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「セメント樽の中の手紙」を読んで

(ブログ https://grimm.genzosky.com の記事をこちらに引越ししました。)

 葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」を読んだ主人の解釈が少し面白かったのでメモ程度に書いておきます。
 ウラをとったり資料を当たったりといったことは一切していません。根拠のないほんの思いつき程度の読み解きですが、まぁ少しでもここをご覧になられた方の参考になり何なりになれたらいいなと。おそらくこの物語をこのように解釈するのは主人くらいでしょうし10人中10人が「いやそれは違う」と言うと思いますが、そんな内容でもよろしければ続きをどうぞ。
 あ、「セメント樽の中の手紙」を読んだことのない方は先にお読みください。ただし若干のグロ描写があるのでそこはご注意を。

青空文庫リンク

 「セメント樽の中の手紙」はプロレタリア文学の代表的な作品に挙げられるもののひとつですね。この「プロレタリア文学」、実は個人的には定義がもやっとしている感じがして「で、結局プロレタリア文学って一体どういうものをさすのよ?」と思っているのですが、世間一般的には「労働階級が上流階級に搾取されることをテーマとした作品」と言われることが多いのではないかと思います。
 そして「セメント樽の中の手紙」も、多くの人が「貧しい労働階級はきつい労働に追われ、上流階級に搾取されて物のように扱われひどい死に方をするかもしれなくても、それでも家には腹をすかせた子どももいるし逃げ出すこともどうすることもできない。そんな悲痛を書いた作品なんだ」のように読むのではないでしょうか。私も初見では大体そんな感じに読みました。

 が、実はこの作品、疑ってかかると実は本文中に怪しい部分が多数あるのです。それは、

・自分の大事な人が亡くなった翌日にこんなに冷静に手紙を書けるか?
・その大事な人の形見を誰の手に渡るかわからない箱に入れてしまうか?(しかも服の切れ端て、もらった方もいらんでしょという)
・手紙の内容も、書いている女はその場にいないはずなのにまるでその場で見ていたかのような臨場感。
・縫製の仕事をする結婚前の女の家に、頑丈に釘付けするような道具があるのか?で、箱を用意して自分で釘付けしたの?
・なぜ自分が縫っている袋に恋人のセメントが入れられるとわかる?

 などなど……。
 あ、あと、いくらなんでも人間1人分が混ざったセメントを何事もなかったかのようにそのまま出荷するか? と思うのですが。当時の労働者の扱い云々もそうですが、セメントとして使い物になるんですかね……? ついでに作業してる与三さんがぱっと見で「このセメント色おかしいぞ?」とか気づかないくらい見た目も変化ないもんなんですかね?

 つまりまとめると、「女工の手紙は本物なのか?」ということです。
 手紙にあった死亡事故が創作の可能性もあるし、もしかしたら手紙を書いたのも女工ではなく工場の関係者の男性が書いた可能性もあり、それも労働者じゃない可能性もあるわけですね。
 とまあ、ここまでは、この作品を読んでいて同じように疑問に思った方は結構いらっしゃるのではないかと思います。
 で、そうすると「じゃあ誰が何のために?」となるわけですが、ここで話を振っておいてなんですが、実は「手紙が本物かどうか」はこの作品の本質にはかかってはこないどうでも良いことなのだと思います。おそらく大事なのは、この「本物か偽物かわからない手紙がもたらしたものは何だったのか」なのではないだろうかと。

 さて、ここからが主人の独自路線甚だしい解釈になります。

 主人いわく、これは「見えない中身が見えるようになる話」ではないかとのことです。
 この物語では、作者が故意にそうしたのかどうかはわかりませんが作中によく「何かの中に何かが入っている」描写が登場します。セメントの樽の中には箱が入っていますし、箱の中には手紙が入っています。その手紙も、ぼろ布にくるまれています。そして松戸与三の奥さんのお腹には、7人目の子どもが入っています。ついでに与三の鼻の穴の中には固まったコンクリが入っています。

 はじめ、与三は箱の中身を見ることができません。が、「世の中でも踏みつぶす気になって」箱を踏みつけて開けます。そして手紙を発見します。
 さて、手紙を見る前とあとで、はっきりと変化していることがあります。それは与三の奥さんを見る目です。
 この小説は地の文の視点が作者(神)視点と与三視点とが入り乱れている感がある不思議な文章なのですが、目立つのは与三視点での文章かと思います。冒頭の鼻の穴を気にする描写「休みがあったんだが、~腹のすいているために、も一つは~暇がなかったため、~」のあたりなど、与三の頭の中に沿って書かれているような文章です。
 で、地の文のメインが与三目線だとすると、手紙を読む前とあとでは奥さんの呼び方が変わっています。読む前は「かかあ」ですが、ラストでは「細君」となっています。
 そしてその細君の「腹の中に七人目の子供を見た」。お腹の“中身”を“見た”と書いてあります。

 では、主人が言うところの「見えない中身が見えるようになる」は一体何を表すのか。言い換えると与三が見た「中身」とは一体何だったのか。

 それは「労働することの意味とその価値」だったのではないでしょうか。
 この気づきこそが手紙のもたらしたものであり、その気づきを与えられた与三は奥さんに対する心持ちが変わった、つまり何かしら考えに変化があったのだろうと考えられます。

