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サテュリコン ~享楽と退廃のオデュッセイア~/トリマルキオンの饗宴 考

文学フリマで頒布した同人誌『「トリマルキオンの饗宴」考 ~享楽と退廃のオデュッセイア~』の内容を有料記事として公開します。

ガイウス・ペトロニウスによる古代ローマの小説「サテュリコン」内の一場面「トリマルキオの饗宴」を、歴史的資料としてではなく文学作品として読み解いていきます。

本記事は原作をお読みいただいている前提で書かれていますのでご了承ください。

Written by : M山


はじめに

 『サテュリコン』は、一世紀帝政ローマの時代に【趣味の権威者(elegantire arbiter)】としてネロ帝に仕えたガイウス・ペトロニウスによって執筆されたとされる、いわば人類最古の「小説」のひとつである。「趣味の権威者」とは、芸術一般に造詣が深かったネロ帝に「粋(いき)」を教授するアドバイザーであったらしい。
 日本の戦国時代にも、豊臣秀吉や徳川秀忠に茶の湯を通じて「数寄」を教える【茶頭】として仕えた「古田織部」という武将がおり、時代や環境は異なれど、この両者には共通する部分が多いように思われる。すなわち、通(つう)人を体現し、他者と違うことを求めたかぶき者であり、また権力者に仕えてはいるものの、己の信念のためには権力にも頭を下げず、自分の主人は自分であるという強い意思を持っていた。
 さて、才能を認められネロ帝の文学サロンに入ったペトロニウスは、その大胆奇抜な発想と行動でたちまち皇帝に気に入られるようになるのだが、これを良く思わなかった臣下の計略によって皇帝暗殺の嫌疑をかけられ、死罪を宣告されてしまう。しかし、強制された死をあざ笑うかのように、ペトロニウスは最期まで「通人」としての己を貫いた。自ら手首を切り、その傷口を開いたり閉じたりしながら宴席に臨み、飲み、喰い、友人たちと下卑た話に興じつつ、眠るように死を迎えたという。まるで、死さえも己の自由意志で決められるのだ、といわんばかりに。

 『サテュリコン』が本当にペトロニウスによる著作であったとして、しかしこれはいったいいつの時代に完成したものなのか。ネロの文学サロンにいた時期に書かれたものであろうか。それともそれ以前のものなのだろうか?
 こういった疑問に答えようとするのは難しい。なぜならば、現存している写本には断片がおよそ三章分しか残っておらず、その中でさえ遺失部分が多かったり、あるいは保存の際の混乱に起因すると思われる文脈の乱れも諸所に見受けられるからである。ゆえに残された資料だけで物語の全体像を把握するのは、非常に困難であるといわざるを得ない。断片の内容からは、そこに繋がる前段のエピソードがあることは推測できるのだが、現状ではそれ以上のことは分からない。いや、そもそも完成していたかどうかさえ不明なのである。
 その三章の断片中、奇跡的にほぼ完全に近い形で残されているのが、有名な「トリマルキオンの饗宴」と呼ばれる部分である。このパーツは、前後に語られる動的なストーリーに挟まれる形で置かれているのだが、過去多くの研究者が「饗宴」部の描写に資料的な価値を指摘している一方で、そこだけがまるで独立しているような印象が否めず、話の流れからすると少々不自然でもある。
 これまでの研究を見るに、この「饗宴」の意味については、当時の世俗成功者に対する皮肉だとする理解が一般的なようである。それではここで、残存テキストから読み取れる物語のおおまかな流れを示しておこう。

 ① 港町を訪れた放蕩な三人の若者たちが、悪事のために侵入した、とある神殿で、秘密の祭儀を偶然目撃しトラブルに巻き込まれる。秘密の祭儀とはプリアポス神に関わることであった。プリアポスとは男根の姿で表わされるローマの豊穣神である。
 ② 元解放奴隷の成金が催す「饗宴」の席に招かれた主人公たち一行であったが、それは悪趣味とでたらめが織り成す「狂宴」の世界でもあった。プログラムが進むにつれ、このパーティは主人であるトリマルキオンの生前葬であることが明らかにされていく。
 ③ 宴会場を抜け出した三人は、「弟」役の美少年を巡って仲たがいし、主人公はライバルを出し抜くべく、この港町から船旅へと脱出する。
 ④ 船上でも過去の悪行からトラブルに巻き込まれた主人公たちであったが、危機をなんとか切り抜けたのも束の間、それらを全て押し流す巨大な嵐が到来し、船は難破して主人公らは見知らぬ土地へと流れつく。
 ⑤ 丸裸同然となって上陸し、再起を期す主人公であったが、彼に襲い掛かってきたのはいよいよ本格的な豊穣神の呪いであった。この豊穣神の呪いである「性的不能」からの回復が試みられるが、回復の果てに待ちうけるものはカニバリズムであることが暗示され、物語はいよいよ混沌の中に入り込んでいく……。

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