


「天上のアイスクリーム」 ~ 宮沢賢治 考 ~


Ⅰ.『飢餓陣営』に見る自己犠牲がもたらすもの


賢治といえば「自己犠牲」

 宮沢賢治というと、皆さんは何を思い浮かべますか?
 「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」「クラムボン」「グララアガア」「それともサラドはお嫌いですか」……。
 よく聞くのが、「宮沢賢治といえば自己犠牲」という言葉です。
 これはまさにその通りで、宮沢賢治という人は作品を通してひたすら自己犠牲というものを訴えかけている作家です。『銀河鉄道の夜』でカムパネルラは意地悪なクラスメイトのザネリを助けるために川で溺死します。グスコーブドリは人々のために自分一人が犠牲となって火山の噴火に巻き込まれます。
 しかし賢治の言う自己犠牲とは、おそらく一般的にイメージする自己犠牲よりも、もっともっと深い意味が込められているのだと、私は考えます。

 自己犠牲という言葉に対しては否定的な意見をよく目にします。「自己犠牲なんてただのエゴ」「自己犠牲精神を美化してきた洗脳教育の賜物」などなど。その意見はごもっともです。実際、「自分が損をして他人の得になる(しかも差し出すのは命)」なんて馬鹿らしいし、生物としての性質に逆らっているようです。
 しかし私が思うに、宮沢賢治は「ほかでもない自分自身が幸せになるための方法を考えて考えて考えぬいた結果、最終的にたどり着いたのが『他人に与えることが自分自身の幸せである』ということだった」、それを伝えるために一生懸命お話を書いた哲学者のような作家だったのではないかなと。
 青空文庫で宮沢賢治の項を見るとわかるように、賢治は二百以上の作品を残しています(とはいえ、そのうち生前に正式に発表されたものは少ないのですが)。おそらくそのほぼすべてにおいて、背後にあるテーマ・メッセージ性は一貫して同じことを言っているのです。

 以降、本書は順を追って、賢治のいう「自己犠牲」の正体に関する考察をしていこうと思います。


自己犠牲の果てに虚空から恵みが出てくる

 で、一発目の作品がこんなマイナー作品でいいの? と思うのですが。『飢餓陣営』という作品です。できれば未読の方は一度お読みいただいてから本書を読み進めていただければと。

 これは小説ではなく、劇の台本として書かれています。簡単にあらすじを紹介しますと、あるところに食料が無い状態の軍隊がありました。部隊は皆腹ペコです。その部隊の大将はバナナン大将といいました。バナナン大将は胸にたくさんの勲章を付けているのですが、なぜかそれはお菓子でできていました。皆、その勲章を食べられたら飢えを凌げるのに、と思いましたが、大将の名誉ある勲功の証を食べてしまうなどという無礼をしたら銃殺は免れないだろうと。すると曹長が「責任は俺が取る」と言い、大将をだまして勲章を取り、部下に食べさせます。バナナン大将は勲章をすっかり食べられてしまったことに気づきショックで泣き出します。曹長が「発案者は私です。責任をとって自害します」と自殺しようとした瞬間、バナナン大将はピストルを取り上げ「お前たちの気持ちはわかった、勲章などなんでもない」と言います。そしてなぜか大将は続けて「今、神の力を授かって新しい体操を発明した! 名づけて生産体操じゃ!」と言い、兵士たちを並ばせ、組体操(?)をさせ始めます。兵士たちが果樹棚に見立てた形で腕を組むと、バナナン大将は籠を持ってその下にもぐりこみ、なんと虚空から宝石のような果実を摘み取りだし、籠に収穫しました。
 ……という内容です。

 岩波文庫の解説によると、この劇は実際の上演の際、若干手が加えられていたらしく、開幕の際に

 私は五連隊の古参の軍曹/六月の九日に演習から帰り/班中を整理して眠りました/そのおしまいのあたりで夢を見ました

 大将の勲章を部下が食うなんて/割合に適格なことでもありませんが/まる二日食事を取らなかったので/恐らくはこの変てこな夢をみたのです

 という歌が歌われたそうです。
 この歌から察するに、部隊は実は全滅していて、死んだみんなで幻を見ていたとかじゃないですかね……。勲章がお菓子という時点でおかしいですし(シャレか)。

 ところで賢治の別の作品に、この物語と似た構図が出てくる物語があります。『学者アラムハラドの見た着物』という作品です。
 残念ながら原稿が途中までしか残っていない(途中までしか書いていない?)そうなのですが、その中に、何でも持っているものを他人にあげてしまう王様のお話が出てきます。何でもあげてしまうので、王様はやがて家来から「えーかげんにせーや」と国を追われてしまうのですが、その道中で王様の子が高い木を見上げて「あの木の果実が食べられたらなあ」と言うと、なんと木はひとりでに頭を垂れてきて果実を差し出しました、というエピソードです。

 二つの作品の共通の構造というのは、「自己犠牲の果てに、手にすることができなかったはずの果実を手にすることができた」ということです。
 食べ物が無い苦しい状態から一転して果実を手にしています。賢治の中では「自己犠牲」が「何か不思議ないいことが起こる」とつながっているということです。


Ⅱ.自分と世界の関係を示唆する『マグノリアの木』


世界は自分

 前章で書いた「食べ物が無い苦しい状態から一転して果実を手にしている」とは一体何か。結論を先に書いてしまうと、これは「自分の心が世界を決めている」と言い換えることができるのです。これがわかりやすく表れている作品が『マグノリアの木』と『ひかりの素足』であると考えます(マイナー作品の連続だぁ……)。

 こちらも一度原文をお読みいただきたいのですが、『マグノリアの木』のあらすじを簡単に書いてみます。
 理由やその他の場面設定等は一切わかりませんが、とにかく諒安という人物が、ひたすらに険しい山谷を「これが私の景色です。だから仕方がないのです」と言って歩いています。やがて諒安は、ひらけた平らな頂上にたどり着きます。振り返ると、今まで歩いてきた山谷には実は一面に真っ白なマグノリアの花が咲いていました。そしてすぐそばのマグノリアの木では子どもが二人、幹を間にして立っています。諒安が「マグノリアの木は寂静印です。ここはどこですか」と聞くと、後ろから声がします。振り返ると、諒安と同じくらいの背格好の人がおり、その人は「(聞こえた声は)私です。また、あなたです」と答えます。そこで二人はいくつかの会話をする、というお話です。

 この二人の会話について当方の考えも交えて触れてみますと、この人物はそのセリフの通り、諒安本人と考えられます。その後の会話も、質問をするとこだま返しのように自分の中にある答えが返ってくる、そんなやり取りが行なわれます。これは何を意味するのか。

 「自分の心が世界を決めている」と書きましたが、これは言い換えると「世界は自分である」ということです。
 世界は自分自身であり、世界を見ることは鏡を見ることと同義である、というのがこの作品で書かれていることだと考えます。二人の子どもが幹を挟んで並んでいるのは鏡のイメージなのではないかと。
 寂静印という言葉が出てきます。これは仏教用語の「涅槃寂静」、悟りの世界です。つまり諒安がたどり着いた平らでひらけた地というのは悟りの世界であり、そこに行くと鏡のように自分と同じ人間が出てくると。そして悟りの世界からは「何か」があふれ、今までの険しい山谷をマグノリアの花に変えています。それをこの作品では「善」と書いています。

 「善」は、険しい山谷、つまり下界に居る人間には認識することができません。革命や饑饉や疫病は、そこを生きる人間にはただのつらい「苦」でしかありません。しかしそれは、一段高い場所である悟りの世界へたどり着いた人間からすると、「善」と同じであるというのです。下界に居たままではマグノリアの花には気づかないが、涅槃寂静の地から見ると、そこは険しい山谷でありながらも実は同時にマグノリアの花でいっぱいであったということを諒安は知ったわけです。
 世界というのは実は自分自身であり、「苦しい」と思うのは世界そのものが絶対的に「苦しい」と感じるようにできているわけではなく、ただ自分の心が苦しいと感じているだけなのだと。ある高みへ行けば、それまで「苦」しかないと感じていた世界が一転して「善」であふれるのだと、この作品は言っているのだと思います。
 さらに言うと、そもそも世界も自分も別々に分かれているものではなく、もともと同じひとつのものなのだということがこの話の本質であり、これが賢治の言う「自己犠牲」の本質でもあります。
 「苦しいことばかりに目を向けていないで、楽しいことに目を向けようよ! 心の持ちようだよ!」と、(まあそれはそれで大事ですが)そんな軽いノリの話ではありません。今まで自分が当たり前のように生きてきた「世界」という概念を破壊して捉えなおす、その実践レベルの表れが「自己犠牲」ということです。ヘビー過ぎて私も段々書いていて投げ出したくなってきました(