 手紙を読む前、与三にとって労働は何の思い入れもなく、ただただその日を生きるために強いられてこなすだけの、呪いのような存在だったんだろうなと読み取れます。労働のみならず、自分の子供たちも、かかあも、その腹も、世の中のすべてが足かせのような呪いのような存在なんだろうと。自分の労働に一体どんな意味があるのかなど考える暇もなく、同様に自分の子供も、日々の生活も、それに一体どんな意味があるのか見出せていなかったわけです。取ろう取ろうと思って結局取ることのない(散々気にしているのに、昼休憩時も終わって顔を洗っているときも取ったという描写がない)鼻の穴のなかのコンクリは、抜け出すことのできないそうした状況の表れなのではないでしょうか。なお「かかあ」は漢字で「嬶」、女へんに鼻と書きます。

 ところがある日、例の箱を入手します。「世の中でも踏みつぶす気になって」実際に踏みつけて箱をぶち壊して開けますが、まさにこれが与三のそれまでの世界が壊れた瞬間だったのでしょう。
 手紙を見た与三は、「自分が何の思い入れもなく運んでいたセメントは、実は人間の血肉が入ったものだった」と知ったのです。
 自分が無感動に機械のように運んでいたものは、無意味で無機質なものなのではなく、実は他人の命であり、血が通っているものだったのです。

 この事実に気づいた与三は、価値観ががらりと変わってしまったのだと思います。
 もう、今までのように機械のように無感動にセメントを運ぶことはできなくなってしまった。鼻の穴に詰まったコンクリも、忌々しくて取り除きたいけれども、人の命なのだと知り、余計取り除くことができなくなってしまった。
 そしてそんな鼻の穴のコンクリと対応するかのように、与三は忌々しかったかかあへ向ける目が変わり、“意味があり価値のあるもの”としてその細君の腹の中にいる子供を“見た”のではないかと。
 ちなみに与三はラストで「何もかもぶち壊してみてえなあ」と言いますが、これは言いかえると「壊したいけど、壊せない」ということになります。奥さんも“壊されてたまるか”と言います。世の中をぶち壊すノリで箱を壊して中身の手紙を“見た”わけですが、鼻の穴のコンクリも、奥さんの腹の中の子供も、それを取り囲むこの世の中も、確かに忌々しいけれども無下に取り除くことも踏みつぶすこともできないものなのだと知ったために、2回目は「ぶち壊してえなあ」と言いつつも実際には壊すことはせずにお腹の中身を“見た”という構図になっているのではないでしょうか。

 手紙を読むまで、与三は金のために言われたとおりに動くだけで、自分の仕事がどういうもので、世の中でどのように影響するのかなど考えもしなかったでしょう。
 ところが、自分の手元に来たセメントは他人の命をかけた労働の産物であり、そしてそれは劇場だったり邸宅だったりダムだったりと、世の中のさまざまなところに渡っていくのだということを改めて意識させられます。そして自分の命を練りこんだ労働もまた同様に、世の中に出ていきまた別の労働者の手に渡るなどして何かしらの影響を与えていくのだと、つまり無意味なものなのではないと気づいたと。
 世の中における自分の立ち位置が“見えていなかった”与三が、労働というものの意味を通してそれを“見た”お話なのではないかなー? ということです。

 どこかで「異世界ものは、その世界にとどまっていただけでは解決できない問題にぶち当たったとき、違う世界を覗くことで新しい知恵に出会い問題を解決する話」のように書いたのですが、これは西洋・東洋限らず昔も今も物語の定番パターンとして根付いています。
 そして主人いわく、西洋の物語は「物理的に異世界に行く」「まさに魔法の力を持ってくる」「世界を変えて解決する」という傾向があるそうです。一方東洋の物語は、「夢を見たり幽体離脱をして精神だけ異世界に行く」「世界は変わらない。変わるのは異世界トリップした登場人物の心理的な部分だけ」という傾向があるらしく、この「世界は変わらず心理だけ変わる」は、言いかえると「悟り」に似ているのだとか。
 今回の小説でいうと「手紙を読む」が「異世界トリップ」ですね。幽体離脱して意識だけが異世界に行き、自分と世界を俯瞰して見たあと、子供の声で現実世界に戻ってくる。戻ったところで世界は変わってなくて相変わらず貧乏だし働かなければいけないし、でも与三の心理的な部分にちょっとした変化があって、もう世の中を壊すためにめちゃくちゃに暴れるようなことはしなくなったと。
 芥川龍之介の「蜜柑」も同様に、娘が席を移動し蜜柑を投げるその間だけ「私」は異世界を体験しますが、「云いようのない疲労と倦怠」の根本的解決にはなっていません。でも、確かにそのとき「不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来た」のだと。
 宮沢賢治の作品も「銀河鉄道の夜」をはじめ、この形式のお話が多い気がします。

 ……長くなりましたが、以上です。何の論拠もない解釈ですので、「こういう読み方する人もいるんだなぁ~」位に話半分に流しといてくださいね。

(追記 しっかりと読み込んだわけではない私(嫁)のぼんやりとした感想で申し訳ないのですが、「海に生くる人々」も「セメント樽の中の手紙」と同じように、作者は上流階級が搾取するという構造は非難しているけれども労働そのものは否定していない、むしろ労働者であることを肯定的に捉えているのではないかなあという印象を受けました。“世の中は支え合い”のようなテーマが作者の中にあるのだとすると、実は葉山嘉樹は宮沢賢治と似ているのではないかなあと個人的には考えております)

Written by : M山の嫁