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観察文「日本におけるキリスト教の歴史」、そこには日本共産党員への道が隠されていた…

小学校6年の時の修学旅行は、近場の長崎だった。

戦時中の悲惨な体験、江戸末期の出島での盛んなオランダとの交流、
明治維新後の三菱造船所、テーマとなるものがいっぱいあった旅行だったにもかかわらず、我が班に課せられたテーマは「長崎のキリシタン文化」であった。

先生…これ一番ムズいテーマくねーですか?
と思いつつ、締切前夜四百字詰め原稿用紙十枚程度書き殴り、明朝、担任に提出。
やっと責務を果たせたと思っていたら、放課後呼び出しくらった。

ああああ…一晩で書いたことがバレた…怒られる!と覚悟した。
が、意に反し担任が一言。
「これを市の作文集に応募します。」

ちょっと待って。
これを出して本当に先生困んないのかな、と思ったけど、どうも赤入れするのに丁度良いと思ったらしく。

担任に怒られ、何度も訂正され、なかば合作のような作文が完成。

そして、ほぼ功績は担任のものと思われる感想文が以下のものになります。

観察文 一席
「日本におけるキリスト教の歴史」〇〇小六年       某 春奈

私たち日田市で、キリスト教のことはあまり聞きませんが、修学旅行先での長崎には、キリスト教に関するたくさんの資料がありました。私たちの班のテーマは「日本におけるキリスト教の歴史」でした。長崎市立博物館や大浦天主堂のそばの資料館など見た後で、長崎は全国のキリスト教の歴史に対し、どこがどう違うのか再度調べてみようと思いました。
 まず、最初に伝わったというものは鉄砲です。ヨーロッパから一曹の船が種子島に流れ着きました。それ以来、宣教師ザビエルが山口・平戸(長崎)そして、私たちの大分にもやってきたわけです。そうするうちに信者は九州を中心に各地に広まりました。
 こういったことは以前社会科で学びましたが、さらに次の四つの柱を立て、より詳しく調べていくことで、長崎と全国とのキリスト教の歴史の違いを明らかにしようと思いました。

 まず第一に、キリスト教を大名たちはどのように利用したか、第二に、キリスト教を禁止した主な理由と、隠れキリシタンに対する弾圧・拷問、第三に、弾圧・拷問がありつつキリスト教を捨てなかった人々、第四に、隠れキリシタンの増加とその広まり方(隠れキリシタンの分布)についてです。この四点を、全国と長崎とで比較していこうと思います。

 まず、日本にキリスト教が伝わり、今までにないものも同時に渡ってきました。これを利用したのがキリシタン大名です。信者たちのように厚く敬っていたのだろうと思っていたところ、私たちが集めた資料によると、ほとんど利益が目的で貿易を行うためキリシタンの勢力も利用したかった、と書かれてあります。その一例として、種子島に鉄砲が伝わり、それを利用して竹田の軍を破った織田信長などがあります。全国的には利用した例が多いですが、必ずしもキリシタン大名の目的は利益だけとは限りません。最後まで教えを忘れなかった大名もいたのです。
 私達大分の、大友宗麟はどうでしょうか。大友宗麟は積極的に貿易を行い利益をあげ、宣教師ザビエルから教えを学び、キリスト教信者となったのです。そして、布教を保護するとともにポルトガルと貿易を行いました。一五八二年、日本で最初のヨーロッパへの使節、天正遣欧使節をローマ法王の元に送りました。大友宗麟は、キリスト教の信仰と利用の二つだったと思います。
 こうして、信者が増加していきました。

 では、一体どうして、何を理由に禁止令を出したのでしょうか。私の疑問は、利益を得られるのなら別に禁止令なんか出さなくてもいいではないか、ということでした。

 でも、異国日記によると、
『キリシタンたちは、日本へやってきてただ貿易をするだけではなく、みだりに邪法を広め、仏教を惑わし、日本の政治を改めようとしている…中略…。神や仏の敵。』
と、記されています。しかし、本当は勢力を増した信者たちが幕府に不満を持ったら一揆などを起こすに違いない、ということで、そして、天草四郎を中心とした信者たちが起こした島原の乱でますますキリスト教の弾圧が強くなったともいえます。

 そして、鎖国が完成したのです。
 ますます弾圧が強くなり、一体キリシタンたちはどうなっていったのでしょうか。拷問では、一五九七年、豊臣秀吉によって行われた二十六聖人殉教がキリシタン殉教の始まりで、二十六聖人殉教図からもそのことがよくうかがえます。一六一二年、徳川家康の禁教令以降弾圧がますます強くなってきたことを表す、踏み絵図が見られます。

 長崎市立博物館では、私たちが一番見たかった、“踏み絵”がありました。この踏み絵を目の前にすると、信者たちが踏み絵を踏むのに戸惑う姿が目に浮かびます。やはり、信者も厳しい弾圧に耐えられなかったのか、キリストの顔はつるつるでした。

 これだけではありません。資料によると、はりつけ・額に十字架の焼印・逆さ吊りにし汚物の中に入れる・鼻を削がれ、指をも切られたりしたのです。

 私のもう一つの疑問は、血にまみれ、どんな拷問を受けても絶対に改宗しなかった人たちのことです。役人に、“改宗しない”ときっぱり言ったら悪ければ死ぬかもしれないのです。だから、キリスト教のために殉死することを誇りとした信者の強さは、私たちの想像を絶します。
 こうして弾圧が続きましたが、平戸の一部では『隠れキリシタン』が生き延びたのです。

