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忘れがたき私的名作漫画 『緑の世紀』

◆「にいさんたちの名前のひとつひとつ お前が住んでたのだよ。」

 今回は本気でマイナー作品である。
 真乃呼氏の『緑の世紀』。
 当時、ファーストガンダムが大ブレイクし、世の若い世代は男女問わず、SFブームに沸き立っていた頃。その波に乗ったいくつかのSF漫画誌の一つ、徳間書店刊の『リュウ』にて掲載された作品である。

 全2巻、と話もそれほど長くない。だが、とーっても判りにくい物語なので、一読しただけでは理解しきれない。いや、今の子ども達なら私よりもずっと理解力が高いだろうから、そこまで苦労しないかもしれないが…。
 ただその点が逆に、この物語を読む側の者に「読み解いてみよ。」と言われているようで、ムキになって理解しようとがんばった経験がある。

 とはいえ、最初はただただ、かわいらしいアニメ風の絵柄とか、緑色が好きだったので、そのタイトルのみで買った。要は、浅い考えで手に取った漫画なのだ。そんな浅はかさは当時の友人にも簡単に見透かされ、ふふん、と鼻で笑われたものだ。

 物語も実に当時らしい筋書きだ。核戦争で破壊の限りを尽くした人類の当然の報いとして、人類は地球に住むことができなくなってしまった。が、これを生き延びた人類は、自らの知恵と勇気で銀河中の他の惑星に移住。再びいくつかの惑星で、どうにかこうにか文明を築くことに成功する。

 しかしその一方でこの世界では、なかなか成功しない移民も多数存在したようだ。時を経るにつれ、母星である地球に還りたいと強く願う人々が数多く現れ、再び地球の地を踏みしめよう、と試みる。
 が、彼らが記録を残したはずの座標には、地球の姿こそ見えていても誰一人、そこには辿り着けない、という奇怪な現象が起こり続けるのだったー。

 ここからはストーリーの種明かしになってしまう。
 自分的には絶対、手には入らない絶版本だろうと思っていたのでネタバレなんてし放題だろう、とも思っていた。が、まだAmazonで手に入る!ことがわかったので念のため、ネタバレされたくない方は、こから先は読まずに引き返すことをオススメします(苦笑)。



『緑の世紀 1巻』


さて。

 端的に結論を言ってしまえばこの怪奇現象の原因は、核戦争で傷つけられた地球が怒り、悲しみの果てに、断じて人間を受け入れまい、と強烈な拒絶の意志力で、この超常現象を起こしていたためである。
 それを「シンガー」という究極の精神治癒能力を持った主人公・エディが癒し、地球と人類の関係を一歩、修復させてゆく物語だ。

 こうやって短く取りまとめると、ものすごくベタなストーリーである。哲学的なメッセージも込められていたがそれは、他者に依存したり、古いものにしがみついたり、怯えて自分から壁の中に閉じこもったりせず、辛くても前を向いて歩こう、という王道のものだった、というのが読んだ当時の感想だ。

 ただ、改めてこの作品を読み直して私の中で、新たに引っかかるメッセージを感じた。それは「この話、時間をかけて失われた信頼と、良かった頃の関係を取り戻していく、という話なんじゃない?」という思いだ。

 この物語の中では、核戦争で傷つけられた地球は傷ついた一人の人間として、エンパシー能力を持つエディとその家族、また同じ能力を持つ宇宙船の乗組員・モリの前に現れる。
(あくまでイメージとして捉えられるので、受け取り手によって男性だったり女性だったりするが…。)
 地球をそんな一人の傷ついた“人間”として描き、関係を修復することが、この話が本当に語りたい、でっかいテーマなんじゃない?ーと。
(もちろん私見です。)

 私たちが毎日を生きている「社会」という名の集団世界でもこれは時々、起こる出来事だ。ホントは誰も傷つけずに生きていきたいと願うのに、ふとした自分のわがままや、のっぴきならない事情に出くわして、相手を傷つけ、もう二度と会いたくない、と言われているも同然の手痛い拒絶に遭い、自分もまた傷つく。
 嫌だけど、残念ながらよくある話だ。そう、この地球と人類の関係のようにー。

