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ゆで卵と物事のバリエーション

子供のころからゆで卵はあまり好きではなった。
特に黄身が苦手だった。
白身はつるんとして食感もいいのだけれど、黄身はぼぞぼそしてて粉っぽい感じ。
大人になってもゆで卵に対する見方は変わらなくて、ゆで卵は自ら選んで食べることはなかった。

ゆで卵にはバリエーションがあった

最近、朝早起きして喫茶店に通っている。
朝のひと時、モーニングセットを注文してゆっくり本を読んだり、ネットをしたり、考え事をしたり、好きなことをする。

モーニングセットは一般的なもので、トーストとゆで卵とコーヒー。
ゆで卵はお店で茹でているようで、特に今日食べたゆで卵はまだ温かかった。

その日のゆで卵は作りたてのせいか、いろいろと気づくことがあった。
いつもよりも白身がプルプル。
「あれ、いつもよりおいしいな。塩をかけたくない感じだ」
続いて黄身を食べ進める。
黄身はいつもよりしっとりしていて食べやすい。
そして今までみたいな黄身の独特のにおいがしない。
「あれ、ゆで卵あんまり好きじゃなかったのに、なんだか前とは違ういい感じ」

「嫌い」の中に「好き」が見つかる

それまでわたしにとってのゆで卵の概念は1つで「白身はつるんで黄身はぼそぼそ」のものだった。
でも、よく考えてみたら、茹で時間や茹で方を変えればゆで卵のバリエーションはたくさんできる。

わたしは、きっと今までこうして物事のバリエーションがあることに気づかず「好き」「嫌い」をラベリングして判別してきたのだな、と思った。
「嫌い」と思ったものでも、それはほんの一面であって、別のバリエーションに触れたときに「好き」と思えるポイントが見つかるかもしれない。
いい加減ゼロサム思考をやめないと、わたしの世界はこのまま広がらない。

嫌いと好きのグラデーション

実は、「好き」「嫌い」の境界は線が引かれているようにくっきりと分かれていないんじゃないかな。
「好き」も「嫌い」も同じく自分の心が動いたこと。単なる裏返しだ。
そして「好き」と「嫌い」は淡いグラデーションを描き、両端でつながっているのではないか。

今まで嫌いと思っていたことや苦手だと思っていたことも、何かのきっかけで別のバリエーションのものに出会うことができれば、その感覚は変わる可能性が十分ある。

世界はまだまだ自分の行動で大きく広げていくことができる。
今まで知っていることをただトレースしていくだけの毎日が続いていくのではない。
自分の世界を広げることができることを実感として知っていれば、新たなバリエーションを求めて出かけたり、触れたりしに行くことができる。

これからどんな新しい発見があるんだろうか。
自分のこれからがまた一つ楽しみになってきた。
こうして朝の喫茶店に通うだけでも、こんな発見があったのだから、まだまだいろんな気づきがありそうだ。



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