 宮沢賢治について「自分自身が幸せになるための方法を考えて考えて考えぬいた結果、最終的にたどり着いたのが『他人に与えることが自分自身の幸せである』ということだった」と前述しました。
 戦争、犯罪、病気、事故、災害、貧富の差や人間関係のモヤモヤと、世界は苦しみであふれています。生物は他の命をとって食べないと生きていけませんし、世界の資源は有限で、それを奪い合っている状態です。ニュース等で誰かが死んだ・殺されたという話を聞いて、「自分じゃなくて良かった」と心のどこかでほっとするのを毎日繰り返しています。その自分も、いつかは必ず死にます。この世界は、生き残った人間も必ず死ぬというルールのバトル・ロワイアルなのです。
 この苦しみから逃れたい――。

 そこで賢治は世界の捉えなおしを提案します。
 あなたがつらい、苦しいと思っているものは、寂静の世界に立って見ると、実は違う見え方がするのだよ、と。
 『ひかりの素足』も『マグノリアの木』とほぼ同じ構造の作品だと思われますので、あわせて読んでみてください。


ミヤケンもハマった釈迦の教えとは

 「悟り」「涅槃寂静」という仏教用語が出てきましたが、お察しの通り宮沢賢治は熱烈な法華経の信仰者でした。
 『マグノリアの木』も『ひかりの素足』も、読んだ方は「仏教くせえw」と思われたことでしょう……。生前も熱心に周囲に布教活動を行なっていたようですが、これは仏教徒そのものを増やしたいと思っていたわけではなく、本当に仏教の教えがすごいものだから、一人でも多くにそれを知ってもらいたい――と思っていたのではないでしょうか。
 そもそも、ここまで書いてきた賢治作品の考察「自己犠牲をすると不思議なことが起きて自分に恩恵が返ってくる」「世界は自分の鏡であり自分の心ひとつでガラリと見方が変わる」というのは、実は仏教の教えそのものだったりするのです。

 仏教の教えについて簡単に紹介します――と言いたいところですが、これがまた簡単には説明できません。「言葉で説明しようとするな、考えるな感じろ」というのが根底にあるからです。
 もともと仏教は、
 「なんか知らないけど、お経という名の呪文を唱えれば極楽に行けるんでしょ?」
 「悪霊が憑いたからお払いしてください」
 「寺生まれのTさん『破ぁ!!』」
という未知の力がどうこうというイメージのものではなく、「自分とは何か」「世界とは何か」をごまかし無く捉えることをとことん現実的に突き詰めていこうというような、今であれば哲学という学問に分類されるような考えから始まりました。
 そしてあるとき、一人の青年が常人では至れないような究極の答えにたどり着きます。その青年こそが仏教の創始者・ブッダ=お釈迦様であり、その答えを「悟り」と呼ぶわけです。

 この釈迦が考えた哲学というのは、それはそれは常人には理解しがたいものでした。釈迦も、悟りを開いた当初は「いや、こんなん他人に話しても理解してもらえるわけないやん」と伝える気が起きなかったといわれています。
 それはどういうものかというと、「無我」、後に「色即是空」という言葉もできたりしましたが、そうした言葉で表されます。
 つまり「私」も「あなた」も「世界」も無い。本来、それらは区別などされているものではなく、ただひとつのなんかそういう存在であるだけだ、ということです。「私」も「あなた」も宇宙を構成する一部であって区別などできない、とも言えるでしょうか。宇宙を小麦粉を練った生地に例えると、「私」も「あなた」もその生地のどこか一部、ということです。その宇宙も、何かの一部かもしれません。
 で、とはいえ、釈迦本人が言うとおり、常人には理解できません。「私がいて、私じゃない他人がいて、っていうのが当たり前じゃん」としか普通は思えません。私以外私じゃないの。でも、その「私」という「意識」も脳細胞やその他の体の組織に張り付いたただの現象で、「私」という存在が確固として存在しているというのはただの思い込みである可能性を否定できないわけで……。

 伝わるか(どころか合っているかも)わかりませんが、「私もあなたも小麦粉の生地」の部分について、もう少し詳しく私なりの解釈を書いてみたいと思います。……すみません、この文章を書いている私自身が仏教徒ではないし齧る程度の知識しかないので、ガチの仏教徒や僧侶の方的には「全然わかってねーじゃねーか」かもしれません……。その場合は本記事は宮沢賢治作品の直接の考察部分のみお楽しみください。(←記事用にだいぶ省いちゃったけど。)

 子どもが生まれたとき、その子は言葉を知りません。「これはパパ」「これはママ」「これは扉」「これは哺乳瓶、こっちが飲み口でこっちが本体」なんて区別をつけたり意味を考えて捉えているわけではなく、ただ目に映ったものをストレートに「そういうもの」として捉えます。どこからどこまでが扉か、どこからどこまでがママか、という「物と物を区切る」ことすら考えません。
 これを仏教用語で「無分別智(むふんべつち)」といいます。そしてこの「無分別智」状態が、言葉を使って世界を捉えている状態より、より「世界の真の姿」に近いと考えられます。それはそうです、扉も哺乳瓶も人間が便宜上勝手に作った概念(機能と名前)であって、世界ができたときから確固として決められた存在ではないわけです。ママという存在ですらも、「髪の毛もママなの?」「手や足もママなの?」「ママが着ているお洋服もママなの?」「ママの切った爪はママなの?」といった概念は、成長するにつれおいおい学習して感覚をつかんでいくものだったりします。そしてそれは「人間が社会生活を送る上での共通のルール」以下でも以上でもないのです。

 十九世紀の哲学者・ヴィトゲンシュタインや言語学者・ソシュールの話が理解を深めるのに良いのではと思います(とはいえこちらも齧る程度の知識しかないので以下略)。ヴィトゲンシュタインは人間の活動を「言語ゲーム」と表現しました。ソシュールは「言語とは、何かと何かを区別して認識するためのシステム」という論をとなえました。
 「鉛筆」は筒状の木の中に炭素などからなる棒を突っ込んだ物体ですが、その「木の筒」+「炭素の棒」を便宜上「鉛筆」と呼ぼうと人間が決めたということです。この赤い丸い物体を他と区別するために「リンゴ」と呼び、その「リンゴ」が乗っている場所もそれ以外やリンゴとも区別するために「テーブル」と呼ぼう、ということです。「リンゴ」+「テーブル」を他と区別して「リンブル」と呼ぼう、は人間の活動において必要なかったのでそんな言葉はできませんでした。でも「ハンバーガー」+「ポテト」+「ドリンク」+「おもちゃ」は「ハッピーセット」と呼ぶ。
 そしてその法則は「物」レベルにとどまりません。実は「原子」も確固としてそういう存在があるわけではなく、人間が便宜上電子に当たるものと中性子に当たるものと陽子に当たるものを勝手にひとつの単位として設定しているだけなのです。衝撃。
 神話でも、世界の創造は「はじめに混沌(カオス)があった。次に○○は空と海とをつくった」のようなパターンが多いのですが、神話時代の人も「大元にあるのは無分別智(「阿頼耶識」の方が的確かも)的な混沌なんだな」という認識を持っていたのでしょう。
 当サークルの別の本で「神話は混沌VS秩序の戦いが根底にある」と書きましたが、秩序とは「すべてを含むごちゃ混ぜの手を付けられない混沌という存在を、人間に合ったルールで、境界(名前)を与えて管理しよう」ということだともとれるのかもしれません。あ、ちなみに『本当は深いグリム童話』という本です♡(ダイマ)

 まとめると、境界など無いのが世界の本当の姿であり、人間はそこに便宜上「言葉」という道具で「名前」を与えて境界を作って世界を認識している、ということです。釈迦は人間でありながら前者の「境界など無い本当の世界」に行ってしまった人だとも言えるわけです。

 で、それがなぜ「自己犠牲」につながるか。カンの良い方はすでに察しがついているかもしれません。
 ジャータカという、釈迦の前世(という設定)の物語があります。その中に、自らの肉を食べてもらうために火の中に飛び込むウサギの話があります。
 あるところにかわうそと犬と猿とウサギがいました。そこへ旅の僧がやってきて、「何か食べ物はないか」と言います。かわうそは魚を、犬は肉を、猿は果物を持ってきますが、ウサギはあげられるものがありません。そこで僧に火を起こすよう言い、「私を食べてください」と火の中へ飛び込む、というお話です。
 自分と他人は本来的には境界がない同一のものである=自分に与えているのと一緒。そう捉えると「死」は怖いものではなくなります。それどころか「死」という概念すら無くなってしまうのです。
 手塚治虫の『ブッダ』は、しょっぱなにこのウサギの話が出てきますが、実は最初から最後までこのウサギの話を一生懸命説明しているマンガなのだと思います。

