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グリム童話考察⑪/ギリシャ悲劇について 2

(ブログ https://grimm.genzosky.com の記事をこちらに引越ししました。)

※あくまでもひとつの説です。これが絶対正しいという話ではないので、「こういう見解もあるんだな」程度の軽い気持ちで読んでください。
※転載は固くお断りします。「当サークルのグリム童話考察記事について」をご一読ください。

続きです。

初期のギリシャ悲劇は「人間が不幸なのは神様のせい」と、地母神の呪いを鎮めるためのものでした。
しかし、一向に人間の「つらい・苦しい」は終わりません。
そんな折、ソポクレスという人物(アイスキュロスと同じく、三大悲劇詩人の一人)がギリシャ悲劇界に一石投じてしまいます。

「人間が不幸なのは、神様のせいではなく、人間自身が呪われてるからなのでは?」と。

つまり人間は人間として生まれてきた時点でどうしようもなく不幸であると。
それがよく表れているのが悲劇「オイディプス王」です。
お話の内容は下記から。

オイディプス王(Wikipedia)

簡単にあらすじを書くと、主人公のオイディプスは生まれたときに「この子は自分の父親を殺し、母親と交わるであろう」という恐ろしい予言をされます。その運命に逆らうために、オイディプスの父親はオイディプスを山に捨てます。オイディプスは捨てられた先で拾われますが、そこでも同じ神託を受けます。育ての親を生みの親だと思っていたオイディプスはその運命を避けるために、育ての親から離れて行きます。しかし結局離れた先で、偶然にもそうとは知らずに自分の実の父親を殺し、そのまま実の母親と結婚して子どもまで作ってしまいます。最終的に事実を知った母親は自殺し、オイディプスも失意のまま姿を消してしまいます。そんな風に、運命に抗おうとしても結局は弄ばれておわってしまったというお話です。

このお話では神様が直接人間にちょっかいを出したりはしていません。
人間が自分の運命で不幸になるお話です。
しかもオイディプスはスフィンクスの問題に答えることができる、言い換えると人間を客観視できるような仙人のような人物だったにもかかわらず、それでも運命には逆らえないという、絶望しかないお話です。

そんなお話を出されたら、それはもう皆絶望感MAXです。人間に生まれた時点で呪われているのなら、もうどうしようもないと。
現に、このオイディプス王のお話がギリシャ悲劇の頂点だろうという見方もあります。
が、そんな中、同時にギリシャ人たちはあるひとつの大きな発見もします。
それは「呪いの原因は自分たちの中にある」、つまり「人間は神様に動かされているわけではなくて、自分たちの中にぐろぐろと渦巻く“心”を持っている」ということに気がついたのです。
現代人にとっては当たり前の感覚かもしれませんが、当時の人にとっては画期的な視点だったのでしょう。
じゃあ自分たちの中にある呪いの原因とは一体どういうものなんだ? と、オイディプス王以降のギリシャ悲劇は、神様を慰めるためだけの話ではなく、人間の心理や感情というものに重点を置いた作品が主流になってきます。
そしてそれは現代の創作にも引き継がれているわけです。

さて、ここで三大悲劇詩人の最後の一人、エウリピデスの登場です。
オイディプス王のお話は、運命から逃れようと知恵を働かせ、スフィンクスのなぞなぞにも答えられる知性を持ちながらも運命に打ち負かされるというお話でした。
知性を突き詰めてもダメだ、ではどうするかとなったときに、知性・理性・秩序とは逆の、地母神の持つ混沌・肉体・感情の性質に焦点を当ててみたらどうだろうとなったわけです。
それがよく表れているのがエウリピデスの作品「メディア」です。
あらすじは下記から。

メディア(Wikipedia)

母親に子どもを殺させる等、なかなかえぐい方法で感情の昂りを描いています。
エウリピデスの作品では「バッコスの信女」も有名ですが、これもメインはディオニュソスです。ニーチェがアポロン的・ディオニュソス的と表現したように、理性のアポロンに対して、ディオニュソスは感情・カオスの神様です。

