小学校6年の時の修学旅行は、近場の長崎だった。
戦時中の悲惨な体験、江戸末期の出島での盛んなオランダとの交流、
明治維新後の三菱造船所、テーマとなるものがいっぱいあった旅行だったにもかかわらず、我が班に課せられたテーマは「長崎のキリシタン文化」であった。
先生…これ一番ムズいテーマくねーですか?
と思いつつ、締切前夜四百字詰め原稿用紙十枚程度書き殴り、明朝、担任に提出。
やっと責務を果たせたと思っていたら、放課後呼び出しくらった。
ああああ…一晩で書いたことがバレた…怒られる!と覚悟した。
が、意に反し担任が一言。
「これを市の作文集に応募します。」
ちょっと待って。
これを出して本当に先生困んないのかな、と思ったけど、どうも赤入れするのに丁度良いと思ったらしく。
担任に怒られ、何度も訂正され、なかば合作のような作文が完成。
そして、ほぼ功績は担任のものと思われる感想文が以下のものになります。
というか。
この頃から私の文章力、全く成長していない…
12歳で学力止まってしまっているなんて、大学受験を目指していた頃の自分は思いもせんだろうが…
とりあえず、担任の言う通りに構成しているんだろうけど、最後の方は感情の羅列でしかないの、今も変わってないな。おそらく、夜中のテンションで思うがまま書いたんだろう。恐ろしいほどに無駄な言葉が多いのも頷ける。
理系がからきしだったので、順序とか機序とか考える能力もなかったらしい。
もう一つ分かってしまったのが、この時点で日本共産党員になる要素てんこ盛りだったということ。
誘われて、悩んで、あんま頑張れないかもしれないけどー、自分なりに頑張りますー、とか謙虚なこと言っててその実、めちゃくちゃ良い子ぶりっ子というか、人のために働きたかったのだろうね。
友達にもいつも言われていた。
「はんなちゃん、先生に気に入られていいね。よくそんないい顔できるね。あの子をいじめちゃいかんとか説教するのも偽善者っぽい」
こんなこと言われ続けた子どもが中学に入ってどうなるか。
授業中ずっと机に突っ伏して爆睡、校則に従うことを“格好悪い”と、白けた皮肉屋さんへと性格をねじ曲げさせていくこととなる。
根が硬くてクソ真面目で融通の利かない人間だった分、何も主張しなくなった自分にも違和感を感じるようになり、“本当の自分ってどんな人間だったっけ…”と、高校ではひたすら悩み続けた挙句の難病発症だとしたら、何となく納得がいくんだよね。本当にバカだよね。
おそらく、中高時代の私は彷徨い過ぎてどこへ向かっていいか分からず、親にも相談できず、友達とも上辺でしか話せず、本当に苦しかったんだと思う。
これで、映画や音楽といった心の拠りどころがなければ、完全に命を絶っていただろうな、と思っていたらEMDRの先生にも同じことを言われた笑。
『自分の、核となるものが残っていて良かったですね。民生師匠に感謝ですね。』
思えば、中学入ってすぐユニコーンを好きになり、民生の父親が日本共産党員だと知った時、
“共産主義って、もしかして、うちの父親がいうような危険なモノではないんじゃ?”
と気がついてしまった。
この時点で反共などという思想は自分の中にはいっこもなくなっていた。
中一という早めの時期に、はっきりと意識出来たこと。それが自分のコアな部分をブレさせることなく生きていける要素となったのかなぁ、と。
小学校の頃の観察文を読んでみたら、そこに自分のルーツが垣間見えた、というお話でした。
久々、読み返してみてよかった。
余談だけど、この作文で賞状を受け取りに全校児童の前に出なくちゃならなくて、背中を丸めながら重い足取りで校長の前に立った。
こういった“恥ずかしい”といった感覚は今と変わらず、小心者の緊張しぃなのであった。
そして、表彰が終わって教室に戻ったら担任に怒られた。
『声が小さい!!』
今思えば、声小さくたっていいやんね、これが私だし。
怒られる筋合いないな、なんて。
声に出すことは苦手だけど、思ったことを綴るのは好き。
これも、今も変わらない。
それでいいと思う。
終