 しかし、理屈がわかっても感情が追いつかないのが人間です。「食べられても差し引きゼロだし」と火に飛び込むウサギは狂気にしか思えません。
 川で自分の家族とどこかの知らない人がまったく同じ条件で溺れていて、どちらか片方だけ助けられるとなったときに、悟りの境地に達したような人は「家族」という特定の事柄に執着を持ちませんから、ここで故意に自分の家族を選ぶようなことはしません。完全に五分五分でそのときに助けられるほうを助けるでしょう。その人は「そう考えたほうが苦しくないよ」と言うでしょうが、常人にはそんな思い切った考えはできません。
 加えて、助けられる側も同じ境地に達していないと、「あいつ、家族である私を見捨てて知らない他人を助けた! なんて奴だ!」と、苦しみながら死んでいくことになりかねません。自分一人だけが悟りを知っていてもまだダメなのです。これが、賢治の言うところの「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」にかかってくるのかな、と個人的には思います。というか、あとでもう少し詳しく書きますが、実は世界はすでに「ウサギが火に飛び込む」のようなことが日常的に起こっていて、それにみんなが気づくかどうか、気がついた上で自発的にそれを受け入れるかどうかということなのかな、とも思います。

 「個人の幸せってなんだろう?」と考えたときに出てくる意見としては、一般的には「お金持ちになる!」「素敵な人と付き合う! 結婚する!」「人気ゆーちゅーばーになる!」「長生きする……」とかが多いのでしょうか。しかし、こうした類のもの、「煩悩」は「人間の本当の幸せではない」と、大昔にすでに仏教が否定しています。
 仏教には「六道」という言葉があります。これは命が輪廻転生するこの世界、のようなニュアンスの言葉です。人間はこの中の「人間道」に住んでいます。その「六道」のうちのひとつに「天道」というものがあり、ここには天人と呼ばれる、長寿で人間よりも優れてて楽しいことだけして一生を過ごす人たちが住んでいます。ところがその人たちが本当に幸せに一生を終えるのかというと、死を恐れ、恐怖に苦しみながら死んでいくのだそうです。
 富も名誉も刹那的な快楽も、結局人間はいつか死ぬ以上、「それがだから何なの、一体何の意味があるの、私の命って何なの」がどうしても貼り付いてくる。釈迦の哲学とは、それを乗り越えるための智慧だとも言えるのでしょう。

 ……長々と書いてしまいましたが、私の解釈が間違っている可能性もありますので、どうか皆様、ちゃんとした解説書をお読みください……。
 『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』(飲茶/河出文庫)という本がおすすめです。同じシリーズの『史上最強の哲学入門』(飲茶/河出文庫)西洋哲学編にはソシュールのお話も出てきます(というか大いに参考にさせていただきました)。こちらもおすすめです。

 仏教の教えの中には「信者かどうか関係なく、すべての人が救われないといけない」というものがあります(おそらく「自分と他者との境界がない・他者(世界)は自分自身(鏡)である→他人が苦しんでいる=自分も幸せとは言えない」)。
 ところが仏教は宗教です。宗教というと「信じる人しか救わない」というイメージがつきまといます。その上、現代の日本人は地下鉄サリン事件も経験しています。結果、「宗教」というだけで倦厭してしまう人が多いのも事実です。
 「いや、宗教とか宗派とか関係なく、釈迦の考えた哲学は大事なものなんだ」と思った作家――宮沢賢治は、釈迦の教えのエッセンスを、物語として表現しようと思ったのではないでしょうか。特に晩年は過去の作品に手を加え、仏教っぽさの少ない作品にリメイクしたりしていたようです。

 そしてこの「賢治が伝えたかったもの」は、現代の作家にもしっかり受け継がれていると思います。
 そうした作品(と私が思う)の中で個人的に好きな作品を挙げさせていただくと、『ぼくらの』(鬼頭莫宏/小学館)、『プラネテス』(幸村誠/講談社)、TVアニメ『輪るピングドラム』(幾原邦彦監督)、『銀河の死なない子供たちへ』(施川ユウキ/KADOKAWA)、『鋼の錬金術師』(荒川弘/スクウェア・エニックス)です。「えっ、ハガレンも!?」と思う方もおられるかもしれませんが、私的には「等価交換」「一は全、全は一」など、めっちゃ宮沢賢治です。ラストの「等価交換を否定する新しい法則」は名言。
 なお、これらの作家の皆様は決して全員仏教徒というわけではないと思います(多分)。宮沢賢治が好きだったり、宮沢賢治に影響を受けた別の作家が好きだったり、そうした中で賢治の思う「大事なもの」に気がついて、自身の作品に取り入れたのではないでしょうか。
 そんなわけで、これもひとつのご縁ということで、ぜひぜひここに挙げた作品を読んで(観て)みてください。


Ⅲ.世界を俯瞰する『雪渡り』『やまなし』


雪に乗って一段高い場所で見る世界の本当の姿

 「寂静だの何だの、仏教用語は勘弁して……」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんので、以降は「寂静」「悟り」「お釈迦様の哲学」に当たるものを「視野を広げる」と言い換えます。『マグノリアの木』のお話のように、「一段高いひらけたところから下界を俯瞰する」イメージとして捉えておいてください。
 さて、まずはタイトルにも書いた『雪渡り』についてです。

 出だしの文、「雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり」。これは雪国住みの方ならお分かりになるかと思いますが、雪が積もった冷えた夜~早朝、天気が良いと積もった雪の表面が凍って硬くなり、体重の軽い子どもはその上を雪に埋まらずに歩くことができます。これがタイトルの「雪渡り」です。
 ちなみに豪雪地帯住みの私も小学生時代によくこの雪渡りをしながら登校しましたが、他の友達が雪の上をサクサク歩いている隣で若干横方向に育ちのよかった私は雪を踏み抜いてズボォっと足を埋めていました。で、半泣きになりながら埋まった長靴掘り起こすんですよね……。
 ともかく、体重の軽い子どもの頃しか雪渡りができないので、登場人物のお兄ちゃんたちは「一段高い雪の上を歩いていくことができない」ということになります。四郎とかん子は雪の上で狐の紺三郎と出会い、前述の理由から二人だけで狐の幻燈会に誘われます。

 さて、この物語の中ではイメージとして「人間の住む世界」「狐の住む世界」があります。
 二つの世界の間には意思疎通を阻む壁のようなものがあり、実際には人間が酔っ払ってまんじゅうやそばと勝手に勘違いしてドラクエの世界で1Gで売れそうなアレ的なものを食べていたのを、「狐に化かされた!」と言いふらします。
 そして狐はその誤解を解けないままでいます。
 幻燈会では「(人間席側へ)栗の皮を投げたりしてはなりません」と注意が入りますが、人間が狐を「人を化かすイヤな奴等」と思い込んでいるように、狐側も人間に対して良く思っていません。

 そこに住んでいる者は、自分の世界のことしか知りません。
 しかし四郎とかん子は、「雪の上」という、一段高い、視界の開けた不思議な場所に立つことができました。
 そこでは狐とお話もできます。
 高いところから「人間界」「狐界」両方を見ることができた二人は、「狐は人をだますようなことはしない」と知っていたのです。


 「食うだろうか。ね。食うだろうか」


 (知ってるか? 狐は俺たち人間をだまして糞を食わせて喜んでいる、最低なやつらなんだぞ!)

 (どうせ人間は、僕たち狐が本当はどういう存在かなんて、分かってなんかくれないよ)


 ……二人は狐に出された黍団子を食べました。
 それは、二人が、世界を隔てる高い高い壁を乗り越えた瞬間でした。……


 どうですか。いいお話でしょう。こうして考察を書いている自分が、ただの野暮な解説マンにしか思えません。


『やまなし』は下界に居る側の視点のお話

 『やまなし』では冒頭に「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」という文章が入っています。「幻燈」という言葉は『雪渡り』にも出てきましたが、平面に映し出された二次元のイメージです。そこに四郎とかん子が立った雪の上のような「高さ(視野の広さ)」を加えると三次元となるのでしょう。
 『やまなし』は『雪渡り』とは逆に、川の底という平面世界から上(川の外)を見上げる、二次元の世界のお話のイメージだと捉えることができます。カニの親子は、川底を横移動はできますが、水面の上の方へ上がっていくことはできませんし、水の外の世界の仕組みは分かりません。

 さて、そんな川底では奪い合いの世界が広がります。魚が目に見えない生き物をとって食べています。その魚も、かわせみに食べられてしまいました。前半は五月という豊穣の季節にもかかわらず、死が次々と理不尽にやってくる暗いイメージです。
 ところが後半は十二月という冬直前の不毛な季節にもかかわらず、一転して明るい生のイメージです。おいしそうなやまなしが突然天から落ちてきます。が、カニは上へは上がってはいけないので、直接やまなしを食べることはできません。お酒となって川底まで降ってくるのを待たないといけないのです。

