南インドで「祈り」について考えてみた。
この国の人々はとてもおおらかです。
ことさら南インドに関しては、輪をかけておおらかで穏やかに感じます。
彼らはいつも微笑みを絶やさず、誰にでも笑顔で話しかけては会話を弾ませ、少しのことは気にしない。「なんとかなるさ。」という空気感に溢れています。
風土なのか気候なのか元々の気質なのかは分かりませんが、僕は、彼らが穏やかである理由のひとつは「祈りの文化」にあると感じます。
町の至る所にある寺院にはいつも人々が集います。家々の玄関には必ず神様が祀られています。
彼らは日常のふとした時に頻繁に祈っているのです。
「祈り」とはなんでしょうか。
「神様」とはなんでしょうか。
それはきっと「自分が自分で居られる場所」にある、と僕は思います。
人が祈る時、その対象はキリストかもしれないし、ブッダかもしれないし、天照大御神かもしれないし、シヴァかもしれません。
けれど詰まるところ、人々がその胸に中に思うそれぞれの神様とは、「自分の中にいる本当の自分」と同義なのではないかと思うのです。
「自分の中にいる本当の自分」について、ある人はそれを「真我」と呼び、ある人は「アートマン」と呼び、またある人は「阿頼耶(あらや)意識」と呼びます。また最近では「それはゼロポイントフィールドなのでは?」なんて仰る方もいらっしゃいます。
呼び方はどうあれ、目を閉じて気を鎮め、じっくりと自分を感じる時に現れる、なんとなく暖かい感覚、シンとした空間、それに触れる安心感、きっとそこに「本当の自分」がいるという気がします。
つまりは祈る時に人は、それらの感覚にアクセスするのではないでしょうか。
であるならば、「祈りの文化」が穏やかさを産むことも頷けます。
「本当の自分」は、「すべては導かれている」ことを僕たちに教えてくれます。
「なんとかなるさ。」ってやつです。
そして、「起きていることはすべてが最善なんだ。」と腑に落ちるのです。
思い返せば父に病気が見つかったとき、僕はいつも以上に神様に祈りました。
神社にも足繁く参拝し、神棚にも時間をかけて祈りました。
それでも父は亡くなりました。
その時に心に降りてきたのは否定的な感情ではなく、
「これが最善だったんだ。」
という感覚だけでした。
最近になって、あの頃の僕は何について祈っていたのかを考えます。
父がいなくなったら「僕が」寂しいから?
「僕が」悲しいから?
「僕が」苦しいから?
父がこの世を去るのを「僕が」見たくないから?
家族が悲しむのを「僕が」見たくないから?
父の気持ちを想像して「僕が」苦しいから?
必死に祈っていたあのとき、もしかするとその祈りには僕の強い「エゴ」があったのかもしれません。
そしてエゴは言われもない怖れを生み出していました。
でも父の死を目前にしたときに、不思議とそのエゴは流れ去りました。
「すべては大きな流れにあって、起きることは最善なんだ。」
そんな暖かい感覚に包まれたのです。
そこにもう、怖れはありませんでした。
そして、僕は父を穏やかに見送ることができたのでした。
さて、「祈り」とはなんでしょうか。
「神様」とはなんでしょうか。
それはきっと「自分が自分で居られる場所」、「エゴを捨て、あるいはエゴを減らして、すべてと繋がることができる場所」、そこにアクセスすること。
その先は怖れのない世界です。
僕はなんとなくそう思わされるのでした。
本日も文末までお付き合いいただきありがとうございました。
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