 ところで、このキリシタンの増加の様子を見てみると、種子島に鉄砲が伝わる前の一五一一年には五万人もいます。一五四九(以後よくということかもしれませんが)信者は十万人ともなりました。それ以後も増え続け関ヶ原の戦い後の一六〇五年、家康が禁教令を出す頃には七十五万人という数に達していました。
 私たち日田市の人口の約十一倍にもなってしまうのです。

 では、七十五万人というすごい人数は、どこにどういうふうに散らばっていったのでしょうか。
 隠れキリシタン分布図によると、長崎方面に散らばっていますが、主に海沿いに多いことに気がつきます。

 ところで、海外に行った日本人はどうなったのでしょうか。
 資料には、一六三五年、日本人が海外へ行くことも帰国することも禁止する、と書かれてありました。
 我が国に帰れないということがどれだけ悲しいことか、私には察せません。

 こうして、悲惨な鎖国の時代は続くのです。一八五三年、ペリーが浦賀に来航、開国となりました。

 でも私は、種子島に鉄砲が伝わりそれ以降信者が増し、とうとう禁教令が出されても最後まで教えを捨てなかった信者、どんな拷問も受けて耐えた信者たちが、鎖国時代の中でもすばらしい人々だと思います。
 また、幕府に対しておそれを見せずに一揆を起こした人々。こんな厳しい中でも神に召されることを誇りとして亡くなった人々。そして、日本に帰国できなかった人々。
 禁教令が出されても、長崎の隠れキリシタンは絶えることがなかったのです。隠れキリシタンが、どんな拷問を受けても滅びなかった町。どんな弾圧を受けても諦めずに改宗しない人々の姿は、幕府からすれば切っても切っても伸びてくるとかげの尻尾のように感じられたかもしれませんが、それが“信じる”という力なのだと思います。

 こんな長崎でのキリスト教の歴史は、今の私たちに語りかけてくるものがあります。全国の中でも長崎が西洋文化の入り口だからこそ、長崎の人々の信仰が深いのです。そこが全国と長崎の大きな違いだと思います。

 今も、長崎には各地に隠れキリシタンの信仰が残されているといいます。長崎のキリスト教の歴史は、日本におけるキリスト教の歴史の一番主な柱だと考えてもおかしくはありません。
 いえ、長崎自体が日本のキリスト教の歴史だと、私は思います。


  (評)キリスト教について調べた四つの事項を、歴史的事実をベースに、自分の考えを加えて順序良くまとめ、しっかりした構成になっています。

「わかあゆ」日田市教育振興協議会編


というか。
この頃から私の文章力、全く成長していない…
12歳で学力止まってしまっているなんて、大学受験を目指していた頃の自分は思いもせんだろうが…

とりあえず、担任の言う通りに構成しているんだろうけど、最後の方は感情の羅列でしかないの、今も変わってないな。おそらく、夜中のテンションで思うがまま書いたんだろう。恐ろしいほどに無駄な言葉が多いのも頷ける。
理系がからきしだったので、順序とか機序とか考える能力もなかったらしい。

もう一つ分かってしまったのが、この時点で日本共産党員になる要素てんこ盛りだったということ。
誘われて、悩んで、あんま頑張れないかもしれないけどー、自分なりに頑張りますー、とか謙虚なこと言っててその実、めちゃくちゃ良い子ぶりっ子というか、人のために働きたかったのだろうね。

友達にもいつも言われていた。
「はんなちゃん、先生に気に入られていいね。よくそんないい顔できるね。あの子をいじめちゃいかんとか説教するのも偽善者っぽい」

こんなこと言われ続けた子どもが中学に入ってどうなるか。

授業中ずっと机に突っ伏して爆睡、校則に従うことを“格好悪い”と、白けた皮肉屋さんへと性格をねじ曲げさせていくこととなる。
根が硬くてクソ真面目で融通の利かない人間だった分、何も主張しなくなった自分にも違和感を感じるようになり、“本当の自分ってどんな人間だったっけ…”と、高校ではひたすら悩み続けた挙句の難病発症だとしたら、何となく納得がいくんだよね。本当にバカだよね。

おそらく、中高時代の私は彷徨い過ぎてどこへ向かっていいか分からず、親にも相談できず、友達とも上辺でしか話せず、本当に苦しかったんだと思う。
これで、映画や音楽といった心の拠りどころがなければ、完全に命を絶っていただろうな、と思っていたらEMDRの先生にも同じことを言われた笑。

『自分の、核となるものが残っていて良かったですね。民生師匠に感謝ですね。』

思えば、中学入ってすぐユニコーンを好きになり、民生の父親が日本共産党員だと知った時、
“共産主義って、もしかして、うちの父親がいうような危険なモノではないんじゃ?”
と気がついてしまった。
この時点で反共などという思想は自分の中にはいっこもなくなっていた。
中一という早めの時期に、はっきりと意識出来たこと。それが自分のコアな部分をブレさせることなく生きていける要素となったのかなぁ、と。

小学校の頃の観察文を読んでみたら、そこに自分のルーツが垣間見えた、というお話でした。

久々、読み返してみてよかった。

余談だけど、この作文で賞状を受け取りに全校児童の前に出なくちゃならなくて、背中を丸めながら重い足取りで校長の前に立った。
こういった“恥ずかしい”といった感覚は今と変わらず、小心者の緊張しぃなのであった。

そして、表彰が終わって教室に戻ったら担任に怒られた。

『声が小さい!!』

今思えば、声小さくたっていいやんね、これが私だし。
怒られる筋合いないな、なんて。

声に出すことは苦手だけど、思ったことを綴るのは好き。

これも、今も変わらない。
それでいいと思う。




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