 この物語は、我々が認識している三次元世界と、我々の世界を包括した我々には認識できないさらに上の高次元世界=真の世界とを、幻燈という方法で二次元と三次元に落とし込み、「実は我々の世界はこうなっているんですよー」と説明しているのだろうと思います。カニは我々、かわせみは理不尽にやってくる死。
 子どもたちよりも自分たちの世界がよく見えているお父さんカニは、上の次元の世界の仕組みは分からなくても、こう言います。「大丈夫だ。心配するな」と。
 そして天から降ってきたやまなしは、第一章に書いた『飢餓陣営』『学者アラムハラドの見た着物』の果実と同じものなのだと思われます。


Ⅳ.『注文の多い料理店』『なめとこ山の熊』が語る「自分の番」


実はみんなかあいそう

 『注文の多い料理店』、これもメジャーな作品ですが、これを『雪渡り』と同じように「視野を広くしてみたら違う世界が見えた」的な方法で読んでみます。

 二人の紳士が鉄砲を持って道楽のハンティングに出かけ、迷った山の中で一軒の料理店を見つけます。「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい」「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」……実はここは店側がお客さんに注文を出して、お客さんが店側である怪物に食べられてしまう料理店だったのです! というお話です。有名なお話なので、皆さんご存知かと思います。

 このお話の解説をネットで検索すると、「自然を軽んじる都会の人間が、自然の権化である怪物(山猫)に痛い目にあわされる話。偉大な自然の前では傲慢な人間の文明など無力であることを表している」的なものが目に付きました。が、本当にそうなのでしょうか? 主に、山猫軒側が「偉大な自然」だという部分。
 山猫軒の部下その一は「どうせぼくらには、骨も分けて呉れやしないんだ」と言います。部下その二は「けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ」と言います。完全にブラック上司のパワハラ受けてませんか、これ。はたしてそんな連中が「偉大な自然の権化」と言えるのでしょうか……。

 つまりこのお話は「狩猟する側・客」が「狩猟される側・店」に逆転されるお話なわけですが、逆転した山猫軒側も決して神様のような存在ではなく、実は人間界と同じ軋轢の中で生きる存在なのです。
 『花もて語れ』(片山ユキヲ/小学館)というマンガの中にこの作品の考察があります。そこでは紳士Aは山猫軒の部下Aと、紳士Bは山猫軒の部下Bとそれぞれ同じ性格のキャラとして書かれていると考察されています。つまり、紳士=山猫軒の部下というわけです。
 このお話は文章中に「二」という数字が頻繁に出てくるので、もしかしたら二人の子どもが登場する『マグノリアの木』と同じように「鏡」のイメージがあるのかもしれません。ちなみに他の賢治作品でも、山猫や山男は自然の権化のような扱いではなく、人間のまねごとをしていることが多いようです。

 同じく「搾取する側」だったはずの立場が「搾取される側」に逆転するお話で、『カイロ団長』という作品があります。
 あまがえるたちをうまいこと丸め込んで奴隷のように使っていたとのさまがえるのカイロ団長ですが、ある日、王様の命令が発令され、立場が逆転します。あまがえるたちにしていた仕打ちが、そのまま自分に返ってくるような命令です(なおこの「王様」は特定の人物がいるわけではなく、天災のような「避けようのない運命」的なものと捉えるのが妥当かと思われます)。あまがえるたちは大喜びでカイロ団長に仕返しをしますが、逆転したままでは終わりません。その後、再度王様の命令として「すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん」と発令されます。それを聞いたあまがえるたちはカイロ団長をやさしく介抱し、カイロ団長は涙を流して心を入れ替える、という内容です。
 なお、これまたマイナーですが『氷河鼠の毛皮』という作品も同じような構図の物語だと思われます。

 つまり、「永遠の強者で完全に自由で絶対的な勝者」はどこにも存在しないのです。
 搾取される側は「あいつは弱者のことを考えないひどい奴だ」「俺が苦しいのは全部あいつのせいだ」「あいつばかりいい思いをして!」「ああいう奴がいるから世の中良くならないんだ」「今に俺も成功してやる」と搾取される側の世界の中で言っていても、一段高いところから俯瞰して見ると、搾取する側の人間も実は「同じようにさらに別の何かに搾取されている」「いつでも立場が逆転する可能性がある」究極的には「いつか絶対に死ぬ」と、結局は「かあいそうなもの」であることには変わりないわけです。ブラック会社の社長も、いじめっ子も、オレオレ詐欺やってる連中も、生き物はもれなく、上に立ったり下に追いやられたりしながら奪い合っていつか必ず死ぬ、かあいそうなものなのです……。
 とはいえ、こうした俯瞰して見ることのできる視野を持った人は実際にはなかなかいないのではないかなとは思いますけどね……。被害者をひどい目にあわせたあげくに殺した、みたいな事件を聞くとやっぱり「犯人もかわいそうな存在なんだな」より「こんなん問答無用で死刑でいいだろ!」と思ってしまうのが人間ですし……。


『なめとこ山の熊』にみる「死を迎える」ということ

 まとめると、すべての生き物が「絶対的な勝者ではない」、つまり「いつか必ず搾取される側になる」ということです。
 生きている間はずっと搾取する側として成功していると思っていても、最終的には必ず「死」という形で搾取される側になります。そしてその「死」は、いつ起こるのかわかりません。事故や病気、災害もそうですし、今この文章を読んでいるあなたも(書いている私も)この瞬間に殺人鬼が乗り込んできて殺される可能性も、どっかの国が間抜けなミスしてピンポイントで自宅にミサイルを落とされる可能性も、ゼロではないわけです。
 そんな時、一体どんな心持ちで死を受け入れたらいいのか。大半の人は「いやだ! 死にたくない! 何で俺なんだよ! 何で今なんだよ!」と思うことでしょう。

 賢治の『ビジテリアン大祭』という作品はご存知でしょうか。草食派と肉食派がディベートをするのですが、現実世界で言われるような草食派の主張、肉食派の主張がほぼ出揃っています。ちょっと長いですが、「動物殺すのはかわいそうだし、どっちかというと俺は草食派だな」「ベジタリアンとか馬鹿のやること。俺は肉食うぜ!」など、ぜひ一度ご自身の考えを思い浮かべてから読んでみてください。読み終わる頃にはゲンナリしてると思います。
 で、ネタバレになりますが、そんなガチで心を抉りあうディベート合戦をしておきながら、ラストのオチは「は~い☆ これは茶番でした~♡ 皆さんお楽しみいただけましたか~?」、主人公ポカーン、という作品です。

 これ、賢治的には「○○だから肉は食わないとか、××だから肉食OKとか、そんな次元の話は全部茶番なんだよ!」と言っているのではないでしょうか……。実は肉食派側の参加者は全員ヤラセだったということが分かります。つまりこれは「草食派の言い訳練習大会」とも取れるのではないかと……。
 主人公は「もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けない」という考えですが、大会を通して、「自分は『慈しみの心を持っていますよー』と他者の目を気にして言い訳をしているだけだった、生き物が本当にかわいそうなのではなく、実際は自分のことをかわいそうだと思っていたのだ」ということに気がついたのではないでしょうか。本気で命について考えていたわけではない、所謂ファッションでベジタリアンをやっていたのだと。……すみません、読んでいる貴方がベジタリアンだった場合、読んでいて気分を悪くされたかもしれませんが、賢治さんはこの作品でこう考えていたんじゃないかなという話なので……(汗)。
 私も含め、多くの人は動物がひどい目にあう話に過剰に反応しますが、これは人間という「動物の生死を自由にできる立場」の後ろめたさから来ているんじゃないかなあ、さらにその奥にあるのは「自分はそうした簡単に死んでしまう動物とは違う」と思いたい心理があるんじゃないかなあと最近考えております。この辺は心理学に詳しい方のご意見を聞きたいところです。
 話を戻しますと、『ビジテリアン大祭』の主人公は「もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けない」という考えですが、これは「自分の死は罰なんだ、そういう因果なんだ、仕方ないんだ」という考えだと言い換えることもできます。要は、自ら進んで決めた命の使い方ではありません。火に飛び込んだウサギとは違います。
 これをファッションベジタリアンだと言っているのだとしたら、じゃあ本気で命と向き合っている人というのはどういう人なの? ということを書いたお話が、『なめとこ山の熊』ではないかと考えます。

 生き物は、たくさんの命を犠牲にして生きています。自分が生きていることで、どこかで誰かが犠牲になっています。
 たとえあなたが野菜しか食べないと言っても、その野菜を育てるためにたくさんの虫が殺され、害獣として動物が殺されています。野菜を配送したトラックが動物をはねているかもしれません。人間として生きている以上、そうしたことで成り立っている経済活動に組み込まれるわけで、あなたが手にしたお金は、他の肉を食べたり何なりで動物を殺してきた無数の人の手から渡されたお金です。
 つまり、生まれた時点ですでに人間は多くの命の犠牲の上に立つことを強制されています。
 そしてそれは植物や動物だけではなく、同じ人間の犠牲の上にも立っていることになります。あなたが毎日歩いている橋の建設工事中に、作業員が亡くなっているかもしれません。あなたが病気をしたときに助けられた薬は過去に副作用で死者が出て改良された薬かもしれません。交通事故で亡くなった人が出たためにそこにカーブミラーが作られ、実はあなたはそのおかげで事故にあわないで済んでいるのかもしれません。