 主人公のエディはエンパシーという超能力を持ち、他人の感情を自分のもののように感じ取ることができる。それゆえに人の痛みに寄り添う能力にも長ける。さらにそれが「シンガー」という能力にまで発展するがゆえに、人の痛みや悲しみを、ポジティブな感情に変換し直し、再び相手に返す、という高度な癒しの能力を持つようになる。
 だから破綻しきった地球と人類の関係を修復するためには、この「シンガー」の能力を使わないよりはより早く、和解に向かうことができた。けれど、その能力ををもってしても、地球が人類を許すためには何十年なり、何百年なりの時間を費やすのだ。(これは1巻のエピローグの章からの推察だ)
 これって要するにどんなに超常的な能力を持っていても、魔法のように人の気持ちは治癒しない、ということを伝えているように見えたのだ。

 そもそもエディ自身も自分の超能力に助けられる一方、苦しめられる。他人になり切れるので、伝記作家としてわずか12歳で手に職をつけることができるが、他人に寄り添いすぎるために実際には「自分」という人格があるかどうかも分からない。
(ただし本人は、かなり悲惨な環境にもかかわらず、元気で前向きなキャラクターに描かれている)
 地球探索に旅立ち、次々と消息を絶った父と兄たち。夫が消息不明になった時点で魂の抜け殻となってしまった母は、エディを産んだものの娘が生まれたことすら認識できない。そのため、常に兄たちの名を呼び続ける。
一方、エディは兄たちになり切ることができるため、母の前で兄を演じ続けることで母に寄り添い続けるが、とうとう娘がいることを理解できなかった母親は、エディの名前を一度も呼ぶことなく病死する。

 極めつけはエディの癒しの能力が、相手の記憶をたどって時空を超えてしまうところにある。このため、母の記憶に現れたエディの治癒能力を知った地球が、誤ってエディの父や兄弟を呼びよせてしまう、というパラドックスのような悲劇が起こっていたのだ。
 つまり、父や兄が行方不明になった原因は、エディの「シンガー」の能力のせいであることが明らかにされてゆく。
 これは超能力者を描く作品ではつきものの悲劇だ。人並み以上の力を持つ者にはそれだけのリスクも織り込まれる。これもよくある展開だ。

 けれどこれだって案外、私たちにも身に覚えがあったりすることはないだろうか。
 人に寄り添いすぎて自分を見失いかけたり、人に傷つけられたと思っていたのに原因は自分の未熟さでもあったり…。
 この物語で描かれる超能力の、エンパシー、シンガーという力が、ものすごく欠陥もはらんだ力なのだ。まるで失敗だらけの人間のように。

 エディのルーツであるシルマリオという惑星では、シンガーは精神的な癒し手として重宝されていた。だが分かりにくなりに話を読み進めていくと、同僚の乗組員・リッピが評するように「シンガーに自分の苦しみを癒そうとしてもらうばかりで自分では解決しない、弱い人たち」をも生み出していたと、読者の私でも思う。
 けれど「どうしていいかわからないのです。」とエディの癒しの力にすがる人々をエディが足蹴にできないのは、自分もまた過ちの原因になってしまうことがあると、胸の奥で知っているからではないか、と今回読んで新たに思った。例えエディの結論の言葉が「人間が好きなんだ。」というありふれたものであったとしても。

 この物語には全体的に、地球と人間、というマクロなものから一人の人間同士のようなミクロなものまで、様々な関係の修復が描かれている。タイトルのすぐ後に挙げたセリフは精神的に病んでしまった母親が「決して自分の名が呼ばれることがなかった」と傷付き続けていたエディに、モリが手向けた言葉である。
 お母さんは兄の名前の向こうで、エディの名前を呼び続けていた、兄たちを演じていたエディの存在をちゃんと知っていたのだ、と諭すのだ。
 実はこの物語で語られる、数ある関係の修復の描写では、このくだりが一番好きだ。

 もちろん、モリはエディの母親には会ったことはない。ただの推測に過ぎないし、気休めの慰めだ、と突っぱねることだってできる。
 けれど魂をかけて母に寄り添おうとしたエディには、それは真実の言葉として届いた。

 仕事でも家族のためにしたことでも、全然自分は正当に評価されていない、って思うことがある。でも、自分が本気で打ち込んだことなら、自分の名前が上がらなくても、ちゃんと自分の名前を聞くことができる。ーーそんな風に思えることがある。
 そういう生き方をしたい、と思う。
 ゆえにこの漫画は私にとって名作である。

 ーーーーただこの漫画、本ッ当にわかりにくい。そして読者全員がこの漫画の世界観を解ったもののように語られるので、読者が置いてきぼりになりやすい。それだけが難点なんだよね。

 

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