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芥川龍之介「藪の中」考察

文学フリマ等で頒布した同人誌の内容を有料記事として公開します。

有難いことにお読みいただいた皆様からご好評いただき、弱小サークルながらも(小部数ですが)二度も増刷させていただいたのですが、流石にそろそろおサイフ事情や在庫抱えるリスクとにらめっこするのはキツくなってきたので……。

「犯人が誰か知りたい!」のような、真相を求めるような方にはおすすめしません。「藪の中」を推理小説ではなく純文学として捉え、作中の描写を吟味し作者の意図を考察、その読み解きの結果「私なりにこんな気づきがあったよ」……という内容となりますので、あくまでもひとつの読み物としてお楽しみください。

本をご購入いただいた皆様への配慮のほか、上記の「手っ取り早く真相だけ知りたい」のような方から飛ばし読み・意図が伝わらないまま酷評されてしまうと悲しいので有料記事とさせていただきます。また、もとが本なので、記事中に「本書では~」のような表現が出てきます。

ご理解とご購読のほど何卒よろしくお願い申し上げます。

Written by : M山の嫁


「藪の中」考察


はじめに

 主人と漫画「花もて語れ」(片山ユキヲ・著/小学館)を読み、そこから芥川龍之介の「蜜柑」の話で盛り上がった。同漫画は朗読を題材とした内容で、作中に登場する文学作品の中のひとつに「蜜柑」がある。
 正直に言うとそれまで私は芥川龍之介の作品は中学校の国語の授業で取り上げられた「羅生門」以外を読んだことがなく、主人に勧められて読んだこの漫画が、私の中学校時代以来人生二度目となる芥川作品鑑賞なのであった。

 ここで未読の方のために「蜜柑」の内容を簡単に紹介したい。
 ある冬の夕方、主人公である「私」が一人で二等客車に乗っていると、横須賀駅発車寸前に大きな風呂敷包みを抱え三等切符を手にした一人の田舎娘が扉を開けて入って来る。娘のみすぼらしい風貌や愚鈍さに苛立ちを覚える「私」。「私」は、人生は不可解で下等で退屈であると諦観してしまっている節がある人物だ。やがて娘は、閉まっていた汽車の窓をトンネル直前で何故かわざわざ開けてしまう。窓から車内になだれ込んだ煙でむせ返った「私」が娘を叱りつけようと思った矢先、汽車はトンネルを抜け踏切に差し掛かる。その時、娘は懐から出した何かを外に放り投げた。窓の外には手を伸ばす三人の背の低い男の子。娘が投げたものは、五、六個の蜜柑であった。それを見た「私」は、一切を理解する。恐らく娘は奉公先へ戻る途中であり、懐に持っていた蜜柑を踏切まで見送りに来た弟たちへあげたのだ。と同時に、「私」はこの時初めて、不可解で下等で退屈な人生を、ほんの少し忘れることができた――

 と、このような内容だ。それほど長い文章ではないので、できれば未読の方は一度原文を読んでから本書を読み進めていただきたい。

 芥川龍之介 蜜柑 - 青空文庫

 先に紹介した漫画「花もて語れ」によれば、実はこの話は、文中からいくつかのことが推測できるようになっている。「①大きな風呂敷包み」、「②時刻は夕方」、「③新聞に書かれた講和問題」、「④人のいない横須賀駅」、「⑤発車時刻に遅れた娘」という描写から、

 ①娘はこれから奉公先へ行く。
 ②初めて向かう奉公先であれば夕方に出発することはまず無い。
 ③講和問題は1919年1月18日から始まるパリ講和会議を指す。
 ④当時軍港だった横須賀で正月早々汽車を使う人はほぼいない。

とわかり、この娘は正月中に奉公先から実家に帰省していたのだろうと考えられる。さらに⑤より、娘が発車時刻に遅れたのは駅まで見送りに来ていた両親と時間ぎりぎりまで会っていたためで、また奉公に出なければならないほど貧しい家の娘が当時は貴重であった蜜柑を持っていたのは、両親が娘を気遣って、せめてもと持たせてあげたのではないかと想像できる。しかしその蜜柑をうらやましがる弟たちに、娘は両親に見つからないようにして何とか渡せないかと考えた。つまり「踏切のところで投げるよ」と前もって弟たちに伝えておき、それに合わせて窓を開けたのだ。
 以上が漫画内の考察で、これに主人の考えを追加すると、
 おそらく娘が発車直前に現れたのは両親を駅でぎりぎりまで引き止めていたためで、そうしないと横須賀駅と弟たちが居た辺り(恐らく娘の家の近く)まではそれほど離れていないため、見送りから帰ってきた両親に見つかってしまうのである。実際に地図で横須賀駅と次の駅との距離やルートを調べてみてもそう考えられると。

 まとめると、このように文中に散りばめられた様々な描写――ヒントからある事柄を推理・推測できるが、その推理自体が目的なのではなく、それによって人間ドラマを書こうというのが、この頃の芥川作品の特徴の一つなのではないかと考えられる。
 芥川は師と仰ぐ夏目漱石から「何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです」と言われていたという。芥川が目指したのは読者に推理を楽しんでもらうエンターテインメントではなく人間ドラマ、言い換えると人間の普遍的な本質を書くことだったのではないだろうか。

 さて、「藪の中」は「蜜柑」から二年後の1921年に書かれた作品である。
 「藪の中」は「答えはなく、考えること自体が無駄だというメタなつくりの小説である」という説も見受けられるが、前述のような「蜜柑」の考察を踏まえると、これだけ緻密で矛盾の無い描写をする芥川が、果たしてそのようなつくりの小説を書くだろうか。「蜜柑」と同じように散りばめられた描写から何らかの事柄が推測でき、かつその先にあるのは芥川の見た人間の本質なのではないか――そう感じた主人の考察をまとめたのが本書である。


■ポイント■
「藪の中」の読み解きとは、犯人探しが目的ではなく、状況を推理した先に
ある「芥川が書きたかったこと=人間の本質」を見抜くことが目的!


【第一章】前提条件と物語の構造

 いよいよ「藪の中」の考察に入る。ここから先はぜひ原文と見比べながらお読みいただきたい。

 芥川龍之介 藪の中 - 青空文庫


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19,470字 / 10画像

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