 この世は有限です。何かを得るということは、何かが失われるということです。自分が他者を犠牲にして生きているのと同じように、他者が自分を糧にする日が来ます。自分だけがうまいことやって逃げおおせる、などということはできません。いつか必ず順番が来ます。それがこの世の理です。誰が悪いというわけでもありません。
 それならば、この世の理を受け入れ、自分の番が来たら潔く他者の糧になろう。でも決してそれは苦しいことではない。なぜならその他者も自分から分離されている存在ではなく自分の一部であり、志を共にする大きな流れの一部なのだから――。

 変な例えになりますが、ドラクエにメガザルという、自分を犠牲にして自分以外のパーティーメンバーを回復する呪文があります。自分がやられても回復した残されたメンバーが敵を倒してくれればOKなわけです。呪文を唱えたキャラ一人だけがプレイヤーではなく、パーティー全体がプレイヤーということです。つまり、ここでいうパーティ=「世界」であり、すべての生き物がメガザルの使い手であり、強制されてではなく自発的に
 「あ、今がメガザルの使い時なんだな」
 と思おう、と。
 「自分の順番が来たんだな。自分はこのタイミングだったんだな」。
 それが、有限であり奪い合いをしているこの苦しい世界で真に自分が幸せになる方法だと、賢治は言っているのだと思います。

 以上を踏まえて、『なめとこ山の熊』を読んでみてください。ちなみに『おきなぐさ』『毒もみのすきな署長さん』なんかも同じことを書いている作品だと考えます。


Ⅴ.実践の物語『ポラーノの広場』


労働は日常的な「自己犠牲」

 賢治作品について、「この世界は一段高いところから俯瞰してみると『奪い合い』が『与え合い』にひっくり返り、世界が苦しくなくなる」と考察してきました。
 さて、そうは言っても、敵の銃弾から仲間を庇って「止まるんじゃねぇぞ……」みたいな直接命をやり取りするようなことを日常的に行なうわけにはいきません。じゃあ具体的には日々どのようなことを実践すればいいのか。

 「すでに『ウサギが火に飛び込む』のようなことが日常的に起こっていて」と書きました。これの目に見えるものの一つが「仕事」です。
 実は仕事はただお金をもらう手段ではなく、これこそが日々実践できる「自己犠牲」であり「全は一、一は全」の現れであると賢治は考えていたのではないかと思います。

 『ポラーノの広場』は少年たちが伝説のポラーノの広場を探すお話です。
 伝説によると、ポラーノの広場にさえ行けば、何でもあります。願い事もかないます。ところが実際にたどり着いたポラーノの広場は、腐敗した残念な大人たちが酒盛りをするただの残念な場所でした。なんやかんやあったあと、少年たちは最終的に「自分たちが新しいポラーノの広場をつくろう」と決意します。その新しいポラーノの広場というのが、皮をなめす人、ハムを作る人など、各々が各々のできる仕事をやって、みんなでお互いを支えあっていこう、という場でした。そしてそれはのちに立派な産業組合となったのでした。
 一人の人間が皮をなめしてハムも作ってこれもやってこれもやって……と、すべてのことができるわけではありません。この仕事ができる人、この仕事ができる人、と、たくさんの人が集まって、いろいろなことができる共同体が出来上がります。みんなでひとつのものを作り上げるのです。それが社会です。

 ネットゲームで例えると(若い子わからないかな……)、プレイヤー全員が剣士だと、絶対に倒せないボスが出てきます。そこで壁役、ヒーラー役、補助魔法役の職業を選ぶ人が出てきます。それだけではありません。そのボスは火属性が弱点なので、火属性の武器が必要になります。すると鍛冶師という製造メインの職業に就く人が出てきます。ところが火属性の武器を作るには専用の素材が必要で、その素材は物理攻撃の効かない敵がドロップします。そこで魔法使いが魔法でその敵を狩って市場に素材を流通させます。そして武器が作られ、その武器で剣士その他がボスを倒してドロップしたアイテムが特定の職業に必須のアイテムで、それが市場に流通して……と、実はネットゲームはある意味社会の縮図だったりするわけです。いい加減ゲームで例えるのやめないか、自分。
 別の例としてチョコミントのお菓子で考えてみると(クソがつくほどのチョコミン党ワイ)、ミントを育てる人がいて、チョコを作る人がいて、それを配達する人がいて、商品を開発する人がいて、実際に工場で作る人がいて、パッケージを作る人もいて、それを売ってくれるお店の人がいて、そもそも歴史の中で「ミント」が栽培され「チョコ」が開発され「チョコとミントを組み合わせよう!」と思いついた人がいて。で、お菓子を売っているレジを作っている会社もあって、店舗の建物自体の建築に関わった人もいっぱいいて……と、そうやって見ていくと、この社会はいろんな人の時間や体力等、言い換えると知らない人が命を削って作り出した労働による産物で回っており、皆もれなく何らかの形でその恩恵にあずかっていて、そして自分もその一部として、同じように労働等で世の中に与えていく立場なわけです。
 なお、そうした「与える側だ」と自覚した人は時に思いやりの心から時間外労働をしたり無報酬でプラスアルファの成果を出したりしますが、それを受け取る側が「当然の享受だ」と勘違いしていると、カイロ団長やオツベルのように反撃にあいます。現代だと、労働者が泣き寝入りをせず会社を訴えたり、ネットで炎上したり(良し悪しはおいといて)というケースが目立つでしょうか。

 「労働はお金をもらうためだけのもの」と捉えているとただ苦しいだけですが、「世の中の誰かのためになっているんだな」と思えばちょっとだけ苦しくなくなりませ……ん? とりあえずチョコミント商品の生産に関わってくれている皆さん、売ってくれるお店の店員さん、その他いろんな皆さん、ありがとうございます。おかげで「今日もチョコミント食べて頑張るぞ!」と私は私の仕事を頑張れますし、プライベートの時間も「少しでも読んだ人に何らかの気づきがあってくれるといいなぁ」と思いながら、こんな文章を頑張って書いたりしています。そうやって、自分が受け取ってきたものを次につなげられればいいなあと。
 まとめると、労働とは本来お金などの「数」「量」として捉えられないものなのではないかなということです。

 こんな例え話も。あるところに「手」さんと「口」さんがいました。
 「手」さんはいつも「口」さんに食べ物を運ぶだけで、「口の奴ばかりいい思いをしやがって」と思っていました。「手」さんは知らなかったのです。実は自分も「口」さんも同じ「体」を構成する一部で、どちらかが自分の役割を放棄したら二人とも死んでしまうことを――。ここで言う「体」は「会社」でもいいし、「日本列島」でもいいし、グローバル化の進んだ現代では「世界」でも十分に当てはまります。
 と、これは実はわざわざ書かなくてもみんな何となくわかっていることなんですよね。震災でどこかが被害を受けたときに、直接自分に何かが返ってくるわけでもないのに、多くの人が募金をします。

 「金は先に出て後から返ってくる」という言葉がありまして、まあこれもあるゲーム中の言葉なんですけど(またゲームか)、私はこの言葉が何気に好きでして。この言葉を心の隅において、買い物をするときなどは「とにかく安いもので得をしよう」よりは「これはお金を払うに値するだけの価値があるな!」と思ったものに極力お金をかけるようにしています。物そのものだけではなくて、その物の背景にある労働や積み上げてきたものへの敬意、これから積み上がるであろうものへの投資まで含めてしかるべきお金を払いたいです(庶民にも払える範囲で……)。

 そんなわけで「支え合い」が労働の本質であり人間社会のいいところでもあるので、「他人を蹴落として自分だけ勝ち組になれればOKだろ」というスタンスの方は本当に、本当にそれでいいのか一度深く考えてみてほしいなあと思います。というか、天井突き抜けるレベルで勝ち組になった人は慈善活動に励んだりしますよね。ビルゲイツとか。

 ミヤケン作品考察から思いっきり離れてしまった。ともかく「みんなが自分の持っているものをお互いに与え合う」のが労働であり自己犠牲の日常における実践であると賢治は考えていたのではないでしょうか。
 産業組合の指導や羅須地人協会はその考えが下地にあったのではないかなと。『ポラーノの広場』では主人公は最終的に少年たちのもとから離れますが、この主人公は賢治自身という説もあり、そう捉えると「教える立場側の人間がいずれ去っても、残された者だけでやっていけるように」というのが理想だったのかもしれません。