さて、そのように人間の中のぐろぐろとした感情劇を描くことがメインとなるわけですが、果たしてそれに対して決定的な解決策などあるのでしょうか。
当然、そんなものはありません。
解決策の無い感情のぐろぐろ・どろどろ劇が大流行。一転して地母神の大勝利です。
このままだと、コーラス隊バリアを突き破って呪いが劇場からあふれ出てしまう。
それでは困る、ということで(ある意味無理矢理)取り入れられた手法が、「デウス・エクス・マキナ」、機械仕掛けの神様です。

デウス・エクス・マキナ(Wikipedia)

お話の終盤、人間の感情同士がぶつかり合ってにっちもさっちもいかなくなった“詰み”状態になったときに、突然絶対的な力を持った神様がババーンと現れて、なんか知らんけどキレイに解決していく、といったお話の構造です。
宮沢賢治の「猫の事務所」もそんなお話ですね。人間関係(猫関係?)ぐちゃぐちゃの職場に突然巨大な獅子が来て一言「やめてしまえ」、こうして事務所は廃止になりました、と。

さて、ギリシャでの流行はだんだん悲劇からより人間らしさを描く喜劇へと移り変わっていきました。
そしてニーチェが言うにはソクラテスの登場によりギリシャ悲劇は終焉を迎えたそうです。

ソクラテスは問答法が有名ですが、問答法は「突き詰めて行けば、絶対的な真実に行き当たる」というような考えが前提にありました。
弟子のプラトンも、イデアという理想的な真実の世界が存在し、我々の住むこの世界はイデアの影であると考えました。その弟子のアリストテレスも似たように、物事には究極的な原因があると考えました。そしてそれはのちのち科学の発展につながっていきます。
が、その「どこかに絶対的な答えがある」という考え方は、ギリシャ悲劇の「人間の中のぐろぐろって何だろう?」について考えることを否定する考え方でした。
そしてニーチェが言うには、この考え方はキリスト教の考え方と共通するそうです。
「良いおこない(キリスト教的な理想の生き方)をすればきっと神様が助けてくれますし死後天国に行けますよ」と。
どちらも、理想の世界があると思い込む(言葉は悪いですが……)ことによって成り立っていると。
でも、その通りに生活してたって神様が助けてくれる保証はないし、天国が存在する確証もない、つまり理想なんてもんはうそっぱちだ、「神は死んだ!」というのがニーチェですね。
語弊がありそうな気がするので、ニーチェの思想については各々お調べください。

さて、ソクラテスの考えから始まって現代、おおいに科学が進歩しました。
さまざまな事実が次々と解明されていきますが、解明されるにつれ、人間は細胞の集まりである、原子の集まりである、思考は電流である、つまるところただの物質であり現象である……といったことを受け入れなければならなくなってきました。
この調子で進めていったところで、科学が行き着く「絶対的な真実の世界」は、果たして人間の心を救ってくれるのだろうか?
皆うすうすそんなことはないのではと思っているのではないでしょうか。
ニーチェが近年になって新たに評価されているのは、そうした背景の中で「いかに人間らしく生きるか」という部分について考えさせられるからなのではないかと思います。
そのニーチェもまったく新しいことを言っているわけではなくて、ルネッサンスのように、実は数千年も前の古代ギリシャの人たちがすでに考えていたことを再提唱したような形なんですね。
ニーチェに影響を受けている作家さんは現代にも大勢いらっしゃいますが、その大元となっているのは前回の記事と今回の記事で書いたようなギリシャ悲劇だったんだよ、と。

長くなりましたが、とりあえずこの辺で。
前回同様主人独自の見解が入っている部分もあるうえに今回は私の見解も入れてしまったので、くれぐれも全部を鵜呑みにしないで、ご利用は計画的に(?)。
あからさまな間違いがありましたら、有識者の方はぜひコメントにてご指摘ください。

Written by : M山の嫁