僕たちはどこからやってきたのでしょうか。
いろいろな国を訪れて写真を撮っていると、不思議な気持ちになることがあります。
それは遠い国にいるのに、日本にいるような錯覚です。
例えば山の景色や川の流れ、空の色。
広い視野で捉えれば確かにそこは異国なのですが、狭い視野で切り取ると、それは見慣れたものと同じに感じるのです。
例えば壮大なヒンドゥー寺院。
その寺院全体を捉えると、日本では拝むことのできない大スペクタクルで荘厳で圧倒的なのですが、
ひとたび視野を切り取って、例えば土台の石ひとつにフォーカスすると、日本でもよく見る石と瓜二つだったりします。
岩山だらけの乾燥地帯。
その岩自体が神様と崇められている場所に立てば、数千年にも及ぶインドの歴史に飲み込まれそうな感覚を覚えます。
しかしひとたび足元に植物の葉一枚にフォーカスすれば、日本でもよく見かけるそれだったりするのです。
人間だって、肌の色や言葉さえ違うけれども、結局はみんな根っこのところでは同じです。
僕たちを僕たちたらしめるもの正体は一体何だろうって話にもなってきますね。
宇宙の始まりはビッグバン以前に起こったインフレーションという現象で、そのきっかけはひとつの粒子だったという説があります。
それはシャシパンの泡一粒が瞬きよりももっと速い一瞬のうちに太陽系ぐらいの大きさに膨張した、とも喩えられています。
もしもそれが本当ならば、僕たちはたったひとつの粒子から産まれて、またそこに帰っていくというのも頷ける気がします。
インドの神話『マハーバーラタ』を現代語に翻訳したことでも知られる神学者のデイバダッダ・パトナーヤクさん。
彼が人間の存在価値について語った講演を聴いたことがあります。
全体的にとても腑に落ちる内容だったのですが、
最後の最後、パトナーヤクさんが放った一言と、そのドヤ顔の意味が当時の僕には何度も聞いてもわかりませんでした。
でも、その意味が今ではわかる気がします。
パトナーヤクさんは、スピーチをこう締めくくりました。
「我々は所詮、埃から生まれて埃に帰っていくだけなのです。でもその意味が分からなくても案ずることはありません。今あなたが食べているマンゴーの実が、どの木からやってきたのかなんて、そのマンゴー自身も覚えていないのですから。」
本日も文末までお付き合いいただき、ありがとうございました。
*デイバダッダ・パトナーヤクさんのスピーチはこちら。
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