 ちなみに、『税務署長の冒険』という作品があります。税を徴収する側と徴収される側では見ている世界が違うわけですが(絶対税金徴収してやるマンVSなんで税金とられなけりゃならんのだ団)、現在、税金も社会を構成する重要な要素です。脱税して自分だけが得をしているつもりでも間接的に自分の「体」を死なせることにつながっているわけですし、税を受け取る側もいかに「体」を健康にするかに尽力しないといけないわけですね。


Ⅵ.『銀河鉄道の夜』考


ジョバンニが銀河鉄道の旅から持ち帰ってきたもの

 宮沢賢治に関する考察は以上でひと段落なのですが、やっぱり賢治といえば『銀河鉄道の夜』ははずせないだろうということで、総まとめも兼ねて作品の考察をしてみたいと思います。あらすじは省きますので、一度原文をお読みいただいてからどうぞ。以降の考察は、特記なき限り第四次稿の内容になります。

・カムパネルラという存在
 この物語は「相思相愛の大親友との死別の物語」と捉えられがちなのですが、はたして本当にそうなのでしょうか……?
 カムパネルラはケンタウル祭にジョバンニを誘うこともせず、ザネリたちのグループと一緒にいます。その他作中から読み取れるのは、父親同士の仲が良かったため昔はジョバンニはカムパネルラの家に遊びに行っていた、最近は話しかけることも少ない、ということ。なお第三次稿の時点では「カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって……(くれたらいいなあ的な流れ)」と書いてあります。
 これはジョバンニが一方的にカムパネルラにあこがれていて、一方のカムパネルラは悪口を言わず、かつ誰とでも仲良くできるというイメージがあるのではないでしょうか。つまるところ、物語の時点では言うほど二人が特別に仲良しというわけではないのではないかと……。
 すなわち、この物語の土台は「親友との死別ドラマ」ではないと考えられます。
 そしてカムパネルラが助けるのは、ジョバンニに悪口を言ってくるザネリです。命をかけて助けたのがジョバンニだった、だとしたら感動の物語としてキレイなのですが、そうではありません。そしてこれこそが物語の重要なポイントでもあると考えます。

・ミルキーウェイから乳を汲んでくる
 ところで、この物語は「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていた……」と始まります。そしてジョバンニが序盤に(ベタなシャレきたー)家に帰ると、届いているはずの牛乳が届いておらず、銀河鉄道の旅から帰ってきたあと、牛乳を受け取ります。
 おそらくこの物語は、「牛乳が無くて苦しい状態のこの世に、銀河鉄道という天の川(ミルキーウェイ=乳)世界へ行って牛乳を汲んでくる」イメージがあるのではないかと。ここで言う「乳」は「釈迦の智慧」、賢治の考える大切なものの象徴であると考えます。
 子どもたちが「ケンタウルス、露をふらせ」と言います。賢治作品ではそうした「釈迦の智慧」は上から降ってくるものとして書かれているようです。川底に住む『やまなし』のカニのように、地上という低い場所に住む人々は、それが天から降ってくるのをいつも待っています。『十力の金剛石』も、露が降ってくるのをみんな待っています。そして『銀河鉄道の夜』では子どもたちの祈りに応じてか、ジョバンニが空の上の天の川の世界に遣わされ、そこから乳という形で天の川のしずくを持ち帰ってくる構図なのではないかなと。なお、「乳」は母から子へ「与えるもの」です。

 では、ジョバンニが銀河鉄道から持ち帰ってきた「大切なもの」について、順を追って考えてみます。

・続 カムパネルラという存在
 銀河鉄道は、死者を乗せて走る汽車です。そこでジョバンニは、カムパネルラと出会います。
 カムパネルラがザネリという嫌な奴を助けたことがこの物語の重要なポイントと書きました。「ザネリみたいな胸糞が死んどけばメシウマなのに」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、賢治がそうした作品にしなかったのは、やはり「自分が助けたいと思った人間だけを助けているうちは何にもならない、それは釈迦の教えではない」という考えがあったからだろうと思います。
 カムパネルラは誰とでも仲良くできるタイプと書きましたが、きっとザネリもジョバンニも誰も特別視せず平等に扱う人物だったのでしょう。「悟りの境地に片足踏み込んだ人間は、川で家族と他人がおぼれていたときに五分五分で助ける」と書きましたが、まさにカムパネルラはそういうタイプだったのだと思います。いじめっ子のザネリだろうが、祭で浮かれて酔っ払って足を滑らせたおっさんだろうが、道頓堀に飛び込んだ阪神ファンだろうが、その場にいたら命をかけて助けるのだろうと思います。
 『貝の火』という作品でも、主人公のホモイは損得勘定無しに無我夢中でひばりの子を助け、「貝の火」をもらいます。ホモイが威張り散らすようになっても、盗品を食べても、貝の火の輝きは消えません。おそらく、そういう風に世の中ができていないからです。しかし自分の命を守るために逃げ出したとたん、貝の火は曇ってしまいます。
 この作品の原稿には「因果律を露骨ならしむるな」なるメモが残っていたそうですが、「善人は必ず救われる」「悪人は必ず不幸になる」といった人間が理解できるような損得勘定では回らない理不尽さがこの世の真実だろうということなのではないでしょうか。カムパネルラはそうした損得勘定からは一歩抜け出した考えを持っていたのだと思われます。
 そしてカムパネルラがそうした人物なのは、両親の影響なのでしょう。「だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」――つまり、お母さんは「与えること」を知っている人物で、カムパネルラにそれを教えたのはお母さんかもしれません。また、ラストでお父さんが冷静に「もう駄目です」と言います。「息子おおぉ!」と取り乱すのが普通だと思いますが、このお父さんも「ああ、今夜が息子の番だったのだな」と、『なめとこ山の熊』の小十郎のように、この世の仕組みを知っていたのだと思います。

・鳥捕りと燈台守、ジョバンニの切符
 ところで銀河鉄道の乗客の鳥捕りと燈台守、ついでに車掌は、カムパネルラや沈没船の三人のような死者ではなく、どうももともとそこで暮らしている人たちのようです。『ひかりの素足』でラストに登場する死者を連れて行く光の人はチョコレートをくれますが、その人物と同じように「この世とあの世の間で死者を案内する・準備をさせる」という立ち位置なのではないでしょうか。鳥捕りはチョコレート味の鳥をくれます。燈台守のほうは鍵を持っていますが、これはキリスト教におけるペテロ(天国の門番)のイメージなのかもしれません。
 この汽車は死者を運ぶ汽車で、傾斜があるため一方通行だと書かれています。ところがジョバンニは何故かどこへでも勝手にあるける不思議な紙を持って生身のまま汽車に乗っていました。そのため鳥捕りや車掌は「うわっ、なんだこいつ!?」となったという図なのではないでしょうか……。通常は汽車に乗った者は現世へと帰ることはできないけれども、ジョバンニはそこで得たものを持って現世に帰ることができる存在だったというわけです。
 もうひとつ。鳥捕りと燈台守は主に仕事の話をします。そしてジョバンニたちに鳥を分けてくれます。その後、ジョバンニは「鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました」「持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら……」のように思うようになります。
 鳥捕りは、鳥を根こそぎ捕まえるわけではなく、「からだに恰度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」と仕事をし、そしてそれを周りに配ってまわります。ジョバンニは、そうした人が真面目に働いていることを知ります。
 鳥捕りも燈台守も、おそらく永遠にその仕事を続けている存在なのだと思われます。その人たちに、もらった分をお返しするように「与えたい」。しかし「その人たちのほんとうの幸は何だろう」。その人たちが働いている場所も「不完全な第四次幻想」であって、「ほんとうの天上」ではないのです。
 その後のジョバンニのセリフも「北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう」と同じことを言っています。「みんなかわいそう」ということに気がついたとも言えるのかもしれません。

・『銀河鉄道の夜』は「ほんとう」を探すお話
 この物語は何度も「ほんとう(の幸・さいわい)」という言葉が出てきます。おそらくその正体は、「正遍知」という言葉に表される「すべての物事に関して正しく機能する」という性質を持った幸せのことなのだと思います。
 沈没した船の男の子や女の子や青年はキリスト教徒で、教えに従い他人にボートの席を譲りました。また、カムパネルラは「ほんとうのさいわいが何かわからない」と言います。カムパネルラは両親の影響からか自己犠牲を良いこととして実践しましたが、それがどういう意味を持つのかを自分では理解していなかったのかもしれません。
 ジョバンニの思う「ほんとうのさいわい」は、そうしたキリスト教徒もカムパネルラも、すべての人間、生物、存在を幸せにする性質のものなのでしょう。あらゆる信仰も化学も地理も歴史もすべてを包括する、議論の余地もない絶対的に正しい真実。『雪渡り』で書いたような、隔たれた世界の境界を取っ払ってしまう、そうした何か。プリオシン海岸で学者が言っていた「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ」はこの表れなのかもしれません。
 話を戻すと、ジョバンニは死んでしまったカムパネルラや沈没した船の三人の自己犠牲を見ました。鳥捕りから「こうやって働いている人がいる、そうした人に何かお返しをしたい」と思う気持ちを得ました。女の子からさそりの話を聞きました。
 そうして、「与えること=命をつなぐこと=『死』に意味を持たせることができるということ=生きるとは、命のつかい方を考えるということ」という気づきを得て、それを乳という形で現世へ持ち帰ってくるのでした。
 と当方は解釈しましたが、いかがでしょうか。

・東洋の異世界もの
 『銀河鉄道の夜』はジョバンニが現世から銀河鉄道という異世界へトリップして戻ってくる、所謂「異世界もの」のお話です。
 当サークルの『本当は深いグリム童話』(ダイマ・再)にて「異世界ものは、その世界にとどまっていただけでは解決できない問題にぶち当たったときに、違う世界を覗くことで新しい知恵に出会い問題を解決する話」のように書きましたが、これは西洋・東洋限らず昔も今も物語の定番パターンとして根付いています。
 西洋の物語は、「物理的に異世界に行く」「まさに魔法の力を持ってくる」「世界を変えて解決する」という傾向があるそうです。一方東洋の物語は、「夢を見たり幽体離脱をして精神だけ異世界に行く」「世界は変わらない。変わるのは異世界トリップした登場人物の心理的な部分だけ」という傾向があるらしく、この「世界は変わらず心理だけ変わる」は「悟り」体験に似ているのだとか。『マグノリアの木』はそんなお話ですし、賢治作品は『銀河鉄道の夜』のほかにも、『ひかりの素足』、『十力の金剛石』などなど、そうしたつくりの物語が多いようです。
 そしてそれは賢治作品では「高いところから見る・ひとつ高い次元から見る」という構図で表されるというのは考察してきたとおりです。『やまなし』はカニが二次元の存在(川底に住む、「高さ」が無い存在)で、高いところから智慧がもたらされるという幻燈(疑似体験)の物語です。『どんぐりと山猫』も、どんぐりたちは人間から見ると地面に散らばる二次元的な存在で、どんぐりたちの中でどんなに「俺が! 俺が!」と言っていても、「高さ」のある人間目線からは「いや、どんぐりの背比べじゃん」となるわけです。『銀河鉄道の夜』では「三次空間」「幻想第四次」という言葉が出てきます。ジョバンニたちが暮らす地上の現世が「三次空間」だとすると、銀河鉄道が走っている天の川は「高い」位置にあり、ひとつ上の次元の「第四次」世界だということです。ただ、そこも「不完全な幻想第四次」であり、キリスト教徒とカムパネルラとで降りる駅も違う、汽車に乗れなかった人は鳥になる(と思われる)、「ほんとう」の天上世界ではない、「完全な第四次」の入口のような存在でしょうか。
 葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』の簡単な考察をしたことがあります(該当記事)。当方の考えでは、このお話は「手紙を読む」が「異世界トリップ」に当たります。幽体離脱をして意識だけが異世界に行き、自分と世界を俯瞰して見たあと、わが子の声で現実世界に戻ってくるイメージです。戻ったところで世界は変わってはおらず、相変わらず貧乏だし働かなければいけない、でも主人公の心理的な部分にはちょっとした変化があって、もう世の中を壊すためにめちゃくちゃに暴れるようなことはしなくなったと。芥川龍之介の『蜜柑』も同様に、娘が席を移動し蜜柑を投げるその間だけ「私」は異世界を体験しますが(地の文の視点もその部分だけ一瞬ワープする)、「云いようのない疲労と倦怠」の根本的解決にはなっていません。でも、確かにそのとき「不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来た」のだと。
 世界は変わらないし、変えられません。しかし自分は変えることができます。そして自分の変化は、鏡のようにそのまま自分にとっての世界の変化となります。このように、日本の物語の根本には東洋哲学的な考えが潜んでいるのかもしれませんね。
 そして、それはメタ的に捉えることもできます。読書はちょっとした異世界トリップです。『銀河鉄道の夜』を読んだあなたは、何を持ち帰ってきましたか?


~おわりに(あとがき)~


 考察は以上で終了です。お疲れ様でした。
 (記事を読み返してみて、この内容だと考察というよりほぼ解釈による読み解きだな……と思うなどorz)

 宮沢賢治というと銀河鉄道のキラキラしたイメージもあって「なんかキレイなお話書く人」との認識の方も多いのではないかと思いますが、今回考察をしてみて、実際は「お前らみんな、さそりのように無駄に殺して無駄に生きて無駄に死んでく存在だよな。で、さそりは星になれたけど、お前らは何になるわけ?」「かわいそうだから草食主義? 良質なたんぱく質だから肉食OK? ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ、そんなの全部茶番だヴォケ」のような、笑顔で全力ラリアットかましてくるような作家なんじゃないかな……との印象を受けました。
 私自身は、宮沢賢治作品は教科書で『注文の多い料理店』やったかなぁ、あと『雨ニモマケズ』暗唱させられたなあ、くらいの認識でした(しかも授業の内容カケラも覚えてない)。主人と宮沢賢治について話すようになって初めて賢治作品は「命の物語」ということを知ったのですが、改めて作品を読んで大分価値観が変わったように思います。

 子どものころ、よく「大人になればわかるから」「大人の言うことをききなさい」と言われました。そのため、子どもの私は「大人の世界は子ども同士のおままごとのような世界ではない、『ほんとうの』世界なんだ、大人は『ほんとう』を知っているんだ」と思っていました。この子の持ってる消しゴムよりあの子の持ってる消しゴムのほうがかわいい、あの子は縄跳びで三重とびできるからすごい、あいつ昨日学校でウンコしてたぜー(男子限定)などなど、きっと大人はこんなしょーもないことであーだこーだ言っていない、何かもっと「ほんとう」の、実のあることを毎日議論して生きているんだろうと。だから「大人になれば無条件で自分も何者かになれる」と思っていました。
 ところがお分かりの通り、大人の世界も何も変わりません。日々ただ食べるためだけにお金を稼ぎ、誰々の顔を立てるためにあーしろこーしろ、あいつ何人とヤったらしーぜー、などなど。「大人たちには目指す真の目的・生きる理由がある」というような「ほんとう」などどこにも無かったのだと成長するにつれ思い知らされます。
 世界に絶望した後に思い知るのは放り出された「何者にもなれない自分」です。自分はアニメのモブ役にはなりたくない、でも顔やスタイルが良いわけでもない、勉強ができるわけでもない、運動神経も悪い、絵もまわりにアホみたいに上手な子がたくさんいる……と、どんどん「私なんか」というルサンチマンを募らせていきました。ルサンチマンを募らせると、本当に何もしないうちから「自分は被害者だ」と思い込むようになるのだと思います。「どうせ絵の上手い下手は生まれ持った才能でしょ。努力? 努力できるのも才能だよ、私は努力できる才能もなかったよ」。「どうせ美人はいい思いするけど私みたいなブスはゴミ扱いだよ」。「成功体験ばっかり紹介するなよ、私みたいな仕事のできない底辺低所得にとっちゃそんな特殊な例はただの自慢にしか見えんわ」。――誰か、私を「何者か」にして。
 そうやって世界との向き合い方を完全に見失っていた中で、やがて宮沢賢治作品を読むようになります。そこで学んだのは、「自分が何者か」は他人に決められてなるものではなく、自分で決めるものだということでした。それは言い換えると「自分で自分の命のつかい方を考える」ということ、「生きる意味」は外から与えられるものではなく自分で考えるものなのだということです。それも金銭的な貧富や学歴や容姿や絵の上手さといった「数」「量」「上下」で表されるものでは語れないもので、それどころか現代人の価値観や固定観念という、人間の小さな世界には収まりきらないものなのだと、そう思うようになりました。
 と同時に、世界は有限で、無限にある資源をいかに手元にたくさん確保するかではなく、いかに配分していくかで皆苦心しているのだということにも気がつきました。「無限にあるんだから自分にも与えてくれるのが当然だ」は幻想なのだ、大人は最初から「無限」など持っていなかったのだ、「みんなかわいそう」だったのだ、と。そして視野が少し広がると、クソだと思っていた世界の中には、実はすでに「人間は誰でも与える側にまわることができる」と知っていて、自分なりに少しでも世界に還元しようとしている人たちが、目立たないだけでそれなりにいたのだということに気がつきました。なんだ、自分が気づかなかっただけで世界捨てたもんじゃなかった、一生懸命生きている人いっぱいいるじゃん、と。
 人間は知能を持ち、未来を予測できるようになりました。その結果、死を恐れるようになりました。死んだら消えてしまうのが怖い、でも未来までずっと名を残すような有名人になれる気はしない。自分ひとりで生きていたら、自分が死んだ時点で何も無くなってしまう。そこで「自分だけが得をしたい」ではなく、「他人も自分の一部だ」と思ってしまおう、そのほうが楽になるぞ、と。他人のために何かを残せば、その他人が生きている限り自分は完全には消えません。そして自分の影響を受けたその他人がまた別の他人に何かを残すことで、何らかの形で「自分の生きた証」は後世に続いていくと考えることができます。この世は人の手の届かないレベルですでに理不尽で、生きるとはそんなのと対峙しなきゃならんということです。突然襲ってきたクジンシーに対抗するためにソウルスティールの見切りを息子に継承するくらいしたっていいじゃないですか(何度目のゲームでの例えだ)。ともかく大きなものの一部として、自分は自分にできる役割を果たせばそれで良いわけです。例え自分の生きている間に結果が出なくても。そして本文中でチョコミントで例えたように、実際、世の中はそういう風にできているのだと思います。

 第二章で「言葉」について書きました。言葉は確固として存在しているというのは思い込みで、ただの便宜上の道具です。言葉に振り回され過ぎないよう気をつけないと、本来必要の無いところに境界を作って余計に本質を見失ってしまう可能性があります。で、そんなことを考えていたときに思ったのが、「善」と「悪」も人間が便宜上勝手に作った概念で、そんなものは本来存在しないのではないかということです。
 未来を予測し死を恐れる人間にとって「自分に危害が加えられるかどうか」が善悪の定義の原点なのではないかなと思います。そうして危害を加える可能性のあるものを「悪」としたわけですが、実は絶対的な「悪」は存在せず、この世にあるのは「原因」と「結果」だけなのではないかなと。
 例えば、ひどいいじめの末にいじめられた子が自殺をした、という事件があったとします。みんな「いじめた側を死刑にしろ!」と言いますが、いじめた側の子も実は親から良い扱いを受けておらず、そのしつけの悪さや寂しさの反動からどうしようもなくいじめに走っていたのかもしれません。「親が悪い!」……その親も、自分の親や周りから同じように扱われ、「子どもはそう育てるもんだ」と思い込んでいたのかもしれません。その親や周りの人も実はこれこれの影響で……と、「こいつが諸悪の根源!」というものにはおそらくたどり着けない、逆に言うと「世の中全体が原因」ということになります。つまり私たちは時間も空間も超えてお互いに影響し合い、それは複雑過ぎて人間には把握できないのだと思います。
 ひどい独裁者も、その独裁者が誕生する下地はいろんな要因が作ってきたわけで、「歴史にイフは無い」はそういうことなのかなと。同じくいろんな要因から「低学歴はダメ」「童貞は笑う対象」のような価値観ができ、その結果翻弄された若者が無差別殺人を犯したり。言い換えると「個人の意思」なんてものは実は思い込みで、すべての行動はさまざまな環境やなんかによる原因が総合的に作用した結果なだけであり、自分が今悪事をはたらかない人間でいるのは100%運なんだろうなと。犯罪者は、違う道を歩んだ自分ともとれるのかもしれないということです。
 そう考えるとただストレスの要因を取り除くために「こいつを死刑にしろ!」では解決しないわけで、広い視野のフラットな考えが必要になってくるんだろうなと。まあ結局は人間「故意に他人を傷つけること」=「他人を最初から最後まで自分の欲のための手段・道具・コンテンツとして見ること」さえしなければ基本的には何をやってもいいと思います。というか私が思うに、これが人間の不幸の大半を作っています。……ともかく、こうした「原因」と「結果」のことを、「因果」と呼ぶわけです。
 「みんなかわいそう」であり、「原因に影響されて事件を起こしてしまった無差別殺人犯は許す、そうなってしまった環境などの原因じたいを許さない(変えていこうと知恵を出し合う)。罪を憎んで人を憎まず」が理想なわけですが、「川でおぼれている家族じゃないほうを助ける」と同様、殺人鬼に殺されても「ああ、因果だからしょうがないな、自分の番だったんだな」とその殺人鬼を許せるかというと、きっついですよね。
 賢治も、そうした釈迦の教えを理解し実践しようと試みつつも「感情が追いつかない実際の自分」との間で苦悩していたのだと思います。おそらく、釈迦の教えは「理想」として小説などの物語に著し、一方の感情が追いつかない自分という存在から出たものは「修羅」として詩に書いたのではないでしょうか。本記事で詩を取り上げなかった理由は、実はここにあります。賢治作品は小説と詩とでまったく違うアプローチをしなければならないのだろうなと……。
 そして私自身も、いざ殺されるというときにそう思えるのかといわれると、やっぱり厳しいです。でも、実際刺される時は「ぎええええええーっ(;:゜;益;゜;)」てなるだろうけれども、頭のどこかにいる俯瞰した自分は「その人も心の底から本当に自分の意思で刺しているわけではない、かわいそうな存在なんだから許してあげなよ」と言っているんだろうなと思いますし、もし主人が川でおぼれている私ではなく知らない他人を助けたとしても、できれば心穏やかに親指立ててサムズアップしながら沈んでいきたいなと思います。
 「因果」と書きましたが、この「原因」と「結果」は、人間には認識不可能なものも含まれているのだと思います。所謂「バタフライ効果」のようなものです。「1+1=2」が人間の理解できる因果だとしたら、「実は最初の1を置いた時点で5の3乗離れたところに8が出現する」みたいなイメージでしょうか……。ともかく私たちは宇宙が誕生したときから宇宙の一部です。いろんな原因から、今現在の私たちの状態が結果としてあります。どの原因がどういった結果に結びつくのかおそらく未来永劫私たちには把握することは出来ませんから、宇宙を構成する部品の一部である以上、例えばあなたが一発くしゃみをかますかどうか悩んでかますほうを選んだ結果、宇宙の遠い星で新たな生命が誕生するかもしれません。ホントか。

 さて、本文も含めここまで長々と書いてしまいましたが、「結局自己犠牲は賛同できん」「釈迦の哲学意味分からん」「そもそもこの著者、文章下手」等々お思いの方も多いと思います(最後のは何というか、ごめんなさい……)。ここまでの私の駄文の部分は全部すっ飛ばしていただいて結構ですので、どうかこれだけ心の隅に置いておいてほしいなということがあります。それは「あなたはひとりではない」ということです。強制的に、ひとりではありません。
 この記事を読んでいるということはパソコンやスマホを手にしていると思われますが、そのパソコンやスマホを作っている皆さんがいらっしゃいます。その作業に使われている機械を作った皆さんがいらっしゃいます。その機械の部品を、その部品の素材を作っている皆さんがいらっしゃいます。その技術も、また別のたくさんの誰かが歴史の中で代々努力して開発してきたものです。そして使われる素材・材料は世界中のあらゆる場所から運ばれます。パソコンやスマホも、マグカップも、ペンも、服も、家も、食べ物も、身の回りのあらゆるものどれひとつとってもものすごい数の人が関わっています。普段、いちいち気にしていたら圧倒されて生きていけないので私たちは忘れてしまっていますが、実はものすごい人数の「誰か」が労働という形で命を削った結果、生活をより良くしようと試行錯誤して命を懸けてきた歴史の積み重ねの結果、パソコンが、スマホが、マグカップが、ペンが、周りにあるあらゆるものが出来ているのです。
 そして人間の命だけではありません。例えば紙ひとつとっても、材料となった木、その木を育てた土壌に住んでいた虫や微生物、伐採の際に犠牲となった虫や動物。食べ物は言わずもがな。本当にどれひとつとっても、背景に膨大な量の命があるのです。あなたは、そうしたものに囲まれています。
 そしてこの「つながり」は、この程度ではとどまりません。石が、草木が、太陽が、空気の粒一つ一つが、あなたを構成する要素の一つ一つが、まだ見ぬ宇宙のあらゆるすべてのものが、遠い遠い過去からお互いに影響し合い、その結果、今のあなたやいろんなものが存在しています。あなたを含むすべてのあらゆるものが見えない線でつながっています。そしてそれは未来のあらゆるものともつながっているのです。
 この、とんでもない関係性の洪水。伝わりますでしょうか……。この、あなたと、私と、宇宙のすべての存在とをつなぐ見えない線のことを、多分「縁」と呼ぶのだと思います。または「愛」と呼ぶのがふさわしいのではないかと、私は思います。

 そんなわけで、ご縁があってこの記事をお読みいただいた皆様に少しでも何かの気づきがありますように。そしてこの記事を出したことで世界がほんのちょっとだけでも幸せなほうに向かいますように。

 ここまでお読みいただいて、ありがとうございました!


M山の嫁


▼本文中で名前を挙げさせていただいた参考図書
・『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』(飲茶/河出文庫)
・『史上最強の哲学入門』(飲茶/河出文庫)
・『花もて語れ』(片山ユキヲ/小学館)